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光秀の反逆心の原因は

2021年02月07日 | 歴史
光秀がよく言われるように「相当前から、信長に逆意を抱いていた」という説は信じ難い。光秀軍法(本能寺の変の1年前に発布、主君である信長に、わが身の出世を感謝している)を書いた時点では、光秀には信長に対する謀反(むほん)などかけらもなかったはずだ。後に彼が本能寺の変を起こす原因となった何らかの感情は、ほんのわずかな期間に芽生え爆発的に膨らんだことになる。

では、光秀を短期間にそこまで追いつめた信長の行為とは一体どのようなものだったのだろうか。
信長は、いわゆる世襲についてはあまり関心を持ってはいなかったと言われる。確かに、出身や家格などを無視して、能力本位で人物を登用してきた。ところが、この頃の信長には一族重用の傾向が表れている。武田討滅戦の総大将には嫡男の信忠を命じたし、さらに、信忠の弟たちにも、大事な仕事を任せている。そのひとつが、三男の神戸信孝の四国征伐への登用である。

織田家の宿将たちは、
(ご一族に冷たかったお館が、ようやく真っ当な家族愛を示されるようになった)
と受け取った。しかし、流動者出身の中途採用者は、中でも特に光秀は、
(おれたちを、使い捨てになさるおつもりではないのか)
と警戒心を抱いた。

光秀が明智光秀軍法で表明した信長への忠誠心に偽りはない。しかし忠誠心というのは相対的なもので、差し出す側と受け取る側の心がひとつに結びついて初めて成立する。
(差し出すおれは純粋無垢(むく)だが、受け止める信長様は果たして・・・)
という危惧(きぐ)を光秀はいつも抱いていた。息子たちの重用によって、その危惧が現実のものとなり、光秀の忠誠心は揺らいだ。

一方、信長は単純な愛情から一族を登用したわけではなかった。彼には彼なりに、そうせざるを得ない事情があったのである。支配地域の拡大とともに、信長の天下布武の事業は加速度を増していた。征庄地域ごとに現地採用の部下が増え、組織も急速に肥大化に向かう。これを隅々まで統制するのは、いかに信長でも至難の業となった。
(中略)

その頃、羽柴秀吉は毛利攻略の最前線にいた。石山本願寺との戦いを有利な形で終結させ、武田家を滅ぼした信長にとって、毛利家は最後に残された強敵であった。
「何をグズグズしておる」
信長はついに声を荒らげた。
「いえ、丹波の国侍に対する動員令を、信孝様に撤回していただかなければ、ここを動くわけにはいきません」

信長は険(けわ)しい表情で光秀を睨(にら)みつけながら、大きくうなずいた。
「分かった。貴様が兵を出さぬと言うなら、丹波を取り上げるまでよ。ついでに坂本も返してもらおうか」

光秀は驚愕(きょうがく)した。まさか信長がそこまで極端なことを言い出すとは思ってもいなかったからである。思わず見返すと、信長は大まじめな表情で、目を鋭く光らせていた。光秀は、背中にヒヤリとするものを感じた。こんな時の信長には一切逆らってはいけない。だが光秀は言わずにはいられなかった。

「それでは、私の所領国が一切なくなってしまいますが・・・」
「ならば、毛利と戦って切り取ってこい。出雲と石見(いずれも島根県)あたりがよかろう」

光秀は呆(あき)れて信長の顔を見つめ返した。言いようのない不安の雲が心の中にわき立った。光秀が所領している地域は京都、すなわち天下の中心に近い。しかし出雲や石見では、「織田政権の管理中枢機能」から遠く切り離されてしまう。

実例がある。上杉謙信の進撃を抑えるためという名目で、雪深い北陸に送られた柴田勝家や前田利家、佐々成政、不破光治たちである。彼らは、一国一城の主になったとはいえ、二度と織田政権の中枢に戻ってこられないだろう。柴田家中の諸将は、柴田らが体よく「左遷」させられたと見ていた。
(信長様は、その程度にしかおれの存在を評価していなかったのか・・)
光秀は絶望した。

信長には別の底意(そこい)もあった。信長は自分の家臣を「知型」と「情型」の二タイブに分けて考えていた。知型の幹部は「何のためにやるのか」という目的を重視する。行動を起こすためには、まず道理が必要であり、それだけに理屈っぼい。

反対に情型は「何のために」などということにはあまり頓着せず、「誰のために」を重んじる。光秀は典型的な知型人間であり、一方、秀吉は情型人間であった。

光秀は、
「おれの給与は組織から出ている。信長様個人からではない」
と考える。
ところが秀吉の方は、
「おれの給与や出世はすべて信長様のサジ加減ひとつだ。信長様はまた単なる主人ではなくいろいろなことを教えてくださった師でもある。足を向けては寝られない」
と思う。

トップとしてどちらがかわいいかと言えば、それは当然情型だ。秀吉がおべっか使いで、時に背中がくすぐったくなるような調子のいい世辞を言うことくらい信長も承知している。しかし秀吉は口舌(こうぜつ)の徒(と)(言葉は達者であるが実行力の伴わない人を軽蔑していう言葉)ではない。信長の意図を先読みして、与えられた地域で天下布武の事業を見事に展開してみせている。

それに比較し、
「おれの給与は織田組織からもらっているので、信長様個人ではない」
と考える光秀は、使いやすい部下とは言えない一面があった。たとえ上司の命令であっても、理非曲直(りひきょくちょく)(道理に合っていることと合っていないこと)を言い立て、納得するまでは頑として動こうとしない。

そうした態度がしばしば、気短な信長の癪(しゃく)に触った。合理的な思考能力に優れた信長は、光秀の理屈がよく分かる。分かるだけに、理にこだわり、素直にうなずかない光秀を余計に小憎らしく感じた。

天下人として比類のない権勢を手にしたこの頃の信長は、配下の人間はすべて自由に動かせる手駒と見るような組織管理観を持ち始めてもいた。

(『歴史小説浪漫』作家・童門冬二より抜粋)

---owari---
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