(「神々の民主主義」から始まっている日本)
今の政治学の本を読むと、「民主主義政治が万能である。政治学は社会科学の一つとして、科学的にやるべきだ」という考え方が蔓延(まんえん)しています。
ただ、歴史としては、西洋の民主主義はギリシャあたりから始まっているのかもしれませんが、ギリシャの民主主義の歴史よりも、日本の歴史のほうが長いのです。日本には神々が存在していましたし、高天原(たかまがはら)で神々が神評定(かみひょうてい)をして物事を決定していたわけです。
要するに、日本は「神々の民主主義」から始まっているのです。「人間の民主主義」ではなく、「神々の民主主義」によって、どのように国を治めていくかを相談し、それを地上に降ろしていました。日本では、その仕組みが明らかに出てきているのです。
ところが、現代の民主主義は、必ずしもそういうものではなく、「人間の民主主義」になっています。その場合、「人間が民主主義的に決めることさえできれば、もう、神は要らない。仏も要らない」という民主主義にもなりかねない危険性が、半分はあるでしょう。
もちろん、「神のある民主主義」もありますが、「神のない民主主義」も存在しています。現代の民主主義は、この両方の面を持っているわけです。
(この世だけの結果平等を求める「神のない民主主義」)
では、「神のない民主主義」とは、どういうところでしょうか。
例えば、「朝鮮民主主義人民共和国」とは、どこの国のことか分かるでしょうか。それは北朝鮮のことです。国名には「民主主義」と書いてあるのです。「中華人民共和国」も、いちおう民主主義を標榜(ひょうぼう)していると思いますが、私たちには、どこにも民主主義がないように見えます。
彼らにとって、民主主義とは、「結果平等の世界」です。「『貧しさの平等』を実現して結果平等にしてしまえば、民主主義になる」と考えているのです。
結局、結果平等の場合、この世だけの世界になっていくわけです。つまり、神仏のない民主主義は、この世だけの世界になり、この世だけの結果平等を求めていく方向に行きます。その結果、「成功した者や神仏に近い人を、すべて人間レベルに引きずり下ろして平等にしてしまう」というかたちになるのです。
これをやって喜ぶのは誰でしょうか。それは明らかに悪魔(あくま)のほうです。悪魔が喜びます。
したがって、「人間の多数決だけしか残らない民主主義」というのは、悲しい民主主義だと思います。もちろん、人間がこの世的にいろいろなルールを決めても結構ですが、やはり、その奥にある「崇高(すうこう)なるものへの気持ち」を忘れずに政治を行うことが大事なのです。
---owari---
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