「あいつはとんでもないやつです!」
「なぜだ?」
馬を止めた信長が聞く。武士はこういった。
「この国の領主さまが命がけの戦いに出て行くというのに、あいつは呑気に昼寝をしています。許せません」
「かれは農民だ。われわれは武士だ。それぞれ仕事に役割分担がある。今はきっと暇なのだ。きょうは陽気が暖かいから気分がよくて、眠ってしまったのだろう。放っておけ」
「そうはいきません」
武士の怒りはおさまらない。バラバラと畑の中に駆け込もうとした。
「どうする気だ?」
信長が聞いた。武士は振り返っていった。
「血祭りに殺します!」
「バカなことはよせ」
信長は笑って武士を止めた。
信長は、武士に向かって言った。
「おれは前の拠点の岐阜にいたときに、兵士と農民の区分を行った。それまでは、農民を兵士として動員していた。他の大名は、まだそうしている。おれが、兵士と農民を分けたのは、農民は農村にいて最後まで農業に専念してもらいたかったからだ。
兵士として動員してしまうと、農業がおろそかになる。同時に、合戦も農閑期にしか行えない。農繁期になると戻って来なければならない。だからおれは農と兵を分離したのだ。あの土の畑で寝ている農民は、自分の仕事を怠っているわけではない。仕事が終わったから、昼寝をしているだけだ。放っておけ」
「そんなことをいっても、胸が収まりません」
武士は言い募る。信長はもてあました。しかし、いつも短気な信長に似合わず、このときはニコニコ笑いながらその武士にいった。
「おれは、おれの国でああいう光景を見るのは好きなのだ」
「…はあ?」
いきりたっている武士だけでなく、まわりにいた武士たちもみんな信長を見た。怪訝(けげん)な表情をしている。信長がいった言葉の意味がよくわからなかったからである。
「ああいう光景を見るのは好きだとは、どういうことですか?」
農民を殺すと息巻いている武士が聞いた。
信長は答えた。
「さっきいったように、農民と兵士とは別な役割分担をしている。おれたち武士は、農民がああいうように、ときには呑気に昼寝ができるようにしてやるべきだ。あいつがグーグー高いびきで寝ているのは、おれたち武士が役割を果たしているということになる。領主としてのおれを信じきっているからこそ、ああいう居眠りができるのだ。おれはあいつの昼寝に逆に励まされるよ。おれも決して間違ってはいないとな」
「・・・?」
武士は眉を寄せた。考えた。次第に信長のいうことがわかってきた。まわりを見回した。みんなうなずいていた。ニコニコ笑っている。信長も笑った。
「よし、それでは進もう」
信長は全軍に向かって命令を下すと、高々にいった。
「あの畑の上で寝ている農民たちのためにも、おれたちは今度の戦に勝たなければならない。いいな?」
「はい!」
全軍がいっせいに声を上げた。信長の言った、この国では農民の昼寝が武士を励ましているという言葉が兵士たち全員を大きく勇気づけたのである。信長の意外と知られていない一面だ。かれは民に対し温かかった武将である。
(『歴史小説浪漫』作家・童門冬二より抜粋)
---owari---
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