武田信玄は、他の戦国武将とは違って画期的なことを行った。それは、かれは甲府に大きな城を作らなかったことだ。かれの居舘(きょかん)の跡は、現在武田神社になって甲府市にある。甲府城というのが残っているが、これは江戸時代に作られたもので、信玄が作ったものではない。
つまり、信玄は自分の部下に対して、「人は城 人は石垣 人は堀」といい切った以上、自分の居館となる大きな城は決して作らなかった。つまり、部下が全部城であり、石垣であり、堀であれば、そんなものは必要ないという考えだ。
しかし、これは単にそういう理解で済むものではない。信玄の行ったことは、現在でいえば、「小さな本社、大きな現場」ということだ。言葉を換えれば、「組織の管理中枢機能は極力コンパクトにして少数精鋭主義でいく。そこで余らせたヒト・カネ・モノは、現場にまわす」ということだ。
ヒトというのは人材だ。カネというのは予算だ。モノというのは資材である。
信玄は、「何といっても実際に仕事をするのは現場だ。そこで必要とする人間や予算や資材を、本社の方が全部奪い取って現場を痩(や)せさせるようなことをしたら、逆三角形になってしまう。組織というのはピラミッド型の安定した三角形を保つべきだ」と考えていた。
そのとおりで、組織というのはビラミッド型に構成される。そして仕事に応じて三つの層に分かれる。トップ・ミドル・ロウである。首脳部・中間管理職・一般の働き手ということだ。数からいえば、当然下にいくにしたがって増えてくる。ところが全体に、管理中枢機能を肥大化させ、自分のまわりにたくさん人を集めてウハウハ喜んでいるトップが多い。
信玄はこれを戒(いまし)めた。現在でいえば企画・人事・財政・広報などのセクションは、極力人を減らし巨大化させないという方針をとった。この考えを総合的にあらわしたのがすなわち、「人は城 人は石垣 人は堀」なのである。
(『歴史小説浪漫』作家・童門冬二より抜粋)
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