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武田信玄(1521~1573)

2021年10月06日 | 歴史
天文十年(1541)に父信虎を駿河に追放し家督を相続した。そして信濃を経略して北陸、日本海へ進出した。天文十一年(1542)の諏訪頼重攻略、同十六年の志賀城攻略、小田井原の戦いなどに勝利し、諏訪・佐久を押さえた。そして信濃守護・小笠原長時と葛尾城主・村上義清への攻略を開始した。上杉謙信は彼らの失地回復に大義名分で川中島へ出陣する。これが川中島合戦である。

天文二十二年(1553)の第一回の対戦から計五回が通説で、第四回永禄四年の対戦を除き大規模な合戦はなく最終的な勝敗をつけなかった。結果的に信玄は信濃征服を決定的に、西上へと向かうことになる。

永禄十一年(1568)、甲相駿三国同盟を一方的に破り、駿河の今川氏真を攻め駿河湾へ進出した。これによって北条氏康とも戦うが、同十三年には駿河一国を併合し京都を目指した。

元亀三年(1572)、天下盗りをめざした信玄は、二万五〇〇○の軍勢を率いて西上。三方ケ原に家康を破り、翌天正元年、三河の野田城を攻略した。しかし、その時すでに信玄の体は病に侵されており、織田攻めを目前に甲斐に引き揚げざるをえなかった。そして、帰国の途中、信濃の駒場で病没した。

死因については、肺結核といわれているが、ほかにも、肺がん、胃がん、肝臓病、また突然の死だったこともあり、鉄砲傷などの諸説がある。死期の迫った信玄は、四男勝頼を呼んで、「なお三年、わが喪を秘せ」と遺言した。

―――――
(武田信玄の人の話の聞き方の4通りの反応で相手を分析)
「合戦の話をする時に、例えば四人の若者が聞いていたとする。聞き方がそれぞれ違う。一人は、口をあけたまま話し手であるわたしをジッとみつめている。二番目は、わたしと眼を合わせることなく、ややうつむいて耳だけを立てている。三番目は、話し手であるわたしの顔をみなら、時々うなずいたりニッコリ笑ったりする。四番目は、話の途中で席を立ちどこかにいってしまう」

 
信玄はこれらの聞き方によって次のように分析する。
 ・口をポカンとあけてわたしの顔をみている者は、話の内容がまったく分かっていない。注意散漫で、こういう人間は一人立ちできない。
・うつむいてジッと耳を立てている者は、視線を合わせることなく話だけに集中しようと努力している証拠だ。いま武田家でわたしの補佐役として活躍している連中のほとんどが、若い時にこういう話の聞き方をしたものだ。
・話し手の顔をみて、時々うなずいたりニコニコ笑ったりするのは、「あなたの話はよく分かります」あるいは「おっしゃるとおりです」という愛想を打っているのだ。しかし、これは話の内容を受け止めるよりも、その社交性を誇示する方にカが注がれている。従って、話の本質を完全にとらえることができない。
 ・話の途中で席を立ってしまうのは、臆病者か、あるいは自分に思い当たるところがあってそこをグサリとさされたので、いたたまれなくなった証拠だ。

フロイト顔負けの鋭い人間洞察力である。信玄はしかし、
 「だからといって、臆病者や注意力が散漫な者をそのまま見捨ててはいけない。それぞれ欠点があっても逆に長所もある。長所を活かして別な面に振り向ければよいはずだ。こいつはだめだというような決めつけ万が一番いけない」
といっている。

この、
「どんな人間にも必ずひとつは長所がある」
という態度が、部下がかれに対して、
「この大将のためなら、川中島で戦死してもいい」
 と思う忠誠心を生んだのに違いない。

話の聞き方に四通りの反応を示す若者たちの使い方について、信玄は次のようにいう。
 ・人の話をうわの空で聞いている者は、そのまま放っておけばいい部下も持てないし、また意見をする者も出ない。一所懸命忠義を尽くしてもそれに応えてくれないし、また意見をしても身にしみてきかないからだ。従ってこういう人間に対しては、面を犯して直言するような者を脇につけることが必要だ。そうすれば、本人も自分の欠点に気づき、自ら改め、一角の武士に育つはずだ。

・二番日のうつむいて人の話を身にしみて聞く者は、そのまま放っておいても立派な武士に育つ。こういう人間の存在を、一番日の人の話を身にしみて聞かない者に教えてやることも大事だろう。

 
・三番日の、あなたの話はよく分かります、おっしゃるとおりですという反応を示す者は、将来外交の仕事に向いている。調略の任務を与えれば、必ず成功するに違いない。ただ、小利口なので仕事に成功するとすぐいい気になる欠点がある。そうなると、権威高くなって人に憎まれる可能性があるのでこのへんは注意しなければならない。

 ・四番日の席を立つ者は、臆病か、あるいは心にやましいところがあるものだから、育てる者はその人間が素直にその欠点を自ら告白して、気が楽になるようにしてやらなければならない。そうすることによって、その人間も自分が気にしていることを払拭し、改めて奮い立つに違いない。こういう者に対しては、責めるよりもむしろ温かく包んでやることが必要だ。

―――――
(百点満点の人簡を採用するな)
こういうように、
「どんな人間にも必ず見所がある」
とする信玄は、新しい人間を召し抱える時にも、
「百点満点の完全な人間を採用するな。人間は少し欠点があった方がいい」
と命じた。また、
「武士で、百人中九十九人に褒められるような人間はろくなやつではない。それは軽薄な者か、小利口な者か、あるいは腹黒い者である」
といい切っている。

(『歴史小説浪漫』作家・童門冬二より抜粋)

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