「本願寺攻撃に、身を入れないで怠けてばかりいた」
というものだった。だが、本当の理由は別のところにある。三方ケ原の戦いの時、佐久間は徳川家康への援軍の隊長格として浜松城に赴いた。
「徳川殿がどんなに血気にはやろうと、絶対に武田信玄と戦ってはならぬ。浜松城を死守しろ」
という信長の命にもかかわらず、佐久間は、戦いにはやる家康の勢いに呑まれて、3000人の織田軍を率いて出撃し、大敗を喫した。この時、同僚の平手汎秀(ひらて ひろひで)は戦死してしまった。
林秀貞の追放については、遠い昔の信長への反抗であることを明言している。勝家(柴田)と一緒になって、弟の信行を擁立したことを罰しているのだ。つまり24年も前の出来事を理由に、自分に害となる可能性のある人物を排除したわけだ。
信長の人事の特徴が「機能主義・能力主義」にあることは以前にも触れた。だが、その裏には、過去の過ちや不忠を、年月を経た後も決して忘れずに報復するという恐ろしいほどの執念深さがあったのも確かである。
(中略)
すさまじい断罪ぶりだ。相当に、ネチっこい文章であり、小さな針を棒のように大きく扱って、ことさらに非を鳴らしている。古いことも結構入っている。三河国苅屋の領主時代のことや、山崎の代官時代のこともあるが、やはりこの19項目の中で、めぼしい罪というのは16番目に咎(とが)めている「遠江国での出来事」である。これは言うまでもなく、元亀3(1572)年の三方ケ原の戦いのことだ。
当時、浜松に拠点を定めていた徳川家康は、北方を通過する武田信玄の軍に、自分の方から合戦を仕掛けた。この時、信長は家康に3000の援軍を提供し、その大将として佐久間信盛や平手汎秀たちを派遣していた。信長はあらかじめ佐久間・平手に、
「家康は若い。老練な信玄の作戦に引っかかって出撃しようとするかもしれないが、死を賭して家康を諌(いさ)め、武田軍の通過を待て」
と厳命した。
ところが、家康は決戦を主張してやまず、周囲の反対を無視して三方ケ原へ突出した。こうなるとやむを得ない。佐久間信盛と平手汎秀は徳川軍と一緒に出撃した。結果、老檜(ろうかい)な信玄の作戦に引っかかり、徳川・織田連合軍は大敗を喫(きっ)し、信長が派遣した大将のひとり、平手汎秀は戦死した。信長にとって、はらわたが煮えくり返るような事件だった。
「あれほど出撃するなと言っておいたのに、佐久間のやつはいったい何をしていたのか。まして同僚の平手まで死なせるとは何事か!」
信長は、怒りで体を震わせた。
三方ケ原の戦いは8年前の痛恨事だが、8年という時間は、信長の怒りを鎮めるには短すぎた。否、信長の激情は時間によって癒(い)やされることなどなかった。
彼の心の一角にはいつも「自分の言うことを聞かなかった部下」に対する怒りが渦を巻いていた。そして、これが時折、連鎖反応を起こす。ひとりの人間が犯した罪を思い起こすと、「あいつもだ、こいつもだ」と、次々と飛び火していくのだ。
その意味で、柴田勝家、前田利家、佐久間信盛とその息子信栄、そして林秀貞などは、信長の胸に怒りの連鎖を引き起こすひとつの環であった。彼らのうちのひとりが何らかの失策を犯すたびに、信長の記憶は、彼らの過去の失策を次々と呼び起こした。
信長の場合、怒りの炎がいったん燃え始めると、相手に徹底的な屈辱(くつじょく)を与えない限り、その炎が消えることはない。そのため、部下への懲罰(ちょうばつ)は、執拗(しつよう)で、かつ人格侮辱(ぶじょく)の傾向を持った。
(『歴史小説浪漫』作家・童門冬二より抜粋)
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