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日本人はなぜ愛国心を知らないのか?(第2話)

2018年12月24日 | 日本

愛国心のない国益など、あろうはずもない

われわれから見れば、同じヒト属とも思えないような非・日本人たち(彼ら)の根本を形づくっている者は何か?その根の根は何か?

 

それは憎しみと嫉妬と相互不信である――、

ということを、実感しなければならない。それを実感したとき、はじめてわれわれは日本に対する愛国心が持てる。彼らがそれぞれに持っている愛国心と、やっと匹敵できるような愛国心のことである。

 

なぜなら、日本人は今まで一度も、そのような愛国心を持ったことがなかったのである。

そのための前提として、現在にも受け継がれている彼らの価値観が、ほとんどすべて、嫉妬と憎しみと相互不信によって生まれてきた、ということを、肝に銘じるように実感してほしいのである。

 

われわれ日本人ほど嫉妬と憎しみを知らない(実感できない)民族も、この世界にはいない。頑固なほどに知らないし、知ろうともしない。あるいは脳の機能として、知りたくとも、知ることができない。

 

現状で言っても、白人や中国人、朝鮮半島人などが、今の日本に対して抱いている嫉妬と憎悪のすさまじいばかりの実体に対して、ただただあきれかえるほどに認識不足なのだ。鈍感であり、ノーテンキであり、不感症なのである。それは同時に、彼らが自国に抱いている愛国心に対しても、認識不足で、鈍感で、ノーテンキで、不感症だということと同じである。

 

ということは、我々が歴史的実体験として、憎しみを実感する機会がなかったということであり、それは憎しみの逆の価値観である「愛」をも実感せずに一万有余年過ごしてきた、ということでもある。

 

すべては比較の問題だ、とすでに書いた。

実感される憎しみと比較しない実感的な愛などはない。キリスト教の説く愛が、憎しみを前提としているというということについて、われわれはあまりにも鈍感なのだ。

 

対象・対比されるものの一方だけを知っていても、何もならない。

中国の陰陽説を持ち出すまでもなく、この世のあらゆるものは、ペアであり、二極一体であり、一即多・多即一の関係にある。

 

なぜ日本人以外の人間は、群れたのか?自分の群れ以外の他の群れを憎んだからである。

一方日本人は、ほかに行く場所もあまりなかったので(遊牧・放浪・侵略する自然環境の広がりがほとんどなかったので)、ただぼんやり群れた。

 

この日本人独特の「群れ」の発生起源が、「愛」ではない「和」をつくり、「憎しみ」でない「村八分のミソッカス」をつくった。土地が豊かであったために、奪い合いが世界のいかなる場所に比べても、極端に少なかった。和もミソッカスも、愛とか憎しみなどと比べればボンヤリした曖昧なものである。つまり理論性よりも情緒性である。欽明天皇の歌や『君が代』が、それを示している。

 

さらに問う。

なぜ日本人以外の人間は、群れを発展させ、社会(ソサイアティ)をつくったのか?なぜ法律をつくり、強力な権力を持つ統治者を生んだのか?なぜ、戒律の厳しい一神教をつくったのか?なぜその果てに、国境をつくり、国家をつくり、そのバックボーンとしての軍隊を持ったのか?なぜ国際連合や国際連盟をつくったのか?なぜ、われわれから見れば幼児性マルダシのジャパン・バッシングが後を絶たないのか?

 

すべて、彼らが嫉妬と憎悪の権化だからなのだ。

ほっておけば、つまり日本人のようにすべてを自然の成りゆきに任せておけば、共喰いの共倒れしかなかった。その危機は、今までに上げたようなたくさんの「規律」、つまり「人類の進歩」とか「人間社会の現代性」を持った今ですら、根本的に変わりがない。

 

憎悪・嫉妬を母体とする共喰い、共倒れの危機は、常に彼らの中にある。

だからこそ世界の警察を自認するアメリカは、国務長官などを世界中に派遣したり、イスラエルとパレスチナのトップをワシントンに呼び集めたりして、躍起になって共倒れを食い止めようとし、目先を転じるエサ・イケニエとしての日本を、世界にちらつかせたりしている。

 

世界中が日本を憎んでいる限り、戦争が起きないですむからだ。どんなに悪口を言われても、ただニヤニヤとヤニ下がって尻尾を振るのは、地球上の民族で、日本民族しかいないからである。その意味で、日本民族は、世界危機の中和剤となっているのだ。

 

このように理解を積み重ねれば、憎しみという世界の実体験と共通性がまったくなかった日本人から「愛国心」というアチラ式の価値観など決して生まれてこなかったことが、おぼろげながらわかってくるはずだ。

 

確かについ最近まで、世界中に国家などという概念がなかったのだから。愛国心など、そもそもどこにもなかったのである。しかし、隣人や、隣接する地域に住み人々に対する憎しみは、歴史が始まる前から彼らにはあった。

 

だからヨーロッパに国民国家というものができた途端、それが愛国心とドッキングするのは実に自然であり、容易でもあった。憎しみを知っているから、その比較としての愛が育つのである。

 

愛国心の下地というか、核をなす要素が、彼らには最初からあったのである。長年の遺恨と怨念である。それは現在、朝鮮半島人が日本人に抱いている遺恨や怨念の何倍も強いものだったに違いない。

 

たとえば十字軍や百年戦争に見られるように。また異教徒の抹殺行為に見られるように、彼らは戦争の歴史が何倍も多く、当然それによって起きた虐殺や野蛮行為もまた、何倍も強烈なものだったからである。

 

現在にも通じる例でいえば、ユダヤ人がドイツ人に持つアウシュヴィッツの経験のような憎悪である。これは未来永劫消え去ることはない。逆に見れば、その憎しみを受けたドイツ民族のユダヤ人に対する憎しみも、また同様、連鎖増副作用をもって、未来にも消え去らないだろう。

 

ところが、彼らのような憎しみも嫉妬も、身の毛もよだつような根強い相互不信もないまま、ノコノコと歴史を歩いてきた日本に、いくら明治国家が生まれたからといって、実感に裏付けられた、自然な発露としての愛国心など生まれるはずもなかった。

 

そもそも情緒的な「和」で固まっていた人々に、比較に基づき、分析的で、実感的で、科学的な価値観である「愛国」は、無用の長物に過ぎなかったのである。

 

西洋の愛国は、科学なのである。

 

---owari---

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