(批判する側には「甘え」もある)
政治家や経営者、タレント、その他の有名人等として大きな成功を収めると、週刊誌やテレビ、新聞等で批判されるようになってきます。ただ、これも同じで、「批判されている」ということは、成功している証拠でもあるのです。
そのときに大事なことは、「自分に対する百の批判があれば、そのなかには、当然、当たっている批判も幾つかあるので、認めるべき批判については認め、自分を改善するために役立てたほうがよい」ということです。そして、まったく当たっていない批判については、できるだけ受け流しつつも、それが単なる「批判」の域を超えて、根も葉もない誹謗中傷(ひぼうちゅうしょう)にまで踏み込んできた場合には、断固として反論する姿勢も必要でしょう。
ただ、そのような批判のなかには、たいていの場合、甘えがあります。すなわち、「批判する側の甘え」というものもあるのです。
例えば、総理大臣になると、毎日のように悪口を言われるわけですが、批判する側には、「最高権力者なのだから、これくらいのことを言われても当然だろう」という気持ちがあります。そういう一種の甘えがあるのです。
それから、「批判している内容が百パーセント当たっているものでなくても構わない」とも思っています。「それだけの権力者なのだから、民衆の嫉妬心からすれば、少しぐらい、石をぶつけられたり、弾が当たったりしても、しかたがないし、多少、批判が間違っていても、しかたがないだろう」という気持ちがあるのです。
批判のなかには、当たっているものもありますが、そういう甘えの部分もあることを汲(く)み取る必要があります。
批判している側は、その相手に対して、「このくらいの悪口を言われても、ぐらつかないような人物であってほしい」という気持ちも持っているので、相手があまりにも簡単に傷つくようだと、少しがっかりしてしまうわけです。
しかし、彼らは、「ある程度の批判に耐えられるぐらいの人であってほしい」と思っている反面、「弾を当てて撃ち落とせるものなら、撃ち落としたい」という気持ちを持っていることも事実です。
それはマスコミ的な性質ではありますが、一般の会社でも、ライバル会社の人たちは、おそらく、似たような気持ちを持っているでしょう。また、ライバル会社の人たちではなくても、成功の軌道に乗っていない人たちは、成功者に対して似たような感情を持っているでしょう。
そのように、「世間の感情を読む」ということも大事かもしれません。
---owari---
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