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富士山は「文化遺産」 ~ 世界遺産の西洋的理念を広げた日本

2022年07月29日 | 日本
西欧中心主義から始まった世界遺産の理念を、富士山や石見銀山の議論を通じて広げていった日本の功績。

(日本政府主張をユネスコ称賛)
日本の「伝統建築工匠の技 木造建造物を受け継ぐための伝統技術」が、ユネスコ(国際連合教育科学文化機関)の無形文化遺産に登録されることになりました。建物の木工や左官、漆塗りに加え、屋根の茅葺や瓦葺、建具や畳の製作など17分野の技術で構成されています。

木や草、土などの自然素材で地震や台風に耐える構造と豊かな建築空間を生み出してきた事、しかもそれがイグサや漆など植物の育成と自然サイクルに従ったものであることは、国連が掲げる持続可能性を体現しているとして、称賛されました。

同時に、ユネスコの文化遺産の理念そのものに関しても、貢献をなしました。

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また、建造物そのものだけでなく、それを支える技術を文化遺産として登録することで、国際社会での無形文化遺産の保護の取り組みに大きく貢献できるとする日本政府の主張に対し。ユネスコ側は「日本が無形文化遺産と有形文化遺産との本質的な関係に光を当てた」と称賛した。
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(西洋中心主義の視野を広げる日本の貢献)
欧州には多くの文化遺産があります。たとえばバチカンのサン・ピエトロ大聖堂や、フランスのモン・サン・ミッシェル。これらの壮大な建築、華麗な装飾は息を呑むばかりですが、そういえば、どんな職人がどんな技術を駆使して創ったのか、に関しては、展示も解説も見た記憶がありません。

どうやら欧州の文化では、ミケランジェロとか、レオナルド・ダ・ビンチなどの芸術家は評価しますが、職人たちを顕彰することはないようです。それに対して、日本の文化では職人芸に対する尊敬は深いものがあります。「人間国宝」とか「現代の名工」などの制度が、それを物語っています。

ユネスコが登録する「文化遺産」にしても、その理念や登録基準が西洋中心主義のもとでつくられており、非西欧の価値観を十分反映していないという批判の声が、途上国からあがっています。

非西洋の文化の中で世界的に注目されている日本文化から、職人芸を大切にしよう、という独自の主張をして、それが受け入れられたのは、西洋中心主義に対して、その理念を広げる貢献をなしたものと考えられます。

(富士山が「文化遺産」?)
日本が世界遺産の理念を広げたのは、今回が初めてではありません。2013年の富士山の登録の際にも、同様の貢献がありました。この時、富士山は自然遺産ではなく、文化遺産として登録されたのです。

自然遺産とはアメリカのグランド・キャニオンとか、オーストラリアのグレート・バリア・リーフなど、人手が入っていない純然たる自然の産物です。一方、文化遺産とは自由の女神像やパリのセーヌ河岸など、人間が創った建造物や街並みが対象です。このように、自然と人間が劃然(かくぜん)と分かれている処に、西洋的な世界観が窺(うかが)えます。

それに対して、日本は自然の造形物である富士山を、文化遺産として提案しました。そこに日本文化の特徴である「自然とともに生きる人間」という世界観が現れているのです。

富士山は永らく信仰の対象でした。江戸時代には「富士講」という信仰が流行し、富士山を拝み、富士詣(登山)が行われました。また、富士山まで行くのは大変ですし、とくに女人は入山が禁じられていたので、富士山を模して、高いものでは10メートルほどの富士塚が関東全域で2、3千近くも作られました。

さらに葛飾北斎の『富岳三十六景』、とくにそのうちの『神奈川沖浪裏』では大波の向こうに富士山の遠景が描かれていて、今日では世界的な人気を集めています。

日本人の心の中では、富士山はグランド・キャニオンやグレート・バリア・リーフなどの純然たる自然遺産ではありません。信仰や芸術の対象として、日本人の心の中に重要な位置を占めてきたのです。そういう意味では、富士山を文化遺産の対象としようというのは、きわめて日本人の心情に合致した提案でした。

しかし、この考えは西洋人にはきわめて異質で、この申請が通るまでには、ユネスコ関係者の中でも相当な議論がありました。その渦中で奮闘した近藤誠一文化庁長官(当時)の著書は、西洋と日本の異なる文化観での対話がどのようなものだったのかを、具体的に教えてくれています。

(「三保松原は富士山の部分ではない」)
富士山を文化遺産とするかどうかの議論の焦点が、三保(みほの)松原を遺産に含めるかどうか、の判断でした。三保松原は富士山から45キロも離れていて、なぜそんな遠地の海岸が、富士山の文化遺産の一部なのか、外国人には理解しがたいポイントだったのです。

しかし、日本人にとっては美保松原は富士山を愛(め)で拝む名所です。安藤広重の『東海道五十三次』にも、そこから見た浮世絵があります。白砂青松(はくしゃせいしょう)と富士山は、日本人の心情では一体の光景なのです。

ユネスコの世界遺産委員会で最終決定がなされるまえに、諮問機関であるイコモス(国際記念物遺跡会議)にて、専門家たちが調査、評価をし、決議案を出します。建築や考古学などの専門家だけに、その評価は極めて客観的で、富士山への日本人の心情などという主観的側面は理解しがたいようでした。

富士山を文化遺産に登録するかどうかの世界遺産委員会の討議は、カンボジアの首都プノンペンで、2013年6月22日午後2時40分に始まりました。冒頭でイコモスの代表者が決議案の説明をします。20分近い、異例の長さでした。

その中で「三保松原は富士山の部分ではないし、かつ山から遠く離れているから登録の対象から除外すべきだ」という主張を3回も繰り返しました。さらに三保松原の海岸には波消しブロックがあって景観を著しく損ねている、とも指摘します。物理的に考えれば、こんな海岸を富士山の一部とするのは、理解できない提案だったのです。

(「目に見えないつながり」)
近藤氏はその3日前から精力的に20カ国の委員と会って、とくに三保松原の問題を説明していました。日本人の心情において、三保松原と富士山との間には、「見えないつながり」があると説明して回っていました。ある国の代表は自国の専門家たちと長時間議論した結果を、近藤氏にこう説明してくれた。

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やはり科学的に証明できない以上、富士山と三保松原の間の『つながり』は認められないとの原則は曲げられないというのが彼らの意見だった。だから三保松原を対象に入れることを積極的に支持することはできない。
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それでも、その委員は「この点は西洋人たる我々には分からないが、それならそこは否定も肯定もせずに、日本人に任せよう」と専門家たちを説得した、というのです。

委員会ではイコモスが決議案を説明したあと、委員の意見が求められました。一斉に何人かの手が挙がります。最初に指名されたのはドイツの代表でした。

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富士山の登録を強く支持する。(目には見えないつながりという)無形的要素は重要であり、三保松原を除外するという決議案の文言は削除すべきだ。
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ドイツの委員の発言は、近藤氏の主張を積極的に認めたものでした。続いて、アフリカのセネガル。

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富士山が『信仰の対象』と『芸術の源泉』の両方の側面を表すのなら、三保松原を除外するのはおかしい。
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と、きわめて論理的説得的な発言をしてくれました。各委員も事前によく勉強していて、きわめて明確な意見を表明します。

(ヨーロッパ人にとっても自然は「芸術の源泉」だった)
フランスの委員は、同国一流の文化人で駐日大使を務めたポール・クローデルが富士山の美を謳った次の詩を美しいフランス語で読み上げて、支持してくれました。

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富士 神の玉座のごと はかりしれぬ高さで 雲の海に はこばれて われらの方へと 進みくる(ポール・クローデル〈芳賀徹訳〉)
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ヨーロッパ人にとっても、富士山は「芸術の源泉」であることを示してくれたのです。

三保松原に関しては厳しい意見を持っているとされていたE国の専門家は、セザンヌがフランスのサンヴィクトワール山からインスピレーションを受けたことに触れつつ「ドイツを支持する」、つまり三保松原は入れるべきと発言しました。セザンヌがサンビクトワール山を描いたのは、富嶽三十六景の浮世絵を見て、その影響を受けたから、と言われています。

あるアジアの国の大使はこう語りました。
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物理的なつながりではなく、視覚的・精神的な関係は、文化遺産の評価において重要である、従って三保松原を除外するとの一文を削除すべしとのさきほどの提案を支持する。
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文化遺産である以上、物理的なつながりよりも、視覚的精神的な関係を重視すべし、とは、今後の文化遺産を考える上でも、重要な原則でしょう。

こうしてイコモスの決議案から「三保松原を除外する」という部分を削除するという修正案が、全会一致で承認されました。議長の木槌(きづち)が振り下ろされました。「アドプテ(採択)!」

富士山が文化遺産として認められたことは、今までの人間による「文化遺産」と、「自然遺産」にきっちりと二分されていた西洋的な枠組みに対し、人間が自然を「信仰の対象」「芸術の源泉」として精神的なつながりを持つという日本文化の特質を、人類共有の財産として認めた事です。世界遺産の理念を広げる重要な一歩でした。

(「世界遺産の歴史に新しいページが開かれるだろう」)
世界遺産の登録で、日本の申請が世界遺産の理念を広げたという例は他にもあります。2007年7月2日に登録された島根県の石見銀山です。そのわずか2か月前、5月12日に出されたイコモスの評価は「記載延期」、すなわち「世界遺産としての価値の証明が不十分であるとして、その価値づけの概念そのものを考え直すように」という厳しいものでした。

ユネスコ日本代表大使として着任したばかりだった近藤氏は、自分の目で見ようと、すぐに石見銀山に飛びました。現地に行ってみると、緑の木に覆われた普通の山で、「これがどうして世界遺産か・・・」と近藤氏自身も心の中でつぶやいたほどでした。しかし、地元の専門家の何気ない一言が頭に残りました。

当時は灰吹き法といって、山の木を大量に切って燃やすことで銀を抽出していました。しかし木を切り出す量は一定量に制限し、残りの木材は他地域から運び込んでいました。しかも木を切ったあとは必ず植林をしたというのです。一時は世界の銀の3分の1近くも供給していた石見銀山は、その当時からずっと緑で覆われていたのです。

近藤氏は「これだ」と思いました。「環境に優しい銀山」が売りだ、と。そこで「緑の銀山」というテーマにして、現場の写真や山の緑を描いた江戸時代の図絵を見せて、各国の委員に見せると、すこぶる良い反応が返ってきました。

7月2日に石見銀山の申請が世界遺産委員会にて審議された際には、チリの代表が真っ先に手を挙げて発言しました。

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チリには多くの鉱山があり、世界遺産になったところもあるが、それらはみな赤茶けて荒廃した廃嘘となっている。しかし石見銀山はずっと緑を維持してきた。このように素晴らしい石見を世界遺産に登録することで、世界遺産の歴史に新しいページが開かれるだろう。
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各国からチリを支持する声が相継ぎ、全会一致で自然環境と共存した産業遺跡として登録されることが決まりました。富士山と同様、自然と人間が寄り添ってきた日本ならではの文化遺産と言えます。これも世界遺産の理念に新しいページを開いた事例でした。

(世界遺産の仕組みをより豊かなものにした日本の功績)
2015年に世界遺産は1000件を超えています。世界遺産に登録されることによって、観光客が集まり、大きな経済効果をもたらす事から、世界各国の登録競争が起こっています。政治的なごり押しもまかり通っているようです。

その中で、ごり押しも、政治的な取引もせず、ひたすら委員たちと真剣に文化財の価値を論じた近藤さんの姿勢は、世界遺産の理念を守る上で、貴重なものだったと考えます。

そして、日本独自の提案を通じて、各国委員とじっくり話し合いながら、従来の西欧中心主義の価値観を徐々に広げていくというアプローチは、世界遺産の理念をより広やかな、人類共通のものにしていく上で、きわめて大きな貢献をしているのです。
(文責:「国際派日本人養成講座」編集長・伊勢雅臣)

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