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ルネサンス先進国・日本の高い芸術力

2017年08月24日 | 日本

日本人が欧米に向けて言わなくてはならないことがある。つい最近まで、彼らは日本やアジア諸国を文明の遅れた野蛮国だと考えていたのだ。しかし、彼らが日本の仏像や寺社仏閣の建築や絵画を見て、そうではないと驚いていることを。

 

奥ゆかしい日本人が遠慮して指摘しないことなのだが、日本のルネサンスである飛鳥・奈良時代の仏像や絵は西暦700年ごろである。ヨーロッパのルネサンスは1300年代から始まってピークが1400年代だから、日本に比べるとヨーロッパは700年遅れてのルネサンスである。

 

そのルネサンスの絵や彫刻を見て、それから奈良の仏像や絵を見ると、はるかに奈良の方が優れている。もっと高い境地に行っていると、かねて思っていたが、『国民の芸術(扶桑社)』著者田中英道氏がそのように書かれていた。

 

多くの人がそう感じているはずだ。しかし、イタリアへ行くと仰ぎ見て褒めるが、飛鳥・奈良・京都では、心は打たれているけれどもあまり口に出さない。せっかく高い旅費を使ってヨーロッパまで行ったのだから、「いいものじゃないか」と思い込みたい(笑)。

 

それから、子供のころから教科書などで見せられているから、いまさら「よくない」とは言えない。素晴らしいと言わないと仲間外れにされる心配がある。要するに、既に日本全体が「ヨーロッパ文明は素晴らしいものだ」という思想に洗脳されているのだ。

 

そういうのが、これから抜けていくと思う。ルネサンスが素晴らしいといっても、何回も行けば飽きてくる。それで京都・奈良へ行って仏像や絵画を見てみたら、その繊細さにビックリ仰天する人がこれから増えていくだろう。

 

ヨーロッパの絵はずっと教会がスポンサーで、その宣伝のために描かれたが、その教会にゴマをすって、また次も描かせてもらおうという絵になる。スポンサーが他に存在しないのだから、いたしかたない。

 

それが14世紀ごろから急にルネサンスで、商人がスポンサーになった。それが人間復興で、宗教を離れて人間が人間のことを描こうとなった。平たく言えばスポンサーが違うということである。

 

オランダの画家レンブラントは肖像画で有名だが、彼は金持ちの商人を描いた。本人や奥様、お嬢さんを美しく、若干脚色して描いた。写実主義と言いながら、ちょっと割り増しつき(笑)。ただし、これは門外不出。その人の家の中でしか掲げてはならない。

 

これを公に出すことは、教会に対する反逆と思われる危険があった。教会以外の新しいスポンサーが現れたわけで、描く範囲が若干広がった。

 

その後、絵具が進歩して、安く簡便になったので、スポンサーなしでも描かれるようになった。また、助手が不要になったので、一人で野外へ写生に行けるようになった。それが印象派の始まりで、セザンヌとかマネとかモネとかルノアールとか。

 

日本人は非常に印象派が好きだから、詳しい説明は不要だが、印象派はキャバレーのダンサーを描いたり、その辺の風景を描いたりと、要するにモデル代は不要でしかも宗教とはまったく関係のない絵である。

 

印象派の絵が日本の浮世絵の影響を強く受けていることは知られている。だから日本人によくわかるのは当たり前で、日本では人気が高い。しかし、印象派の絵が何でヨーロッパでは画期的だったかというと、神様へのゴマすりの絵ではないということである。

 

自然を描き、人間を描くということが、向こうでは大革命だった。

自然は神様がつくったものだから、それを人間が勝手に自分の印象通り描くなどは神への冒涜だった。だから、描くものは常にキリストであり、その弟子であり、雲の上の天使であった。自然だけをメインに描くなどは、教会に見つかったら叱られる(笑)。

 

それが自分の思ったとおりに描くようになった。すると向こうでは芸術大革命。

しかも、そのインスピレーションは日本の真似。日本には宗教からの自由が昔からあったからである。

 

さて、ヨーロッパのルネサンスはキリスト教がベースで、日本のルネサンスは仏教がベースとなっている。キリスト教の場合は、神様がキリストを下し賜って我々を救ってくださった。その神への感謝を描こうというのがキリスト画になる。

 

仏教はそうではない。宇宙の根本原理や精神は何なのかが出発点で、それを分野に分けて、何々のためには何とか菩薩がいるとか、それには弟子が十二人いるとかの世界である。そういう抽象的・神秘的な宇宙精神の根本構造を仏像とか仏画にする。

 

したがって、そこへ出てくる像は、五十億年を考え尽くしたような顔をしていなければいけない。「宇宙の根本原理を具象化するとこんな顔だろう」と思いながら描いている。

中にこもっている精神性がまったく違うのだ。

そういう仏教精神が、日本の伝統芸術に大きく影響している。

 

飛鳥時代の飛鳥大仏(現存する最古の仏像)、法隆寺金堂の本尊である釈迦三尊像、奈良時代の東大寺大仏は当時、世界最大の銅像である。

 

中宮寺半跏思惟像は、釈迦が悟りを求めて苦悩する姿や修行中の弥勒菩薩を現したものとも言われており、法隆寺の玉虫厨子は彫刻・絵画・厨子併せて仏教の荘厳宇宙を表すものだ。


また、法隆寺金堂壁画はアジアの古代仏教絵画を代表する作で、彫刻を中心として壁画・建築空間が一体となり釈迦浄土の荘厳宇宙を表している圧倒的な存在感を示す崇高な仏教絵画なのだ。

 

奈良天平時代に美術の花が大きく開いた「奈良の都」は、万葉集に「青丹(あをに)よし寧楽(なら)の京師(みやこ)は咲く花の薫(にほ)ふがごとく今さかりなり」と詠われている。

 

その芸術性の高さは、やがて鎌倉時代の運慶、快慶による「金剛力士像」など、特徴的な彫刻へと続いていったのです。

 

飛鳥、奈良以来の高い芸術性が日本人の心(精神)に連綿と今も息づいているのである。

 

---owari---

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