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鉄砲を重視しなかった ⑥

2022年02月16日 | 歴史
今回のシリーズは、上杉謙信についてお伝えします。
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「上杉全軍団の軍役量は、全体で槍三千四百九人。手明(てあき:従者または歩侍)六百人。鉄砲三百人。旗三百四十八人。馬上五百三十五人。合計五千百九十二人である。
上杉軍団の特徴は、鉄砲が槍の十分の一と比重の低いことである。

当時、北条氏の軍役表を見れば、槍五十九丁に対し鉄砲十三丁。毛利氏では槍と鉄砲の装備比率が一対一となっている。

謙信は永禄二年二度めの上洛の際、大友宗麟(おおともそうりん:戦国大名)が幕府へ献じた鉄砲の玉薬の調合法を記した書物を、将軍足利義輝から贈られた。
だが、越後にいては、南蛮渡来の新兵器と弾丸硝薬は、畿内から入手するしかなく、鉄砲の普及は遅れざるをえなかった。

そのうえ謙信も鉄砲の使用に積極的ではなかった。彼は越中の一向一揆が用いる火器にしばしば悩まされたにもかかわらず、鉄砲を彼の軍団の主戦兵器に用いる気がなかった。

野戦操兵の天才である彼にとって、鉄砲乱射によって敵の鋭鋒(えいほう:鋭い勢い)を挫(くじ)く戦法は、あまりにも単純にすぎたからである。
「鉄砲などは、竹把(たけたば:竹を束ねて縄でしばったもの)、掻楯(かいだて:垣根のように盾を立て並べること)でいかようにも凌(しの)げよう。また、夜討ちを仕懸(しか)けなば、鉄砲の的にならずとも済む」

上杉軍団の全動員数五千二百人というのも、極端に低い数字である。
戦国大名のうち随一の富裕を誇ったといわれる謙信であれば、この数倍の兵力を募ることも可能であったであろう。

謙信はかねがねいっていた。
「われに八千の兵あらば、天下のいかなる敵をも相手に駆け悩ましてくれようぞ」
五千二百人の将兵に、小荷駄(こにだ:兵糧・武器を戦場に運ぶ荷や馬)の軍夫を加えれば、およそ八千人になる。

彼にとって、八千人をこえる大規模な軍団は、無用の長物と思えたのではないか。川中島合戦の際は、万をこえる人数を動員しているが、実際の戦闘は常に八千以下の軍勢でおこなっている。

(『武神の階(下)』作家・津本陽より抜粋)

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