『民間防衛』の訳者が<あとがき>で述べるように、戦後の日本人が思い浮かべるスイスのイメージは、美しいアルプスを見上げる牧場であり、羊飼いの少年少女の恋物語であり、そして何より戦乱の歴史を繰り広げてきたヨーロッパにおいて、150年以上にわたって平和を享受してきた国である。
そして、このイメージ自体は必ずしも誤りではない。『アルプスの少女ハイジ』の世界は、たしかにある。
しかし、戦後の日本人がこの平和愛好国スイスを語るとき、なぜかスイス国民の平和を守るための覚悟と努力、国民一人ひとりの大変な負担とこれに耐え抜く気迫という現実には目をつぶり、ともすれば、かかる努力によってはじめて開花した平和という美しい花にのみ気をとられてきた。
言葉を換えれば、「話して、遊んで、酒を酌み交わし、もっともっと仲良くなってやります」「抑止力に武力なんて必要ない。絆が抑止力なんだって証明してやります」などと語るSEALDsの若者の感覚と同じである。
現実認識が欠落し、「美しい花」にのみ気をとられている。なぜ美しい花が咲き誇れているのか、そのたゆまぬ努力、苦労に思い至らない。
平成27年の安全保障法制論議の際に叫ばれた「戦争法案反対!」という空疎なスローガンに共鳴するスイス国民はいないだろう。
私たちには、現実を受け止める力が本当にあるか。何がより肝心なことなのかという判断ができるか――「新しい日本人」とは何かのカギの一つがこれである。
「掛け布団」の若者も「敷布団」の高齢者も、彼らは大東亜戦争を侵略戦争と決めつけたうえで、日本がまたきっと侵略戦争を起こすに違いないと思い込んでいるのではないか。
したがって、日本は反省と謝罪を繰り返し、この列島に縮こまっているほうがいい、それで、世界の平和は保たれる、安保法制などとんでもない――となる。彼らには中国の核も、北朝鮮の核も見えていない。
たとえ国を守る目的であっても軍隊は不要、憲法九条があれば平和を維持できると主張する人たちが、日本国憲法前文のように隣人の公正と信義に信頼して自宅玄関のカギをかけないで寝ているか、警備会社と契約していないかといえば、そんなことはあるまい。
百田尚樹氏が「かりに外国の軍隊が攻めてくるようなことがあったら、最前線に立って憲法九条を唱えながら侵攻を押し止めてもらいたい」と彼らを揶揄(やゆ)するのは、むべなるかなである。
日本は他国を侵略しない。しかし、他国に日本の国土と国民の命が脅(おびや)かされたときは自衛のために断固戦う。
少なくとも、戦う権利を放棄しないという姿勢を打ち出すことがなぜ危険なのか。これが危険なら、スイスも平和愛好国ではなく危険な国家ということになる。結局、彼らは「我が国」を愛していない、信じていないのだろう。
「新しい日本人」とは対極に位置する、それこそ「反知性主義」を体現している人たちである。
---owari---
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