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泰平の世を揺るがせた由井正雪、幕府転覆計画の真相

2020年01月16日 | 歴史
江戸開幕から半世紀。幕府転覆を企てる事件がついに起きる。1651年に起きた由井正雪(ゆいしょうせつ)事件がそれである。

大坂夏の陣以来、徳川家光の代に取り潰された大名は五十近くに達し、四十万人の浪人が町に溢(あふ)れていた。武士の間にはまだ天下取りの思想が色濃く残っており、血気盛んな浪人も多かった。

そして1651年4月20日、積極的に大名統制を進めていた家光が亡くなると、鬱積(うっせき)と困窮(こんきゅう)のうちにあった全国の浪人がうごめき出した。

家光なき後、わずか十一歳で将軍を継いだ家綱(いえつな)の下で幕政を取り仕切っていたのは松平信綱、阿部忠秋、井伊直孝らの「戦後官僚」たち。しかも揃って戦争嫌いの文官ときている。

彼らは戦国の世の夢を捨て切れない浪人群を嫌い、徹底的に弾圧していった。由井正雪の幕府転覆計画が発覚するのは、そんな時代背景があってのことである。

浪人の正雪は江戸で軍学を学び、跡を継いで旗本や大名の家臣を相手に兵書軍学を講義する塾を開いていた。『平家物語』をテキストに使った点が人気となり、評判も高かったという。

だが、正雪が歴史に登場するのは、わずか四日間のみ。それ以前の経歴が詳(つまび)らかでないのが実際のところだ。幕府転覆の陰謀が発覚してから自刃(じじん)するまでの四日間に正雪のすべてがあるといっていい。

だが、この四日間が幕府を心底震撼(しんかん)させることになった。きっかけは、三州刈谷(かりや)城主の松平定政が、相次ぐ取り潰しと減封(げんぽう )で浪人が多数出現していることに抗議し、領地を返上して出家してしまった事件だ。

幕府は不穏な時期に、浪人を刺激する定政の行動を狂気の行いとして無視した。正雪はこれが許せなかった。

正雪の幕府転覆計画には八十人近くの者が参画していた。計画の筋書きはこうだ。浪人丸橋忠弥(まるばしちゅうや)が強風の日に江戸に火を放ち、小石川の火薬庫を爆破。ついで、あわてて登城するであろう老中を討ち、江戸城を占拠する。

同時に、正雪が徳川家のお膝元の駿府(すんぷ)で決起し、家康が残した久能山の金銀を奪う。こうした反乱を起こせば江戸や大坂の浪人が呼応するはず、という読みだった。

だが、計画は事前に発覚してしまう。おなじ浪人であった*奥村權之丞(ごんのすけ)が密告したのである。1651年7月23日、丸橋忠弥をはじめ七十人近くが次々と捕らえられ、全員が刑死する。

一方、駿府に立て籠もった正雪ら九人も25日、駿府の旅館で包囲され全員が切腹し、事件は落着した。正雪は切腹の前に書き置きを残している。「松平定政の潔(いさぎよ)いふるまいが無駄になってしまった」

しかし、正雪のクーデターによって浪人問題の深刻さと怖さを知ることになった幕府は、後に**末期養子(まつごようし)を認める政策を実行した。第二、第三の正雪の出現を恐れ、新たな浪人発生の防御策を取らざるを得なくなったのである。

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*最初に事件を訴え出た奥村權之丞は金十枚と五百石の加増を受け、御家人となった。

**末期養子:江戸時代、武家の当主で嗣子(つぎこ)のない者が事故・急病などで死に瀕した場合に、家の断絶を防ぐために緊急に縁組された養子のことである。これは一種の緊急避難措置であり、当主が危篤状態から回復した場合などには、その縁組を当主が取り消すことも可能であった。

---owari---
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