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武将、松永久秀が起こした天下にとどろく三つの大事件とは?

2020年01月15日 | 歴史
天下の大事件を三度も引き起こした奇跡の戦国武将がいた。悪逆の限りを尽くし、欲望の赴(おもむ)くままに戦国の世を疾走したその男こそ、松永久秀(弾正)である。

織田信長はその生涯で、家臣や同盟関係にあった武将三人から大きな裏切りに見舞われている。
まず、同盟関係にあった浅井長政。越前・朝倉征伐(せいばつ)に向かう途上、北近江の大名で、妹お市の夫である長政の寝返りに遭い、ほうほうの体で京都まで逃げ戻っている。二人目は、ご存じ明智光秀。天下取り間近の信長を本能寺において弑逆(しいぎゃく:目下の者が、主君や親などを殺すこと)した話はあまりに有名だ。

そして、三人目が久秀。久秀は生涯に二度も信長に反抗している。久秀の人となりを端的に言い表した、信長の言葉が伝わっている。自分にすり寄って最近麾下(きか:大将じきじきの家来)に加わった久秀を織田家の諸将に紹介する際、信長はこう言い放った。「この男は世間の人ができないことを三度もやってのけた珍しい男だ」

あの信長をも驚かせた三度の事件とは、次の三つを指す。
主人で、一時的にせよ天下を掌握したほどの三好家を滅ぼしたこと。足利十三代将軍・義輝を弑(しい:主君・父など目上の者を殺す)したこと。天平の昔から続く名刹(めいさつ)・東大寺の大仏殿を焼いたこと――である。

確かに、このうち一つでも引き起こせば天下の大事件である。それを久秀は三つ全部やってのけたのだ。ときの最高権力者を二人も葬(ほうむ)り、神仏さえ信じようとしない。久秀が、北条早雲、斎藤道三と並んで戦国の三大梟雄(きょうゆう:残忍で勇猛な人物)の一人に数えられる所以(ゆえん)である。

久秀もまた早雲や道三と同様、出自(しゅつじ)や履歴が伝わっていない。一説には阿波の生まれで、二十歳の時、阿波細川(晴元)家の家老・三好長慶(ながよし)に仕えていたという。やがて、晴元が室町幕府の執権に就任。これが長慶と久秀にとって人生の転機となった。

野心家の長慶は、間もなくこの主人を追い出すと、自ら政治の実権を握ってしまったのである。久秀には、この長慶の生き様は格好のお手本となった。

久秀は、長慶の長男や実弟を立て続けに謀殺、ようやく久秀の恐ろしさに気づいた長慶だったが、間もなく病気となり(久秀の暗躍もささやかれる)、久秀を呪いつつ悶死(もんし)する。その後の久秀は、足利義輝を殺害し、敵対する三好一族も打ち滅ぼしてしまう。

大仏殿を焼いたのはこの三好一族との戦いの折である。まさに、目的のためには手段を選ばない男だった。

そんな久秀と信長の因縁は1568年、信長が義輝の弟義昭(後の十五代将軍)を奉じて上洛した時に始まる。この時は、久秀はあっさり降参し、信長の好きな名物茶器を献上して大和一国を安堵(あんど)されている。しかも、信長の力を借りて三好一族を滅ぼすというしたたかさだった。

1577年、久秀は、石山本願寺や毛利輝元と組み、信長に敵対する構えを見せた。6年前、義昭が浅井・朝倉や比叡山と結んで信長に抵抗した折、久秀はその謀議に加わっており、今度が二度目の裏切りであった。前回、信長は久秀の茶人として才能を惜しみ、これを許したが、さすがに今度は堪忍袋の緒を切った。

久秀は臨終に際して、信長が喉から手が出るほど欲しかった名物茶釜・平蜘蛛(ひらぐも)を抱き、火薬で自爆して果てる。後世、「天下をゆるがす大罪を三度も犯した男」と悪評高い久秀だが、魔王・信長を二度も裏切ったことこそ、その三度の大罪を凌(しの)ぐ奇跡と言えよう。

---owari---
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