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元号を持つ国の人間であることの誇り(後編)

2023年05月16日 | 日本
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世界で最初に元号が使われたのは、中国です。前漢の時代、武帝が皇位を継いだ紀元前140年に「建元(けんげん)」と定めたのが最初です。これ以降、古代中国では、新しい王が立つと「正朔(せいさく)を奉ず」と言って暦を改めました。正朔は一月一日で正月朔日。つまり、暦の最初の日です。

王とは、そこにある領地を統治するとともに、そこに住む人を支配し、それ以降の暦、すなわち、時間をも制するという存在であったためです。天子と呼ばれた皇帝は、天を征するわけですから、太陽や月、星の動きを支配し、これにより時間も制するのです。従って、その王に使えますよということは、その王が示す暦を使いますよということであり、その表し方はその王が定めた元号を使いますということになります。

前漢の武帝は、負け続けていた匈奴(きょうど)を打ち破り北西部を拡大、南越国に遠征し今のベトナムまで拡大、また、衛氏朝鮮を滅ぼして、我が国の歴史にも登場する楽浪郡など漢四郡を朝鮮に置き、最大領土の中国を築きました。

この影響だと思われますが、朝鮮半島の国々は、独自の元号を持った時代もあるようですが、概して中国の元号を使っていたようです。これは、朝鮮半島の国々が、中国の冊封国であったことを意味しているのです。同様にベトナムでも、中国から独立した970年以降に独自の元号を持つようになりました。

中国も三国時代になると、三つの国にそれぞれ王がいたために、それぞれの王が元号を持つようになります。例えば、西暦222年魏は「黄初」、蜀は「章武」、呉は「黄武」という元号を持っていました。

日本では、古代の中国製の青銅鏡が様々な古墳から出土します。魏志倭人伝に登場する卑弥呼が、魏の明帝に使いを送り鏡をもらったことは有名ですが、出土した鏡に鏡をもらった年の年号が刻まれていて、これこそ卑弥呼がもらった鏡の一つではないかと騒がれたことがありました。

これが「景初三年」でした239年です。日本で出土した鏡の中には「景初四年」と書かれたものもあり、これによってその鏡は日本で作られた偽物ではないかと議論されたこともありました。明帝の景初は三年間しかなかったためです。

日本においても、魏に使いを出した頃から、少なくとも推古天皇の頃までは、中国に冊封していたのではないかと考えます。例えば、雄略天皇とされる倭王武は、宋の順帝から「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭王」の称号をもらいました。これは「宋」の「昇明二年」のことです。日本書紀には、この時のことは記されていません。また、元号も登場しません。つまり、この時はまだ日本は中国の冊封国であったわけです。

これが推古天皇の時、聖徳太子が「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無しや、云々」という文書を送り、自国に天子がいる対等の国として外交を行おうとしたとされます。法隆寺釈迦三尊像の光背には銘が残されていました。ここに「法興元三十一年歳次辛巳十二月、鬼前太后崩」と書かれています。この法興の元より31年の「法興」が日本で最初の元号ではないかと言われているものです。

ちなみに、この年は推古天皇が天皇になってから29年目のことです。つまり、法興元年は西暦590年で崇峻天皇の3年目ということになります。この時、日本において元号が使われたというのでしょうか。崇峻天皇とは、そういう人物だったのだろうかと思うと、これはやはり違うのではないかと考えたりするのです。ただ、蘇我馬子が大王になり中国と対等の新たなる世を作ろうとした年だったというなら、あり得るのかもしれないと考えたりするのです。

実は、法興の遺物は、もう一つ残っているのです。聖徳太子が道後温泉を訪れた記念に建立したとされる碑の碑文には次のように書かれているのです。「法興六年十月、歳在丙辰、我法王大王・・・」法王大王は、聖徳太子のことです。「法興六年」やはり、元号は存在したのかもしれないのです。

法興という名前がついた寺がありました。法興寺、つまり、飛鳥寺のことです。やはり蘇我馬子が、新時代を切り開く大王だったのでしょうか。それとも聖徳太子が大王だったのでしょうか。日本書紀には一切触れられない大きな歴史の変動があったようです。

日本書紀には、「天豊財重日足姫天皇(あめとよたからいかしひたらしひめのすめらみこと=斉明天皇)の四年を改めて大化元年とす」として、最初の元号が定められた記述があります。これは、乙巳(いっし)の変により蘇我入鹿が殺されるクーデターのあった後、孝徳天皇が即位した時のことです。この元号をとって、いわゆる「大化の改新」が実施されたということになっています。645年のことです。

ただ、最近私は「少しおかしいな」と感じたことがありました。何度かご紹介させていただいています羊伝説を追いかけて群馬県の多胡碑を見学に行った時のことです。多胡碑には「三百戸郡成給羊 成多胡郡和銅四年三月九日甲寅」として羊に300戸を与えて多胡郡としたとして、和銅四年の日付が刻まれていました。和銅四年は西暦711年です。この頃は、元号が行き渡っていたことがわかるのです。

そこには多胡碑の資料館が併設されているのですが、私はそこで那須国造碑というものが存在することを知りました。国宝になっている栃木県大田原市にある石碑です。ここには「永昌元年己丑四月飛鳥浄御原大宮那須国造・・・」と続く碑文が彫られています。那須直韋提(なすのあたいいで)は、那須評督に任じられたと記録されているのですが、ここの元号が「永昌元年」なのです。永昌は日本の元号ではありません。唐の元号です。永昌元年は、西暦689年です。

法興元年は西暦590年、大化元年は645年です。法興からは約100年、大化からは約50年の年月が立っているにもかかわらず、元号が使われていません。西暦689年は持統天皇になって3年目、天武天皇の喪の中で皇太子の草壁皇子がなくなり持統天皇が就任した年です。そして、この年天武天皇が作り上げようとしていた飛鳥浄御原令が頒布(はんぷ)されたのです。
天武天皇の15年「朱鳥(しゅちょう)」という元号が定められ、元号が再開されたのですが、天武天皇の崩御により用いられなくなってしまったようです。

日本に元号が定着したのは、やはり大宝律令が頒布された時、701年の「大宝」からなのかもしれないと理解したのです。日本が、名実ともに独立国として世界に独り立ちしたのは、天武天皇、持統天皇の努力の上に修正が加えられた大宝律令によってということなのだと思います。天皇はこの時、文武天皇となっていました。

法興も大化も、理想を追い求めた時代であったことは確かですが、その頃の大王は、残念ながら日本にいる人々の時間をも支配する立場にまではいかなかったようです。まだ、中国の傘の下で日本が独自の道を歩もうともがいていた時期だったと言っても良いのかもしれません。

坂本太郎教授はこんなことも言っています。「歴史を考える場合に、年号は、いろいろな時代を具体的な事実の裏付けと共に細かに深くして把握する場合の適切な指標の役割を果たしている」のだというのです。「大化の改新、建武中興、明治維新」などを見ても、年号がないと表現するのに適切な方法が見当たらないといいます。年号が、日本の歴史と緊密に結合している証拠なのかもしれません。

中国での元号は、清が滅ぶと同時に使われなくなってしまいました。今、元号を使っているのは、世界で日本だけなのです。私達の国には、私達の時代があり、私達の時間がある。そう考えると、決して元号を捨てるなどという暴挙には出ないでもらいたいと思うのです。合理性だけで考えると、失うものはあまりにも大きいのです。

---owari---
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