奈良県明日香村のキトラ古墳壁画の天文図(西暦700年ごろ)は世界最古とされる。文化庁は7月15日、天文図を解析した結果、古代中国の洛陽や長安付近で観測、製作された天文図をもとに描かれた可能性があると発表した。
キトラ古墳は明日香村の国営飛鳥歴史公園内にある古墳で、極彩色の壁画で有名な高松塚古墳の約1 km 南に位置する。
この古墳は7世紀末から8世紀初めに築造されたと考えられており、石室内部の壁面には青龍・朱雀・白虎・玄武の四神と獣頭人身の十二支像が画かれ、天井には精緻な天文図が描かれている。
壁画が確認されたのは、北壁の玄武が1983年、東壁の青龍と西壁の白虎と天井の天文図が1998年、南壁の朱雀と東西南北の四壁の下部にある十二支像が2001年であった。キトラ古墳は2000年に国の特別史跡に指定されたのです。
キトラ古墳の天文図には68星座、約350個の星とともに天の赤道、黄道(天球上における太陽の見かけ上の通り道)、内規(常時観測できる天空)、外規(観測可能な天空)の4つの円が描かれています。
この天文図の調査は文化庁と国立天文台の相馬充助教、OBの中村士(つこう)元帝京平成大学教授らが実施。天文図の写真をもとに、星座の位置や天の赤道・内規と星座の位置関係などを詳細に解析し、観測時期や観測地の緯度を割り出したのです。
相馬助教によると、天文図は西暦300年代に観測されたもので、観測場所は北緯34度付近。この緯度には古代中国でたびたび都が置かれた洛陽や長安があり、相馬助教は「洛陽や長安での観測をもとに製作された天文図が日本に輸入され、壁画に描かれた可能性がある」としている。
一方、中村元教授の解析では、天文図の観測年代は紀元前65~40年ごろとしている。中村元教授は「当時は前漢の時代。渾天儀(こんてんぎ)とよばれる観測装置を使い、都があった長安付近で、観測されたデータをもとに製作された天文図がモデルだろう」とした。
キトラ古墳の築造当時は日本では天文図を描けるほどの天文観測は行われていなかったので、その天文図には元になる原図があり、それは中国か朝鮮半島で作られて日本にもたらされたものだと推定されたのだ。
その原図は中国や韓国を含め現在まで確認されていないが、キトラ古墳の天文図を調べることで、原図がいつごろ,どこで行われた観測を元にして作成されたのかが分かれば,天文図の情報がどのように日本にもたらされたかを探るための重要な情報になるというのです。
さて、ここまでが今回の文化庁から公表された内容です。
国立天文台の先生方に盾を突くわけではありませんが、中国や韓国の原図を見つけられていない状況で、中国や朝鮮半島で作られて日本にもたらされたものだと結論されていることに、大変に違和感があります。
それでは、その違和感を疑問としてまとめてみました。
今までに先行研究されていた宮島一彦・同志社大学教授(東アジア天文史)のご見解と違うが、その点が公表されていないと、ネットでも論じられています。
① 今回、公表された相馬助教による観測場所は北緯34度付近となっているが、宮島教授の観測場所は北緯38.4 度付近で描かれたものとなっている。この見解の相違はどうなっているのでしょうか?
② 観測場所の北緯34度付近には中国の都があった洛陽や長安があるが、キトラ古墳に描かれている獣頭人身の十二支像が洛陽や長安で出現するのは8世紀(736年以降)に入ってからである。キトラ古墳の築造年代が7世紀末から8世紀初め頃とされているので、年代が合わない。また、キトラ古墳の十二支像はそれぞれ手に武具を持つが、中国のものは武具を持っていないという決定的な違いがある。その理由は何か?
③ キトラ古墳は中国や朝鮮半島などの文化的影響を受けていたと考えられている。しかし、2005年になって発見された十二支像の「午」の衣装は、同じ南壁に描かれている朱雀と同じ朱色であった。このことは、十二支像がそれぞれの属する方角によって四神と同色に塗り分けられていることを推測させる。これは中国・朝鮮の例には見られない特色である。なぜか?
④ 中国や古代朝鮮半島の伝統的な四神相応図は、東の青龍も西の白虎も頭は南のほうを向いているのが一般的である。高松塚古墳も同じであるが、キトラ古墳は、青龍は頭が南のほうを向いているが、白虎は頭が北のほうを向いているのです。これは書き間違いということでは片づけられない。では、その理由は?
⑤ キトラ古墳の朱雀は長い尾羽根を後ろにして、まさに今から地上を駆けだそうとする瞬間を描いたように躍動感がある。鳳凰や孔雀と言うより、むしろ雉(きじ)をイメージして描かれたようにも思える。こうした図柄は大陸にはない。四神像が大陸からまぎれもなく一組の物として伝わってきたとすれば、この違いをどう解釈したらよいのか?
➀から⑤までの疑問について、私なりに見解をまとめてみました。
➀観測場所の北緯について、宮島教授の解析は、古墳南側の盗掘口から挿入した超小型カメラで撮影した画像から大まかな解析を行ったもので、天文図の内規と天の赤道の半径の比から原図の観測地の緯度として北緯を割り出している。
天文図は天の赤道 や内規・外規の半径を正確に測って描いたのではないために、観測場所の北緯に大きな差があると相馬助教は述べている。相馬助教は個別に、精密なデジタル画像に基づいて原図の観測地と観測年代を分析されているので、観測場所については、相馬助教と中村元教授の意見が一致している北緯34度付近の説が正しいと思われる(東経の位置は関係がありません)。
②武器を持った十二支像の源流は少なくとも中国にはないのです。武器を持つ十二支像の概念が新羅に登場するのが統一新羅時代(676年~)とするならば、日本に波及するのはおそらく7世紀末以降でしょう。しかし、石室の壁画に十二支像を描くという発想は当時としては新しく、日本独自のものであると推測されています。
③2005年になって発見された十二支像がそれぞれの属する四神像と同色に塗り分けられている。これは中国や朝鮮の例には見られない特色です。また、天文図を石室の天井に描く文化は中国にはないのです。これらから読み取れることは、キトラ古墳の壁画は日本の創作が色濃く出ているということです。
④伝統的な四神図ではなくて、青龍が南向き、白虎は北向きで正解であると解釈されるのです。すなわち、キトラ古墳には、世界最古の天文図が描かれていたように、これ自体が、ひとつの世界を無事に循環させるための安定装置なのです。
これらはいわば、一定の方向に向かって回転する時の流れを表しているのです。したがって、東の青龍が南を向いている以上、対面の白虎は北を向いていなければ、エンドレスな時間の循環は不可能になってしまうのです。風水的神仙思想においては、ものごとの循環が滞りなく巡ってゆくことが一番大切なのです。
⑤キトラ古墳の朱雀は、尾を長く引き、地面を蹴って羽を広げ、今にも飛び立とうとしている躍動的な姿はたいへん珍しいものです。中国や朝鮮半島の四神図を研究してきた網干善教・関西大学名誉教授(考古学)は、「高句麗の朱雀とはまったく異なり、かなり日本的な表現」という。我が国の画師は単なる模倣ではなく、作品にオリジナリティを持ち込んだ「本格的な倭の絵の誕生」と述べているのです(高松塚古墳の朱雀は消失しており、比較はできない)。
さて、ここまで長々と書きましたが、後編でまとめてみたいと思います。
後編では、この天文図が明日香村で観測されて描かれたという結論に達しています。
---owari---
「観測場所の緯度は、39.39±0.5ですね!」とご意見をいただきましたが、根拠がよくわかりません。
私のブログでは、国立天文台の相馬充助教、OBの中村士(つこう)元帝京平成大学教授らの観測場所は北緯34度付近としています。
それから、宮島一彦・同志社大学元教授は北緯38.4 度付近で、ちょうど高句麗の平壌付近とされました。
天文図の内規外規比で計算すると、北緯39.375度という値がありますが、これが根拠になっているのでしょうか。ご指摘があればよろしくお願いします。