キトラ古墳の天文図や壁画に関する私の見解は、以下の通りです。
・天文図の原図は中国や朝鮮半島でも見つかっていないが、原図は朝鮮半島を経由して、日本に持ち込まれたものをベースに壁画として描かれたものと思われる。
・古墳の築造年代が700年ごろと特定されているので、この年代の歴史をベースに画師を想定してみました。朝鮮半島の高句麗が唐・新羅連合軍に滅ぼされたのが668年です。故国を追われた人々が向かうのは日本列島しかありません。亡命した画師かその縁者が、日本化された四神像や十二支像を壁画に描いたと想像します。
・壁画は唐の文化的影響が高松塚古墳ほどには色濃くないことから、遣唐使が日本に帰国(704年)する以前の7世紀末から8世紀初め頃に作られた古墳であると思います。
・しかしながら、天文図を石室の天井に描く文化、武器を持つ十二支像、一方向に向かって時の流れを表している四神像、今にも飛び立とうとしている朱雀の躍動的な姿などは、かなり日本的な表現であるといわれています。これほどのオリジナリティーがあるということは、画師は高句麗から亡命した人であっても、デザインを決めたのは日本人であったと思うのです。
さて、結論にまいります。
高松塚古墳の被葬者はまだ特定されていませんが、忍壁皇子(おさかべのみこ、705年没)や弓削皇子(ゆげのみこ、699年没)の可能性が高いといわれています。
キトラ古墳の被葬者は誰かということですが、これも未だ判然としていません。年代などから、天武天皇の皇子、もしくは側近の高官の可能性が高いと見られている。また、金象眼(彫刻した溝に純金を埋め込む技法)鉄製刀が出土したことから、銀装の金具が出土した高松塚古墳の被葬者よりも身分や地位の低い人物が埋葬されていると推測されているのです。
被葬者は側近の高官である右大臣の阿倍御主人(あべのみうし)であったと私は推測しています。
その根拠として、古墳の所在地が「阿部山」という地名であることです。また、古墳の築造年に近い大宝3年(703年)4月に69歳で没しています。
キトラ古墳の名前の由来は、中を覗くと亀と虎の壁画が見えたため「亀虎古墳」と呼ばれたという説、地名の「北浦(阿部山集落の北側)」が「きとら」となまったものという説がありますが、
私はそれらの説は納得できません。
やはり、古墳が明日香村阿部山集落の北西方向にあるため、四神のうち北をつかさどる亀(玄武)と西をつかさどる虎(白虎)から「亀虎」と呼ばれていたという説に賛同したい。
そして、この阿倍御主人の子孫・支族が、陰陽道の天文道を極めた安倍晴明ともいわれているのです。これも何かの縁ではないでしょうか。最高位の高官(右大臣)を務めた阿倍御主人には古墳に埋葬される資格はあったのです。
6世紀頃、仏教や儒教とともに陰陽五行説が日本に伝わりました。陰陽五行説は、天文、暦数、時刻、易などと関係が深く、自然界を観察して吉兆・災厄を判断し、人間界の吉凶を占う技術として日本に受け入れられています。
キトラ古墳が築造された700年ごろには、日本ですでに陰陽師があらわれ始めているのです。したがって、日本独自の考えで、四神像の描き方をデザインしたり、十二支像を書き足したりすることは可能だったと考えています。
そして、石室の天井に描かれた天文図は、天文道を学んだ日本の陰陽師がデザインしたと考えられるのです。実際に、明日香地方の天体を観測した結果を描いたとも考えられるのです。その証拠に、観察場所である北緯34度付近には、明日香村が入っているのです。
自分が埋葬されて眠る場所に、他国の空の天体を描いて、満足する被葬者はいないのではないでしょうか。自分が住んでいた星空に囲まれて、四神に守られて、はじめて安心して眠ることができるのです。
したがって、キトラ古墳は大陸の天文図や四神図を参考にはしていますが、壁画は日本のオリジナルだと信じているのです。
---owari---
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます