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下克上の代表、早雲と道三はどう主君を追い込んだのか?

2019年06月30日 | 歴史
「梟雄(きょうゆう)」という言葉がある。悪知恵に長け、残忍で勇猛な人物――というほどの意味だ。戦国時代の幕を開いた北条早雲(そううん)と油の行商人から身を起こした斎藤道三(どうさん)の二人は、まさに乱世の梟雄であった。

二人の出自や履歴は一切不明だが、謀略を好み、主人を追い出して大名にまでのしあがったという、下克上(げこくじょう)の代表選手であることに変わりはない。

早雲は1491年の「伊豆の乱」で、60歳という高齢で歴史に初めて登場する。早雲が現れるまで、挙兵には必ず世間を納得させる大義名分が付随した。

「親の敵(かたき)を討つため」「領土を侵されたため」「天皇を守護するため」・・・・・。こうした武家社会の暗黙のルールを無視し、自己の征服欲を満たさんがために挙兵したのが、早雲の「伊豆の乱」だった。

この事件が契機となり、身分にかかわらず実力と運次第でだれでも一国一城の主になれるという戦国乱世が幕を開けるのである。

早雲の戦い方で最も特徴的とされるのが、小田原城攻略だ。伊豆の領主となった早雲が、相模一国を掌中(しょうちゅう)に収めるため寡勢(かぜい:少ない軍勢)で小田原城を乗っ取った事件である。

当時の小田原城主は大森藤頼(ふじより)。早雲は事前に何度も藤頼のもとを訪ね、下心を隠して「水魚の交わりをしたい(水と魚との切り離せない関係のような、非常に親密な交友)」と言葉巧みに接近。正式訪問の合間には流浪僧に身を変え、小田原城下を探り歩くほどの念の入れようだった。

そして直前になって、箱根で鹿狩りをしたいので勢子(せこ:獲物を追い込む役目)を山に入れるとの了解を藤頼に取り付け、数百人の精兵を変装させて送り込んだ。こうして決行当日の夜、兵士たちは小田原城下にとどろくようなほら貝を吹き、鬨(とき)の声をあげ、さらに城下に火をつけて回った。ツノに松明(たいまつ)をくくりつけた牛千頭を放したとも伝えられる。

この騒ぎに驚いた藤頼は「スワッ、一大事。大軍が攻めてきた」とあわて、ろくに応戦もせず、さっさと城外に逃げてしまう。早雲の計略が見事に当たったのである。味方の被害が皆無に等しく、少ない人数でこれほど見事に城を乗っ取った例はそうはない。

小田原城攻略は1495年9月のこととされるが、異説あってはっきりとはしない。戦い方もどこまで真実なのか詳(つまび)らかではないが、事前に十分な情報を仕入れ、謀略によって乗っ取ったことだけは確かである。

一方の道三。蝮(まむし)の道三と恐れられた彼は、権力者に取り入るために美女を世話したり、時には目障りな相手を葬るためにその対抗馬をけしかけたりと、権謀術数(けんぼうじゅつすう)のかぎりを尽くした。もしも合戦で敗れても、きっと最終的には謀略で勝ちを得た。世の人はこれを「蝮流」と呼んだ。

そんな道三が、楽市楽座を創設した人物であることは意外に知られていない。商業の自由を許せば、街は繁栄する。しかも、人々の往来によって他国の様々な情報が得られる。まさに「情報をあやつる者は国を制する」である。やがて、この楽市楽座は娘婿の織田信長に受け継がれていった。

情報の重要性に早くから目をつけ、謀略戦を次々とものにすることで大名にのぼりつめた道三と早雲。彼らこそ、乱世に、生まれるべくして生まれた、稀有な戦国武将であった。

---owari---
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