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希代の治世家に家康は変身

2023年01月08日 | 歴史
⑫今回のシリーズは、徳川家康についてお伝えします。
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(津本 陽:小説家) しかし、ここに至るまで家康は水面下で懸命の努力を重ねています。九月一日、江戸城をたつまでの四十日間に、百八十通もの親書を諸将に書き送っています。彼の生涯にこんな時期はありません。ほとんどが不渡り、空手形に終わるのですが(笑)。とにかく俺に味方してくれれば加封と新領地は固く約束すると。こんな甘言と同時に恫喝(どうかつ)もして、三成方の諸将を切り崩し、じわじわと自分に有利な態勢をこしらえていく。

これは戦国の世では常套手段。本能寺の変でも秀吉は備中高松から畿内の大名に向けて使者を出し、信長が生きているかのような話をさせています。高槻の高山右近や筒井順慶なんか、見事に騙されちゃつて。当時はテレビも、パソコン通信もありません。ひょっとしたら本当かな、そう思わせたら、しめたもの。でも、家康の密書をもらった方も、計算をしています、しっかりと。

調略を受けていた南宮山の毛利、吉川にしろ、寝返った小早川にしろ、西軍有利とあれば、密約など軽々と反故(ほご)にして、東軍陣地に突撃したはずで、おそらく西軍は圧勝を収めたでしょうね。

- 家康が描いた青写真どおりに、ことは運ばれたのですか。

(津本) いや、そうじやありません。実に微妙な戦いで、家康にすれば地獄の淵に立たされ続けるような、勝つ可能性のかなり低い合戦だったでしょう。「週刊文春」に連載中も、関ケ原の合戦に場面がすすむと、自分でも興がのり、夢中になりました。予定回数もここで大幅に延びて(笑)。

何が面白いかというと、東軍不利の戦況をさまざまな手口で逆転させていくプロセス。そして最後に半日の戦いに西軍を誘い出す巧智(こうち:たくみな才知)。雌伏(しふく)しつつ雄飛のときを待つ姿勢。その手際の鮮やかさ、思いきりの良さ……。勝敗の帰趨(きすう)は賽(さい)の目の如きであったでしょう。

土壇場までどちらに転ぶか見当がつかなかった。本当に不思議な大合戦です。明治のお雇(やと)い軍事顧問のドイツ人メッケルは、関ケ原の布陣図を手にして「ああ、これは東軍の大敗だ」と断言。勝敗を事前に知らされていなかったからですが、専門家が診ても、こうなのです。やはり、最後は家康のカリスマ性に帰結するんだなあ。家康のカリスマ性が西軍の不安感を煽(あお)り、結束を阻止し、疑心を生じさせています。

指導者がしっかりしないと我々が困る。思慮ある武将は悟っていたことでしょう。三成では駄目だ。官僚としては優秀だが、家康とは器量が違いすぎる。西国の盟主・毛利も当主輝元は戦国三代目で、凡庸(ぼんよう)の風評が絶えない。この合戦は日本史の分水嶺になろう。早晩、日本は新しい時代を迎える。乱世から平安の世へ。そのとき誰が指導者に最もふさわしいか。思うに家康は江戸城に拠点を移した段階、天正十八年(一五九〇)で、治世への準備をすすめていたんじゃないですか。

応仁の乱から乱世は百二十年続いた。国の民はうんざりしている。民衆が切望する安定した世の中をつくり、安土桃山のような華麗さには欠けるが、我慢と協調、努力と克己(こっき)を基調にしたおだやかな国に転換していくべきであろう。そのような設計図を心の奥底に秘めていたんじゃないですか。

(小説『勝者の極意』作家・津本陽より抜粋)

---owari---
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