末つ森でひとやすみ

映画や音楽、読書メモを中心とした備忘録です。のんびり、マイペースに書いていこうと思います。

PJ版を振り返る:フロド・バギンズ 編

2005-07-01 12:38:52 | PJ版:指輪物語

Frodo Baggins
“ We set out to save the Shire, Sam.
  And it has been saved. But not for me. ”
                  ( 映画 LOTR:RotK より )


ようやく、仕事の方が落ち着いてきました。
3週連続幕張ミッション達成v 。。と引きかえにした、
かなり強引に休みをとった為のツケが、まだ残ってはいるのですけれど ; ;
( なので、橋本行きは断念 >_< )

先週末からはEP3の先々行や先行上映が始まって、
世の中的にはSW~!な気配ですが、
焦らず、マイペ~ス、マイペ~ス (笑) ということで、
“ 登場人物別 :PJ版に思うこと ” をスタートしたいと思います♪

まずは、この作品の主人公、フロド・バギンズについてです。

*~*~*~*~*~*~*~*~*

私は原作から先に入ったクチですが、
PJ版のフロドもとても好きです。
原作の旦那なフロドに較べて、PJ版はもっと若く、
“ 坊っちゃん ” という感じでしたけれど。。
しいて言うならば、PJ版のイライジャ・フロドで
“ 旦那なシーン ” を見たかった! ですねぇ。
( えーえぇ、もう、とっても見たかったですだ ; )

とはいえ、原作既読者としての呪縛もそれなりにあったことは確かで、
正直、PJ版フロドを良いなぁと思えるようになったのは、
昨年のRotK劇場版公開後のことでした。
このシリーズは、やはり3本で一つの作品なので、
時間があるときには、まず自宅で前2作のSEE版DVDを鑑賞し、
それから映画館まで行ってRotKを観るというのが、
当時の、私の 阿呆な ささやかなこだわりどころだったのですが、
そうやって続けて観ると、フロドの表情の移り変わりから
目が離せなくなってしまうのです。

― 陽気で快活だったひとりのホビットが、戸惑いと恐怖と畏れを経て、
  あらためて決意をかためるまでを描いた第一部。
  指輪に翻弄され、自己を見失い、何を心の拠りどころとすれば
  いいのかさえ判らなくなってしまった第二部。
  そして、第三部では疲弊はしても、
  決して自ら前に進むことをやめようとはしませんでした。

指輪所持者であるフロドの戦いとは、
自身の心の内へ、内へと向かっていくもので、
決して、派手な戦闘シーンや華々しい武勲といった形で
スクリーン上に表現されるものではありません。
そのため、細切れに、途中々々を観ているあいだは、
どうこう判断できるようなものではなく、
物語の最後までたどり着いて、初めて、そのすべてが見えてくる。。
そういった性質の描かれ方なのだと思います。

実はこれ、原作初読時に味わった感覚と、とても似ているのです。
( フロドの印象ということではなく、物語を追うパターンとして )

初めて 『 指輪物語 』 を読んだ時の私は、
フロド・サム・ゴクリ組のどんなに辛い場面であっても
“ 大丈夫。 主人公なんだから、絶対に使命を達成できるはず! ” と、
どこか高をくくった、呆れるほど呑気な読み方をしていました (汗)
ところが、滅びの罅裂で指輪を棄却してからも物語は続き、
「 ホビット庄の掃蕩 」 以降、フロドに対する、
“ 主役であること ” の安心感は一気に揺さぶられ、
ラストの西への旅立ちでもたらされる、激しい喪失感と深い余韻とによって、
『 指輪物語 』 は、私の中で忘れられない作品となったのです。

もちろん、原作から受けた衝撃がそのまま、
PJ版でも味わえるということではありません。
映画を、“ フロドの物語 ” に絞って味わおうとすると、
ちょっと印象が弱くなってしまうのは、
残念ながら、紛れもない事実です。

これはひとえに、PJ版で描かれたストーリーが、
「 ホビット庄の掃蕩 」 を入れないことを前提に
構成されているからでしょう。

原作 『 指輪物語 』 において、
指輪所持者となるべく運命づけられていたフロドの真の資質が、
圧倒的な存在感でハッキリと示されるのは、実は指輪棄却のあとに続く、
「 ホビット庄の掃蕩 」 ~ 「 灰色港 」 にかけての件りだと思っています。
ここはまた、同時に、“ 一つの指輪 ” を手にすることの本当の怖さ
 ― “ 指輪 ” は失った時に初めて、それの持つ力と、
   それに蝕まれることの恐ろしさとに、真の意味で気づかされる ―
ということが、語られているエピソードだとも言えます。

 <望み> を捻じ曲げられ、
 <執着> へとすりかえられて、
 所持者ではなくなっても、なお、
 振り払えない <妄執> にとらわれる。

“ 指輪 ” を持つ者は、死すべき定めの種族であっても死にません。
それを所持し、指に嵌めるだけで、
「 有限の命 」 という、定命の者に与えられた賜わり物までが、
いつのまにか剥奪されてしまっているのです。
生きる上での <望み> を奪われ、心に巣食う闇だけを抱えながら、
残酷に引き伸ばされた、いつ果てるとも知れない寿命の日々を、
ただ、強いられたようにさ迷い続けるだけでしかない存在。
その虚しさと、恐ろしさ。
これが、“ 指輪 ” の誘惑に屈してしまったことへの代償なのだとしたら、
指輪所持者たちの運命のなんと苛酷なことでしょう。

指輪棄却の使命達成後、原作では、
これよりフロドが苛まれるであろう日々を察したアルウェンが、
自分の西行きの権利を彼に譲るべく働きかけ、
すべての準備が整うまでの間、フロドの慰めになるようにと
白い宝石のついたペンダントを彼に贈ります。
そして、灰色港から旅立つまでの二年間、
堕ちたイスタリ、サルマンに慈悲を示すほどに成長し、
人格の高みを見せたフロドでさえも、
平和が戻った故郷でただ一人、
闇の記憶に引きずられて病に臥すたびに、白い宝石を握りしめて、
恐怖と苦痛に耐えなければならなかったのでした。

ところが、PJ版ではこれらのエピソードはいっさいありません。
( アルウェンのペンダントなんて、アラゴルンに贈られたと思ったら、
  粉々に砕け散っちゃいましたしね。落とすなよ~、王様 ; )
原作の肝ともいえる場面をカットしてしまった映画版で、
PJは、フロドの旅をどのように描こうとしたのでしょうか。

私自身の、原作読みの浅さ加減をさらすようでお恥ずかしいのですが、
PJ版のRotKを観て、初めて気がついたことがあります。
滅びの山が火を噴き、流れでた溶岩が火の川となって、
取り残された小さな岩場に倒れている二人のホビットを、
3羽の鷲が助けに来るシーンです。
原作では、誰がどの鷲に運ばれたかまでは書かれていないため、
グワイヒア ⇔ ガンダルフ、 ランドローヴァル ⇔ フロド、 メネルドール ⇔ サム
という組み合わせだとばかり思い込んでおり、
ゴラムの救済について、頭からすっかり抜け落ちていた私は、
1羽が空手のまま帰っていくのを映像で見せられたことに、
とても衝撃を受けました。

PJ版LOTRには、3度繰り返されるガンダルフの台詞があります。


  All you have to decide is what to do
  with the time that is given to you.


FotR本編で2回と、RotK予告編 (本家英語版) とに登場するこの言葉。
そして、RotK冒頭の挿話であるゴラムのシークエンスと、
上記の3羽の鷲のシーンとから感じられるのは、PJは
< すべての者には役目があり、善かれ悪しかれそれを果たした時、
  すべての者は許される >

という視点で、“ 指輪の旅 ” を描いたのかなぁということです。

そう考えると、原作既読者に波紋をなげかけた 3大改悪シーン

  ◇TTT … オスギリアスで自身を見失う旦那
  ◇RotK … サムに “ Go Home ” と言う旦那
  ◇RotK … 滅びの罅裂でゴラムに向かっていく旦那

も、なんとか脳内補完フル回転の守備範囲内におさまる のですよね。
( 原作からの改変そのものについての是非は、
  ― “ pity ” をすっ飛ばしたことも含めて ― ここでは敢えて述べません )

FotR :SEEに、モリアの手前で交わされる


  Gandalf: Evil will be drawn to you from outside the Fellowship.
        And, I fear, from within.
  Frodo: Who then do I trust?
  Gandalf: You must trust yourself. Trust your own strengths.


という、ガンダルフとフロドの会話がありますが、
ここで話されたような状況に即した場面にいきあったときの、
“ 指輪の力 ” に畏れを抱くフロドの様子が、
PJ版LOTRでは、原作以上に描写されています。

まずFotRでは、フロドの目にうつる周囲の人々。
指輪を葬るための道筋を示す役割でありながら、
フロドに指輪を差し出された途端、
“ 使う ” ことを念頭に置いた言葉を口にしてしまう
ガンダルフとガラドリエル。
故国の状況に思いを馳せるその心情につけこまれて、
第一部終盤の悲劇を引き起こすことになってしまったボロミア。

これらは、水鏡の場面でガラドリエルが述べた、


  One by one it will destroy them all.


の言葉通りの悲劇から、仲間を守らなければいけないという思いと、
モリアでガンダルフに諭された、
“ この時代に、指輪と巡りあうよう定められていた ” 自分の運命とを、
改めてフロドに顧みさせ、彼を、一人で旅を続ける決意に至らせましたが、
TTTでは、フロド自身が指輪に翻弄され、
付き従ってきたサムに対して、剣を突きつけてしまいます。

我に返り、自分がした事に気づいたフロドは、
さぞかし打ちのめされたことでしょうね。

PJ版の問題点の一つに、フロドとゴラムの新・旧指輪所持者を
同列に並べるかのように描く “ 演出のマズさ ” がありますが、
「 フロドにも、ゴラムのような悲劇が起こりえる可能性はあったかもしれない 」
というフロド視点での、そもそもの着眼点自体は、私は良いと思っています。
( “ 畏れ ” よりも、“ 自戒 ” として表現してほしかったですけれど )

だから、呆然としたフロドがサムに問いかける台詞、


  What are we holding on to, Sam?


は、とても痛々しい。
信じていたもの、信じようとしていたことのすべてを、
一時とは言え、完全に見失ってしまったという事実は、
この旅を支えた他者はもちろん、自身をも裏切ったことになる訳です。
自己の揺らぎがフロドにもたらした、衝撃のほどが窺えます。

この出来事を経て、再び自分を取り戻したフロドは、
それ故、RotKでは自ら歩みを止めるようなことはしません。
滅びの山の斜面を、這ってでも進み続けていく場面は、
何度観ても胸を打つものがあります。

― たとえ、その前後に納得しがたい改悪シーンがあっても 。。

こんなに長々と理屈をこねて書いていますが ( ホント、長すぎ ; )、
結局のところ、人は自分が見たいように作品を観るし、
受けとめたいように解釈するのだと思います。

<“ Go Home ”> のシークエンスも、< 滅びの罅裂 > の展開も、
ハッキリ言って、不用意な改変だと感じていますし、
雑誌記事、インターネット、DVDの特典映像などを通じて、
これらのシーンの背景を、情報として知ってはいます。

それでも、上記の改悪シーンに、表面的には見えてこないフロドの何かを
私は探し求め、深読み ( 脳内補完ともいう ) してしまうわけです。

<“ Go Home ”> では、
その手前の台詞を口にするあたりのフロドの表情から ( 特にあの瞳 )、
単純にゴラムの罠に嵌ったというよりも、
とにかくモルドールへの道をたどらなければならないという意志と、
ゴラムに対して “ I' ll kill him! ” とまで口走るようになったサムを、
指輪の害意から遠ざけなければいけないという思いとが、
綯交ぜになった結果の言葉だと解釈してしまいますし、

< 滅びの罅裂 > では、
指を噛み切られたフロドが立ち上がろうとする、その瞬間までは、
確かに使命達成のためだったということが、やはり、フロドの表情から読み取れます。

でも、原作通りのフロドだったら、こんな展開はありえません。

逆にいえば、原作との大きな違いである、
「 ホビット庄の掃蕩 」 が描かれなかったことが、
こうした改変に繋がるのでは? と考えるのは、飛躍しすぎでしょうか。

< 滅びの罅裂 > の場面を初めて映画館で観たときに感じたのは、
これは、フロドがこの旅で負った癒せない傷をイメージさせるための
改変かもしれない。。ということでした。

PJ版のフロドは、勇ましく剣を振るうこともなければ、
一段高みの存在へとのぼるような精神的変質も見られず、
あたかも、旅を通しての如何なる変化をも拒むかのように
描かれている印象があります。
つまり、一つの指輪によって、仲間たちが < 本来の自分 > を
失ってしまうことを最も恐れていたフロドは、自身もまた、
「 ホビット庄で暮らしていた、昔のままの自分であること 」 を
何よりもつらぬき続けたかった、というのがこの映画での設定なのでしょう。

そんなフロドにとって、ゴラムを殺めたも同然のこの結末は、
使命達成の喜びよりも、指輪に完全に屈したゆえの失敗として
後々、それこそ一生、彼を苛むことになるような気がします。
滅びの罅裂のふちで、そのまま手を離して落ちていった方が
よっぽど楽だった筈のフロドは、それでも、
必死に呼びかけるサムの声に応えて、彼の手をつかみました。
この決心をした時に、フロドは、失敗をも含めた自分の役割を、
真にすべて受け入れたと言えるのではないでしょうか。

だからこそ、指輪棄却の使命は果たしたものの、
最も望んでいたものを失ってしまったフロドのために、
時の流れから隔離された西の国で魂を癒す恩寵が与えられた ―
という展開で、ストーリーが繋がっていくのだと思います。

痛みとともに生きることを自ら選んだフロドが、
ラストに見せる、皆の悲しみを救うかのような笑顔は
本当に素晴らしい。

PJ版では、物語の運び方も、登場人物の在り方も、
肝心要の箇所で、原作とは異なる描き方をされていることが多く、
そんな場面にぶつかる度に、「 やっぱりダメかも 。。 」 と、
匙を投げたくなってしまうのですが、
灰色港へ向かう馬車でのビルボとのやりとりと、
船上での最後の笑顔とがあるために、
結局は、映画のフロドをまた見たくなって、
何度も何度も、映画館に足を運んでしまうんですよね。

原作初読時に味わった、
物語終盤に “ フロドに引き寄せられていく ” 感覚 ― という思い出。

ものすごく個人的で単純な理由といってしまえば、
それまでなのですが、
原作とはまったく違う形でありながらも、
PJ版でその感覚の一片を感じることができたことが、
私が、PJ版のフロドと、この映画三部作を好きな
最大の理由なのかもしれません。
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