どくだみ茶とハイネケンビール

来し方の思いや世相への老年の主張

感謝

2015-11-30 21:41:44 | 日記
先月の半ば、私の12歳上の長姉が旅立った。その昔、父の戦病死で すぐさま生活に困窮したが、戦後、母は多少英語ができたので当市に進駐してきた米軍キャンプの家族のメイドとなり糊口をしのぐことができた。しかしメイドすなわち女中は住み込み、その家族の移動に伴い小倉、芦屋(九州)に付いていくこともあり、当時13歳の長姉が女学校を中退、当時1歳の私、6歳の兄、10歳の次姉を率いて母不在の留守家族の幼い我々をけん引、守ってくれた。
勉強もよくできた次姉は長姉の説得で泣きながら高校を諦め、兄と私のために就職してくれた。そして兄は高校卒業の際、親戚の保証人をようやく取り付け銀行マンになり、家族への仕送りも怠らなかった。
私は兄の時代の就職難を見聞きしたので当時就職も容易であった工業高校に進学した。それも中学校の恩師が特別奨学生の資格試験を取るよう計らってもらったおかげでもある。
変な話であるが明治生まれの亡父や叔父達は大阪商大、東大、東北大学などいずれも高学歴であり、「子の代で高卒止まりとは変わった家系だね」と兄と笑いながら話したこともあるが、姉たちのことを思うと今では高校を卒業させてもらっただけで有難いと思っている。
次姉は13年前に亡くなり今度は長姉の死である。先日、長姉の四十九日法要も終わって思うに、母代わりに僅か13歳で頑張ってくれた姉は大げさかもしれないがドラクロア描く「自由の女神」のように旗を掲げ幼き弟妹を導くそのものであった気がする。今は亡き二人の姉に感謝するのみ。
湿っぽくなってきたが先日、孫が「お爺ちゃんはいつ死ぬの?」と来た。(多分娘夫婦から老い先短いといわれたのであろうが)私は「5年先ぐらいかな」とY電機の保証期間程度にしたが、「おばあちゃんは?」と言われた家内は「20年くらいでしょう」と言っていた。
(やはり女性は欲が深い。古川柳にも「泣きながらよい方を選ぶ形見分け」とある・・)

初冬の農家の風景にに寂しさと懐かしさがありました。



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