夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
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「わき水 絶対に守りたい!!」壁新聞に大臣賞、無力な高齢者の私でも、感動して、やがて過ぎし年に思いを馳せて・・。

2017-03-19 14:31:00 | ささやかな古稀からの思い
先程、 『Yahoo!JAPAN』に於いて、国内ニュースを見たりしていた中で、
【 「わき水 絶対に守りたい!!」壁新聞に大臣賞 益城・広安西小の地球環境クラブ 】と題された記事を見た。

私は何かと湧水(わきみず)に関して愛惜を秘めてきたので、どのようなことなの・・と思いながら精読してしまった。

この記事、西日本新聞が2017年3月18日に配信して下さり、無断ながら転載させて頂く。、

《・・「わき水 絶対に守りたい!!」壁新聞に大臣賞 益城・広安西小の地球環境クラブ

地域で環境保全活動や環境学習に取り組む「こどもエコクラブ」を対象にした日本環境協会(東京)の壁新聞コンクールで、
熊本県益城町の「広西地球環境クラブ」(広安西小学校環境委員会)が、最高賞の環境大臣賞を受賞した。
19日に都内で行われる「こどもエコクラブ全国フェスティバル」で表彰される。

壁新聞は「大好きな熊本のわき水 絶対に守りたい!!~あきらめない 広西わき水プロジェクト」をテーマにした。
             

環境委員会は5、6年の児童約25人で構成。
校区内の2カ所の湧き水を紹介するパンフレットをほぼ完成させた昨年4月に熊本地震が発生し、
この内の1カ所は、水が出なくなった。

7月にはもう1カ所の水素イオン指数(pH)や温度の調査を開始。
旧来の湧き出し口から離れた場所で、水が湧いていることに気付いたことや、
湧き水の源でもある阿蘇地方にも調査に行ったことなどを、写真やグラフ、近隣住民のインタビューを交えて壁新聞にした。

児童たちは湧き水周辺の清掃なども行っており、
壁新聞は「私たちはすばらしいわき水をいつまでも守り続けていきたいです」との言葉で結ばれている。

児童たちは表彰式に向けて、2度の震度7に見舞われた体験を踏まえたスピーチを準備中。

同小で環境教育を担当している村上茂人教諭は
「内陸と海岸部など地域の環境に応じて、防災への対応の仕方が違うことや、
熊本のきれいな湧き水は、変わらないことを伝えたい」としている。・・》

注)記事の原文に、あえて改行を多くした。
             

私は東京の調布市の片隅に住み年金生活をしている72歳の身であるが、
熊本県益城町にある広安西小学校の児童が、校区内の2カ所の湧水(わきみず)を紹介するパンフレットをほぼ完成させた中、
熊本地震に遭遇した、と初めて知った。

そして湧水(わきみず)に関して周辺、湧水(わきみず)の源の阿蘇地方などに調査したり、
湧水(わきみず)が途絶えた処、そして離れた場所で水が湧いていること気付いたりして、清掃をしていること、
読み終わった後、良き学習をされましたねぇ・・と私は感動してしまった・・。

やがて私は幼年期より湧水(わきみず)に関しては、ささやかな思いを秘めてきたので、思いを寄せてたりした・・。
             

私は今住んでいる地域に、結婚前後の5年を除き、67年ばかり住み、
戦後から今日まで急速に変貌してきたことに、何かと心を寄せたりして愛惜感もある。

私は今住んでいる近くに生家があり、1944年〈昭和19年〉の秋に農家の三男坊として生を受け、
やがて兄2人、そして妹二人の間(あいだ)で、サンドイッチのように育ったが、
何故かしらいじけた可愛げのない屈折した幼年期を過ごした。

私が地元の小学校に入学した1951年〈昭和26年〉の春の当時は、
祖父と父が中心となり、小作人だった人たちの手を借りながら、程々に広い田畑を耕したりしていた。
そして母屋の宅地の外れには土蔵、納屋小屋にあったりし、周辺には竹林、雑木林に囲まれた農家であった。
 
こうした中、この当時の周辺の情景は、京王腺の駅付近には商店街があるだけで、
周辺は田畑、竹林、雑木林など拡がり、緑豊かな村里の情景であった。
       
このような状況で、私が小学生の前半までは、父、祖父が病死されるまで、農家の児として育てられた。

私は地元の小学校に入学した頃は、独りで下校する時が多かったりした。
                       

こうした時、通学路から外れて、田圃の畦道を歩いたりし、
ある日、小雨に降られた後、七色の虹が視えて、
この世でこんなに綺麗なことがあるの・・と長らく見惚(みと)れたりした。

或いは通学路を下校する時、祖父の知人宅に寄り、
70歳ぐらいの小父さんに、白い梅の花、桜より好きです、と私は言ったりして、
変わった児だねぇ、と私は言われたりした。

或いは祖父が所有していた田んぼの中には小川に流れたり、ある処には湧水(わきみず)があったり、
この近くに150坪ぐらいの半反程度の広さの蓮(ハス)専用の水田があった。
          
私は何かと湧水(わきみず)に魅せられて、夏の季節であっても、冬の時節に於いても
コンコンと湧き出る水を、どうしていつまでも湧いてくる、と不思議そうに眺め、飽きることがなかった。
そしてこの湧水(わきみず)は、田んぼの中央に流れる小川に流れていった。

初夏になると湧水(わきみず)の周辺は、夏のお盆に使う紅紫色したミソハギの花が咲いたりしていた。
          

こうした中、私が小学生2年に父が病死し、この翌年に祖父も死去し、
生家は衰退したが、私の住む周辺は1955年(昭和30年)の初めに頃になると、
田畑、雑木林は急速に消え、もとより湧水(わきみず)、蓮(ハス)の水田も消え去り、やがて住宅街に変貌した・・。

そして、この間に曲がりくねっていた近くに流れる野川も、本格的に大きな川として護岸工事の上、
整備されたり、遊歩道や小公園も新たに設けられたりした。

こうした中で、私が農家の児として育った原景は、殆ど消え去ってしまった・・。
             

後年、私が結婚した後、家内と湧水(わきみず)を観に旅行をしたりした。
富士山の伏流水が湧き出る三島郊外の柿田川、或いは忍野八海の湧水(わきみず)を観に行ったりした。

そして伊豆地方の湯島に宿泊した時、湯ヶ島にある山葵(わさび)が植えられている処があり、
杉木立の斜面の外れに湧水(わきみず)があった。
小さな湧き水が四箇所あり、コンコンと湧き出て、やがて小川となっていた。

そして定年後、私は家内と共に国内の旅行をした時、
旅先で偶然に、湧水(わきみず)、田んぼある蓮(ハス)の花を見かけたりすると、
しばらくのあいだ見惚(みと)れながら、まぶたが熱くなってしまうことが多くなっている。
                  
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