◎末松太平事務所  (二・二六事件関係者の談話室)

末松太平(1905~1993)。
陸軍士官学校(39期)卒。陸軍大尉。二・二六事件に連座。禁錮4年&免官。

25.事件関係者の息子が実際に接した「二・二六事件の人たち」 末松太平さまのこと(その8)「初心」は失われやすい

2017年04月14日 | 今泉章利
25.事件関係者の息子が実際に接した「二・二六事件の人たち」
末松太平さまのこと(その8)「初心」は失われやすい

昭和42年2月24日 朝日新聞 文化欄 に「幻の雪」と題された記事がある。その中に、次のような記述がある

二・二六は、一世代を経て、奇妙なよみがえりを示している。三島由紀夫、利根川裕、それに武田泰淳ら諸氏の作品がそれにかかわりがあるが、むしろ当事者でありながら、そうしたムードに乗っかって、気楽な真相ばなしを流布したりする元軍人もいる。関係青年将校の一人末松太平氏が、そのような風潮に対して、、おさえがたいいきどおりをひかえ目に述べている文章を近ごろ読んだが(「論争ジャーナル」三月号)、なるほど「初心」は失われやすいものである


この文中にある「論争ジャーナル」三月号は入手できていないが、国会図書館にあることは確認したので、近いうちに入手したい。この記事の書かれた昭和42年ころは、二・二六産業と言われたほどに、実に多くの出版物が出された。
私だけが真実を知っているとか、その時、私が見た二・二六事件はこうだったとかいうたぐいのものである。私の父は「まさに汗牛充棟の如し」とよく言っていた。

末松さんは、悲惨な日本の状況を正すべく、その道をまっすぐに歩まれてきた。
真剣に日本をよくするために、身を挺する覚悟で歩き続けていた方である。亡くなる瞬間まで、事件のことから離れることはなかったと思う。だから、私のような無知の青二才にも、真剣に話をしてくださった。
88歳のお祝いをしたとき、先生は、殆ど食べ物に箸をつけられなかった。目も開けられないような感じであった。きっとおつらかったのだろう。しかし、若いものが自分の祝宴をして呉れるなら、喜んで受けようー
そういっておられるかの様だった。

宴席は、太平さま、奥様の敏子さま、相澤正彦さま、「史」を主催しておられた田々宮英太郎さま、真崎大将の薫陶を受けられた山口富永さま、国民新聞の山田恵久様、二・二六事件の後、橋本欣五郎の大日本青年党に参加した今澤栄三郎さま、そして43歳の私、だったように記憶している。
そして、いま、私は、70歳を前にして、不遜にも、末松建比古様のブログに、末松太平先生の思い出の一部をを記している。



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24.事件関係者の息子が実際に接した「二・二六事件の人たち」 末松太平さまのこと(その7)車力村の小作争議

2017年04月14日 | 今泉章利
24.事件関係者の息子が実際に接した「二・二六事件の人たち」
末松太平さまのこと(その7)二・二六事件の原点 車力村の小作争議

振り返ってみると、私が末松太平先生からお教えいただいたのは、わずか3年であります。先生が85歳の平成2年に、登戸のご自宅をお邪魔し、平成5年に88歳で亡くなられるまでのわずか3年なのであります。
にもかかわらず、何も知らない私に、事件についての神髄を語ってくださり、既に書きましたが、まず初めに先生は、車力村の小作争議をしめされ、これが二・二六事件の原点だと断言されたのです。
忙しいさなか、車力の高山神社に三回も行きましたが、何もわかりませんでした。でも、いま、こうして、このブログを書くに当たり文献を読み返してみました。

先生が大正14年、予科を卒業され、5聯隊に赴任された翌年の大正15年、青森県東津軽郡車力村(しゃりきむら)で、小作争議が起こりました。
明治憲法下、大地主制度が、江戸時代そのままにうけつがれ、明治5年、税金は現物ではなく、土地(地租)を基準に土地の値段の3%税金を取り立てる方法に代わりました。これは、
江戸時代の5公5民(税金は50%)とほとんど変わらない税率だったと、1973年(昭和48年)に発行された「車力村史」に記載されています。
具体的には、「小作料は、大正15年で54%、青森県北部では、コメの値段を勘案すると76%という「ベラボウ」な小作料が平気でとられていたと、かてて加えて、このほかに、小作人は、「礼米(感謝米)」と称して4年に一回、一年分の小作米にあたる米を地主に収め、地主から土地を新たに借りる時は、契約と同時に一年分の小作料金額を前納する。まさに残酷そのものであった。しかも、3年に一度は必ずといってよく、水害、冷害にみまわれて凶作となった。この様相を描いている書籍も少なくないが、これが50年前(注:大正末から昭和初期)の偽らざる車力のすがたであった。」とあります。

「車力村史」をもう少し引用してみましょう。

「明治に入ってからは、近在の地主たちが、二束三文で土地を買占め、殿様に代わって支配力を欲しいままにした。だから、この地方の農民の殆どは、みなこの地主の小作人として生殺与奪の権を握られていた。道端で、万一、地主と出会った際、挨拶の仕方が悪いと、文句を言われて、小作田を取り上げられた。横暴なやり方で不服であるが泣寝いりしたものである。また、いかに不当な条件であっても、それに対して、一言半句もいえない、文句をいうとたちまち田畑を取りあげられ、その日から食えなくなってしまうのだ。
この状態は、大正はおろか昭和時代になっても、少しも変わらなかった。
東北の農業は、全国的に一番立ち遅れていたが、それは、地主がはびこり、零細農民の数が多く、生血を吸われるように過酷な条件で年貢米を取り上げられるからだ。小作人から取立てた米屋金は、地主によって、今度は、商業資本や銀行資本、高利資本となって、略奪の資金に転化された。
大東亜戦争前後の強権発動と同じく、藩政時代に百姓から取れるだけのものは取った。それが次年度の凶作につながった。かくして凶作は凶作を生んだ。凶作は天災ではなくて、人災だといういい方はこんなことから生まれたのであろう。
そして、大地主たちが、どんな生活をしたか、それは西北の町や村に、今も残っている邸宅を見るとよくわかる。これらの地主たちは、終戦後のうちの大改革、要するに、農地改革で、その邸宅を人手(ひとで)に渡したものもあるが、その建物が当時の豪勢な生活振りが容易に想像される。赤レンガ塀を、大正八、九年頃、隣家の日照状況を考慮に入れず、周囲に高く廻し、お城のような家を築いて、公益を図ることもなく、自分勝手な暮しをしていたのだ。そして、彼らは小作人たちを、人間に値しない虫ケラ同然に思っていた。
農民の生活はどんなであったかは、幼児の死亡率、結核の死亡率、トラコームの罹患など、いずれも全国1,2位であったことでも想像できよう。まったくみじめな記録である。
この貧しさは、無知とからんで、彼らを一層みじめにした。小作人のほとんどは、娘を女工や女郎に売った。北海道やカムチャッカに出稼ぎに行った。そして、借金、貧困、病気の悪循環を繰り返した。」

読まれる方は、なぜトラコーマか、と思われるかもしれんせんが、小作人たちは、暖をとるために「サルケ」という泥炭を乾燥させたものをたいたのですが、これが煙がひどく、目や鼻やのどを刺激し、眼病の原因になります。
炊いていると隣にいる人の顔も見えなくなるほどの煙が出る、、とあるので、想像ができます。毎日サルケをたかなければ、凍えてしまいます。トラコーマの原因はこれだけではありませんでしたが、この地域ではこれが主な原因でした。

私たちは、ひとくちに、農村の疲弊といいます。然しそれがどんなものであったのか理解していません。私が今持っている参考文献(公式のもの、)を以下に示します。若い人にはもっともっと勉強してほしいと思います。
なぜ、二・二六事件が起こったのか、なぜあれほど優秀な軍人たちが、立ち上がったのか。いや、その前の、大正から昭和初期にかけての、経済を含めた歴史を整理してみてほしいです。

昭和6年の3月事件とはなにか。 なぜ血盟団事件は起こったのか、 同じ年の10月事件をどうとらえるのか、 昭和7年の515事件、 士官学校事件、 教育総監更迭事件、 相澤事件とは、、。
いや、一人でやるのはとても大変と思います。どうか、一次資料を使って、何人かで勉強をされるべきと思います。 一人では手に負いかねますし、珍妙な、分析が思い浮かんだりします。( 最近、信じられない想像の産物が、本やテレビなどにもよく出てくるようになりました。気になります。)

話を戻しましょう。「昭和の初期の農業恐慌」ということばもあるそうですが、私の参考にしているものは、次のようなものです。

・車力村史 昭和48年 車力村役場発行
・青森県史 資料編 近現代3  平成16年 青森県史友の会
・青森県史 資料編 近現代4  平成17年 青森県史友の会
・新編 埼玉県史 通史編5(近代1) 昭和63年 埼玉県発行
・新編 埼玉県史 通史編6(近代2) 平成元年  埼玉県発行
・新編 埼玉県史 資料編19(近代・現代1、 政治・行政1) 昭和58年  埼玉県発行
・新編 埼玉県史 資料編20(近代・現代2、 政治・行政2) 昭和62年  埼玉県発行
・新編 埼玉県史 資料編21(近代・現代3、 産業・経済1) 昭和57年  埼玉県発行
・新編 埼玉県史 資料編22(近代・現代4、 産業・経済2) 昭和61年  埼玉県発行
・各新聞資料 東北大凶作 1991年(平成3年)無明舎出版など  できれば 地方の公文書保存館にある地方紙の新聞記事などがよい
・県議会など議会の議事録
・警察や、内務省警保局資料など


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23.事件関係者の息子が実際に接した「二・二六事件の人たち」(20170407)末松太平さまのこと(その6)有馬頼義をめぐって(その2)

2017年04月11日 | 今泉章利
23.事件関係者の息子が実際に接した「二・二六事件の人たち」(20170407)
末松太平さまのこと(その6)有馬頼義をめぐって(その2)

前回私は、「実は有馬氏はもう一つ痛い反論を受けていた。それは、有馬氏の1967年(昭和42年)2月25日の投稿記事に対する、同年3月3日付けの朝日新聞文化欄の「河野司 二・二六事件の意味 前提に思想があった””ただの人殺し”は間違い」という記事であった。こちらのほうは、末松氏の反論よりも早い。が、それについては、もう少し説明をしたい。実はこの文章は、高橋正衛氏が書かれた文章なのである。」と書いた。

1995年、折目朋美氏の「雪降リ止マズ」という漫画の出版記念会に、出席したときのことである。
その6年前、高橋正衛氏は、山口富永、末松太平両氏に、「真崎組閣陰謀説は、何の根拠もない私の想像です」と自白したが、それから4年後の、平成5年(1993年)1月、末松先生が亡くなられた、そんな時期時だった。
私が、池田俊彦さんに、高橋正衛が来てますよと、多少非難めいて池田さんに言うと、池田さんは「いろいろあるが、彼は、二・二六事件そのものを日本人に啓蒙した実績はあるのだから、、」といわれた。この出版記念会は、池田さんがアレンジされたものなので、おそらく、池田さんが呼ばれたものと思う。
パーティの席上で、、ちょっと顔色が悪かった高橋氏と国家論についてしばらく話をした後、高橋正衛氏から、「今泉さん、昔、私は皆様のために頑張ったことがあるのですよ。今となっては誰も覚えていないでしょうけれど、、」と言って、28年も前の1967年(昭和42年)の朝日に掲載された有馬頼義事件の話をされた。

新聞記事の翌日の法要の後の直会の席では、多くの参列者が「二・二六事件は強姦、人殺しの類」という有馬の記事に激しく憤っていた。今から、朝日新聞に押しかけていって、抗議をしようじゃないか、声高に語る人が多かった。
当時44歳の、高橋氏は、立ち上がって、みんなに自分は朝日新聞を知っているので、どうかこの場は私に任せてほしいと、一世一代のお願いをした。何とか了解を取り付けて、自分は、賢崇寺からその足で、朝日新聞の担当に会いに行った。
自分から朝日に対するお願いは、有馬頼義の記事に対して同じスペースの反論の記事を書かせてほしいという事だった。朝日文芸部は、内部で検討をした後に、条件として、記事を書く人間は、朝日が記事を書くことを認めたレベル人でなければ認められない。このことは、暗黙の了解なのだが、「高橋正衛が書くならいいよ。」ということであった。しかし、自分の名前で出すわけにはいかない。結局、河野司さんの了解を得て、文章は、高橋正衛が書くが、筆者は「仏心会の河野司」とすることになった。

反論は、前述したように、その約一か月後の昭和42年3月3日に掲載されたのであった。以下は、その掲載文である。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「昭和42年3月3日  朝日新聞 文化欄」

二・二六事件の意味 河野司

有馬頼義(よりちか)氏への反論
二・二六事件で、いわゆる叛乱(はんらん)軍に襲撃され、そのため死をとげた、ときの内大臣・海軍大将斎藤実の縁戚(えんせき)にあたる有馬頼義氏の二月二十五日本欄「二・二六事件と私」と題する所論を読んだ。

遺族の一人として

私は有馬氏が、この事件の被害者の身内であるのと正反対の、加害者側の一青年将校側の肉親である。しかし、この事件の起きた瞬間は、有馬氏と同じく私も、直接には何らこの事件には関係のない人間である。
 そして現在有馬氏は文筆を業とし、私は一事業家である。このかぎりでは、私個人としては街の一読者として、有馬氏の所論を一人で読み、自ら感ずるところを、ただ一人胸中にとどめておくべきかもしれない。
 この二・二六事件は、もうすまでもなく、昭和史にとって重大な意味をもち、国民の生活に大きく作用した公的な事件である。私達青年将校の遺族としては、あの昭和十一年二月二十六日の明け方に起きた事件そのものは動かし得ない歴史的事実である限り、公的の場で、この事件の持つ意味を如何に論ぜられ、批判されるとも、それを静かに受け入れるであろう。
 この事件を素材とした小説、映画が書かれ、つくられても、それはあくまでも作者の事件への、その人の解釈であり、それに対する毀誉褒貶(きよほうへん)は、その道の専門家におまかせする。したがってここでは「宴」のことは私には関係ない。事実はひとつ、解釈は多様なのであるから。

確信犯だった彼ら

私たちは、わが身内、肉親の三十年前の激派の行動を全面的に肯定し、これを生涯かたくなに固持して、二・二六事件への批判をすべて拒否するものではないのである。
 しかしながら有馬氏の所論については、私は、この心がまえを破って、ここにいくつかの疑問を提示したい。
 この事件の首謀者の一人、磯部浅一の新しく発見された「獄中遺書」に次の如き一節がある。
 「吾人の行為が国賊的叛徒の行為ならば、その行動は最初から第一番に、直ちに叱らねばならぬ。認めてはならぬものだ。吾人を打ち殺さねばならぬものだ。直ちに大臣は、全軍に告示して全軍の力により吾人を皆殺しにすべきだ。大臣は陛下に上奏して討伐命令をうける可きではないか。間髪を入れず打つ可きではないか」
 御承知の通り、叛乱軍部隊は”間髪を入れず”討たれることなく四日間経過した。
 ところで叛乱将校を裁いた軍法会議では、二十六日の明け方」の殺人・放火の事実にのみ犯罪事実を想定して反乱軍将校を断罪している。それは有馬氏のいう”ただの人殺し”と断定したのと同じ態度である。
 二・二六事件は”ただの人殺しか”、つまり破廉恥罪か、それとも政治事件、確信犯罪かは重大な一点である。そして有馬氏が「革命ではなく人殺し」といっているのをみれば有馬氏の答えは明瞭(めいりょう)である。
 では、殺人罪とすれば、犯人は犯行後の現場にずっととどまっていたのである。何故”間髪を入れず討た”なかったのか。この事件は政治事件、確信犯の所業だから討てなかったのである。

国防国策の争い

さらに有馬氏はいう。「かれらをクーデターにかり立てたのは、陸軍部内の派閥抗争であり、第一師団の満州追放がきまったことについての反抗である」と。「地区軍部内の派閥闘争」とはおそらく皇道派と統制派の争いを指すものであろう。
 この争いは普通考えられる争いよりも、より根源的に国防国策をめぐる争いであった。だから高橋正衛氏の「二・二六事件」(中央公論社)は、全ページどこにも皇道派、統制派の文字がない。それでも二・二六事件は書きうるのである。まして、陸軍部内の派閥闘争がクーデターをかりたてたのなら、何故、軍の派閥に無関係の近衛文麿は、あのときこの叛乱軍将校の恩赦、特赦を画策したのか。この解答を有馬氏から聞きたい。
「第一師団の満州追放」という表現も杜撰(ずさん)?きわまる。戦時でない平常時の師団の海外駐留の手続き、国防方針の決定はほぼ二年はかかるのである。この点は。その衝に当った旧軍人にたしかめられたい。
 最後に重要なこと。「私は、二・二六事件は革命などというようなものでなく、ただの人殺しか強盗・強姦のたぐいだと思っている」という表現。「たぐい」というのは有馬氏が、この事件をとらえる抽象的意味として使用したと思う。しかし私は、すでに悪魔の意味をもつこのような言葉使用しなくては自分の悲憤と願望を表現できない文筆家を軽蔑(けいべつ)する。
まして、二・二六事件は、絶対にたとえ抽象的にせよ、このような言葉を浴びせられる事件ではない。テロリズムは「思想の争い」を直接暴力で解決せんとするから当然批判されるのである。しかし「思想」が前提であるその一点を、肉親への悲劇という表現からとりさるべきではなかろう。

革命の敗者と見る

襲撃のひどいやり方も斎藤実に関しては、有馬氏の目撃した事実を認めよう。しかし高橋是清については当時の流言以外、私としてはわからぬ。有馬氏に確証があればうけたまわりたい。しかし青年将校は今日生きている我々がどう解釈しようとも”革命”を実行しようとして決起したのである(計画の不徹底、幼稚さといわれることは別として)。有馬氏はこのことはあくまで認めないのであろうか、、、、、、、。
有馬氏の所論ののった同じ二十五日の読売新聞の夕刊に中野好夫氏は書いている。
「フランス革命の末期、、、ひどいときには一日五十人以上の大量処刑を行なった日さえあるという。厳たるこれは革命の事実である。だが今日ゴロリと血染めの生首写真(かりにあるとしてだが)だけをぬき出して「どうみるか」と問う酔狂者はまさかいまい。これも事実、しかもおそるべき異常事態にちがいないが、フランス革命そのものの歴史的意味はもっと奥のところにあることはだれでも知っているからであろう」
もちろん、二・二六事件とフランス革命は世界史的価値において全然ちがう。ただ革命という一瞬は美化すると、おとしめるとにかかわらず血染めの生首だけぬき出して「どう見るか」とは言えないのである。
二・二六事件の青年将校は死をもってあがなった革命の敗者であったのである。

**************

筆者は仏心会(二・二六事件処刑者遺族の会)会長。湯河原の旅館に牧野伸顕氏を襲撃し、十一年三月六日自決した事件首謀者の一人、河野寿元大尉の実兄。



写真はちょっとみにくいが、右が2月25日の有馬氏の記事、左が3月3日の反論。いずれも黄色の枠で囲ってある。

(備考)なお、高橋正衛氏は、1994年(平成6年)、中公新書「二・二六事件 増補改訂版」を出された。真崎大将の件はそのままだが、増補に二つの問題提起がある。一つは、軍隊のける命令の問題で、
もう一つは、大臣告示は、ただ単に紙切れであったのか、ということである。また、竹山道夫氏の「昭和の精神史」についても触れられている。「昭和の精神史」は、物静かだった父が、几帳面に何本も赤線をひいていた本である。
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22.事件関係者の息子が実際に接した「二・二六事件の人たち」(20170406)末松太平さまのこと 有馬頼義をめぐって(その5)

2017年04月05日 | 今泉章利
22.事件関係者の息子が実際に接した「二・二六事件の人たち」(20170406)
末松太平さまのこと 有馬頼義をめぐって(その5)

慰霊像が建立されてから二年後の1967年(昭和42年)2月25日、「朝日新聞」「文化」欄に、「二・二六事件と私」と題して、”事件は「革命ではなくて人殺し」”という記事が掲載された。筆者は、斎藤実内大臣の親戚、1954年(昭和29年)に直木賞を受賞、久留米藩主家の第16代当主である有馬頼義(ありまよりちか)氏。氏は、事件は「人殺し、強盗、強姦のたぐい」と決めつけたのである。
有馬氏はさらに週刊新潮に「二・二六暗殺の目撃者」を連載し、1970年(昭和45年)に、一冊の「二・二六暗殺の目撃者」として出版した。

週刊新潮の連載が終わるころ、末松太平さんは、長文の反論を有馬氏に送っている。有馬氏に送った手紙そのものは見ていないが、71年3月の「情況3」にのった「二・二六は革命だったか」には、その内容が書かれていると思われる。その内容は、1980年に発行された「軍隊と戦後の中で」「私の昭和史」拾遺 のなかでも見ることができる。

有馬氏の”勉強した歴史”には多くの間違いがあり、それを、末松さんはひとつづつ、ぐさりぐさりと指摘し、さすがの直木賞作家もうんざりしたとみえるが、なるほど、批判をすることというのは、このように書くのだなあとと今でも感銘深く思っている。
なお、以前に書いたと思うが、昭和41年の三島由紀夫の「二・二六事件と私」にも、末松さんはコメントを与え、軍隊を知らない三島は、文中、「末松さんの指摘に基づき小説を修正した。」と書いている。


さて、有馬氏は「二・二六暗殺のの目撃者」のあとがきで、「末松太平氏から長文の反論を受けた。末松太平氏の反論は、主として、二・二六事件が、人殺しでなく革命であったという趣旨のものである。ここでもまた「暗殺」とか「目撃者」とかいう言葉が、問題にされているが、これは週刊新潮のつけた題名で、はからずしも、私は、利根川君と同じ運命に立たされ、受けずもがなの攻撃を受ける結果となった。」と釈明付き文章を書いている。

実は有馬氏はもう一つ痛い反論を受けていた。それは、有馬氏の昭和42年2月25日の投稿記事に対する、同年3月3日付けの朝日新聞文化欄の「河野司 二・二六事件の意味 前提に思想があった””ただの人殺し”は間違い」という記事であった。
こちらのほうは、末松氏の反論よりも早い。が、それについては、次回説明をしたい。実はこの文章は、高橋正衛氏が書いた文
章なのである。そのいきさつも含めて。

 



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21.事件関係者の息子が実際に接した「二・二六事件の人たち」(20170327) 末松太平さまのこと(その4)慰霊像の碑文「由緒書き」

2017年03月27日 | 今泉章利
21.事件関係者の息子が実際に接した「二・二六事件の人たち」(20170327)
末松太平さまのこと(その4)慰霊像の碑文「由緒書き」

外は雨が降っています。なかなか投稿ができませんでした。書けるようで、書けない。わかっているようでわかっていない。忸怩たるものを感じています。
私は、本をじっくりとは読んではいませんでした。正確には、日常の些事におわれて、じっくりと読むことができなかったのです。

いわんや、同じテーマを語っている他の本との比較や、書かれている本を時系列でなど考えることなどは、できていませんでした。 でも、やはり、頼りになるのは、河野司先生や、末松太平先生、池田俊彦さんなど、お顔が浮かんでくる方たちの本ですね。また、もちろん、父や常盤さんや鈴木(赤塚)さん、北島さん、麥屋少尉、たちのお話も大切な資料になっています。
末松さんのこのブログに投稿するようになって、改めて、山のような本や資料を、じっくりと、様々な人の表情を思い浮かべながら、あせらずに、年表を作り、それを眺めながら、以前よりも少し、整理しながら考えをすることができるような気持ちになっています。

昭和40年にたてられた渋谷の慰霊像、正式には「二・二六事件記念慰霊像」(二・二六事件慰霊像)といいます。渋谷宇田川町の建立に当たっては、責任者河野司、相談役末松太平、常勤小早川秀治、会計監査藤田俊訓 田村町にある河野先生の三昭化成の一室の準備事務所で行われました。像に向かって前面の「慰霊」というのは「像名」といい、曹洞宗館長、髙階龍仙禅師の染筆によるものです。側面に大きくはめられているのは「由緒書」といって、末松太平さまが書かれたもので、河野先生の名前となっています。「由緒書き」は、河野先生の友人で日展の審査員のである大阪の花田峰堂師が揮毫されました。
以下は、碑文に書かれてある通り書き写したものですが、花田先生の書かれた楷書の原文のままなので、すこし読みづらいかもしれません。なお、花田先生の楷書と草書の原文は、今でも大切にを保管しております。

末松太平さまが、「由緒書き」の最終案を書きあげて、河野先生に見せたところ、河野先生から「何も加えるところはないですね。そして何も削るところはないですね。」といわれたのだと、私に話されたことを今でもはっきりと思い出します。
堂々たる「由緒書」は、見事な、末松太平さまの傑作と思っています。

昭和十一年二月二十六日未明、東京衛戍の歩兵
第一、第三聯隊を主体とする千五百余の兵力が、
かねて昭和維新断行を企圖していた、野中四郎
大尉ら青年将校に率いられて蹶起した。
當時東京は晩冬にしては異例の大雪であった。
蹶起部隊は積雪を蹴って重臣を襲撃し、総理大
臣官邸陸軍省警視廳等を占據した。
齋藤内大臣 高橋大蔵大臣 渡邊教育総監は
此の襲撃に遭って斃れ、鈴木侍従長は重傷を負い
岡田總理大臣牧野前内大臣は危く難を免れた。
此の間、重臣警備の任に當たっていた警察官の
うち五名が殉職した。
蹶起部隊に對する處置は四日間に穏便説得工
作から紆余曲折して強硬武力鎮壓に變轉したが
二月二十九日、軍隊相撃は避けられ事件は
無血裡に終結した。
世に是を二・二六事件という。
昭和維新の企圖壊れて首謀者中、野中、河野
両大尉は自決、香田安藤大尉以下十九名は軍法
會議の判決により東京陸軍刑務所に於て刑死した
此の地は其の陸軍刑務所跡の一隅であり、刑死した
十九名と是に先立つ永田事件の相澤三郎
中佐が刑死した處刑場跡の一角である。
此の因縁の地を選び刑死した二十名と自決二名
に加え重臣警察官其の他事件関係犠牲者
一切の霊を合せ慰め、且つは事件の意義を永く
記念すべく廣く有志の浄財を集め事件三十
年記念の日を期して慰霊像建立を發願し、
今ここに其の竣工をみた。
謹んで諸霊の冥福を祈る

昭和四十年二月二十六日
佛心會代表 河野 司 誌



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20.事件関係者の息子が実際に接した「二・二六事件の人たち」(20170316) 末松太平さまのこと(その3)

2017年03月15日 | 今泉章利
20.事件関係者の息子が実際に接した「二・二六事件の人たち」(20170316)
末松太平さまのこと(その3)

私が登戸の末松さまをお邪魔した1991年(平成3年)は、澤地久枝の雪は汚れていたが、あまりにも、でたらめで、おまけに、其の指南をしたのが、高橋正衛ということがはっきりしたころで、末松さまのお怒りは尋常のものではありませんでした。
お話したように、中央大学からみすず書房に入っていた高橋正衛氏は、中公新書のなかで、何の根拠もなく、青年将校を突き動かしたもののの一つに「真崎の野心」ありと想像し、もっともらしい「真崎陰謀」を想像で書き40版(50万部)も売り続け、日本中が、その「真崎黒幕説」に踊らされていた時期でした。

以下は、末松さまが21011年7月13日に書かれた、筆者あてのお手紙です。

「七月は悲しい三日と十二日       昨日は命日でした。
相澤中佐の唯一人の男の子正彦君から昨日のことの電話がありました。
高橋正衛が臆面もなく法要に現れたとの事でした。二月二十六日にも現れたと聞き、こんど法要に現れたら「お前さんなんかの来るところじゃないよ」と云ってやれと、正彦君には云ってあったのに、何も云ってやらなかったようです。
貴兄が「史」を直接入手されるようになってご尊父の方には拙文の手当てを除きました。コピーでも送るようにして下さると有難く思います。
ご尊父のところに「邦刀遺文」という本が届けられていると思います。邦刀というのは對馬勝雄中尉のことで對馬中尉伝記と云うわけです。若し届けられていたら機を見て御一閲ありたし。
拙文「津軽義民伝」で紹介してある本がやっと完成したわけです。
この前進呈した「時計は止まった針は落ちる」はゲーテの「ファウスト」のクライマックスにある、ことばです。この説明はまだしてありませんが、岩波文庫の森林太郎訳の他二、三程ファウストは刊行されていますから、お読みになり自得されれば十分ではあります。
お中元のお礼を云うつもりで筆を執り、それが後になりました。有難う御座いました。
こんど病院に健診にゆくのは、九月十二日です。これ以外は家にいますから、何時なりとお遊びにお出で下さい。
7.13 末松
今泉様

1936年7月3日は相澤中佐処刑の日、9日後の7月12日は15士の処刑の日でした。夫々の処刑は、宇田川町の衛戍刑務所内で行われました。末松さまによれば、信念をもって事に当たるのが武士の精神で、相澤さんの声はひときわ大きかった。堂々たる声で「天皇陛下万歳」を叫ばれたといわれておられました。空砲のパンパンという音の中に、ピューンという実弾の音が聞こえたといわれました。 なお、処刑の前には、看守がこっそり処刑が行われる旨教えてくれたそうです。
父も獄舎におりましたが、私に相澤さんのときの大音声の話をするときは、目が吊り上がって「それは大きなお声だった」と言っていました。


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19.事件関係者の息子が実際に接した「二・二六事件の人たち」(20170314) 末松太平さま(その2)三島由紀夫「英霊の聲」から

2017年03月14日 | 今泉章利
19.事件関係者の息子が実際に接した「二・二六事件の人たち」(20170315)
末松太平さまのこと(その2)三島由紀夫「英霊の聲」から



三島由紀夫さんの「英霊の聲」(昭和41年発行、河出書房新社)に「二・二六事件と私」という文章が収められています。
その中に、末松太平さまのことが書かれているので、その部分を抜き書き致します。三島由紀夫さんが末松さまのどのように見ていたかを知るうえでの参考になればとおもいます。

QTE

P226
戦時中は日の目を見なかった二・二六事件関係の資料が、戦後次々と刊行され、私が「英霊の聲」を書き終わった直後に上梓された「木戸幸一日記」と「昭和憲兵史」(未発表の憲兵隊調書を収載)を以て、ほぼ資料は完全に出揃ったものと思われる。壮烈な自刃を遂げた河野寿大尉の令兄河野司氏の編纂にかかる「二・二六事件」と、末松太平氏の名著「私の昭和史」は、なかんずく私に深い感銘を与えた著書である。


P232
..かくて私は、「十日の菊」において、狙われて生きのびた人間の喜劇的悲惨を描き、「憂国」において、狙わずして自刃した人間の至福と美を描き、前者では生の無際限の生(なま)殺しの拷問を、後者では死に接した生の花火のような爆発を表現しようと試みた。さらに「英霊の聲」では、死後の世界を描いて、狙って殺された人間の苦患の悲劇をあらわそうと試みた。
二・二六事件という一つの塔は、このようにして、三つの側面から見られたのであるが、まだ一つ側面が残っている。それは狙って生きのびた人間のドラマである。しかし私はそれについてもはや書く気がない。なぜなら、その課題は末松太平氏の「私の昭和史」の、バルザックを思わせる見事な最終章「大岸頼好の死」によって、すでに果たされているからである。


P233
また、「憂国」を次のように改訂し、以後これを底本とする。
「近衛輺重兵大隊」を「近衛歩兵第一聯隊」と改め、「中尉は享年三十一歳」を「三十歳」と改め、中尉の帰宅の件で、「軍刀と革帯を袖に巻いて」を、「軍刀を抱いて」と改め、中尉の遺書の、「皇軍万歳 陸軍中尉武山信二」を。「皇軍万歳 陸軍歩兵中尉武山信二」と改めた。
 この改定は、当時の実情をよく知る加盟将校の一人(当時陸軍歩兵大尉)末松太平氏の助言に依ったものであるが、「輺重兵」の改訂については、私自身多少未練があった。

UNQTE

なお、輺重(しちゅう)とは、いまでいう補給部隊、logisticsのことで、きわめて重要な役目であるのですが、当時は、誤解されていたようで、父などは、陸軍士官学校の将校生徒は、ほとんどが、「歩兵少尉」になることを熱望しており、なれなかったものの落胆は、みていられないぐらいとはなしていました。(この辺りは、澁川さんも同じような感じでありました。また、兵隊とともに勤務できない、事務屋になり下がった陸大卒業組、天保銭組は、本当に馬鹿にされていた様です。)
なお、輺重の重要性ですが、二・二六事件で、食料を27日夜届けたのは、第一師団経理部衣糧課長だった紺田少佐の独断で行われたことが昭和50年2月27日の新聞に載っていました。紺田少佐は、出動部隊の食料が一日分しかないので、300人が1週間食べられるだけの、米、麦、野菜、魚、肉などトラック一台分を届けるように命じたとのことです。後刻、紺田少佐は、取り調べを受けますが、兵たちが、空腹のあまり民家でも襲ったら大変であり、たとえ厳罰に課せられてもとの覚悟のもと、食料を送ったと説明し、処罰を受けることはありませんでした。
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18.事件関係者の息子が実際に接した「二・二六事件の人たち」 末松太平先生のこと(その1)  

2017年03月13日 | 今泉章利
18.事件関係者の息子が実際に接した「二・二六事件の人たち」(20170313)
末松太平先生のこと(その1)

私が千葉市、登戸(のぶと)にある末松先生のお宅を訪問したのは、平成2年、1990年の5月13日のこととであります。それから、27年という月日が過ぎました。感覚的には、つい昨日のような気がしているのに、30年近くもたってしまっていることを思い改めて呆然としております。そのとき、私は、40歳でした。先生は85歳。誰の紹介も受けずに、いきなりお手紙を差し上げたのに、すぐ地図付きの返事を頂きました。
三回目の目の手術を慶応病院でするから、事前に連絡がほしい。過去の二回の手術は、網膜剥離の手術だったが、今回は白内障だからそんなに大変ではない、と書かれていました。
地図には、西千葉駅を西友デパート側の道を5分ほどまっすぐ下り、京成の架橋をわたって右に曲がる、、とありました。

お宅にお邪魔すると、先生は、私の顔を覗き込むようにごらんになられ、「最近目が見えなくなっているが、君はお父さんに似ているね」といわれました。

何か、絵の道具が山のようにのっている大きな机を前に白髪の先生が座り、私は、かしこまって、何を話していいのかわからず、それでも、思い切って次の質問をしました。
「先生、二・二六事件って何でしょうか。」と聞いたのです。 すると、先生は言下に「正義の味方だ。」とはっきりといわれました。
私は、続けて「なぜ人を殺したのですか。」と尋ねたら、間髪をいれずに、「それは立場だ」といわれました。一点の曇りもためらいもない、瞬時に頂いた答でした。
この、問答は、私にとってずっと大切なものとして、ずっと心の中にあり、枝葉をつけながら少しずつ育っている気がしています。



先生は、私のような何もわかっていない闖入者に、そのあといろいろと話をしてくださいました。
「君はカレルの「人間この未知なるもの」を読んだか。「フランクリン自伝」を読んだか。ゲーテのファウストを読んだか。澤地、匂坂、中田の作り上げた「雪は汚れていた」「消された真実」で、真崎が事件を利用して組閣をたくらんだという話は、でたらめだ。なぜ、事件の話をゆがめるのか。」などとといわれました。
二年前の1998年の「雪は汚れていた」に対して、先生は、田々宮英太郎さんが主宰する雑誌「史(FUMI)」66号(1988年)に、「羊頭をかかげて」と題する論文を投稿。匂坂資料を太鼓をたたいて朝日とNHKで喧伝したあげく何も出てこなかった。など、多くのお話をしていただき、だんだん早く大きくなってくる先生の声に、目を白黒して聞いていた小さな自分を思い出します。

また、大正15年に青森県東津軽郡車力村で起こった小作争議のコピーを渡され、「これが、二・二六事件の原点だよ」といわれました。そのコピーには、胸まで浸かって田植えをしている小作人の写真がありました。



また、死刑が確定した對馬勝雄さまの田舎館(いなかだて)の叔父様宛の手紙を示され、「皆々様、勝雄は立派に皇国に尽し申し候、村の鎮守様に対しても面目相立候。私は絶対に死に申さず皇国と共に無窮に御座候、、」と書いてありました。
末松太平先生は、東北の苦しく貧しい農民たちの苦しさこそが二・二六事件の原点だといわれたのでした。
先生のお宅を辞去するに当たり、持参した「私の昭和史」(昭和38年2月20日 第1刷)を差出し、何か書いてくださいとお願いしたら、表紙の裏にサインペンで「尊王討奸 末松太平 今泉章利様」 と大きく書いてくださいました。

なお、私の把握している末松太平先生の著作は次の通りですがもっとたくさんあると思います。参考まで。

1963年 昭和38年(先生58歳) 私の昭和史
1965年 昭和40年(先生60歳) 二・二六事件慰霊像碑文原案(碑文は仏心会代表河野司名にて記す) 
1966年 昭和41年(先生61歳) 少尉殿と士官候補生(追想 大岸頼好 41.3)
1971年 昭和46年(先生66歳) 二・二六事件は革命だったか(情況1971.3、有馬頼義反論)
1980年 昭和55年(先生75歳) 軍隊と戦後の中で 「私の昭和史」拾遺 

1986年 昭和61年(先生81歳) ベストンの話(小田急建材)
1988年 昭和63年(先生83歳)  史66号 羊頭をかかげて
                史67号 「匂坂資料」信者への抗議
                史68号 表紙に寄せて(時計は止まった。針は落ちる)
1989年 平成元年(先生84歳)  史69号 末松太平 表紙に寄せて
          史70号 二・二六事件断章(その一)真崎大将の組閣説始末記
           史71号 津軽義民伝
1990年 平成2年(先生85歳)   史72号 二・二六事件断章(その三) 正義直諌の詔
           史73号 二・二六事件断章(その四) 生れ年としての明治の年号と、士官学校の期は、一致するかしないかの話
1991年 平成3年(先生86歳)   史74号 二・二六事件断章(その五) 事件第一報
           史75号 二・二六事件断章(その六) 翹望(ギョウボウ)
           史76号 二・二六事件断章(その七)岩淵国太郎中尉の死
           史77号 二・二六事件断章(その八)再び岩淵中尉の死について
1992年 平成4年(先生87歳)   史78号 二・二六事件断章(その九)三たび岩淵中尉の死について
           史79号 二・二六事件断章(その十)獄内人間模様 
1993年 平成5年 1月17日 ご逝去
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松本一郎先生のこと  

2017年03月12日 | 今泉章利



末松建比古さま

次のようなコメントを頂きながら返事が遅れました。

拝復 今泉サマ。
法要終了後、挨拶もせず帰ることになってしまいました。まあ、あの場の雰囲気では、サッサと帰るしかありませんね。
松本一郎氏の訃報には驚きました。水上源一氏の遺児サン+今泉サン+松本教授サン+私=4人で、防衛庁関連の“軍事資料室=正式名称ではありませんね”を訪れた日が懐かしく思い出されます。


はい、あれは2004年のころでした私が55歳、宣子さんが70歳を過ぎた頃でしょうか。目黒の防衛研究所でした。確か、いま、市ヶ谷のほうに移っているようです。いつか行きたいと思っています。
あの時、宣子さんから、水上源一さんのことを調べてほしいといわれ気楽な気持ちでいいですよ、などと言ってしまいました。でもそのおかげで、東京地検の閲覧許可を頂いたし、事件のことを学ぶきっかけになりました。
松本一郎先生は、あれからもいろいろとお世話になりました。何といっても二・二六事件裁判の研究を99年に出され、熊本幼年学校のDNAをしっかり受けておられた先生でしたから、御研究、御執筆やお酒も大したものでした。
お具合が悪く、お見舞いに伺い、2016年8月16日に、85歳で亡くなられました。

教え子であり、先生の二・二六事件をはじめ御研究にご尽力された、緑陰書房の荒川様から、昨年の末、先生の遺された資料を私に頂きました。荒川さまは、先生の遺言に従い、ご遺族から先生の資料を譲り受け取られたものですが、私を信頼してすべてを私にくださったものです。
ファイル二冊分くらいの資料で、二・二六事件の判決書(はんけつがき)関連と内務省警保局関連の若干の資料でした。

先生の書かれたもので、私が存じ上げているものは次の通りです。

1993年 史84号 東京陸軍軍法会議についての法的考察  (先生62歳) 
1994年 史85号 東京陸軍軍法会議についての法的考察(続)
1995年 史86号 死を我等に -軍法法廷の北一輝と西田税ー
    史88号 魔王と呼ばれた男

1998年 史97号 安藤大尉の生と死 -信義と情誼のはざまでー  
1999年 二・二六事件裁判の研究 (緑陰書房)
2000年 史102号 幼年学校の教育 
2001年 史105号 磯部・真崎対決の真相 -二・二六事件裁判記録ー
     史107号 真崎大将の人間像(上)
2002年 史108号 真崎大将の人間像(下)  
2003年 史111号 池田俊彦氏を偲ぶ 
    史112号  磯部の杜を訪ねる

2009年 「陸軍成規類集」、森松俊夫監修  (緑陰書房)
2011年 夢幻のごとく 野田謙吾中将と昭和期の陸軍 (緑陰書房)
2012年 二・二六事件判決書綴、訴訟記録目録 出版 (緑陰書房) 

2014年 道程 松本一郎著作集 (緑陰書房) (磯部、真崎その他記事有)

2016年 ご逝去 85歳 (注:法務省、訴訟記録を国立公文書館へ移管決定)

先生は、62歳の1993年から、二・二六事件の研究を始められたと思います。独協大法学会にも投稿されていたようです。しかし、「史」に投稿した記事が素晴らしいと思います。裁判資料に基づく一級の研究成果であります。
これから研究される方には、入手しづらいものもありますが、緑陰書房からだされた「二・二六事件裁判の研究」や「道程」は入手可能ならば、ぜひお読みすることをお勧めします。

末松様。私の記憶を呼び起こしていただき、まことにありがとうございました。
また、2010年ころだったか、、故澁川明雄さんと先生に、訴訟記録の公開についてご協力のお願いしたこともありました。先生は、難しいですけれど、、私のできることはしてみましょうといわれました。私は2012年の出版は、それを受けていただいたのかとも思っております。
私の、一郎先生への一番の心残りは、国会図書館で、ばったり会い、先生が、これから飲みに行かないかトお誘いを受けたとき、何かの用事で、お断りしたことでした。末松様、私は、膝が悪くてウォーキングはできませんが、元気なうちに何処かでお目に書かれますよう願っております。父上のお墓詣りも希望しています。

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今泉のブログ(たった一人の法要)に対するコメントへの御礼(2件)

2017年03月10日 | 今泉章利
(1)伊牟田さまのコメント
参加させて戴きありがとうございました (伊牟田伸一です。)2017-03-05 20:56:07 
先日は法要に参加させて戴きありがとうございました。
とても貴重な体験でした。 226事件は決して風化させてはいけないと改めて思いました。 今は仕事が忙しく時間が作れませんがいつかご尊父のお話を伺う事が出来れば嬉しいです。

今泉御礼:お目に書かれて光栄でした。ゆっくりお話したいですね。伊牟田さまのお気持ち、どうか大切にされてくださいませ。どんなことでも、ご自分の納得いく形で向かい合ってください。
歴史家の、あるいはルポライターの歴史でなく、
お墓から見えてくる体温を感じるような、お線香の香りがするような、「我々の先輩の方たちの出来事」を、実際に感じてください。いつの日か、伊牟田さまが語り部になるのです。
頂きました文章拝読いたしました。これを一里塚に精進されますことをお祈りいたします。
仕事はお忙しいでしょう。みんなお金も限られています。だから、メールや、どこへかけても課金の安い「カケホーダイ」のような今の道具を使ってください。
ご努力を期待します。一緒に頑張りましょう。岐阜から来られた加藤様にもよろしくお伝えくださいませ。

(2)AZU様のコメント
Unknown (Azu)2017-03-05 22:09:24今泉様
82回忌法要を恙無く終えられた由、よろしゅうございました。その数日後、お父様の23回忌のために再び賢崇寺様を訪ねられたのですね。
小雨にけむるお墓のお写真にも、あたたかなお気持ちが表れているように思われます。
たった一人の御法要、、お父様始め、お母様、お祖父様もきっと御一緒にいらして、さぞやお喜びのことと存じます。
故人への供養は偲ぶこと、と聞いたことがございます。静かな御本堂で、お父様とゆっくり向き合うことが叶い、良き御法要でございましたね。
昭和10年10月に少尉となられ、翌11年2月26日に事件とは、僅か5ヶ月後のことでしたか。部下の方にメンタムを塗っておられたお父様。大切な部下の方々の為に、意を決せられたのですね。
まさに、今泉様にしか、お出来にならぬこと。お父様を通して、事件の真の意味を、これからもお書きいただければと願っております。
その為にもどうか、くれぐれも、ご自愛くださいますよう、心よりお祈り申しております


今泉御礼:AZUさま 身に余るお言葉ありがとうございました。私は、軍隊のことはよくわかりませんが、少なくとも私は父や同期生の方から聞いたことは書けます。
日本の軍隊は暴力集団ではありません。決められた規律のもとに、国のために身命を賭して軍務に励む、大組織でありました。しかし、日本の軍隊で一番大切なものは、天の陛下を中心とする「一君万民」の考え方でした。
これがあったからこそ、旧日本の軍隊は「皇軍」でありました。国を思う気持ちは同じです。父のようなノンポリに、公判で、ある法務官が「お前も(事件の)同志だろう」といわれました。法務官は、
「お前も極刑に値する一味だろう」という意味です。父はこの時、「同志とおっしゃるなら、そこにいらっしゃる判士(士官学校出身)もみな同志だと思います。天皇陛下のため、みんな同じ志を持っている」と言い返したで、有罪になったと思う」と昭和56年2月號の「歴史と人物」82ページに書いてあります。

父の公判は20回目5月26日のことでした。父は私に、「このことを話したとき、法務官以外の判士や裁判長(士官学校出身)はみんな涙をぬぐっていた」といっていました。青年将校たちの心情が、士官学校出身の判士、裁判長にはよくわかっていたのでしょう。同じ軍服を着ているのでわかりにくいですが、陸軍法務官は、所謂「法律屋」で、軍隊をよく知らない人たちです。此の裁判では、何とか有罪にしようとする、主に私立大学出身の「法律軍人」」でありましたから、軍隊に流れている何よりも大切な、そして日本の軍の根幹をなした[天皇陛下のための軍人]という意識が希薄で、いつか話しますが「悪い命令だったらお前は従うのか」というバカな質問を出してきます。当時日本の陸軍においては、中隊長の命令は天皇陛下の命令で、絶対であり、部下は中隊長に従い、逆に中隊長は、部下の責任はすべて自分がとる」という考えでありました。しかし乍ら、そのような発言が、「法律軍人」である法務官の口から、裁判の席で突然なんの法的根拠も示されず、これまで行われてきた伝統的事実も無視され、思い付きのように、法務官から出されました。日本の軍隊の統制は、これから崩れてゆきます。日本の軍隊の自殺はここから起こっていった、と、言っている人もいます。私もそう思います。

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二・二六事件 全殉難諸霊 八十二回忌法要 と いくつかのご報告

2017年03月10日 | 今泉章利



二・二六事件 全殉難諸霊 八十二回忌法要

早いもので3月も10日になってしまいました。
今年は、末松さんがお見えになり、また、久しぶりに森田(折目)朋美さんが明るい笑顔でお見えになり、とても心がみたされるような法要でした。
安田さんも大変お喜びでした。泉下の皆さまも、特に池田俊彦さまなどは、にっこりと微笑まれたような気がいたします。

法要後、仏心会より、東京地検にあった「裁判資料(公判資料)」が国立公文書館に移管され、今年中の公開に向けて準備中であることが報告されました。
また、二・二六事件裁判資料を法学者の立場から研究された故松本一郎先生(元裁判官、独協大教授、熊本幼年学校卒)が、事件の方たちのお気持ちに感銘され、ご自分のお墓を賢崇寺に立てられたお話もされました。

このブログでお目にかかった伊牟田さまや、新しく安藤大尉のことを研究された佐川仁一さまともご挨拶を致しました。また、慰霊像の奉仕を申し出てくださった方もおられました。心から感謝しております。

これからも、様々な視点で、様々な方たちが事件を研究してくださることが大切と思いました。私自身も元気なうちになるべく多くを、書き残しておきたいと思っています。

 


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水上さん関連覚え書き

2017年03月10日 | 今泉章利
水上さん関連覚え書き

まだ、書きたいことがいくつもありますが、先に進めないので、とりあえず、順不動ですが、覚えを書いておきたいと思います。

なお、26日に、私がこのブログに書かせていただいた記事を印刷製本し、井上宣子様にお送りしましたところ、宣子様より、ご丁重なるお礼の言葉を頂いたほか、この記事を読んで、母から聞いたいろいろなことを思い出したので、
別途お話をしたいとの有難いご連絡がありました。


書けなかった覚えとは次のようなものです。


(1)河野大尉の遺書

(2)皆川巡査のお墓詣り、ご遺族のお苦しみ

(3)襲撃された家屋の様子(東京地検の資料から私がスケッチしたもの)

(4)襲撃撤退時の最後の発砲と牧野侯爵の救出   (誰も訂正しなかった高橋正衛氏「二・二六事件」の明らかな誤謬記事)

(5)伊藤屋旅館と光風荘  牧野峯子氏と天野屋旅館 

(6)牧野伸顕侯爵の避難していたところ

(7)水上さんの「救国学生同盟」と「捨て石救国論」

(8)山内一郎氏と歩一栗原中尉

(9)埼玉挺身隊事件と水上源一

(10)遺された遺族

(11)当時の社会の姿 富める者と貧しきもの

(12)日本の政治 普通選挙の実施の現実

(13)日本を取り巻く世界の状況 軍事、帝国主義、清国崩壊の中国

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たった一人の法要 近衛歩兵三聯隊少尉 今泉義道23回忌

2017年03月04日 | 今泉章利
たった一人の法要

2月26日(日)の82回忌の御法要は、皆様のおかげをもち、滞りなく終えることができました。心からの感謝の気持ちで一杯でした。

それから数日たった3月2日(木)、小雨の降る賢崇寺で、私は、たった一人で法要をしていただきました。木版がなり、本堂に入ると、住職の藤田俊英さまからのご説明が、ありました。

「ただいまから青雲院禅心義道居士、故今泉義道さまの第23回忌の法要を行います。導師(藤田俊孝、前住職さま)の入場を待ち、入場の際には合掌にて迎えます。正面の座についた導師の合掌礼拝にならい、礼拝をお願いします。
本日は、読経のあと修証義第5章「行持報恩」を共にお読みします。そのあと、ご焼香になります。香のかおりが、わが身を清め、そして、立ち上る香は、私たちの思いや願いを亡き人のもとに届けてくれるといわれています。
身心を正し、心を静め、故人の冥福をお祈り頂きたいと思います。」たった一人の私に対しても、普段と何ら変わることなく、淡々とご説明をされ、御導師のご法要が引き続き行なわれました。
私の家は、江戸時代から賢萗寺が菩提寺であるため、子供のときから父に数えきれないほど連れられてきた居りますが、今回、この静かな本堂で、父と初めて、ゆっくりと再会したような気がしました。懐かしくてむねが熱くなりました。

今から22年前の1995年平成7年3月2日、父、今泉義道が、亡くなりました。81歳でした。

父は、只の一度も、私に怒ったことがありませんでした。いつも春風駘蕩、仕事一途で、几帳面で、おしゃれで、綺麗な整った字を書き、お風呂の好きな父でありました。
生意気盛りの私は、それがなんとも歯がゆくて反発を感じたものでしたが、父や事件関係者の方たちから、いろいろと事件のことをお伺いし、自分も、68歳の齢を迎えようとするこの頃になって、改めて、父の気持ちがわかる様な気がしています。

父は、鎌倉師範学校付属小学校卒業後、神奈川県の湘南中学1年をおえて、東京陸軍幼年学校に入学、47期陸軍士官学校予科(近衛歩兵第三聯隊)、本科に入ります。父の少尉任官式である、命課布達式(注:課命布達式ではない)は、昭和10年10月に、今のTBSのところにあった、赤坂の近衛歩兵三聯隊の営庭で、行われました。
1000名を超える連隊長以下全員整列の前で行われたようです。詳しい文言は忘れましたが、声の良く透る大きな声で、
「天皇陛下ノ命ニヨリ今泉義道士官候補生は陸軍歩兵少尉ニ補セラル。因テ同官ニ服従シ各々軍紀ヲ守リ職務ニ勉励シ其ノ命令ヲ遵奉スヘシ。」「カシラーナカ」」
このようなことを父は言って居たように記憶しております。軍に命をささげた21才の男にとっての最高の瞬間でありました。ほとんどすべての陸軍の将校が、この布達式を経験されていることと思います。

任官後、父は直ちに11月に徴兵された第7中隊の新兵たちに教育を行ないました。我が家には、父の持っていた新兵さんたちの身上一覧表がのうち残っています。いろいろとプライバシーも書いておりますが、同様のものを私は、歩三の麥屋少尉から見せてもらったことがあります。教育は、よく計画されているものでした。終戦頃に殴るけるの陸軍内務班話をきくと、信じられないといつも言っていました。

兵隊さんは、陛下からお預かりした大切な方たちで、一人前の兵隊さんになれるよう1,2,3期と検閲を受け乍ら、基本動作を訓練するものです。そんな中、ある時、軍曹が、青ざめた新兵さんとともにやってきました。
歩兵銃の、いわゆる「営倉バネ」をなくしたということのようでした。父によれば、話を聞いたあと、机の引き出しをあけ、その兵隊の顔の少し傷ついたところに、メンタムを塗ってあげたと言っていました。(もちろんバネは備品をあてがったようです。)
これには、後日談があり、父は戦後の集まりで、この兵隊さんは、その後、聯隊一の射撃手になったときいたそうです。その時の、うれしそうな父の顔が今でも浮かんでまいります。

父の葬儀は、賢萗寺藤田俊孝さまにより行われました。私は46歳、御老師は58歳、御老師は、法要の一部として、皆様への私のご挨拶の時間をくださいました。私は、父の二・二六事件参加の決断となった、部下の斎藤特務曹長が、必死の形相で、「今泉少尉殿、私は、命ぜられるままに実弾を運びました。今泉少尉殿、私は死にます。」と、軍刀の柄を握りしめ、ボロボロ涙を流された話をさせていただきました。父への思いやりをくださった俊孝様の御心に胸が詰まる思いがいたします。

あれから22年、私は68歳、俊孝老師は80歳になられました。事件の多くの方たちが鬼籍に入られました。もう父の事も知っている人はほとんどいなくなりました。気が付いたら、いつも一緒に歩いていた人が、消えてしまったのであります。
3月2日、たった一人の私にしていただいた、、父の23回忌に、そんなことを思ったのでした。




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◎喜寿老人の呟き=著述者と虚述者。

2017年03月03日 | 末松建比古
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◎“ストレスの海”を漂って・・・◎

2017年03月02日 | 末松建比古
  

2017年3月1日(水)。
BS11「検証! 二・二六事件」を見た。BS11放送の人気番組「尾上松也の古地図で謎解き!」シリーズに“二・二六事件”が登場したので、少し驚いた。昭和11年当時の地図は、尾上松也サン世代にとって“古地図”の領域になるのだろう。昭和は遠くなりにけり。賢崇寺法要も“82回忌”なのである。
松也サンが司会を務めて、三人のゲストが“二・二六事件”について語り合う。松也サンの質問「青年将校が決起したのは何故ですか?」。①筒井清忠(帝京大学教授)サン「陸軍内部の統制派と皇道派の対立があって…」。②伊藤潤(歴史小説家)サン「農家の貧困、国民の格差など、当時の政治体制が原因で…」。③藤井非三四(軍事史研究家)サン「軍内の亀裂、陸大出身エリートに対する反発…」。
何だ、何だ、当時の世相を知らない視聴者が①サンや③サンの説明を信じたら、二・二六事件は単なる“軍隊内部の私闘の類い”になってしまうではないか。筒井清忠サンの“訳知り顔”が画面に現れる度に・・・以下省略。

画像参照。昨日から“ストレスの海”を漂っている。新聞テレビ欄の横にあるのはパソコン関連の本である。
実は、この記事は“ウインドウズVista”搭載のパソコンで書いている。ご存知のように“Vista”のサポートが4月11日に終了する。それ以後は、我家のパソコンをネットやメールに使うことは非常に危険である。
ということで、ビックカメラ有楽町店の“富士通WEB MART”で“ウインドウズ10”搭載のパソコンを買った。担当の女性が、喜寿老人を労わって(?)“PC家庭教師=富士通パソコン出張サービス”を教えてくれたけれど“セットアップは自分でやります”と格好をつけてしまった。
そして、昨日(12月28日)昼過ぎにパソコンが到着し、直ちにセットアップを開始。順調に進んでいたが、取扱説明書(全76頁)の41頁目で“意味不明の状況”に陥ってしまった。私は典型的な“B型人間”だが、PCトラブルの時だけは、激しいストレス状態に陥って食欲さえ失ってしまう。
セットアップが“41ページから先に進めない”ので、一旦“PCを初期状態に戻す”しか方法がない。しかし、購入時点まで戻すことに不安がある。ビックカメラ有楽町店に行き、担当の女性に確認して、深夜に作業開始。画像右側は作業中の私の部屋である。

3月2日(木)。初期状態に戻ったので、再びセットアップ開始。しかし“事件現場=41頁”の手前で、作業休止。ここから先は“PC家庭教師”に救いを求めようかと思っている。でも、その前に三度目のトライ。先ずは(富士通でなく)ソネットに電話して・・・。さて、どうなるか。
因みに本日のタイトル「ストレスの海」は、春風亭昇太サンが若かりし頃の自作落語。昔々、昇太サンが“春風亭昇八”サンだった頃、新宿の安酒場でワイワイと一緒に飲んだ憶えがある。(末松)
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