◎末松太平事務所(二・二六事件異聞)◎ 

末松太平(1905~1993)。
陸軍士官学校(39期)卒。陸軍大尉。二・二六事件に連座。禁錮4年&免官。

◎84歳・・・カウントダウン実行の適齢期?◎

2024年04月22日 | 末松建比古
朝日新聞・2024年4月21日朝刊。死亡記事(写真付)。
「佐川満男さん(歌手、俳優)。12日、胆嚢炎で死去。84歳。葬儀は近親者で営んだ。・・・」
「60年に歌手デビュー。61年以降、NHK紅白歌合戦に4度出場した。ヒット曲に『今は幸せかい』などがある。
俳優としてNHK連続テレビ小説『カムカムエブリバディ』などに出演。現在公開中の映画『あまろっく』にも出演していた。・・・」

「佐川満男=84歳」という文字が 私(84歳)に特別の感慨をもたらした。
厳密に言うならば 佐川サン(1939年11月9日生れ)が逝去した時点では、私(1940年4月17日生れ)は未だ「84歳直前」だったのだが・・・。

 

画像は「30歳」の佐川満男サン。1969年12月24日。場所は「博多東急ホテル=今は存在しない」の13階にあった「トップオブハカタ」で、九州朝日放送の人気ラジオ番組「ジャンピングディスク」クリスマス特集(午前0時~1時)を放送中の情景である。
この日の放送台本には「提供・日米コカコーラボトリング/構成・末松建彦」と記されている。転勤生活4年目の私(広告会社勤務)は、地元の人脈にも恵まれて「他社の仕事」も依頼されていた。この番組の構成もそのひとつで「出演者=渡久山アナ+松坂ユッコ」も、コカコーラ宣伝部の田島サンも、親しい友人たちだった。
因みに「1969年の末松太平」も周囲の人脈に恵まれて、三島由紀夫と対談(學燈社「伝統と現代」9月号)したり、三島由紀夫に(私以外の末松家4人が)観劇&会食に招待されたりしていた。

「・・・どうでした、佐川さん、ミニミニ歌謡ドラマを演じた感想は」
「・・・いやあ、ひどいですね、こんなにひどい台本を演らされるとは思わなかった」
佐川サンは 会場で募った一般女性を相手に(歌の一節を交えたコントを)マジメに演じてくれた。 
「・・・今からユッコちゃんの恋人探しをやります。立候補なさる方は前に出て来て下さい」
このコーナーには 佐川サンの参加は考えていなかった。予期せぬ(佐川サンの)飛び入りで画像の情景となった。

末松太平の遺品から「1969年の日記」の一部を転載する。
◎6月9日/母が93歳で死んだ。
◎6月11日/葬儀のため郷里、大里に着いた。
◎6月13日/博多に行って建比古に会う。建比古の嫁さん候補に会う。
◎6月14日/大里を発った。これで親のうちがなくなった。「実家」がなくなったのである。故郷喪失である。

 

画像=1970年の秋。TBSラジオ番組「雪印クリーマ歌の広場」の公開録音光景。
佐川満男サンがこの日のゲストで 末松行子サンが生CMの担当をしている。
約一年ぶりの「再会」だが 松坂ユッコサンは(この年の5月末に)末松行子サンになって東京生活を始めていた。
余談だが 佐川満男サンの方は未だ独身で この翌年に(伊東ゆかりサンと)結婚している。

1970年11月25日。三島由紀夫が市ヶ谷台で割腹自刃した。
私は「歌の広場」の公開録音(毎回異なる団地商店街で行っていた)を終えて会社に戻る途中で、カーラジオの「臨時ニュース」を聞いた。瞬時に心を過ぎったのは《末松太平の反応は・・・?》ということだった。
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「佐川満男さん 胆嚢炎で死去 84歳」という死亡記事は、84歳の私への《天啓》かも知れなかった。
今まで以上に《終活》に勤しまなければならない。末松太平の遺品処分(史料・書籍類)に集中しなければいけない。

今年の2月17日に「國風講座」講師を務めた際に、数人の方から「持参された史料類を撮っても良いですか」と声をかけられた。
そのひとり「三島由紀夫烈士命 森田必勝烈士命 墓前 日輪祭実行委員会 委員長」のHサンには《學燈社「伝統と現代」昭和44年9月号》を貸与した。この号には《対談「軍隊を語る」三島由紀夫✕末松太平》が、全21頁というボリュームで掲載されている。
Hサンにも「撮っても良いですか・・・」と言われていた。しかし、この場で21頁全てを撮るのは大仕事である。初対面の方ではあったが「返却は急がないから・・・」と貸与するのが「仁義」というものだ。

終活の開始とか 遺品史料類の処分とか 高らかに進軍ラッパ(?)を吹きならしている。
それならば「返却は急がない」ではなく「進呈しますよ」という対応もあった筈である。
しかし 私の手許から「対談/三島由紀夫✕末松太平」が姿を消していた間は 何となく不安定だった。
「いろいろな人が近づいてくると思いますが どんなに望まれても 書籍や史料を貸しては駄目ですよ」
相沢正彦サンが(末松太平が死去した直後に)末松太平未亡人に戒めた言葉が蘇ったりもした。
いうまでもなく貸与した雑誌は「長い間 洵にありがとうございました」という名刺を添えて返却されている。
Hサンの人柄は「洵に」という文字に表われている。誠に、実に、真に、洵に…。私流の性格判断である。(末松建比古)
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◎読売新聞西部本社(福岡県)筑後版◎

2024年04月02日 | 末松建比古
読売新聞の大石記者から 封書が届いた。
「前略 二月にお訪ねした折には たいへん御世話になりました。本来取材ではなく 個人的な研究のためお会いしたいという趣旨でしたが、折角の機会でもあり、私の昭和史の紹介という形で記事にさせて頂きました。
「筑後版掲載ですが、末松太平さん出身の北九州版でも後日掲載されるよう頼んでおりますので、載りましたらまた送付いたします。
「お聞きしたことの何分の一も盛り込めませんでしたが、誌面の制約もあり、御容赦戴ければ幸いです。
「末松様のお話を伺い、二・二六事件の意義を改めて考えねばならないとの思いを強くしました。ぜひまたお訪ねし、御指導頂きたく存じます。」



大石健一記者の著名入り記事は「完本 私の昭和史」の紹介がメイン。 末尾にはわざわざ「570ページで税込み3980円。全国の主要書店やインターネットで販売している」と書き添えてある。
「・・・独自に事件の分析を続けている建比古さんは『分厚い本だが、電子版で購入してくれる人もおり、若い世代にも関心を持ってもらえているようだ』と話す。/・・・2月26日には、東京の賢崇寺で法要が営まれ、建比古さんも新型コロナ禍を経て数年ぶりに参列した。『2・26事件は陸軍の派閥争いだったという説など、父たちの思いや実情と違う話が流布されている。事件から88年がたった今も政治不信が言われており、この本を通して社会のありかたを考えてもらえればありがたい』と離している。」

あ~あ・・・。思わず苦笑したのは 2点並んで掲載された写真。
毅然と背筋を伸ばした老人(右)と 姿勢の悪い老人(左)では 撮影当時の年齢が違う。・・・些か苦しい自己弁護。
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《老老夫妻=私&妻》の住居には(毎年一度)地元の民生委員サンが「状況確認」に訪れる。
「ご心配ありがとうございます。お陰様で何事もなく・・・」が例年の定番だったが 今年は会話をいろいろと・・・。
老老夫婦が(C棟からB棟に)転居した理由、家人(介助2認定)の現状、そして愚息(B棟に居住していた)の現況・・・。
「サンシティでは 有名な存在で・・・」「・・・?」「秀才で ハンサムで・・・」「・・・?」「二・二六事件のことをネット発信していらっしゃる・・・」「・・・!」「私の父も軍人だったので・・・」「・・・!」

玄関先での立ち話なので 会話の流れも混濁する。
説明するまでもなく「秀才で ハンサムで・・・」と言われていたのは 私のことではない。
何よりも嬉しかったのは 民生委員のYサン(女性)が「ブログ・末松太平事務所」をご存じだったこと。 
今まで以上に 民生委員サンが「心強い味方」に見えてきた。
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「一般社団法人 仏心会+慰霊像護持の会」から葉書が届いた。
本来なら「仏心会の公式ホームページ=休止状態」に掲載される内容だが 代行して発信しておく。

拝啓 去る二月二十六日の八十九回忌法要は、賢崇寺藤田俊英大和尚により、無事円成いたしました。法要に際し、丁重なるご芳志、お供物を賜り、誠に有難く心より御礼申上げます。
コロナが収まってまいりましたので、日本全国から、二十数名の方のご参加を頂き、心静かな法要を営むことが出来ました。九十八歳の安田様は、ご用心にため欠席されましたが、七月のご法要にはぜひ出席したいと言われています。なお、悲しい残念なおしらせです。仏心会理事として永年ご尽力頂いた安藤日出雄様が昨年十一月二十七日八十八歳でご逝去されました。慎んでご報告申上げます。
私共は、今後とも、慰霊の誠を捧げて参ります。何卒、変らぬご指導ご鞭撻の程、宜しくお願い申上げます。敬具。
令和六年(二〇二四年)三月

「一般社団法人 仏心会」の横には「代表理事は香田忠維より栗原重夫に交代いたしました」と記されていた。
栗原重夫氏について 特別の紹介はない。(末松建比古)
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◎千葉市営霊園「平和公園」第F3区71号◎

2024年03月29日 | 末松建比古
今年1月、当ブログ掲載の「末松太平32回忌?」に対して、森田朋美サンから下記のコメントをいただいた。
「・・・千葉市若葉区平和公園、暖かくなったら、今泉さんと、都子ちゃんと、四人で行きましょう」
実は 現時点に於いて「末松太平の墓」を訪問した方は(親族を除けば)相沢正彦サン、中川喜英サンの二人しかいない。
そして 森田朋美サンの提案が実現するかどうかは 微妙な状況にある。
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画像は 約30年前の昔 1994年7月に「末松太平(前年1月に逝去)の墓」を訪れた「八人!」である。
左から 私(末松太平・長男=当時54歳)、相沢正彦(相沢三郎中佐・長男)、尾島田鶴子(末松太平・長女)、末松敏子(末松太平夫人)、尾島匡則(末松太平・孫)、末松一輝(末松太平・孫)、末松行子(私の妻)という顔ぶれ。撮影=尾島正晃(田鶴子の夫)、これで「八人」になる。
相沢正彦サン(2004年2月に逝去)も 末松敏子サン(2011年9月に逝去)も 元気潑溂としていて その後の人生を 全く予感させない。

「建比古クンが会社を退いたら、一緒にやりたいことがある」
正彦サンには 顔を合せる度に 声をかけていただいていた。
「詳しいことは その時になってから・・・」という内容は 朧気ながらも推察できた。
私の脳裏を掠めたのは 相沢中佐と末松大尉が二人だけで味わった「昭和9年の(仙台での)年越しそば」の光景である。
一緒に東京に行かないか。相沢中佐の「さりげない誘い」に 末松大尉は即答できなかった。そして 昭和10年に「事件」は勃発した。
それでも 御遺族との交流は 途切れることなく続いて ついには「両家(相沢中佐夫人と末松太平)の葬儀」が重なるという《奇縁》へと導かれたのであった。

「会社を退いたら 一緒にやりたいことがある」という中佐の長男に 大尉の長男は応えるつもりでいた。
中佐の誘いは「一緒に東京に行かないか」であった。 中佐の長男の場合は「一緒に水戸に行かないか」だろうと推察していた。
しかし 私が会社を退く迄には長い時間が必要だった。 そして 長い時間を費やしているうちに 正彦サンは重い病に罹り 面会謝絶の闘病生活が続いて ついには「一緒にやりたいこと」は 幻のままに終わってしまった。
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森田朋美サンの提案が実現するかどうかは 微妙な状況にある。
その理由は 私が《弟=末松太平・次男》に宛てたメールの中にある。

「我々夫婦は 築地本願寺の合同墓を申込みました。合同墓と併せて《永代経》を申し込めば《永代供養=管理費不要》されるので 愚息夫妻を煩わせることもありません。埼玉県在住の愚息夫妻に《千葉市平和公園の墓参》を強いるのはモラハラになりますが、築地本願寺ならば 境内に和風食堂や喫茶レストランがありますので、いつでも気軽に墓参ができます。
「老母が《清和園=特養施設》に御世話になっていた頃は、毎週欠かさず《清和園+平和公園》に通っていたのですが、老母が死去してからは、毎月1回~数ヶ月に1回と徐々に減少。愚妻が原因不明の足の激痛で遠出が困難(介助認定2)になってからは、車を手放し免許証も返納して、更に《平和公園》が遠くなりました。
「平和公園の規約では、やがて管理費の納入が途絶えると 無縁墓地(遺骨廃棄場?)に移されます。築地本願寺(永代供養+管理費不要)との差違を思えば 早めの対応が必要です。
「墓じまいをするには 平和公園の管理事務所での手続き、千葉市役所の管理事務所での手続き、石材店への依頼=工事費(遺骨取り出し+墓石を処理して更地に戻す)など、何度か足を運ぶ必要がありますが、墓地使用者(私)の責任で対応する所存です。
「両親の遺骨は、我々夫婦と同様に、築地本願寺の合同墓に申し込むつもりです。扱いは個人単位なので《4件》それぞれの手続きになります。
「手続きは(郵送不可なので)印鑑証明+実印+管理委託冥加金+永代経懇志などを揃えて、築地本願寺で行います。順番待ちの盛況で、我々夫婦はようやく《5月》に《1時間だけ》予約できました。手続きが1時間で終わらぬ場合は 改めて新規予約することになります。
「両親の手続きが無事完了しましたら、ゆっくりと《平和公園の墓じまい》の準備にかかりたいと思います」
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送信して直ぐ 弟から「了解」のメールが届いた。

千葉市平和公園の市営霊園は 末松太平本人が生前に申し込んでいたものである。
遺骨6体が収納可能であるが 僅か夫婦2体を収納した段階で《墓じまい》に踏み切るとは・・・。忸怩たる思いもあるが・・・。(末松建比古)
 
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◎笑談「松本清張の昭和史」異聞◎

2024年03月16日 | 末松建比古


千葉の恵みを召し上がれ・・・。千葉市美浜区在住の妹(末松太平長女)から 宅配便が届いた。
箱の中身は地元「オランダ家」の御菓子いろいろ。そして《保阪正康「松本清張の昭和史」中央公論新社刊》。初版発行=2024年2月25日。
妹曰く「先日 書店に行った時に 表紙だけ見て衝動買いしてしまった。でも 私には不要本だから・・・」 

画像参照。松本清張の「昭和史」、末松太平の「昭和史」、どちらの表紙カバーも「二・二六事件」の報道写真が使われている。妹が(勘違いして)衝動買いしたのも無理はない。私自身は 先日 池袋の「ジュンク堂書店」と「三省堂書店」に立ち寄った際に「松本清張の・・・」を目にしているが 手に取ることはしなかった。当然ながら《松本清張「昭和史発掘」文春文庫版》は所有しているし 細部までチェックもしている。保阪正康氏が今更(その本をネタにして)何を書こうが興味はない。
「清張史観の核心を突く。」「『清張史観』の今日的意義とは。」「・・・戦後30年を経て、清張史観はいかに評価されるべきか。清張から『時代の記録者』としてバトンを託された著者がその核心を伝える。」
帯カバーを読めば 中央公論新社が出版した意図は 朧気ながらも理解はできる。でも「ムムム・・・」という思いも消すわけにいかない。

保阪正康氏は 以前にも《青年将校が要人を殺害する残虐性》について記しているが 本書でも同様である。
「2006年2月、『週刊文春』に、ある内務省関係者の遺族から斬殺現場の写真が持ち込まれている。私はそれを見てコメントを寄せたのだが、この青年将校たちの暴力性のなかに、度しがたいほどの人間性の退嬰を見る思いがした」「しかし、本質的に二・二六事件で語らなければならないのは、こうした青年将校たちの暴力ではなく・・・」
例えば 松本清張「昭和史発掘」の「秘密審理」の章には(ある法務官の「手記」からの引用として)渡辺教育総監が惨殺された模様が記されている。
「・・・(すず子夫人は身を以て制止せられたが)将校は拳銃を乱射し、下士官塀は縁側に機関銃を据えて射撃した。大将も拳銃を以て之に応戦せられたようである。とうとう大将は倒れてすでに絶命せられたにも拘わらず、叛乱将校は大将の頭部肩等に数刀を浴びせかけ、見るに堪えない残忍なことをした・・・」
これは、ある法務官が「他から聞いた話」を「手記」にまとめたものだという。当時公表されていた範囲での「公判記録」でも この辺りの「暴力行為」の数々は記されている。
保阪正康氏が 今更ながらに「惨殺現場の写真を見て衝撃を受けた」のは 当時(2006年)も奇異な言動に思えた。当時の「ブログ・末松太平事務所」には この辺りの「奇異な印象」が記してある。
そして今 保阪氏はわざわざ「青年将校の暴力性」に触れていながら 直ちに「しかし・・・」と方向を転じている。初歩的な「印象操作」の試みだと思えば 腹も立たないけれども・・・。



しかし、私が述べたいのは、保阪正康氏への表層的な批判ではなく・・・。
私も方向を転じて《保阪正康「松本清張の昭和史」》刊行による「プラス」の面にも目を向けようと思う。

先日立ち寄った「ジュンク堂書店」の「現代史書架」には「二・二六事件関連」が僅か数冊。最新刊が《末松太平完本 私の昭和史」昨年1月刊》という惨状(!)であった。何故か《保阪正康「松本清張の昭和史」》は、離れた場所に並べられていた。
そして「三省堂書店/池袋西武店」は更なる惨状(!)で、二・二六事件関連は「完本 私の昭和史」一冊だけであった。せめてもの救いは、少し離れて平積みされている「松本清張の昭和史」の存在だった。

《保阪正康「松本清張の昭和史」》の巻末には《好評既刊》として 次の3冊が紹介(広告)されている。
①/松本清張著「歴史をうがつ眼」/司馬遼太郎との10時間も及んだ伝説の対談「日本の歴史と日本人」、青木和夫を相手に清張史学のエッセンスを語った表題作ほか、日本とは何かを問う歴史講演・対談集。単行本初収録三篇。
②/玉居子精宏著「忘れられたBC戦犯 ランソン事件秘録」/1945年3月、日本軍が仏領インドシナ北部の町で多数の捕虜を殺害したランソン事件。その顛末と、裁きを受けた将校たちの思索を手掛かりに日本人が避けられない問題に向き合う。
③/末松太平著「完本 私の昭和史 二・二六事件異聞」/昭和維新運動の推進力であった「青年将校グループ」の中心にあった著者が、自らの体験を克明に綴った昭和史の第一級史料。関連文書などを増補した決定版。(解説 筒井清忠)。
・・・この3冊を「広告」として紹介したのは(保阪氏の意志ではなく)中央公論新社編集部の金澤氏だと思う。

「松本清張の昭和史」掲載の「今読む『昭和史発掘』/保阪正康+加藤陽子(司会・田中光子、特別参加・藤井康栄)」の中で 保阪氏は次のように語っている。
「・・・たとえば、僕が『二・二六を知りたいけれど何を読めばいい?』と聞かれたら、まず高橋正衛さんの『二・二六事件 増補改版』を薦めます。『昭和史発掘』はそういう入り口から一段ステップしたところにある本ですね。これからは、松本さんの本がより手に取られなければならないと思う。若い人が、入門書を読んで基本的なことを頭に入れた後、さて次へ進もう、という時に必ず松本さんに出会う、そういうことだと思います。」
・・・高橋正衛の本を読み、次に松本清張の本を読んだ「若い人」が、更なる次を志し《好評既刊・第一級史料》を思い出して・・・。ホップ ステップ ジャンプの三段跳び。それに応えて万歳三唱。

高橋正衛著「二・二六事件 増補改版」から「まえがき」の一部を(裏話と共に)紹介しておく。
「末松太平氏は常に私のよき助言者であり、とくに青年将校の横断的結合という点について教えられるところがあった。本書執筆の動機のひとつは、山口氏、西田さん、末松氏に伝わる、反乱軍将校の考え方や気持ちを、もう一度考えてみたいということであった。/昭和40年7月12日」
この本の「初版発行」は1965(昭和40)年8月25日。「増補改版/初版発行」は1994年2月25日。
この長い間には様々な葛藤があって、末松太平は(1990年頃に)高橋正衛と訣別し、強硬に「まえがきから名前を削除しろ」と申入れて、それに対する高橋正衛の回答は・・・(以下省略)。(末松建比古)
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◎「1936年7月12日」の真実◎

2024年03月09日 | 末松建比古


「御尊父さまから伝え聞いた事件の核心やエピソードなどを 氏が受け継ぎ語り伝えて・・・」
民族革新会議の公式ブログで 過分なご紹介をいただいたからには これからも 老骨に鞭打ち《語り伝えて》いくしかない。

私が(来賓挨拶で)語り伝えた「7月12日」のことは、末松太平著「完本 私の昭和史/蹶起の前後(その二)」にも載っている。しかし「ドキュメンタリー」として書かれてはいないから、代々木練兵場の訓練のことなどは 全く登場していない。
来賓挨拶の《ネタ元》は、末松太平直筆の「未公開」原稿にあった。この原稿には(書込・訂正・削除など)推敲を重ねた痕があり、筆者の執念が感じられる。当人しか知り得ない「事実」も記述されている。ブログ掲載には長すぎるかも知れないが 敢えて全文掲載することにした。
・・・敢えて「未公開」と謳ったのは、掲載誌(紙)の類いが未だ見当たらないが故である。



◎画像は「未公開原稿」の一部分。以下は「未公開原稿」の全文である。
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 弘前の拘禁所には二十日間いた。その間に青森の聯隊から兵がひとり、哨令違反で入ってきた。歩哨に立っていて居眠りしていたのを巡察将校に見つけられたのだった。看守が可哀相な兵だ、と言っていた。家に心配のある兵は、人の眠るときに眠れず、その寝不足のため、かえって眠って悪い時に眠る。
 拘禁所にいる間に、師団法務部長の簡単な調べがあった。師団長に意見具申したり、電報を打ったりしたことと、私が佐藤正三に旅費をやったことなどが、叛乱幇助になるということだった。
 三月二十六日に東京へ送られることになった。一度青森に出て、東北線の夜の七時の急行に乗るのだった。
 一人に憲兵と看守が一人づつ附いたので、三人で六人の護衛に、憲兵大尉が総指揮をした。合計十人の一行だった。軍服に手錠は目立つというので、和服に袴に手錠をかけ腰縄をうち、それを上から二重廻しで隠した。青森で汽車が出るまでしばらく駅長室で休憩した。中の温もりで曇った硝子戸越しに、駅前の街の鈴蘭灯がぼんやり眺められた。雪切りを終わった街路に綿雪が音も無く降っては消えていた。

 翌朝着いた東京も曇り空だった。上野から三台の自動車に分乗して衛戍刑務所へ向かった。刑務所に着くとすぐ着換室で囚衣に着換えた。その時、帯を解いた志村中尉の嚢から、勅語勅論集が床に落ちた。捕われの身になってもなお膚身から話さなかったのだった。
 この時、私の脳裏に、さっき上野駅で自動車に乗るとき見た戒厳指令部の腕章をつけた大尉のことが急に蘇ってきた。我々を待ち構えていた三台の戒厳司令部の自動車の他に、もう一台、前の硝子に戒厳司令部と貼紙した自動車が並んでいた。その車に戒厳司令部の腕章をつけた大尉が、着飾った若い妻とその母らしい女性を、はしゃぎながら案内して、一緒に乗るとどこともなく走り去った。官物私用である。
 戒厳司令部ができて、民間の自動車を臨時に徴用すると、早速それを私用に使う。そんな将校が取締りの側に立ち、手錠打縄の身になお勅諭勅語を離そうとしない将校が囹圄の身になる。こんな階調の乱れが、将来の国策にどんな現象を生むだろうかと思った。
 弘前から附いてきた看守は、三人が着換えるはしから、羽織袴を片付けていた。兵隊の入営日に、軍服に着換える新入兵の着てきたものを、父兄が始末する風景に似ていた。着換えが終わって別れるとき三人の看守は、途中汽車の中では、お陰様で東京見物ができますと、喜んでいたのに、お身体を大切に、と泣きそうな顔で言った。
 監房に入ろうとするとき、近くの監房に栗原のいるのが見つかった。暗い中に栗原の顔がほの白く、夕顔の花のようだった。私を見て、いたずらっぽく笑った。しかし翌日はもう、その監房にはいなかった。

 獄中暦日なしで、はっきりしたことは憶えていないが、東京に来て一週間位して、私の予審が始まった。どこかの師団から増加派遣になったらしい予審官の軍用行李の上には、陸軍刑法講義録が乗っていた。
 この頃は、濡れても苦にならないほどの雨がよく降った。塀に沿った赤煉瓦道を伝って調室に通うと、調室に近いあたりは、塀越しに枝を差伸べた民家の大きな八重桜が盛りを過ぎて、一面に散った花瓣が雨に汚れていた。
 獄舎の外は兵隊が警戒していて、物珍しそうに監房を覗きこんだりする兵もいた。雨の降る夜は、怠けて監房のすぐ前の軒端に雨宿りして、樋を伝う雨音を伴奏に流行歌を歌う兵もいた。動物園の檻の中の猛獣を、子供が怖がらないように、叱る能力を失った将校を怖がるには及ばなかった。

 予審は私が三回位、続いて志村、杉野がそれぞれ二三回、大雑把に調べられて中断された。どうして引続き調べないのかなと思っているうち、蹶起将校の裁判が始まった。塀に沿った赤煉瓦道を、私たちの監房の前を、行列を作って裁判に通った。
 私の監房は、この赤煉瓦道に近いので、この行列が良く見えた。何もすることのない毎日だったので、この行列の行き帰りを送り迎えすることが、しばらくは私の日課だった。裁判が休みらしく行列が通らない日は、何か物足りなかった。
 ほとんどが黒紋付の羽織袴で、白足袋に畳表の草履を履いたり、桐の駒下駄を履いたりしていた。顔は覆面で隠されていたが、体つきで誰彼は判った。雪の多かったこの年は、雨も多く、その度に行列は難渋していた。手錠をはめた不自由な手で、袴の裾をからげたりしていた。
 季節は移って、行列の人々も羽織を脱ぐようになったかと思うと、そのうち夏姿も一人二人見られるようになった。

 行列は、六月のはじめ頃から見られなくなった。論告があって、判決を準備しているのだろうと思っていた。渋川の残した日記によれば、論告のあったのは六月五日となっている。
 この間に、我々三人の予審は無雑作に終わった。初めの頃より、予審官の態度が好意的になっていた。
 七月が近づいても雨は減らず、暑さは加わってきた。調室にいる予審官に、多摩川の船遊びの回書が廻ってきたりしていた。

 七月五日に、久しぶりに行列の出て行くのが見られた。判決を聞きに行ったのだった。渋川の日記の七月四日のところに「夕方、裁判宣告申渡ノ為メ、明五日午前九時ヨリ開廷ノ通知アリ。理髪ヲ行フ。之ガ最後ノ理髪ナルベシ」とあるから、前日の夕方知らされたようである。t続けて「叛乱幇助トカ、事件関係民間被告ノ公判モ開カレザル模様ナレバ、判決ハ当分遅ルルモノト思ヒ居タルニ案外早カリキ」ともある。
 刑が重かったことは、あらましを看守から聞いた。詳しいことは聞こうとはしなかった。

 判決の日は日曜日で、渋川の日記に「朝来曇天、公判ノ頃、暫時日照ス」とあるが、翌六日は「朝細雨、本降リトナリ終日止マズ」とある。この日に監房の入換えがあって、死刑になる十七人が一棟に集まった。監房が十七房だったのも不思議な一致だった。同じ日記には、その部屋割りが書いてあるが、第一房に安田、それから村中、水上、高橋、竹嶌、中橋、坂井、対馬、香田、栗原、丹生、安藤、田中、林、磯部、中島の順序で、端の第十七房が渋川だった。
 もうこの頃になると、お互い話し合うこと位は寛大にしたとみえ、七月七日の同じ日記に「夕ヨリ夜ニカケテ皆残念々々ト語ル。死ンデモ死ニ切レヌト云フ。士官学校ノ寝室ノ如キ感アリ。楽シ」とあって、士官学校時代、消燈ラッパが鳴ったあと寝室で、週番士官に「早く寝ろ」と毎度のように叱られながら、その裏をかいて、よく無駄話をして楽しんだことを偲んでもいる。

 判決があってからは、面会や差入れで赤煉瓦道は賑やかになった。差入れは処刑の日が近づくにつれ増えてきた。手提籠に入った果物や、木箱の菓子などが、ここには不似合いな華やかな風呂敷に包まれたりして運ばれていた。運ぶ看守も、服装を改めていて、何かこれからお目出度いことでも始まりそうな気配だった。しかしそんな情景とは別に、刑務所の一隅、風呂場の裏に、処刑場は完成を急いでいた。風呂には大分前から、風呂が壊れたといって、入れてくれなくなっていた。

 処刑の日は、十二日だった。
「七月十二日(日)朝晴、今朝執行サレルコトガ昨日ノ午後カラウスウス解ッテ夜ニ入ッテハッキリ解ッタ」と、渋川は書き遺している。
 前日の夜は、お互いの話声が、間に一棟を隔てているのに、私たちのところまで、はっきり聞こえてくるようになった。夜が更けるに従って、詩を吟じたり、お経や祝詞をあげているのも聞こえてきた。私はいつものように就寝の鐘を合図に、獄則通り寝床に入ったけれど、容易に寝付かれそうもなかった。渋川の般若心経をあげる声が特に耳を離れなかった。そのうち暫くまどろんだようだったが、眼が覚めてみると、まだ暗かったが明け方近い感じだった。話声は昨夜のままだった。夜通し話していたのだろう。残る同志の名を呼んで、あとを頼む、などとも言っている。
 夜が次第に明けると、一面の靄である。すると突然、君が代の合唱が起こった。続いて天皇陛下万歳を三唱、大日本帝国万歳を三唱、あとは士官学校の校歌を歌う者もいた。

 靄が晴れかかった頃、赤煉瓦道に沿って、看守が一定の間隔をとって墸列した。とみるうち、元気で行けという声がしたかと思うと、第一の組の五人が、間の一棟の獄舎の蔭から現われてきた。先頭から将校のときの古参順に、香田、安藤、竹嶌、対馬、栗原と並んで来た。一人一人に看守が一人づつ附添い、看守長が一番左に附添っていた。看守長は左手に目隠しにするらしい白布を捧げていた。
 新しい夏の囚衣が死出の晴衣だった。いつもの覆面は今日はしていず、新しいスリッパを履いていた。そのスリッパの音も軽く、通り過ぎていった。墸列の看守は、通り過ぎる一人一人に、挙手の礼をして見送った。

 靄がまだ晴れぬ頃から、代々木練兵場では激しい空砲射撃が始まっていた。機関銃や軽機関銃が、ひっきりなしに射ち続けていた。処刑が迫るにつれ、それはひときわ激しくなった。しかし、その射撃の音も、実弾の音を紛らすことを出来なかった。天皇陛下万歳の絶叫と同時に、実弾特有の重い鋭い音がした。

 第一回が終わったのは、午前七時という。
 第二の組は、丹生、中島、坂井、中橋、田中の順だった。
 第三の組は、安田、高橋、林の年少将校と、民間の渋川、水上の年長者だった。
 
 第三回が終わったのは、八時三十分という。
 処刑が終わると、練兵場の射撃はぴたりと止んだ。反動で一瞬真空のような静けさになった。その静けさの中を、ラジオ体操の放送が近処の民家から流れてきた。七月十二日は「朝晴」と、渋川は日記に書いている。

 みんな天皇陛下万歳を叫んで死んで行った。奉勅命令に反抗したというけれど、それもこれで帳消しだろう。
 もっとも、奉勅命令は聞いていないと、みんなは法廷で言っていたと看守から聞いた。後で聞くと、山口大尉が間で握りつぶしたから、聞いていないのが本当ということだ。
 しかし、奉勅命令に反抗したことを楯にとって、裁判は進められた。錦の御旗が担ぎ出されたわけだが、昔から担ぎ出された錦の御旗に本物はないそうだ。裁かれる身になって、奉勅命令がどうのこうのと言ってみても仕方はない。被告人の国体観は━━と犯罪の一環として訊かれる国体観に何の意義もないように。

 この日から、監房が一棟そっくり空いた。看守も勤務が軽減されただろう。二・二六事件もこれでクライマックスは終わった。
 昼頃、黒い衣の坊主が、もののけのように、スーッと廊下を通り過ぎていった。
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以上が「獄舎の中」から伝える「七月十二日の真実」である。当然「獄舎の外」から伝える「七月十二日の真実」も知りたくなる。

「・・・ここに三角友幾氏の二・二六事件処刑前後のことをしるした手記があるから、その一部を抜粋して、当時の事情の一斑を知る参考にしよう」
《末松太平著「完本 私の昭和史」/夏草の蒸すころ》に登場する三角友畿氏(松本市郊外で長期療養中)は、渋川善助に兄事していた方である。抜粋された手記も「獄中の渋川善助」を中心に記されている。
「七月七日、面会許可の通知が来た。嗚呼何もかもお終いだ。」
「七月十日、朝早く出かける。今日は直ぐ面会出来た。憲兵に身体検査をうけ、法務員の身許調べをうける。例によって渋川さんの甥になり済ましている。係員も全然気がつかぬでもあるまいが、大目に見ているのであろう。
「奥さんに導かれ、渋川さんの圄両親、御兄弟、奥さんのお母さんと兄さん、渡辺さん御夫妻と面会所に入る。八畳敷ばかりの土間だ。
「直ぐ正面の机の前に、紋付姿の渋川さんが立っておられる・・・・」以下省略。
「完本 私の昭和史」には 渋川善助の遺体を霊柩車で落合火葬場に運び 荼毘に付すまでが 丁寧に記されている。

末松太平=獄の内から見た光景。
三角友幾=獄の外から見た光景。
渋川善助を念頭において併読すれば「七月十二日」の真実が見えてくる。(末松建比古)
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◎民族革新会議の公式ブログから◎

2024年03月07日 | 末松建比古
「令和六年 二・二六事件殉国烈士慰霊祭」の報告が「民族革新会議」の公式ブログに掲載されている。
慰霊祭の式次第。烈士に対し黙祷。国家斉唱。導師の読経に合せて参列者全員の焼香。そして 来賓紹介・・・。



ここでは「来賓=私に関する部分」だけをピックアップ。慰霊祭の詳細は「公式ブログ=大熊雄次氏報告」でお読みください。
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「そののち、水谷浩樹氏より本日ご参加いただいたご来賓の紹介があり、かって青森歩兵第五連隊に所属し、二・二六事件に加わった末松太平氏のご子息である末松たけひこ氏(八十四歳)をご紹介いただきご挨拶を賜った。
「氏は本慰霊祭にも人知れず毎年のように訪れ、遠くから見守っておられたそうである。
「御尊父さまから伝え聞いた事件の核心やエピソードなどを氏が受け継ぎ、語り伝えておられる。
「この日もご挨拶の中で、処刑場のあった、まさにこの場所で拘束されていた際、隣接の教練場での射撃訓練に紛れて処刑が行われたが、空砲での訓練と実弾発砲では音に大きな違いがあり、当日は同志の処刑を傍で実感することになり、大変つらい思いをされたという生々しいお話しを伺った。」

「昨年の二月二十六日、産経新聞に掲載された末松太平氏の著書『私の昭和史』の書評。二・二六事件関連書籍の名著である」
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来賓挨拶(私)に続く式次第。「青年日本の歌」奉唱。國士會會長の挨拶。民族革新会議副議長の挨拶。主催者の謝辞。そして お開き。

「完本 私の昭和史」の紹介を載せていただいたこと。全く予期していなかったので 吃驚した。
掲載された画像は 先日講師を務めた「國風講座」のレジュメに載せていたもの。水谷サン(國風講座の参加者)のご配慮によって「民族革新会議」のブログ閲覧者にも紹介していただけた。担当の大熊サンにも感謝感謝である。
「御尊父さまから伝え聞いた事件の核心やエピソードなどを氏が受け継ぎ 語り伝えておられる・・・」
水谷サンと大熊サンの御厚意によって「完本 私の昭和史」に関心を持つ人が 一人でも増えてくれれば嬉しい。

冒頭の写真二点。自分では「まだ壮年」に見えると思っていたので「現実=もう老人」を見せられて・・・。レ・ミゼラブル。嗚呼無情。
左の写真=樹木の横に立ち 周囲と同じ姿勢を保っているつもりの(紅一点ならぬ)老一点。
右の写真=水谷サンの隣で カメラにガンを飛ばす(頑なそうな)老一点。

「老一点」の日常は 家人の指令で食品スーパー巡り。脊柱管狭窄症に悩まされ(痛み耐えつつ)間欠性跛行。顔で笑って心で泣いて・・・自分自身は「物静かな老人」に見えてるつもり。写真見るまで そのつもり。
自己の思いと他人の目。食品スーパーの女性には「頑なそうな老人」と見られてる!?。写真眺めて 自戒して・・・。(末松建比古)
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◎映画「叛乱」と「珍説忠臣蔵」との間に◎

2024年03月01日 | 末松建比古
2月26日の朝 新聞を開いて(予期しながらも)失望したことは 既に記した。
・・・というのが前説で 二人の新聞記者の「心意気」の一端を紹介するのが 今日の本題になる。
画像参照。左=読売新聞記者・大石健一氏の著名入り記事。右=毎日新聞記者・栗原俊雄氏の著名入り記事。

  

「左」は 大石サンが我家を訪れた際にいただいたもの。
「事件関係者が 徐々に世を去って・・・」「御遺族には 遺品資料の保管が負担になって・・・」「賢崇寺に預けたりもしたが それも次第に無理になって・・・」「防衛庁の施設に寄贈したら 個人情報ナントカ法が出来て 資料閲覧が難しくなって・・・」「襲撃した相手の記念施設に(襲撃側の)遺品資料を寄贈する方もいて・・・」「三上卓氏の関連施設は岐阜県にあるけれど・・・」「末松太平関連の遺品資料は 愚息に負担はかけたくないから・・・」。以下省略。
こうした「講釈」の流れに沿って 大石サンが取材した「磯部浅一記念館」の話になった。

「右」は 今泉章利サンから(賢崇寺で)いただいたもの。
栗原記者は 10年ほど前から「賢崇寺法要」の取材を続けていて 今泉サン(慰霊像護持の会・世話人)サンを主役に置いた記事が多い。今年も積極的に取材して ロビーでPCに書込んでいた。
栗原記者とは(かなり以前に)今泉夫人の紹介で名刺交換したことがあるが 顔も忘れていた。先方も顔を忘れているようで 挨拶することもなかった。

ここで唐突に話題を変える。AI(人工知能)が生み出した「珍説 二・二六事件」の紹介である。
最近は NHKテレビのニュースでさえ「ここからは人工音声がお届けいたします」が当たり前になっている。
パソコンの検索すれば「AIチャットツール」が素早く対応してくれる。
しかし 珍回答が表示されることも時にはある。そして「珍説」が「事実」として世間に撒き散らされる。



◎「慰霊像護持の会」は、末松太平氏に関連する組織であり、彼の名前を記念して設立されました。末松太平氏は、日本の陸軍士官学校卒業生であり、二・二六事件に連座したことで禁錮刑を受けました。彼の息子である「末松太平大尉の御長男」が、慰霊像の前で挨拶を行ったこともあります。
この組織は、慰霊像の維持管理や慰霊祭の主催などを通じて、事件の歴史的事実や意義を広く世界に発信し、次世代に継承することを目的として活動しています。慰霊像護持の会は、末松太平氏とその関連の歴史に敬意を示し、彼の名前を後世に伝える役割を果たしています。

◎末松太平氏は、日本の歴史的な人物であり、彼の名前は特定の出来事と関連しています。
末松太平氏は、日本の陸軍士官学校を卒業した軍人でした。彼は二・二六事件に連座し、禁錮刑を受けました。この事件は、1936年に発生した日本の軍事クーデターであり、陸軍内の一部の軍人が政府に対して反乱を起こしたものでした。
慰霊像護持の会は、末松太平氏に敬意を表し、彼の名前を記念して設立されました。この組織は、慰霊像の維持管理や慰霊祭の主催などを通じて、事件の歴史的事実や意義を広く世界に発信し、次世代に継承することを目的として活動しています。
末松太平氏とその関連の歴史について学ぶことは、日本の歴史を理解する上で重要です。

◎今泉章利さんは、日本の歴史的出来事である「二・二六事件」に関連して知られています。彼は、事件に突然巻き込まれ、ロウゴの身となり、国賊として出獄した後、生涯を閉じた人物です。
「二・二六事件」は、1936年2月26日に発生したクーデター未遂であり、青年将校たちが政治的な野心を排除し、真の皇軍の姿に戻すべしと、昭和維新を成し遂げようとした事件です。この事件は、日本の歴史において重要な出来事であり、多くの人々によって研究されています。
今泉章利さんは、父である今泉義道少尉の行動や事件について、追悼式や法要などで語っており、その姿勢と生き様は、事件の背後にある人間ドラマを浮かび上がらせています。

◎今泉章利さんは、二・二六事件として知られる1936年のクーデターに参加した日本の青年将校でありました。彼は安田優少尉としても知られています。以下は、今泉章利さんと、彼の兄である対馬勝雄中尉が事件に参加した経緯の一部です。(★ 流石に呆れ果てて以下は割愛。末松)

・・・この 抱腹絶倒 前代未聞の「末松太平に関わる珍説」は「COPILOT=コパイロット」が作成した文章である。
2月28日に発見したものだが 翌日には(末松関係のこの記述は)消滅していて 再読出来なかった。
最近は AIチャットツールを頼りに 論文やレポートを作成する輩も多いと聞く。珍説を根拠にした(二・二六事件についての)論文やレポートが登場する可能性も ゼロではない。

1954年に《新東宝映画「叛乱」佐分利信監督、阿部豊応援監督》が公開された。二・二六事件を初めて描いた作品として話題を呼び 千葉市の映画館では(原作者・立野信之と末松太平の)トークショーが行われたりもした。
「珍説忠臣蔵」の公開は その前年(1953年)のことである。古川緑波(大石内蔵助)伴淳三郎(吉良上野介)などの人気喜劇俳優がドタバタを演じた。赤穂浪士の討ち入りは 元禄15年(1702年)の出来事である。それから「250年」の歳月が経過して 蹶起行動をドタバタで演じた喜劇映画が誕生した。 
「二・二六事件」は 昭和11年(1936年)の出来事である。新東宝映画「叛乱」に続いて「事件」は何度も映画化されたが 全て真面目に制作された。しかし 事件から「250年」が経過して 西暦2186年を迎える頃には 忠臣蔵の場合と同様に・・・。
現在上映中の「身代わり忠臣蔵」では ムロツヨシが「上野介と実弟」を一人二役で演じている。250年も過ぎれば「喜劇」にされても仕方ない。例え喜劇「二・二六事件」が制作されたとしても 笑って見過ごすしかない。

しかし 現在は僅かであっても「事件参加者の子息や兄弟」が健在でいる。人工知能による「偽史」の発信は 笑って済ませることではない。(末松建比古)
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◎末松太平のDNA?/國風講座の後遺症?◎

2024年02月26日 | 末松建比古
皇紀2084年(西暦2024年)2月26日。
朝日新聞朝刊を開いて 先ずは「二・二六事件」という文字を探す。
予想的中 成果ゼロ。多少は期待した「二・二六事件関連の新刊書」の広告も見当たらなかった。
昨年1月に発刊された《末松太平「完本 私の昭和史/二・二六事件異聞」中央公論新社刊》を最後に「事件関連の新刊書」は姿を消したままである。
昔々「二・二六産業」などと揶揄されるほど「出せば売れた」時期があって 2月26日が近づくと「新刊本」が書店を賑わしていた。書名に「二・二六」と付ければソコソコに売れたから 愚劣なシロモノも少なくなかった。まさに隔世の感がある。
2月17日朝刊で《鈴木邦男「鈴木邦男の愛国問答」集英社新書》の広告を見た。気にしながらも まだ実物に接する機会がない。鈴木邦男サンの著書には「末松太平」が度々登場しているから 今回の中身も気になるところである。
しかし 鈴木サンは昨年死去していて「愛国問答」は他人が仕立てたものだから・・・。以下省略。



数日前 今泉章利サンから電話があった。
「末松さんの連絡先を知りたいと 知り合いに頼まれました。電話番号を教えてもいいですか・・・?」
しばらくして 読売新聞西部本社の記者サンから「お目にかかりたい」という電話があった。
チンプンカンプンの対話は御免被りたい。会うか会わないか 私の判定基準は二つだけあった。
「貴方は 末松太平の『私の昭和史』を読んでいますか・・・?」「貴方は 昭和何年生れですか・・・?」

「2月25日午後1時、都営地下鉄・志村三丁目駅に迎えに行きます。目印に読売新聞を持っていて下さい」
画像参照。福岡県の久留米支局から(2泊3日で)やってきた大石健一サンは昭和50年生れ。末松一輝(愚息)は昭和49年生れ。家人も息子相手のような気持になって 茶菓やコーヒーを出したり「夕方4時に届けて」と寿司を頼んだりしていた。
相沢三郎 渋川善助 村中孝次 三上卓・・保管している遺墨や掛軸の数々や、大岸頼好 西田税・・・書棚に並べた遺品資料の数々も 自宅だからこそ素早く披露できる。逆に言えば「披露目当ての人」と会うことは絶対にない。
息子相手のような会話が続いて(事件と関係のない)過去のエピソードなども披露してしまった。大石サンは「変なモノ」にも興味を示してカメラに収めた。変なモノの一例。広告会社時代の私が「ステテコ姿」で写っているポスター。ある駅ビル商店街の「父の日セール」用に貼られたポスターである。
最後に「末松サンが『私の昭和史』を持っている姿を撮らせて下さい」という。今日の記念写真だろうと快諾。しかし 視線をあっちに向けろ こっちに向けろとポーズを指示する。記念写真にしては可笑しなポーズだが 後になって「新聞記者=取材写真」だったと思い至った。苦笑。
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2月26日。JR原宿駅から代々木公園を抜けて 10時半少し前に「二・二六事件慰霊像」に到着した。
「慰霊像護持の会」主催の「追悼式」は既に終了し 今泉章利サンや森田朋美サンの姿はない。
「二・二六事件殉国烈士慰霊の会」主催の「慰霊祭」は 参列者から離れた場所から見守るつもりでいた。しかし 少し離れた場所(向かい側の歩道)は「黒っぽい服装をした大勢の男達」に占められていて 私の居られる場所がない。男達=公安関係。一般の通行人には「諸団体の人達」との区別はつかず「同じ仲間」にしか見えないだろう。
居る場所がないから 慰霊像の前に行き「民族革新会議の水谷サンは?」と尋ねる。水谷サンの知人だから 周辺も気遣って「来賓」のような扱いになる。
君が代斉唱で「慰霊祭」が始まる。曹洞宗の僧侶によって「慰霊」は粛々と進み 読経に併せての御焼香。「最初」を勧められたが 流石にそれは辞退。それでも(水谷サンと並列して)偉そうな順番での御焼香となった。
役目を終えて僧侶は退出。殉国烈士への決意書 蹶起趣意書の朗読 式次第は順調に進んで 来賓の御挨拶・・・。
驚いてはいけない。この日 最初に挨拶する「来賓」は「青森第五連隊・末松太平大尉の御長男」だったのだ。
思いがけない展開になったが 平然とした素振りでマイクを持つ。簡単な挨拶でもよかったのだろうが 慰霊像建立の経緯などを話す。先日の「國風講座」での体験が「こういう場」でも怯まず語れる下地になったのだと思う。
鈴木康隆氏(二・二六事件殉國烈士慰霊の会・世話人代表)を紹介される。温厚で物静かな紳士である。諸団体の方々は「慰霊祭」進行中も 通行人への気配りを忘れずにいた。世話人代表の人柄が反映されてのことだろう。

★追記★・・・・・・
私の書き方が拙いので「國風講座」が「殉国烈士慰霊祭」を主催・・・と誤解されたコメント(非公開)をいただいた。
「國風講座」の森田サンは「二・二六事件殉国烈士慰霊の会」とは無関係。民族革新会議の水谷サンが「國風講座」を聴講して 末松センセイと出会って・・・というだけのオハナシです。
蛇足少々。「慰霊像護持の会」の「追悼式」では 国歌斉唱や蹶起趣意書朗読は行いません。 

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「殉国烈士慰霊祭」の後は 諸団体毎に分れて「直会」を開くという。私は(迷いを抱えて)ブラブラと坂を下って渋谷駅方面へ。迷い=賢崇寺に向かうべきか、このまま自宅に帰ろうか。さあ どうする。
「追悼式」には顔を出さずに「慰霊祭」に参加したことで《不公平感》が生じている。バランスをとるには「賢崇寺」に行くしかない。法要の参加不参加は その場で判断することにして 渋谷駅東口からバスに乗る。
賢崇寺の門前に「愛国党」の街宣車が停車していた。賢崇寺に隣接したマンション工事は 完成間近で「急な登り坂」も以前の姿に戻りつつあった。
本堂前の広場には「黒服の群れ」が屯している。法要に参列する人数よりも「黒服=公安」の方が多い。「黒服」を迂回して「二十二士の墓」に向かう。しかし「十人ほどの集団」が墓前を占拠していて近寄れない。
久しぶりに「賢崇寺の法要」に顔を出す。今泉サン&森田朋美サンの笑顔に迎えられる。大石記者サンの笑顔もある。万一の場合を考えて「志」を(仏心会と慰霊蔵護持の会)持参していたのが役立った。5千円✕2。後で家人から「1万円✕2が常識でしょ」と叱られた。
参列者は意外なほど多かった。椅子が足りなくなる度に 大石記者サンが(正面祭壇の奥から)運び出していた。相沢一郎(相沢中佐直系の孫)サンも来ていたと 大石サンから後で聞いた。

香田サン(仏心会・前代表)と久しぶりに歓談。すぐ隣に「新代表」が坐っていたが 紹介されなければ(大人げないけれど)無視するしかない。香田サンは「法要が『三島由紀夫との合祀』として一度だけ行われた」ことをご存じなかった。新代表は「栗原中尉の弟サンのご子息」のようだが こうした話題に加わることはなかった。それが悪いというわけではない。法要が「《事件》を追悼する集い」だった時代は確かにあった。現在の法要は「仏心会=遺族の会」という原点に立ち返って行われている。あれこれ錯綜している過去の出来事に(仏心会代表が)精通する必要はない。

今泉サン+森田朋美サン+渡辺都サンが揃えば「末松サン 一緒に飲みましょうね」になり定番コース(池田少尉の墓参~はしご酒)になる。しかし 賢崇寺ロビーでの歓談が長々と続いて 次第に心理的な疲労も強まって ついには「今日は帰ります・・・」と 大人げない結末を迎えてしまった。(末松建比古)
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◎さあて どうしようかな…◎

2024年02月21日 | 末松建比古
ことしも「2月26日」が近づいてきた。
諸事情あって かなり以前から「賢崇寺法要」に参列しなくなっている。まして ここ数年前からは(新型コロナの影響もあって)法要参列者は《NPO法人・仏心会》のメンバー数人に絞られているから 今の私(仏心会の会員ではない)は「招かれざる客=シドニー・ポアチエ主演」のようなもの。安心して(!)欠席できるのである。
「午前中は慰霊像の前にいて 渋谷駅前のバス停まで歩いて 麻布十番までバスで移動して 賢崇寺の法要に参列して・・・」
これが毎年の《2月26日の定番》だった時代もあったのだ。当時のあれこれは今なお鮮烈に記憶されている。
慰霊像の前には 池田少尉や柳下中尉や北島伍長の姿があって 移動するバスの隣席には 高橋正衛サンが坐っていて…。

さあて どうしようかな…。
安心して(!)欠席するつもりでいた私に《微かな迷い》が生じたのは 先日参加した「国風講座」に起因している。
直会で名刺を交換した「民族革新会議」のMサンに「2月26日は、慰霊像にいらっしゃいますよね…?」そして「当日お見かけしたら お声をかけてもいいですか…?」と言われてしまった。
民族革新会議の公式ブログには「二・二六事件殉国烈士慰霊の会・主催」の「慰霊祭」の模様が 写真と共に報告されている。それを見て「慰霊祭」開催の意図や《Mサンの役割》などを知ることができた。



画像は 1965(昭和40)年2月26日に開催された「慰霊像除幕式」の模様で 壇上には河野司氏と末松太平の姿もある。
午後1時半、導師賢崇寺住職(藤田俊訓師)及び二伴僧+唐津善興寺住職+浦賀東福寺住職の五師が、一段高い前庭正面に着席、末松太平の司会によって開式された。君が代合唱、仏心会河野司代表の挨拶を経て、栗原中尉御母堂が除幕の紐を引き、慰霊観音像が姿を現した。



建立代表者(河野司)による啓白文奏上、開眼供養の読経。続いて事件殉難諸霊の「三十回忌法要」に移り、読経のうちに焼香に入る。仏心会遺族十三家、殉難警察官遺族代表(土井スミ子未亡人)、関係殉難者代表(宇治野みき子未亡人)を始めとする遺族の方々。荒木貞夫を始めとする参列の方々。最後に殉難者五十士の名が読み上げられ、末松太平の閉会の辞をもって約1時間の行事が終了した。
除幕式を終了し 参列者」一同は隣接の渋谷公会堂の地下食堂へ。正2時半「記念慰霊像竣工祝賀披露会」が、末松太平の開会の辞に始まる。河野司仏心会代表が完成までの経過報告と感謝の辞を述べ、参列者を代表して荒木貞夫、石原広一郎の祝辞、工事関係者への感謝状贈呈、各地からの祝電の披露、最後に建立準備事務所を代表して小早川秀浩より募金経過及び概況を報告。隣接した祝宴会場に移って 祝杯&歓談&追憶のひとときを過ごし 午後5時に行事完了となった。
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画像は「除幕式」が開催された日の約1年前。1964年3月末に於ける「現地」である。
責任者河野司+相談役末松太平+常勤小早川秀浩+会計監査藤田俊訓を中心に設立した「記念慰霊像建立準備事務所」が 多数の方々の支援協力のもとに「慰霊像」の建立に着手。現地で「記念式典」が開催された。
処刑場の跡地に「慰霊像」を建立するまでの苦難の数々は《河野司著「ある遺族の二・二六事件」河出書房新社・1982年刊》に詳しいが 今では入手が困難かも知れない。

ここで話を「今年の2月26日」に引き戻す。
当日 仏心会と慰霊像護持の会が主催するのは《慰霊》のための催しである。慰霊像の碑文には「・・・この因縁の地を撰び、刑死した二十名と自決二名に加え、重臣、警察官この他事件関係犠牲者一切の霊を合せ慰め、且つは事件の意義を永く記念すべく・・・」と記されている。かって「君側の奸」とみなした方々も《殉難者》として一緒に《慰霊》している・・・ということである。
毎年 賢崇寺の法要では「◎◎回忌法要招霊物故者」として 殉難重臣・殉難警察官・二十二士・その他の物故者という順に名前が呼ばれている。因みに「末松太平」は(筆頭の齋藤実氏から数えて)78番目の招霊物故者になる。

2月26日の慰霊像前では 先ず「慰霊護持の会(世話人代表=今泉章利)の慰霊祭」が行われ 次いで「殉国烈士慰霊の会の慰霊祭」が行われる。勿論 民族革新会議のMサンが参加するのは「二・二六事件殉国烈士慰霊の会」による「慰霊祭」の方である。
そこでは 威儀を正して「蹶起趣意書」が読み上げられ 続いて「殉国烈士の志」を引継がんとする思いが 毅然と述べらる。

この「ブログ・末松太平事務所」は「二・二六事件を風化させない」という願いを込めて立ち上げたものである。そのために《過去を伝え続けること》は重要だが 単なる《慰霊》に留まらず《志を伝え続けること》も大切にしなければならない。
さあて どうしようかな・・・。森田忠明主宰「国風講座」の後遺症(?)として 迷いの日々が続いている。(末松建比古)
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◎森田忠明主宰「国風講座」体験報告◎

2024年02月18日 | 末松建比古


2024年2月17日(土)。森田忠明サンに依頼された「勉強会」の講師を無事に終えた。
12時30分に会場(西新宿)に到着。勉強会&直会&二次会を終えて帰宅したのは22時であった。

森田サンに依頼された「勉強会の講師」だが いまいち釈然としない部分があることは 前回に記したとおりである。だから どういう状況にも対応できる心構えが必要になる。そういうわけで「レジュメ」20部と「資料類」を大きな肩掛けバッグに入れて我家を出発する。
画像参照 一見すると雨傘に見える丸筒には「昭和十年十一月鹿児島県での特別大演習記念写真」が納めてある。数千人の将兵が整列した超大版の記念写真で 前列中央は昭和天皇 左右に真崎甚三郎 川島義之 荒木貞夫 渡辺錠太郞 香椎浩平 山下奉文などが並んでいる。
都営三田線+大江戸線経由で「都庁前」下車、新宿中央公園を通り抜けて 会場(新宿角三町会・会館)に向かう。
会場入口の「本日の催し」には「国風」とだけ書かれていた。あ そういうことだったのか。一瞬にして全てが了解できた。

「日本経綸機構」祈誓
「一・萬世一系の皇統を護持すべし/一・国體の正氣恢復に邁住すべし/一・国風の雅を欽慕し推重すべし」
「上記祈誓のもと以下の諸組織を横断的に包括する機構とし、国家存立の諸懸案に不羈敢為をもて懸命せんとす」
「国民行動 国風講座 天長節を祝ふ會実行委員会 大詔奉戴祭實行委員会 玉鉾奉仕團 玉鉾書院 玉鉾歌壇 山酔會」

今日の私は「センセイ」である。
民族◎◎会議…、國體◎◎研究会…、政治結社◎◎…、◎◎烈士墓前祭実行委員……、政治団体◎◎事務所…、以下省略。こうした肩書を持つ皆様から「末松先生」と呼ばれながらの名刺交換。一見コワモテの方々だが《私より年下》ばかりなので 今日一日だけは「センセイ」でいることにする。
今日の勉強会には「古賀中尉(五・一五事件)の次男=昭和23年生れ」サンも参加していた。お父上の古賀不二人サンは「賢崇寺の法要」に度々参列して(末松太平の日記によれば)末松家に一泊したこともある。



画像は当日配布したレジュメ。A3サイズ2枚を横につないで撮影したもの。
「尊皇討奸」を全体を貫くテーマに据えて 大正後期から昭和平成令和の現在までの《「二・二六事件異聞」その周辺》を一気呵成に講義する…という試みだったのだが 次第次第に「持参した資料の数々」との連携が難しくなっていき いくつかの《語れなかった部分》が残ってしまった。
末松太平が死去するまで「公安の監視下」に置かれていたことも(エピソードを交えて)語ったのだが 今回の「勉強会」にも「公安」が参加していた。私の監視で来た筈はないから 気軽に名刺交換して 雑談も少々。

講義終了。世話役数人が近くのコンビニで飲食物を調達して 国風講座の会場は「直会」の場へと姿を変える。 
講義では詳しく紹介できなかった「持参資料の数々」に近寄る方々も多数いて 民族◎◎ 國體◎◎ 政治結社◎◎…と 名刺の肩書きが違うように 各人それぞれ《思い込み》や《関心》が異なるから その場での質疑応答も多岐にわたることになる。
初めて見る資料も多いようで「写真撮っちゃ駄目ですか?」「別に構いませんよ」「これも撮っていいですか」「いいですよ」。残念ながら「センセイとのツーショット」を求める人はいなかった。(末松建比古)
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◎「二・二六事件異聞」その周辺・・・◎

2024年02月09日 | 末松建比古


森田忠明氏に依頼された「勉強会」の本番が近づいて ぼちぼちと準備を進めております。
勉強会とは何か・・・? 多分 森田サン主宰「玉鉾書院勉強会」であろうと思ってはいるのだが・・・。
森田サンは 令和2年に発足した「日本経倫機構」の代表理事でもあるから 万一の場合も予期しなくてはならない。
いずれにしろ「二・二六事件関係者ではない方々」を相手に「事件ベッタリ」の内容を クドクド語っも仕方が無い。
ということで 講演タイトルは《「二・二六事件異聞」その周辺》ということにした。

登場人物は 大岸頼好・三上卓・古賀不二人(清志)・井上日召・佐郷屋義昭(留雄)・三島由紀夫・・・など「周辺の方々」を加えたオールスター。B型人間(私)に相応しい「雑学的展開」になりそうである。退屈させないために 秘蔵写真や秘蔵資料も持参して「バラエティ要素」を加える予定だが さてどうなるか。
《その周辺》の始まりは「大正14年(1925)陸軍士官学校・予科卒業」になるから そこから現在までの「ほぼ一世紀」を 一気呵成に語ることになる。錯綜する事柄を理解していただくためには「レジュメ」の配布が肝要だろう。
レジュメ=要約・摘要のこと。本来は「研究・教育分野」の用語だが 最近は「就職・転職分野」で履歴書や職務経歴書を指す用語にもなっている。今回作成した「レジュメ」は A3サイズ✕2枚に文字がぎっしり。要約・摘要というよりも「議事録」に近い分量になってしまった。
森田朋美サンのコメントでは「講義1時間+直会」のつもりらしいが 果たして講義1時間に無事収まるかどうか。多分「話は早く切り上げて 楽しく飲みましょうよ」と言われそうな予感がする。 

池田俊彦「回想の末松太平」/掲載誌=現代史懇話会「史」№81(1993年)号。 
「・・・昭和59年(「生きている二・二六」を執筆する際に)末松さんを千葉のお宅に訪ねた。末松さんは当時 網膜剥離という眼の難病に罹り、二度の手術を受けたが、視力が衰え、天眼鏡を頼りに本を読む状態であった。それにも拘わらず至ってお元気で、十月事件当時の話、対馬中尉のこと、西田税、大岸頼好のこと、そして戦後の旧軍人の動きなどを熱心に語られ、お話しは尽きることがなかった。・・・」
「・・・その後も時折末松宅を訪ねて、事件のことについて長話をした。夕刻になって私が帰ろうとすると、これからが大切な話だといって引き留め、とうとう夕食を御馳走になってしまうことも、度々あった。帰りには犬を連れて、西千葉駅まで送って下さった。その後、体調を崩されてからは、玄関で私の手を握り、別れを惜しまれた。・・・」
こうした《話は尽きることがなかった》や《これからが大切な話だと引き留めた》という「末松太平のDNA」は、そのまま長男(私)が引継いでいる筈である。現在の私は「他人との会話が苦手な孤立老人」なのだが、森田氏主宰「勉強会」の場で「末松太平のDNA」が顔を出すのか出さぬのか。それが悲劇と喜劇の分岐点になりそうな気がする。
「・・・末松さんが話し出すと、二、三時間は瞬く間に過ぎてしまう。しかしあの声はもう聞かれない。私(池田俊彦)の部屋には、末松さんの画かれた平和観音の像が額に入れて掲げてある。観音様は末松さんのような顔をしている。・・・」

画像は「学校法人・千代田学園/千代田工科芸術専門学校・千代田ビジネス専門学校」主催の「番組コンクール全国大会」表彰式で「審査委員長」として偉そうに総評を述べている私。広告代理店のCMディレクターだった私は「本業以外の役割」も演じていて 某チェーン店の「主婦のカラオケコンクール」で総評を述べたりもしていた。昔々の出来事である。(末松建比古)
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◎1月17日「末松太平32回忌?」その周辺◎

2024年01月17日 | 末松建比古


末松太平氏(すえまつたへい=元陸軍大尉)
1993年1月17日午前8時33分、急性心不全のため、千葉市中央区登戸5の8の8の自宅で死去。87歳。葬儀・告別式は20日正午から千葉市若葉区桜木町47の1の博全社式場で、喪主は長男建比古(たけひこ)氏。
二・二六事件に連座して禁錮四年の判決を受ける。63年に同事件を回顧した「私の昭和史」を発刊した。
(朝日新聞/1993年1月19日朝刊)
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1994年1月=一周忌。1995年1月=3回忌。ここまでは マジメに世の中のしきたりに従っていた。 
しかし「三回忌」を打ち止め(?)と決めて それ以来「法要の類い」は一切行っていない。
末松太平の遺骨は 千葉市若葉区の平和公園(市営墓地)に納められている。末松敏子(母)の存命中は「特別養護老人ホーム」に隣接していたから 最低毎週1回は(養護施設訪問のついでに)墓参も続けていた。しかし 特養施設を訪ねる必要がなくなり 次第に私自身の行動力も衰え コロナ禍の影響もあって 昨年度の墓参回数は 何と・・・。
昨年末 今泉サンのお誘いで「二・二六事件慰霊像」に集合している。こういう場所には顔を出しながら 両親の墓前には足が遠のいている。心が痛むのは当然のことで・・・。以下省略。

森田忠明サンから電話がある。
「ようやく(勉強会の会場が)が見つかりました」
2月17日(土) 西新宿三丁目の某会館で 13時~18時。
「え? 5時間? 私の他にも講師がいるのですね」「いいえ 講師は末松さんだけです・・・」
言うまでも無く 5時間も喋り続けるのは無理なこと。勉強会+懇話会=18時完了。
「ちょいと一杯のつもりで飲んで いつのまにやらはしご酒~♬」になりそうな予感がする。

「B型の人間は 講演に向いていない」という学説(?)がある。ともすれば「雑談余談の類い」になりがちである・・・という。
では 典型的なB型人間(私)は何を語れば良いのか・・・。
「《二・二六事件異聞》その周辺」・・・。とりあえず 仮題だけを伝えておく。
聴講生(?)は「森田サンより年下」らしいので 事件に特化した展開は理解されない可能性がある。
「その周辺」とは その辺を考慮しての仮題である。

確定申告の季節が来て 中央公論新社から「電子書籍印税計算書」が届いた。
末松太平著「定本 私の昭和史 二・二六事件異聞」は 電子書籍としても発売されていた。
アナログ人間の私には「限られた人を対象にした書籍」を「電子書籍」で読む方がいるとは思えなかった。
2023年1月~12月の電子書籍販売部数=49部。僅かな部数ではあるが 私には「驚きの数字」である。49人の方々には 心から感謝したい。
蛇足だが 今年から「インボイス」制度になって 電子書籍計算書は「印税+消費税=支払金額」になっていた。
因みに 本年1月の初版刊行の際には「印税総額✖✖(内消費税✖✖)」という表示だった。インボイス制度のもとで 消費税の処理をどうすれば良いのか 新たな検討課題(?)である。

画像=末松太平の葬儀風景。遺影が遙か遠くに見えることから 祭壇の規模が推察できると思う。
結果的に 葬儀場の4ブロックを使用した「身の程知らずの規模」になってしまった。(末松建比古)
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◎2024年・7回目の年男・・・◎

2024年01月09日 | 末松建比古
 

謹賀迎春。今年もよろしくお願い申上げます。
7回目の年男。果たして「8回目」を迎えられるかどうか。自信はないけど頑張ります。

新年早々 いささか落ち着きのない時間を過ごしております。
大晦日に 森田朋美サン(慰霊像護持の会・世話役)から電話がありまして・・・。
朋美「こんにちは。(森田忠明サンに)電話代わります・・・」
用件は 森田忠明サン主宰の「勉強会」への協力依頼。要するに「講師」のようなものでしょうか。
忠明「場所と日時が決りましたら 連絡しますので よろしく」

大晦日特有の慌ただしい心理状態のなかで ついつい承諾。
問「参加者は何人ぐらいですか?」答「十数人ぐらいでしょうか」
それ以外の事柄は何も確認しないままで ついつい承諾。
電話を切って 冷静になって 初めて「おいおい、どうする・・・」と自問自答する始末。

 

「末松太平」から想起される「勉強会」のイメージ。(注:クリックすると画像拡大)
古くは 壮年時代の「血盟団、五・一五、神兵隊、二・二六事件の真相を聴く会」。

 

白髪の高齢期を迎えても 半盲目状態の晩年を迎えても 機会さえ与えられれば「勉強会」に出かけて「二・二六事件の精神・誠心」を語り続けていた。
右の写真は 末松太平「最後の熱弁」直後の光景。池田俊彦元少尉(右から二人目)と一緒に講師を務めている。

度々記してきたことだが 私は(末松太平が死去するまで)二・二六事件関係の知識は皆無だった。
1963年2月《末松太平著「私の昭和史」みすず書房》が発刊された当時も、57歳と22歳の親子に「対話」はなかった。
末松太平の葬儀でも「追悼の辞」は割愛するしかなかった。喪主(私)に「事件関係の知識」がないから どなたに「追悼」していただけばよいのか 皆目見当がつかなかったのである。
葬儀の後も(知識ゼロに起因する)混乱が続き 困惑した私は 急遽「年表・末松太平」を作成することにした。
1993年2月24日に「年表・初版」が完成。それを頼りに 末松太平未亡人(母)と「賢崇寺の法要」に初参列。事件関係の皆様に(まともな!)御挨拶をすることができたのだった。

森田忠明氏主宰の「勉強会」の参加者が どのような知識を求めているのかは判らない。聴講生の顔ぶれも判らない。
未知の方々を前にして 二・二六事件について語れといわれても 研究者ではない私には 論理的な解説や 時系列的な説明をすることはできない。要するに「二・二六事件異聞」どころか「二・二六事件余聞」にも達していないレベルであって・・・。
さあ どうする・・・。

江翠サンから 嬉しいコメントをいただいた。
「紙碑」という発想に出会えて 孤老の心に温もりが蘇った。(末松建比古)
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◎2023年・慰霊像ご奉仕納め◎

2023年12月29日 | 末松建比古
 

2023年12月28日。JR原宿駅をスタート 代々木公園からNHK(新本館建築工事が進行中)沿いを歩いて「慰霊像」へ。連絡された「10時半」の直前に到達したのだが 今泉章利サン+森田朋美サン=お二人の清掃活動は 既に終盤に差し掛かっていた。
83歳老人(私)の体力を配慮して 今泉サンは「敢えて清掃が終る頃の時間を知らせた」のだと思う。結局 私の行動は 寄せ集められていた枯葉を 塵取りで処理しただけ。それでも狭い石段の登り降りにヨロヨロして 情けない限りであった。
清掃を終え 正月飾り&供花を済ませて 焼香合掌そして読経。今泉サンによる読経は 83歳老人を浄化してくれる。 

二・二六事件慰霊像は 渋谷税務署の敷地内にある。御用納めの日に御挨拶に伺うのが 毎年のシキタリである。
担当部門の係長サンが丁寧に対応してくれる。私の役割は 今泉サンの後ろで一緒に頭を下げるだけ・・・の筈だったが。思いがけなく係長サンに紹介されて 名刺交換という流れになってしまった。

賢崇寺の近くで昼食&「慰霊像護持の会」の忘年会。忘年会とはいっても 参加者は僅か3人だけ。これから先 慰霊像護持の会は無事に継続されていくのだろうか。
談笑のなかで「仏心会の代表が交替した」ことを初めて知った。香田代表から栗原代表にバトンタッチされたという。新代表は 栗原安秀中尉に所縁の方だと推測するが DNA的にはどういう繋がりの人物なのだろうか。
栗原安秀中尉と末松太平大尉との間には 親しい繋がりがあった。だからといって 新代表の栗原サンが 末松太平を知っているかどうかは判らない。

東京都港区の賢崇寺の近くから 東京都板橋区の(JR板橋駅近くの)酒場にワープして 二次会 そして三次会。
千葉県柏市住民&東京都八王子市住民のお二人にとって「自宅から遙か遠い場所」でのお開きという 申し訳ない次第となった。(末松)
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◎令和5年師走の憂鬱・緊急連絡のようなもの◎

2023年12月22日 | 末松建比古


年が明ければ 確定申告書の作成。今回は 諸事情あって 税理士センセイの助力が必要になっている。
税理士法人事務所(南池袋)を訪問。ついでに「ジュンク堂書店」現代史コーナーを視察する。
予期したとおり「二・二六事件関連書籍」は ご覧の状況。何とも淋しい限りである。
やはり「完本 私の昭和史/二・二六事件異聞」には 後継する書籍は皆無だったらしい

◎緊急連絡のようなもの・・・。
数日前 突然に「So-netメール」が使用できなくなった。「メール」をクリックしても「So-net」が表示されない。
前回掲載した「今泉サンからの連絡」の際は 何事もなく「了解返信」できたのに・・・。
「もしかすると(今泉サンから)慰霊蔵前集合時刻の変更メールが来ているかも・・・」
我家のパソコンには So-netメールが届かないから 私が知るよしもない。
突然の「So-netメール」トラブルに 83歳老人は困惑するばかりである。

とりあえず「So-netメール」の緊急策として「Outlookメール」を接続した。
しかし 知人友人で この「Outlookメールアドレス」を知る者は 誰1人居ないのが現状である。
思い起こせば「完本 私の昭和史」の刊行も 中央公論新社からのメールが発端だった。
もしも 今の状態だったら 橋爪史芳サンとの度々の連絡も 不可能だった訳である。

今回の事件(?)は「進化したOutlook」が原因である。進化は誰にも止められない。
実は 先日 税理士事務所を訪ねた際も 住所メモに誤りがあって 電話で問い合わせる必要ができた。
しかし 周辺に公衆電話は見当たらない。スマホ&携帯を所有しない私は 池袋駅構内まで引き返すしかなかった。
来年後半には 健康保険証も消失する。現金では支払い出来ない店も増えてきている。こうして アナログ老人の私は 徐々に「生きる術」を失っていく。

《追記》私への連絡には(So-netメールではなく)電話又は「コメント欄」をご利用下さい。Outlookメールで返信いたします。(末松)
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