◎末松太平事務所  (二・二六事件関係者の談話室)

末松太平(1905~1993)。
陸軍士官学校(39期)卒。陸軍大尉。二・二六事件に連座。禁錮4年&免官。

国立公文書館二・二六事件資料 目次 行動隊29巻の内5-10號  (将校班)

2018年02月05日 | 今泉章利

国立公文書館二・二六事件資料 目次 行動隊29巻の内1-4號(全般関係)に引き続き 5-10號(将校班)の内容は次の通り。
この将校班では23人が関与している。
写真は、私が閲覧した5,6,7號の写真である。

【5號】
①記録概要  上部工作関係

②内容細目 村中孝次(たかじ)、磯部浅一(あさいち)、香田清貞ニ対スル、憲兵、検察官ノ各訊問調書、予審調書、及、各関係書類。片倉中佐ノ病状書、其ノ他
      傷害ニ関スル書類。小藤大佐ノ憲兵聴取書

【6號】
①記録概要 首相官邸、高橋私邸 関係

②内容細目 栗原安秀、林八郎、池田俊彦、對馬勝雄、田中勝(まさる)、中橋基明、中島莞爾(かんじ)、今泉義道ニ対スル憲兵、検察官ノ各訊問調書、予審調書、及、各関係書類。


【7號】
①記録概要 陸相官邸、侍従長官邸 関係

②内容細目 丹生誠忠(よしただ)、竹嶌継夫、安藤輝三、澁川善助、山本又ニ対スル憲兵、検察官ノ各訊問調書、予審調書、及、各関係書類。
      

【8號】
①記録概要 斉藤邸、渡辺邸、警視廰関係

②内容細目 坂井直(なおし)、麥屋(むぎや)清済(きよずみ)、高橋太郎、安田優(ゆたか)、常盤稔(みのる)、清原康平(こうへい)、
      鈴木金次郎ニ対スル憲兵、検察官ノ各訊問調書、予審調書、及、各関係書類。

【9號】
①記録概要 公判関係

②内容細目 第一回及至第十一回 各公判調書及関係書類
      受命裁判官ノ証人尋問調書


【10號】
①記録概要 公判関係

②内容細目 第十二回及至第二十五回 各公判調書及関係書類
      被告人提出ノ上申書及手記(於公判)


注:公文書館における使い方:例えば、れまで、公表されなかった手記、上申書を見たいときは、29冊中の第9号にあるので、閲覧室の備え付けパソコンのリストから、29冊中の第9号の請求番号が示されるので、閲覧申込書に申し込む。
私のときは、たしか、パソコンリストの番号は、00356100であった。その後変更されているかもしれないので、親切な係の方に聞いて申込書を作成すればよい。


あと、下士官甲班(11-13号)(90名)、下士官乙班(14-17号)(75名)
湯河原班(18號)(8名)、兵班(19-29號)(1449名)と続きます。

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遅ればせながら、陸士47期 榎本忠孝さまのこと  (矢作雅男さまからのコメント)2017-07-26

2018年01月15日 | 今泉章利
昨年の7月に 矢作雅夫さまから次のようなコメントを頂いておりました。

QTE
大叔父に当たる 陸士47期 榎本忠孝  (矢作雅男)2017-07-26 16:53:14今泉章利様
大叔父に当たる 陸士47期 榎本忠孝 は昭和11年5月16日 近歩4営内将校舎にて自ら命を絶ちました。私は今年65歳 父親は平成24年鬼籍に入りました。90歳の生涯でした。陸士54期 近歩3でした。旧制 中学時代に突然亡くなった従兄弟 榎本忠孝のことを時々話してくれました。当時の時代背景を考えると胸が痛みますが真実が知りたいと思っています。
UNQTE

矢作様 返事が大変遅くなりお詫び申し上げます。
大叔父様の、榎本さまは、父と同じ47期、また、54期のお父上さまは、近歩三とは、不思議な御縁を覚えます。
まず、大叔父様の榎本さま(本籍埼玉)平成7年に発行された47期の任官六十周年記念号の物故者名簿の4番目に記載があり、「昭和11年5月16日 近歩4営内将校舎にて自決」とありました。
それよりも20年前に、任官40年記念号として「追憶」という追悼録がだされ、砂川清治さんが昭和11年10月に書かれた、「榎本忠孝君」という文章と、倉田宏さんが同じく昭和11年に書かれた文章が載っています。事件直後のこともあるでしょうが,
自決の原因に対する推測はされておりませんが、大変立派な方であったと記されております。お持ちでしょうか。
お父様の矢作さまは、矢作武三さまであられますでしょうか。記録には近歩三第九中隊とありました。
私も体調があまり良くないのですが、元気なうちに拝眉の機が与えられることを祈っております。

大変遅くなりました。お詫び方。
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国立公文書館二・二六事件資料 目次 行動隊29巻の内1-4號  (全般関係)

2018年01月13日 | 今泉章利
もう少し詳しく、、、1-4號  全般関係
以下のものは、東京陸軍軍法会議が作成したもの。1-4号では、1645人が関与している。

【1號】
①記録概要  捜査報告、予審請求、控訴状 等

②内容細目 全部ノ捜査報告、予審請求、予審終了報告、同意見書、控訴提起命令、控訴状、不起訴処分命令、三百十条告知書、
      身分異動通知、押収調書、死刑執行始末書 等

③備考   押収調書、全般ニ関係アルモノノミ  其他ハ各関係箇所ニ綴ル

【2號】
①記録概要 身元調書、 考課表写 等

②内容細目 将校、准士官、下士官、常人及 控訴提起ノ兵ニ対スル身元調書
      将校、准士官、下士官ノ考課表写
      将校班ニ属スル者ノ戸籍抄本

③備考   (記載なし)

【3號】
①記録概要 照会、回答、通牒 等

②内容細目 事件ニ関スル照会、回答、及 通牒ニシテ 記録トシテ保存スヘキ一切ノ書類

③備考   (記載なし)

【4號】
①記録概要 検證調書

②内容細目 首相官邸、侍従長官邸、高橋私邸、斉藤私邸、渡辺私邸、朝日新聞社、警視廰、新議事堂、陸相官邸、海軍省参謀本部、
      華族会館、幸楽、蔵相官邸、文省官邸、鉄相官邸、農相官邸、山王ホテル、黒龍會宿泊所ノ検証調書

③備考 湯河原ノ検証調書及河野大尉検視調書ハ湯河原班ノ記録中ニ綴ル

あと、将校班(5から10号)(23名)、下士官甲班(11-13号)(90名)、下士官乙班(14-17号)(75名)
湯河原班(18號)(8名)、兵班(19-29號)(1449名)と続きます。

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公開された二・二六事件軍法会議記録について

2018年01月12日 | 今泉章利
公開された二・二六事件軍法会議記録について その1


私の理解している軍法会議資料は次の通りであります。但し、東京地検に保管されていたものであります。即ち、
1.訴訟記録 32巻
2.行動隊記録29巻
3.不起訴記録 6巻
4.不起訴記録 (310から315条告知分)7巻
5.裁判書(さいばんがき と読みます)(判決文のことです)
6.事件簿4冊
7.被告人索引簿

体調の関係で、国立公文書館にいけなかったのですが、パソコンにリストがあり、訴訟記録や行動隊の区分と、請求番号、および、要審査か公開かの記述があります。 要審査は、申請して1-2日で決定がなされるそうです。本が決まったら、「特定歴史公文書等簡易閲覧申込書」に必要事項を記入すると貸出てくれます。
国の宝のような歴史資料ですから大切に扱ってください。私は、東京地検のとき、行動隊記録、なかでも、18巻湯河原班を中心に写していました。(でもこの18巻は、9月の時点では、公文書館はまだ要審査としていました)公開されたらもっとゆっくりと見てみたいと思います。
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平成30年(2018年)あけましておめでとうございます。

2018年01月11日 | 今泉章利
皆さま、あけましておめでとうございます。皆様のご多幸を祈念申し上げます。
本年は、慰霊像の清掃、賢崇寺における法要の実施、そして公開されました国立公文書館の資料の研究をつうじて、諸霊を偲び、慰霊の誠をささげたく存じております。何卒宜しくお願い申し上げます。

扨て、昨年(2017年)はいろいろななことがありました。感謝の気持ちを込めて思いつくままに、書かせていただきます。

1.2017年8月25日 国立公文書館
念願だった「事件訴訟記録」が次のように、東京地検から、国立公文書館へ移転し、公開されました。
8月25日付の公文書館のホームページには次のように書かれています。
QTE
3)軍法会議関係文書(平成28年度受入分)
法務省 判決原本綴等 384冊 本館 (注:竹橋の公文書館本館のこと、なお384冊には二・二六事件以外の軍法会議以外分も含まれている)
私の8月31日にブログにも多少かいておりますが、私の東京地検で書いたメモノートによれば:
訴訟記録32巻、 行動隊記録29巻、 不起訴13巻、 裁判書1冊、事件簿4冊、 被告人索引簿 とあります。
なお、この資料は、まだ、地理的関係もあるのか、御関心が薄く、なかなかご覧になられる方も少ないのですが、是非とも、オリジナルのーターをご覧になり、賢崇寺や渋谷宇田川町の慰霊像の御参拝など賜れば幸甚に存じます。昭和の時代の悲劇に巻き込まれ、とことん兵を愛していた若き将校たちの気持ちが、少しお分かりになると思います。事件の首謀者はすべて処刑され、関係者を予備役においやった所謂「軍閥」将官たちが、始めた戦争、すなわち日中戦争からの悲惨な戦争は、ついに「兵」を「モノ」のように扱い「特攻」「玉砕」や「インパール」などをへ、多くの国民を巻き添えにして終戦を迎えました。

2。弘前にお住まいの波多江たまさま、103歳になられました。お兄様の對馬勝雄中尉をここまで思われ続けておられるお気持ちに深く敬意を表するものであります。

3.11月13日、末松建比古様が、初めて拙宅に来てくださり、小生の持っている資料等をご覧になり、様々な意見を交換いたしました。また、「二・二六事件諸士 遺詠集」(初版昭和27年7月12日)に,末松太平先生が鉛筆で遺詠を追加された者を見せていただきました。例えば、西田税様のうたには、「かの子達はあをぐもの淵に、、」などを書き加えておられました。(外にもたくさんあります)太平さまのお気持ちが、心に染み入る様な気がいたしました。お許しが得られれば、末松太平追補版としてこの遺詠集を、印刷したいと願っています。

4.6月、田中孝さま、御子息の千晴様のご案内による田中勝中尉のお墓参り(埼玉県児玉郡安光寺)を行いました。(下関のお墓のお骨を改葬したものです。墓石はそのままだそうです)なお、12月に、有志によるお墓参りを行いました。

5.これまで何度かお問い合わせのあった、仙台の郷土研究家の中嶋久壽さまの「村中孝次と仙台」(B5で6ページ)という研究論文が、仙台郷土研究(復刊第42回第2号、平成29年12月)に掲載されました。ご興味のある方はご連絡くださいませ。

本年もよろしくお願い申し上げます。

今泉章利(慰霊像護持の会世話人代表)

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35.事件関係者の息子が見た二・二六事件「重要!」:82回忌法要御礼と軍法会議裁判資料の公開

2017年08月31日 | 今泉章利
35.事件関係者の息子が見た二・二六事件「重要!」:82回忌法要御礼と軍法会議裁判資料

些か(いささか)遅くなりましたが、7月の法要に参列された方に対し、8月の初め、次のような御礼のご挨拶を致しました。

拝啓 
  去る、七月十二日の八十二回祥月忌法要には、ご多忙中にも関わらず、又酷暑の中、ご参列頂き、衷心より有難く厚く御礼申し上げます。 
おかげ様で、皆様方の深い思いに、支えられ、心のこもった静かな法要を執り行うことができました。
当日ご報告致しました「公判記録の公開」につきましては、その後、予定通り八月中に行うとのお話も頂いております。
「公判記録の公開」により事件への関心が高まり、新しい世代の方たちが、様々な角度から事件を研究して頂きたく願っております

 私共は、今後とも心を尽くして慰霊の誠を献げたく存じております。
先ずは、略儀ではございますが 御礼に代えさせて戴きます。
                              敬具
  平成二十九年八月

文中にある、公判記録の公開とは、1988年に発見された東京地検の軍法会議の二・二六事件裁判資料である。この資料は、米軍の接収後に、法務省管轄の東京地
方検察庁に返還され、東京地検に保管されていたものである。
この資料は、二・二六事件の研究者のみに限って、1992年になって、一部の学者に閲覧許可が与えられ、判決(裁判書(さいばんがき))のみが、1994年に朝日
新聞より「二・二六事件 判決と証拠」として出版された。また、1997年に裁判を受けていた池田さんが「二・二六事件裁判記録ー蹶起将校公判廷ー」として、
当時の裁判の状況もふまえて、青年将校たちの裁判記録を、原書房より出版されている。また、1998年には松本一郎教授が、名著「二・二六事件裁判の研究ー軍
法会議記録の総合的検討ー」を著された。

私は、2005年、東京地検より制限なしの許可を受け、主に「水上源一」や青年将校の行動記録を中心に、裁判記録を、東京地検記録係において、閲覧した。
当時は、原本が痛む理由から、東京地検がコピーを作成し、我々が接することができたのは、この分厚いコピーのファイルであった。
私のメモによれば、訴訟記録32巻、行動隊記録29巻、不起訴記録6巻および不起訴記録7巻、裁判書1巻、の計66巻の他、事件簿4冊、被告人索引簿があり、約11万ページにわたる裁判記録は、推定210冊くらいの白黒のB4コピーファイルであった。
夫々のファイルが大変重く、記録係の方を煩わしながら、ガラスに仕切られた閲覧室で、ノートに書き写していた。東京地検では、その立場上、コピーや写真は一切認めなかったのである。

ところが、、昨日の2017年8月30日この資料が、一般公開されたのである。わたくしは、12年前に与えられた東京地検の閲覧のときを思い浮かべながら、
また、本日、国立公文書館で、実際に閲覧した。
すべて原本で、資料を手に取った時の思いが強烈であった。
資料が驚くほど異常に軽いのである。 中を開くと、薄紙の陸軍用紙に鮮やかにかかれた裁判記録、鉛筆書きの自筆の上申書や所感などが、ぎっしりと綴じられている。
またさらに驚いたことには、デジタルカメラであれば、フラッシュを焚かない限り、自由に撮れるという。
二・二六事件は80年のときを経て、私たち国民のまえに、その姿を現わしたのである。
私は、この高ぶった興奮を胸に、すべての事件関係者に思いを馳せながら、公文書館を出て、竹橋に向い、紀伊國坂を下って行ったのである。
二・二六事件を、次の若い世代の人たちが、新しい視点で、研究されることを切望するものである。この11万ページの生々しい一次資料は、現代史における超一級の資料である。
非公開、弁護人なし、上告なし、暗黒裁判の殆どがわからなかったこの大事件の資料の全貌が21世紀の日本人の前に、いきなり現れたのである。
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34.事件関係者の息子が見た二・二六事件:82回忌祥月命日ご報告

2017年07月17日 | 今泉章利
平成29年7月12日、東京麻布賢崇寺で、15士祥月命日、22士の命日の法要が行われた。
以下、ご報告申し上げます。

高齢化が進み、御便りは次の一通のみであった。

相変わらず東京は、暑い日が続いていると思います。こちらは静かな雨が降っています。
明日、穏やかな一日であってほしいものです。
諸士のご冥福をお祈りします。(北海道の方から)

私は、池田少尉が、昭和62年に出版された「生きている二・二六」から次の文章を読ませていただいた。
池田さんは林さん、竹島さん、栗原さん、安田さん、渋川さん、坂井さんの遺書に言及された後、坂井中尉の遺書に触れられた。
(以下文中より)

「、、宏大無辺の御仏の御慈悲に浸り、唯忠を念じて名目致します。前途を祝福して下さい。 天皇陛下  万々歳」

何という純な心であろうか。秩父宮のことや恨みがましいことなど一言も言わずにあの世へ逝ったのだ。
香田さん、丹生さん、安藤さん、對馬さん、高橋さん、田中さん、中島さんもみな無量の思いを遺書に認めて亡くなった。村中さんと磯部さんの手記は、現在事件究明の一つの鍵ともなっている歴史的価値あるものだが、両人の性格が実によく表現されていると思う。
 私は今日まで、何回もなくなった同志の人々の遺書を読んだ。そして凄まじい気迫の中に、何とも言えぬ真の人間性、人としての心の温かさを感じている。
あの人達は、人一倍君を思い、国を思い、人を愛し、兵を愛し、正義の迸(ほとばし)るところ、このような行動に身を投じて死んでゆかねばならなかった。
皆心優しき人々であった。西田税は同志の処刑後、次の歌を詠んでいる。

 かの子等はあをぐもの涯(はて)にゆきにけり
  涯なるくにを日ねもすおもふ

涯なる国はどこにあるのであろうか。私はひとり、君に対して不忠の臣、親に対して不幸の子として生き残った。」

香田代表理事からは、8月に公開予定といわれていた、裁判記録の公開が、さらに遅れる見込みであるとの報告があった。
弘前ご在住の、對馬中尉の妹様の波多江たまさま(102歳)より、リンゴジュースのお供え物があった。皆様にお分けした。

出席者は、炎天にも関わらず、40名近くの参列があった。北海道、湯河原、大阪、また、熱海からのご参加を頂き、衷心より感謝でいっぱいであった。

法要がすっかり終わり、本堂の前立った時、突然、私は、以前、賢萗寺の本堂の前で、杖をついた、背の大きな方にお目にかかったことを思い出した。その方は、いきなり私の顔見て「君は今泉君の息子か。」といわれた。父はその時はすでに亡くなっていた。その方は父と同期の常盤少尉であった。
暫く話をした後に、「泉下の皆は涙を流して喜んでいるよ。みんなは、本当に心の優しい人だった。」といわれたことを思い出した。常盤さんは、無期禁固。しかし常盤さんももうずいぶん前に鬼籍に入られた。

 (2010年、坂木原レム氏画のコピー、同氏より頂いたもの)

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33.事件関係者の息子が見た二・二六事件:81年目の処刑日

2017年07月12日 | 今泉章利


2017年7月12日なった。15人の青年将校の処刑日、1936年(昭和11年)から81年目にあたる。
静かな夜更けである。今日は、港区元麻布の賢崇寺で、82回忌の法要が営まれる。 私には、このブログを書くことを通じて、彼らの思いが例年になく強く伝わってくるのである。

蒸し暑い。しかし、東京渋谷の宇田川町の衛戍刑務所では最後の数時間、どれほど湿気があっても暑苦しくても、この国を守れ、お前たちは、朕が股肱なるぞとの信念に燃え、天皇が世々伝えられた天壌無窮のご計画を守るべく立ち上がった青年将校たちは、逆賊の汚名のもと、死にゆくのである。
処刑に促されて牢屋を出る瞬間まで、天皇陛下をおもい、日本国の行く末をおもい、親をおもい、妻や子をおもい、、廊下を歩いて刑場に赴くのである。
小伝馬町の牢屋だから、廊下を挟んで、向こうが見える。中庭も見える。みんな大声で自分たちの上官の名を叫んだ。精一杯大きな声で叫んでいた。窓ガラスで見えない牢屋では、刑務官を怒鳴り散らし、窓を開けさせた。
宇田川町の衛戍刑務所は、大きな涙声が こだましていた。

以下は、私が大阪の朝日の人ともに、直接聞いた、北島軍曹の話である。
「安藤さーーん」「安藤大尉どのーー。」「中隊長殿ーーー」
すると、刑場に赴く廊下から、安藤大尉が、するりと、中庭に歩いてきた。
安藤大尉は、獄中の人たちに向かって、「この度は、皆様に大変ご迷惑をおかけしました。こころからお詫び申し上げます。安藤、心より感謝しております。」といわれたと。
そのときの図面も書いてくれた。(後日掲載します)
外では、空砲の演習が始まっている。
そして、天皇陛下万歳の声がして、実弾のピューンという発砲音が聞こえた。
5名ずつ、三組。

香田清貞陸軍歩兵大尉 34才   ひたすらに君と民とを思いつつ 今日永(とこ)えに 別れ行くなり、ますらおの猛き心も乱るなり いとしき妻の末を思えば

安藤輝三陸軍歩兵大尉  31才  君国ノタメ捧ゲ奉ル 我コソ不滅ナリ 心安ラカナリ  死ト共ニ  七月十二日朝 (処刑による血の付いた書)、 國体を護らんとして逆徒の名 万斛の恨 涙も涸れぬ ああ 天は 鬼神 輝三

對馬勝雄陸軍歩兵中尉 28才 日は上り国の姿も明るみて 昨日の夢を 笑う日も来ん  、 大君にささげし命うちきよめ いのりつづくる 時をもたなん

・・・・・・・

これから9時に宇田川町の慰霊像にお参りし、1時から賢崇寺で法要が営まれます。

本当にお世話になった関係者が鬼籍に入られてしまった。河野先生、池田さん、北島さん、、父、しかし、私には、今も生き生きと彼らの姿や聲が聞こえるのである。 慰霊像の横から、お寺の本堂で、ひょっこりとお目にかかれる気がするのである。

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29.事件関係者の息子が実際に接した「二・二六事件の人たち」  軍人勅諭と蹶起主意書 池田俊彦さま

2017年07月12日 | 今泉章利
29.事件関係者の息子が実際に接した「二・二六事件の人たち」  軍人勅諭と蹶起主意書 池田俊彦さま

なぜ二・二六事件はわかりにくいのか。
鬱陶しい日が続き、なんとも体調がすぐれない。70歳を前に、身体が馬力の落ちたエンジンのようですといっても、今の元気のいい若い人には、ピントこないだろう。今の車は古くなっても馬力は落ちないのである。
今は、製造技術が発達して、価格も安いので、十分に動いているエンジンを積んだの車を廃車にするのに何の抵抗もない時代だ。無理もない。昔は、車はとても高級品であったから、エンジンの馬力が落ちたらエンジンを取り出し、シリンダーの機械加工やピストンリングの交換などをした。私の子供頃の人々は、虎の子の車をいたわり使っていた。しかし、こんなことが、つい昨日のことでも、今の若い人にはまるで通じない。そんなことを喜んでやる自動車修理職人などもいつの間にかいなくなってしまった。逆に、今常識である出来事が、20年もすれば、すぐにわからないことになってしまう。心しなければならない。
二・二六事件もまったく同じようである。
事件を起こした主意は、「蹶起主意書」に書かれている。とはいえ、難しい言葉がならび、国語辞書を引くのも嫌になる。いやになると解説本を探す。しかし、その解説本が解説になっていない。書いている人の理解が浅いのである。
しかし、私は、この趣意書が、軍人勅諭に呼応していることに、最近気がついたのである。 解説はともかく、まずは明治15年(1882年)に書かれた軍人勅諭を、次に、その54年後に書かれた昭和11年(1936年)に書かれた蹶起主意書をいきなり読んでいただきたい。そこには、半世紀以上も、軍人勅諭を胸に刻み、大元帥である天皇の統率される兵として精励刻苦、全力を尽くしてきた軍人の姿が浮かんでくる。
そして、日清日露をへて、歴史が移り、様々な国際問題、国内問題をが「昭和11年」をいただくように高まり、蹶起主意書が、かかれるのである。明治憲法は、欽定憲法にて「侵すべからず」しかし、近代自由主義からの、法匪、官匪、持てるものと持てざる者の差は広まり、「矛盾は国の命運」を左右するまでに深刻となっている。

(1)陸海軍軍人に賜はりたる勅諭(軍人勅諭)(明治15年、1882年)

我國の軍隊は世々天皇の統率し給ふ所にそある.
昔神武天皇躬(み)つから大伴物部の兵(つわもの)ともを率ゐ,中國(なかつくに)のまつろはぬものともを討ち平(たひらけ)け給ひ高御座(たかみくら)に即かせられて天下(あめのした)しろしめし給ひしより,二千五百有餘年を經ぬ。此間(あいだ)世の樣の移り換るに隨ひて,兵制の沿革も亦(また)屡(しばしば)なりき古(いにしえ)は天皇躬(み)つから軍隊を率ゐ給ふ御制(おん おきて)にて時ありては皇后皇太子の代(かわ)らせ給ふこともありつれと,大凡兵權を臣下に委ね給ふことはなかりき。中世(なかつよ)に至りて文武の制度皆 唐國風(からくにぶり)に傚はせ給ひ、六衞府を置き左右馬寮(さうめりょう)を建て防人なと,設けられしかは,兵制は整ひたれとも打續ける昇平(しょうへい)に狃(な)れて朝廷の政務も漸(ようやく)文弱(ぶんじゃく)に流れけれは、兵農おのつから二(ふたつ)に分れ古(いにしえ)の徴兵はいつとなく壯兵の姿に變り、遂に武士となり、兵馬の權は一向(ひたすら)に其武士ともの棟梁たる者に歸し、世の亂と共に、政治の大權も亦其手に落ち凡七百年の間武家の政治とはなりぬ

世の樣の移り換りて斯(かく)なれるは人力(ひとのちから)もて挽回すへきにあらすとはいひなから、且(かつ)は我國體に戻り且は我祖宗(わがそそう)の御制(おんおきて)に背き奉り浅間しき次第なりき。降(くだ)りて弘化嘉永の頃より徳川の幕府其政(そのまつりごと)衰へ、剩(あまつさえ)外國の事とも起りて其侮(そのあなどり)をも受けぬへき勢に迫りけれは朕か皇祖(おほじのみこと)仁孝天皇皇考(ちちのみこと)孝明天皇いたく宸襟を惱し給ひしこそ忝かたじけな)くも又惶(かしこ)けれ。

然るに朕幼くして天津日嗣(あまつひつぎ)を受けし初(はじめ)、征夷大将軍其政權を返上し大名小名其版籍を奉還し、年を經すして海内(かいだい)一統の世となり古の制度に復しぬ。 是文武の忠臣良弼(りょうひつ)ありて朕を輔翼(ふよく)せる功績なり
歴世祖宗の專(もはら)蒼生を憐み給ひし御遺澤(ごゆいたく)なりといへとも、併(しかしながら)我臣民の其心に順逆の理(ことわり)を辨(わきま)へ 大義の重きを知れるか故にこそあれされは 此時に於て兵制を更(あらた)め我國の光を耀(かがや)さんと思ひ此(この)十五年か程に 陸海軍の制(せい)をは今の樣に建定(たてさだ)めぬ
夫兵馬の大權は朕か統(す)ふる所なれは其司々(そのつかさつかさ)をこそ臣下には任すなれ 其(その)大綱は朕親(みずから)之を攬り 肯(あへ)て臣下に委ぬへきものにあらす 子々孫々に至るまて篤く斯旨を傳へ天子は文武の大權を掌握するの義を存して 再(ふたたび)中世以降の如き失體なからんことを望むなり
朕は汝等軍人の大元帥なるそ されは朕は汝等を股肱(ここう)と頼み汝等は朕を頭首(とうしゅ)と仰きてそ其親(したしみ)は特に深かるへき 朕か國家を保護して上天(しやうてん)の惠に應(おう)し祖宗の恩に報いまゐらする事を得るも得さるも 汝等軍人か其職を盡すと盡さゝるとに由るそかし
我國の稜威(みいつ)振はさることあらは 汝等能く朕と其憂(うれひ)を共にせよ 我武維(これ)揚(あが)りて 其榮を耀さは 朕汝等と其譽(ほまれ)を偕(とも)にすへし 汝等皆其職を守り朕と一心になりて 力を國家の保護に盡さは 我國の蒼生は永く太平の福を受け 我國の威烈は大(おおい)に世界の光華ともなりぬへし
 (以下略)

2.蹶起主意書 (昭和11年、1936年)

謹んで惟(おもんみ)るに我が神洲たる所以(ゆえん)は万世一系たる 天皇陛下御統帥(とうすい)の下に挙国一体生成化育を遂げ遂に八紘一宇(はっこういちう)を完(まっと)うするの国体に存す。
此(こ)の国体の尊厳秀絶は天祖肇国(ちょうこく)神武建国より明治維新を経て益々体制を整へ今や方(まさ)に万邦に向つて開顕進展を遂ぐべきの秋(とき)なり。

然(しか)るに頃来(けいらい)遂に不逞凶悪の徒簇出(ぞくしゅつ)して私心我慾(がよく)を恣(ほしいまま)にし至尊絶対の尊厳を藐視(びょうし)し僭上(せんじょう)之れ働き万民の生成化育を阻碍(そがい)して塗炭の痛苦を呻吟せしめ随(したが)つて外侮外患日を逐(お)うて激化す、所謂(いわゆる)元老、重臣、軍閥、財閥、官僚、政党等はこの国体破壊の元兇なり。

倫敦(ロンドン)〔海軍〕軍縮条約、並に教育総監更迭に於ける統帥権干犯至尊兵馬大権の僭窃(せんせつ)を図りたる三月事件或(あるい)は学匪(がくひ)共匪大逆教団等の利害相結んで陰謀至らざるなき等は最も著しき事例にしてその滔天(とうてん)の罪悪は流血憤怒真に譬(たと)へ難き所なり。
中岡、佐郷屋(さごや)、血盟団の先駆捨身、五・一五事件の憤騰(ふんとう)、相沢中佐の閃発となる寔(まこと)に故なきに非ず、而(しか)も幾度か頸血(けいけつ)を濺(そそ)ぎ来つて今尚些(いささ)かも懺悔反省なく然も依然として私権自慾に居つて苟且偸安(こうしょとうあん)を事とせり。露、支、英、米との間一触即発して祖宗遺垂の此の神洲を一擲(いってき)破滅に堕せしむは火を賭(み)るより明かなり。
内外真に重大危急今にして国体破壊の不義不臣を誅戮(ちゅうりく)し稜威(みいつ)を遮り御維新を阻止し来れる奸賊(かんぞく)を芟除(せんじょ)するに非ずして宏謨(こうぼ)を一空せん

恰(あたか)も第一師団出動の大命渙発せられ年来御維新翼賛を誓ひ殉死捨身の奉公を期し来りし帝都衛戍(えいじゅ)の我等同志は、将(まさ)に万里征途に登らんとして而も省みて内の亡〔世〕状に憂心転々禁ずる能はず。君側の奸臣軍賊を斬除して彼の中枢を粉砕するは我等の任として能くなすべし。
臣子たり股肱(ここう)たるの絶対道を今にして尽さずんば破滅沈淪(ちんりん)を飜すに由なし、茲(ここ)に同憂同志機を一にして蹶起し奸賊を誅滅(ちゅうめつ)して大義を正し国体の擁護開顕に肝脳を竭(つく)し以つて神洲赤子の微衷を献ぜんとす。 
皇神皇宗の神霊冀(こいねがわ)くば照覧冥助(めいじょ)を垂れ給はんことを


 昭和拾壱年弐月弐拾六日  陸軍歩兵大尉 野中四郎 外同志一同



この事件を理解するには、明治憲法において、天皇が統帥権を有して軍隊を率いていたこと、そして半世紀以上も、毎日、この勅諭を復唱する軍人を、理解することが必要である。

歩一の陸軍少尉、池田俊彦さんが、法要のとき何の挨拶も抜きに、胸から取り出した蹶起主意書を大きな声で、読まれた時の横顔をのを思い出す。 
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32 北海道の話 歩兵操典と父の初年兵教育

2017年06月26日 | 今泉章利
北海道の話 歩兵操典と父の初年兵教育

末松さま。身にしみいるブログ、御過分のお言葉、誠にありがとうございました。恐縮しております。
そうですね、すでに答えは出ているのですけれど、いざ、文字にしようとすると、いろいろと検証する必要があったり、個人的な思い込みを払しょくする必要があったり、でも思い込みが消えなかったり、凡人であることを痛感します。そうすると、壁にぶちあたるような気がいたします。
さて、先日、北海道千歳に行ってまいりました。懐かしい方たちとの語らい、大変、勉強になりました。年齢は私とあまり変わらないのですが、昔からずっと事件の法要に出ておられた方からのお話、高橋正衛さんの若かりし頃の話とか、印象深いものがありました。
また、父が心血を注いでいた初年兵教育のベースになっている「歩兵操典」の読み方教育法など、教えて頂きました。
今の自衛隊では、アメリカ方式になっているのだそうですが、それでも旧日本陸軍の良いところをミックスしたような、「自衛隊新入隊員必携」とか、言う本があり、これが、内容は全然違うけれど「歩兵操典」に当たるものだそうです。

「歩兵操典」の一例ですが、私の理解している限りにおいての説明ですから間違っているかもしれせんが、たとえば、「機関銃及び自動砲教練」における分隊の隊形および分隊長以下の「隊形」の記述では、分隊長は馬に乗り(馬の背中という意味で「駄載(ださい)」)そのあとに4名横隊の銃手が二列(合計8名)。 それから、三歩下がって、「銃(砲)馬」およびそれを御する「馭兵(ぎょへい)」一名、さらに、五歩下がって、弾薬馬および馭兵一名。これが簡潔な図になって示されています。「機関銃」(一分間に200-300発)「自動砲」(一分間に五-六発)についても、分隊長以下それぞれ八名の役割が示されています。そのあと、戦闘、夜間訓練、弾薬の補充等などが記されています。
「要は、ここに示される通り、体が覚えるまで訓練すればいいのですよ。」と、こともなげに、友人は言いましたが、「歩兵操典」は次のように一から七篇まであります。

第一編 各個教練 (「不動の姿勢」「擔(ニナ)へ銃(ツツ)」から「射撃」「手榴弾」「戦闘」「夜間ノ動作」など)
第二編 中隊教練 隊形、戦闘、中隊、戦闘のための前進、展開、突撃、防御、夜間戦闘、追撃、退却、弾薬・資材の補充など)
第三編 機関銃及自動砲教練(隊形、射撃、、)
第四編 歩兵砲教練
第五編 大隊教練
第六編 通信隊教練
第七篇 聯隊教練
付録  刀、喇叭ノ操法、十一年式軽機関銃ノ操法など

なるほど、兵隊を訓練する、錬度の高い軍隊になるのには相当なエネルギーと期間が必要です。
自衛隊では、刀やサーベルを使うのですかと聞いたら、赤坂御所などの儀仗兵による例外(サーベル)を除いては、一切使わないとのことでした。

いや、それにしても、この本をみないで、様々な動きを体に教え込むなど、兵役の間は、休む暇なしだと思いました。私の父は、第一篇のあたりで、事件になってしまったのですが、参考までに、教練に関し父の書いたものをすこし書いてみます。(懐かしき初年兵教育の想い出(昭和六十三年、「草萌え」六 より))

《愛する新兵さん達》
昭和十年十二月一日、初冬の好日和であった。近衛歩兵第三聯隊の正門には、昭和十年徴集兵達の晴れの入営を歓迎する大きな国旗が掲揚され、正門歩哨も緊張の面持にて厳然として立っている。午前八時、付添人同伴の入営兵達が威儀を正して続々として入門し、誘導兵の案内にて各所属中隊の入り口に集められた。
第二大隊第七中隊の新兵さん達は、全部で八十四名、出身地は、北は北海道から、南は沖縄まで、殆んど全国に及ぶ。気候、風土、生活習慣の異なる壮丁を受け入れたのである。
扨て、入営兵たちは、付添人と別れを惜しむ暇もなく、各班長に引率され、目が回るように忙しい内務班生活が始まる。一方、入り口前には中隊の幹部が整列し、紋付羽織姿の、付添の父兄達が、肩を寄せ合うように、安堵と不安のまなざしで集まっている。

先ず、中隊長 井上勝彦大尉(三十九期)の挨拶
 名誉ある、当聯隊の入営に当たり、全国各地より遥るばる上京せられ、本日めでたく入隊されました。ご存知の通り、当聯隊は、禁闕守衛の大任を担っております。皇軍の一員として、立派に御奉公できるよう、中隊は一致団結して訓練に励みます。どうか安心してお引取りください。

次に初年兵教官 今泉義道少尉(四十七期)の挨拶
 本日より皆さんの御子弟を 天皇陛下 の赤子として謹んでお預り致します。私は基本教育を実施する責任者であります。去る十月に少尉に任官したばかりのホヤホヤでありますが、腰に剱を帯び軍隊の飯を食うこと七年以上です。(注:東京陸軍幼年学校(14歳入学)、陸軍士官学校予科、本科、少尉任官21歳)、僅か一歳年上の兄貴ですが、軍隊教育の神髄は、愛と誠なり、と教えられて参りました。担当の助教助手共々三ケ月に亘りまして、名誉と責任を肝に銘じ共に汗を流して相共に努力することをお誓い致し、私の御挨拶と致します。

私は、かねてより作っておいた、初年兵教育進度計画と実施要領を教官室の壁に貼りつける。助教(下士官四名)助手(伍勤(注:伍長勤務上等兵=極めて優秀な上等兵)を含む上等兵八名)の理解を仕易くするためだ。
現在私の手許にはこの大きな一覧表はないが、記憶を辿れば概ね次のようになる。
 第一期 十二月 徒手執銃各個教練
 第二期 一月  分隊訓練
 第三期 二月  夜間教練  実弾射撃等
右に基き教練の合間を見て、精神訓話(勅諭)学課、歩兵操典の他、緊張の初年兵をリラックスさせるため、軍歌、演芸、作文などの心配りもした。各内務班では、兵器の手入れ、被服の整理整頓など、内務の躾(しつけ)が逐次行われていた。教官たる私は、各人の名前と顔などを早く覚えるため、夕食後など暇を見つけては、一人宛私の個室に呼び寄せ、身上調査を始める。中隊の書記はすでに立派な、身上調査一覧表を作り届けてくれていた。これは、マル秘であるが、現在私の手元にあり、大切に保管している。これを見ると例えば
学力欄=大学専門学校卒 五名、 尋常小学校卒 三名、 中学校卒 十七名、 高等科小学校卒 五十九名、 学力、程度のバラツキの広さ
職業欄=圧倒的に、農業が多く、殆んど小作農である
家計欄=家計困難が四名もいる。近衛師団はその徴集に当り道府県知事の推薦によると聞いていたが、これには内心驚く

営庭(注:近衛歩兵第三聯隊の場合、百二十メートル×六十メートルの運動場のようなところ。さらに聯隊には、八ケ中隊、機関銃隊、炊事場や浴場など、約二〇〇〇人くらいの若い男たちが日夜訓練に励んでいたのである。見えにくいが近歩三の図面を添付した。)には、早朝より元気の良い号令や掛声などが響き渡る。
汗まみれの兵隊には、入浴、着替え、洗濯など特に保健衛生には留意する。この頃は肺結核が猖獗を極めていた。週番士官以外の日でも、私は各班内を巡視し、消灯後の就寝状況などを見廻った。土曜の夜は、班長達を、私の個室に呼んで菓子や酒などをやり乍ら、懇親を深めつつ教育上のさりげない情報を集めていた。

 昭和十年十二月二十五日、営庭において、第一期検閲、幸い第七中隊は、最も優秀なりとの講評を受けた。この日、井上勝彦中隊長は、陸大の専科学生として転出された。自然の成り行きで私は中隊長代理になった。(中略)

 昭和十一年一月五日、陸軍事始。代々木練兵場に於いて観兵式が行われた。
 大元帥陛下におかせられては愛馬白雪を召され、在京各部隊を御観閲、続いて御閲兵。勇壮なる軍楽の調べに歩武堂々、陛下の御前を分列行進。私は、愛刀、紀伊国綱広(きいのくにつなひろ)を抜き放ち、第七中隊を指揮す。正に光栄の一齣(ひとこま)であった。

 昭和十一年一月十五日、聯隊命令により本部附き、中橋基明中尉(四十一期)が吾が第七中隊中隊長代理に補せられた。
 
 昭和十一年一月二十六日、代々木練兵場に於て、第二期検閲了る。
 そのころ、陸士本科歩兵教練班一行が代々木にて私共の初年兵教育の現場を見学、多分分隊教練の訓練でもやっていたのであろう、「颯爽とした今泉教官の姿は忘れられません。」と思い出を語ってくれたのは、四十八期の後(うしろ)勝(まさる)君である。

 昭和十一年二月二十五日、夜間訓練を了えて、午後八時頃帰営。第三期検閲を富士の裾野の滝ケ原廠舎に於て受けるべく翌二十六日は代日休暇。二十七日は原宿駅より軍用列車にて、御殿場に向かう予定であった。 

 吾が愛する初年兵は、漸く言語もハキハキ、動作もキビキビ、顔付も引締まって、立派な兵隊さんらしくなってきた。
私は第三期検閲に関する打合せを助教たちと行い、久しぶりに鎌倉の家に帰るべく、隊をでた。山王下で電車の来るのを待ったが、さっぱり来ない。タクシーも止まらない。薄汚れた残雪に佇み長靴の指先がしびれるように凍ってきた。あまりの寒さに、決心変更、再び坂を上って帰隊、自室の寝台にもぐり込んだのは多分、二十六日の零時を過ぎていた。


多少長くなりましたが、北海道で、「歩兵操典」の話を聞きながら、父の僅か三か月の、初めにして最後の、初年兵教育のことを考えていました。
この運命の昭和十一年二月二十六日、午前三時、父の軍隊生活は、いきなり終わりを告げたのでした。 



近衛歩兵三聯隊(今の赤坂TBSの場所)
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31 なかなか投稿できずに申し訳ありません

2017年06月09日 | 今泉章利
いろいろと準備はしているのですが、どうも投稿できずにいます。
仕事や、体調があまりよくないことは、事実ですが、いいわけにはならなりません。いまや、私にとって、この投稿は私の遺書のようなものであり、重要なものです。
にもかかわらず、投稿して居ないのは、畢竟、精神が足らない證拠です。お詫びします。

昨日、父の獄中和歌を久しぶりに見つけました。

    

時鳥(ホトトギス)血に鳴く声は有明の月よりほかに知るものぞなき  今泉義道

22歳の父が、獄中で、銃殺されていった方々を思いながら、詠んだ歌だと思います。

私は、いま、もうすぐ68歳。あまり気負わず、思ったことを、記すべきだよという声が聞こえてくる気がします。今日も、様々な、行事がありますが、気負わず、流されず、投稿ができますよう、祈っています。
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◎「混淆ダブルス」の難しさ◎

2017年06月08日 | 末松建比古
吉村真晴サン&石川佳純サンの「混合ダブルス」が卓球の世界選手権で金メダルに輝いたが、当ブログは言うなれば「玉石混淆ダブルス」のようなもの。皆様には“玉(今泉)石(末松)混淆の内容”に戸惑うことも多々あると思われるが、玉(真面目)&石(軽薄)の“混交”から、それぞれの心情を推察していただければ幸いである。

“混淆ダブルスの難しさ”を示す実例として、5月3日付で記した“末松太平が「論争ジャーナル」に書いたこと”を挙げておく。
「論争ジャーナル」1967年3月号掲載の「2・26は怪獣ではない」については、当時の風潮を知らない方々に(同志相撃の如き)謝った認識を与えかねないので、いままで触れずにいた。しかし、今泉サンの文章(4月14日付)に「論争ジャーナル」が登場して「入手できていないが・・・」とあるので、避けては通れなくなった。それでも“差障り”は最小限にとどめたいので(今泉サンの文章の)コメント欄に記すだけにした。
末松太平が「いままた奇妙な尾鰭が二・二六事件につけられている」と指摘したのは、文藝春秋二月特別号に特集されている「これが“昭和維新”なのだ」という記事に対してである。しかし私が(4月14日付の)コメント欄で紹介したのは、内容の「ほんの一部分」だけにとどめている。その理由は、次の画像をご覧いただけば推察できると思う。



文藝春秋二月特別号は、今泉サンも所有している筈である。当然、今泉サンの意見(文藝春秋編集部への怒り)もあるだろう。私が記事の内容に触れるのは“今泉サンの次”で構わない。急ぐ必要はないのである。
当ブログの執筆には“下書き”機能が利用できるから、今泉も末松も“執筆途中の未公開原稿”の存在を知ることができる。ネタバラシになるが、今泉サンは現在“5件”の未公開原稿を抱えていて、その中には「これが“昭和維新”なのだ」に関するものもある。
そもそもは、半世紀も前の雑誌に書かれていたことである。反論を急ぐことはない。のんびり構えて、いつの日か原稿を完成されれば良いと思う。

因みに、文藝春秋(1967年)二月特別号の座談会「これが“昭和維新”なのだ」の出席者は、湯川康平、今泉義道、池田俊彦、舩木繁の4氏で、文藝春秋編集部(半藤一利氏は無関係の頃)の司会。サブタイトルは「30年目にして語られた、新事実?」で、悪意の憶測に「?」をつけて誤魔化す編集技術は、当時も今も変わらない。

そして、時間は「事件から30年目」から「事件から満50年」にワープして、再び事件関係者が集められた。文藝春秋(1986年)3月号掲載の座談会「われらが遺言・50年目の二・二六事件」がそれである。司会は半藤一利氏。出席は、赤塚金次郎、池田俊彦、今泉義道、常盤稔、湯川康平の5氏。陸軍士官学校(47期)を卒業して、事件当時は21歳の少尉だった。
半藤「二・二六事件は昭和史最大の事件の一つであり、いまだに最大の謎だと思うのですが、あれから満五十年、これを最後の機会として、いわば遺言のつもりで存分にお話し戴きたいと思います。今日お集まりの皆さんは、死刑にならずに生き残った青年将校の方々なのですが・・・」以下省略。
この1986年の座談会は、“半藤一利編著「昭和史探索・3」ちくま文庫2007年刊”に再録されているから、皆様も容易にチェックできると思う。(末松)
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◎「共謀罪」の衆院通過に思うこと◎

2017年05月24日 | 末松建比古


2017年5月23日(火)の午後、“犯罪を計画段階から処罰する「共謀罪」の趣旨を含む組織的犯罪処罰法の改正案”が衆院本会議で、自民・公明・日本維新の会などの賛成多数で可決された。因みに“”内に記した部分は、朝日新聞の記事によるもので、安倍晋三サンが「共謀罪という略称」を用いているわけではない。
それはさておき、安倍晋三サンの最近の言動は、森友学園&加計学園問題なども含めて、いささか常軌を逸しているように思える。
私なりの感慨は多々あるが、それは省略。穴埋め(?)として、末松太平が(約50年前に)記した“感慨のようなもの”を記しておく。

「信濃毎日新聞」昭和41年2月22日号(文化欄)に掲載された「二・二六事件三十年」という記事。
見出しの「“原因の根絶”が教訓」や「当時、政財界は混乱腐敗」という文言が、平成29年の“現況”に奇妙にオーバーラップしてしまうが、この文言は信濃毎日新聞の記者が記したこと。末松太平自身は、さほど過激なことを述べてはいない。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 今年は二・二六事件から三十年と言われている。指折って数えてみると、三十年と言ったらいいのか、三十一年と言ったらいいのか、小学生のころ年齢算が苦手だった私にはよく判らない。が、私が二・二六事件関係者だということで、ここのところ、この三十年とやらを「記念」させられる。が、二・二六事件のことは私には、もどかしいくらい、あわあわしい記憶になってしまっている。時に忘友のことを切なく思うことはあっても、三十年とやらを格別「記念」するほどの感慨はない。
 二・二六事件関係者といっても私は東京で直接二・二六事件に関係した者ではない。私は当時青森にいた、大尉になったばかりで、青森の歩兵五連隊で、前年官制で新設された歩兵砲隊の隊長をしていた。東京の仲間から二月二十六日に、あんな事件を起こすなど、前もって何も知らされていなかった。昭和十一年二月二十六日の朝、当時東奥日報の記者をしていた友人の竹内俊吉(現青森県知事)から電話で知らされて、この事件をはじめて知ったわけだった。
東京の事件を知ると青森の私たち青年将校は順序を経て、師団長の下元中将に、これを契機に、徹底的に軍をも含めた国家の革新に邁進するよう軍首脳部に意見具申してほしいと申し出た。この一連の行動があとで「反乱を利するの罪」に問われて、青森組では右代表の私と志村中尉が禁固刑に処され、位階勲等を剥奪されることになった。二・二六事件関係者というものになったわけである。
 東京の反乱は青森の私たちには寝耳に水だったが、もちろんそれは全然予期しないことがらではなかった。五・一五事件、相沢事件のあとではあり、青森将校一般は危機感につつまれた日々を送っていたのだから。
 危機感は青年将校の恣意に基づくフィクションとばかりはいえなかったはずである。いまからでも年表をくれば、わかることである。その後も汚職その他で政財界の混乱腐敗が目立ちだすとよく「二・二六の前夜」などとマスコミも警告している。
 なんとかしなければ・・・というのが当時一般の風潮だった筈である。どんな鈴をどんな方法でつけるかはイデオロギーの差によって、違っていたではあろうが、ネコの首に鈴をつけなければ・・・には異議はなかった。が、議論は盛んだったが実行はしなかった。
 青年将校たちは民族的な鈴を民族的な方法でつけようと実行に移した。もちろん正しい民族的なものは普遍的であるという信念に基づいてである。が、この鈴つけは失敗した。失敗したから、失敗の欠点の指摘は容易になっている。成功していたら、いま欠点と指摘されているものが北一輝の「革命は勢いなり」式に、革命成功の教訓として革命哲学にくりいれられたかもしれない。
 腹をつつくと音をあげるお人形がある。私もときどき腹をつつかれる。どんな音をあげるかをためされるのだろう。二・二六事件のようなものが、またおこるでしょうかね、と。私が二・二六事件関係者だからである。が、私がどんな音をあげようと、それによって相手の人生観なり、身構えなりに変化が起こりそうには思われない。お人形がどんな音をあげるか、つついてみるくらいの退屈しのぎにすぎないようである。
 私は予言者ではないし、そう思われてもいまいから、私が二・二六事件のようなものが起こるといっても、起こらないといっても、その言葉にはなんの権威もない。それよりも、そういう質問を試みる暇があったら、二度とこういった事件を起こさないよう、それぞれの立場で、思い当たる節もあろうから、日常の言動を改めていったらいいと思う。熱核戦争が起こるか、起こらないかを論議するより、熱核戦争を根絶する線に沿って、日常の言動を、大なり小なりに、律していったらいいと思うのと同様に・・・。
(ベストン株式会社取締役。当時の青年将校の動きを回顧した著書「私の昭和史」がある)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
私の推定だが、末松太平に書かせたかったのは「混乱腐敗の原因を根絶せよ」というアジテーションだったと思う。末松太平は、非常に婉曲な(些か回りくどい)言い回しを選んで、記者の期待を外している。

(続きます)
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◎末松太平が「昭和維新史との対話」で書かれたこと◎

2017年05月05日 | 末松建比古


最近出版された“保阪正康・鈴木邦男著「昭和維新史との対話」現代書館刊”に、ざっと目を通してみた。
今までも、鈴木邦男氏の著作のいくつかには「末松太平」が、好意的に記されている。一方、保阪正康氏の著作のいくつかには「二・二六事件」が、批判的に記されている。そして、この「昭和維新史との対話」の内容も、私には“想定内”の展開になっていた。

昭和維新に関連した人々が語られる中で、鈴木氏が「末松太平さんに会いましたか?」と水を向ける。鈴木氏「あの人は理論家というか、話が非常に理屈っぽい人ですよね」。
保阪氏の反応「(私が会ったときは)千葉県の田舎にいて、自然食の運動をしていましたね」。オイコラ、お前は誰のことを言っとるんじゃい。デタラメもイイカゲンにしときんしゃい。

保阪氏が末松太平に会った日のことは “保阪正康著「昭和史 忘れ得ぬ証言者たち」2004年・講談社文庫”に載っている。この書籍は、2000年に清流出版から刊行された「一語一会 出会いで綴る昭和史」を改題、文庫化したものである。千葉市中央区登戸5丁目の末松太平宅訪問は「昭和63年に入ってまもなくのころだった」と書かれているから《前世紀の出来事》なのだが、その点を差し引いても「千葉県の田舎で」とか「自然食の運動をしていた」という事実に反する表現には“揶揄の響き”を感じてしまう。

「昭和維新史との対話」には(保阪氏が会った人として)河野司氏と大蔵栄一氏も登場する。大蔵氏に会ったのは“「二・二六事件への挽歌」1971年・読売新聞社刊”の直後だったらしく「(大蔵氏は)本が売れたかどうかばかり気にしていた」と、やはり“揶揄”の対象にされている。
河野氏に関連して“二・二六事件の法要”の話になる。しかし、保阪氏は「賢崇寺でやっていました」と、過去形で語っている。現在も続いている“法要”を(昭和史に詳しくない読者諸氏に)消滅したように印象づける。これはもう、揶揄の次元を超えた悪意としか思えない。

鈴木氏は、何度か“末松太平”に話題を振っている。
「(末松さんは)自分で自分にレッテル貼って局限することはない、と言っていた」
「(末松さんは)日本はどんどんだめになる、と言っていた」
「(末松さんは)偏屈な人ですね」
それに対して、保阪氏が全く何の反応も示さないのが、笑えるところである。(末松)
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◎末松太平が「論争ジャーナル」に書いたこと◎

2017年05月03日 | 末松建比古


今泉章利サンの(4月14日付の)文中に「この文中にある『論争ジャーナル』三月号は入手できていないが・・・」とあるので、関連資料として、末松太平が(論争ジャーナルに)掲載した記事のコピー画像を掲載しておく。

「論争ジャーナル」の実物は、末松太平が遺した書籍&資料類の中に在る筈だが、現時点では私の手元にない。以前に報告したことだが「末松太平が暮らしていた家=千葉市中央区登戸五丁目」を撤去した際に、膨大な書籍&資料類は未整理のまま、妹(末松太平・長女)に押しつけてある。妹は“書籍類の保存場所”だけのために、自宅マンション(千葉市花見川区)の同じ棟内に“別宅=3DK”を購入せざるを得なかった。無責任な兄(私)を持った妹の悲劇である。
というわけで、現時点で私の手元にあるのは「2・26は怪獣ではない」という記事のコピーが1部だけである。私の推察では、わざわざコピーしたのは“多数の方々に送付するため”だったのだと思う。末松太平の日記(1967年)に「文春の記事については三上卓、大曹曹玄氏より所見をきかれている。(論争ジャーナルに書いたことは)それへの答にもなる」と記してあることが、私の推察を裏付けている。

「論争ジャーナル」に書かれてある内容の一部分は、今泉章利サンの記事(4月14日付)のコメント欄で紹介してある。同じ文章の再掲は煩わしく感じられるので、ここには書かない。是非、コメント欄でお読みいただきたい。
但し、私なりの考えもあって、コメント欄で紹介したのは「ほんの一部分だけ」である。いずれ機会をみて「全文」を紹介できれば良いと思っているのだが、さてどうなるか。(末松) 
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