朝日新聞・2024年4月21日朝刊。死亡記事(写真付)。
「佐川満男さん(歌手、俳優)。12日、胆嚢炎で死去。84歳。葬儀は近親者で営んだ。・・・」
「60年に歌手デビュー。61年以降、NHK紅白歌合戦に4度出場した。ヒット曲に『今は幸せかい』などがある。
俳優としてNHK連続テレビ小説『カムカムエブリバディ』などに出演。現在公開中の映画『あまろっく』にも出演していた。・・・」
「佐川満男=84歳」という文字が 私(84歳)に特別の感慨をもたらした。
厳密に言うならば 佐川サン(1939年11月9日生れ)が逝去した時点では、私(1940年4月17日生れ)は未だ「84歳直前」だったのだが・・・。
画像は「30歳」の佐川満男サン。1969年12月24日。場所は「博多東急ホテル=今は存在しない」の13階にあった「トップオブハカタ」で、九州朝日放送の人気ラジオ番組「ジャンピングディスク」クリスマス特集(午前0時~1時)を放送中の情景である。
この日の放送台本には「提供・日米コカコーラボトリング/構成・末松建彦」と記されている。転勤生活4年目の私(広告会社勤務)は、地元の人脈にも恵まれて「他社の仕事」も依頼されていた。この番組の構成もそのひとつで「出演者=渡久山アナ+松坂ユッコ」も、コカコーラ宣伝部の田島サンも、親しい友人たちだった。
因みに「1969年の末松太平」も周囲の人脈に恵まれて、三島由紀夫と対談(學燈社「伝統と現代」9月号)したり、三島由紀夫に(私以外の末松家4人が)観劇&会食に招待されたりしていた。
「・・・どうでした、佐川さん、ミニミニ歌謡ドラマを演じた感想は」
「・・・いやあ、ひどいですね、こんなにひどい台本を演らされるとは思わなかった」
佐川サンは 会場で募った一般女性を相手に(歌の一節を交えたコントを)マジメに演じてくれた。
「・・・今からユッコちゃんの恋人探しをやります。立候補なさる方は前に出て来て下さい」
このコーナーには 佐川サンの参加は考えていなかった。予期せぬ(佐川サンの)飛び入りで画像の情景となった。
末松太平の遺品から「1969年の日記」の一部を転載する。
◎6月9日/母が93歳で死んだ。
◎6月11日/葬儀のため郷里、大里に着いた。
◎6月13日/博多に行って建比古に会う。建比古の嫁さん候補に会う。
◎6月14日/大里を発った。これで親のうちがなくなった。「実家」がなくなったのである。故郷喪失である。
画像=1970年の秋。TBSラジオ番組「雪印クリーマ歌の広場」の公開録音光景。
佐川満男サンがこの日のゲストで 末松行子サンが生CMの担当をしている。
約一年ぶりの「再会」だが 松坂ユッコサンは(この年の5月末に)末松行子サンになって東京生活を始めていた。
余談だが 佐川満男サンの方は未だ独身で この翌年に(伊東ゆかりサンと)結婚している。
1970年11月25日。三島由紀夫が市ヶ谷台で割腹自刃した。
私は「歌の広場」の公開録音(毎回異なる団地商店街で行っていた)を終えて会社に戻る途中で、カーラジオの「臨時ニュース」を聞いた。瞬時に心を過ぎったのは《末松太平の反応は・・・?》ということだった。
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「佐川満男さん 胆嚢炎で死去 84歳」という死亡記事は、84歳の私への《天啓》かも知れなかった。
今まで以上に《終活》に勤しまなければならない。末松太平の遺品処分(史料・書籍類)に集中しなければいけない。
今年の2月17日に「國風講座」講師を務めた際に、数人の方から「持参された史料類を撮っても良いですか」と声をかけられた。
そのひとり「三島由紀夫烈士命 森田必勝烈士命 墓前 日輪祭実行委員会 委員長」のHサンには《學燈社「伝統と現代」昭和44年9月号》を貸与した。この号には《対談「軍隊を語る」三島由紀夫✕末松太平》が、全21頁というボリュームで掲載されている。
Hサンにも「撮っても良いですか・・・」と言われていた。しかし、この場で21頁全てを撮るのは大仕事である。初対面の方ではあったが「返却は急がないから・・・」と貸与するのが「仁義」というものだ。
終活の開始とか 遺品史料類の処分とか 高らかに進軍ラッパ(?)を吹きならしている。
それならば「返却は急がない」ではなく「進呈しますよ」という対応もあった筈である。
しかし 私の手許から「対談/三島由紀夫✕末松太平」が姿を消していた間は 何となく不安定だった。
「いろいろな人が近づいてくると思いますが どんなに望まれても 書籍や史料を貸しては駄目ですよ」
相沢正彦サンが(末松太平が死去した直後に)末松太平未亡人に戒めた言葉が蘇ったりもした。
いうまでもなく貸与した雑誌は「長い間 洵にありがとうございました」という名刺を添えて返却されている。
Hサンの人柄は「洵に」という文字に表われている。誠に、実に、真に、洵に…。私流の性格判断である。(末松建比古)
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「佐川満男さん(歌手、俳優)。12日、胆嚢炎で死去。84歳。葬儀は近親者で営んだ。・・・」
「60年に歌手デビュー。61年以降、NHK紅白歌合戦に4度出場した。ヒット曲に『今は幸せかい』などがある。
俳優としてNHK連続テレビ小説『カムカムエブリバディ』などに出演。現在公開中の映画『あまろっく』にも出演していた。・・・」
「佐川満男=84歳」という文字が 私(84歳)に特別の感慨をもたらした。
厳密に言うならば 佐川サン(1939年11月9日生れ)が逝去した時点では、私(1940年4月17日生れ)は未だ「84歳直前」だったのだが・・・。
画像は「30歳」の佐川満男サン。1969年12月24日。場所は「博多東急ホテル=今は存在しない」の13階にあった「トップオブハカタ」で、九州朝日放送の人気ラジオ番組「ジャンピングディスク」クリスマス特集(午前0時~1時)を放送中の情景である。
この日の放送台本には「提供・日米コカコーラボトリング/構成・末松建彦」と記されている。転勤生活4年目の私(広告会社勤務)は、地元の人脈にも恵まれて「他社の仕事」も依頼されていた。この番組の構成もそのひとつで「出演者=渡久山アナ+松坂ユッコ」も、コカコーラ宣伝部の田島サンも、親しい友人たちだった。
因みに「1969年の末松太平」も周囲の人脈に恵まれて、三島由紀夫と対談(學燈社「伝統と現代」9月号)したり、三島由紀夫に(私以外の末松家4人が)観劇&会食に招待されたりしていた。
「・・・どうでした、佐川さん、ミニミニ歌謡ドラマを演じた感想は」
「・・・いやあ、ひどいですね、こんなにひどい台本を演らされるとは思わなかった」
佐川サンは 会場で募った一般女性を相手に(歌の一節を交えたコントを)マジメに演じてくれた。
「・・・今からユッコちゃんの恋人探しをやります。立候補なさる方は前に出て来て下さい」
このコーナーには 佐川サンの参加は考えていなかった。予期せぬ(佐川サンの)飛び入りで画像の情景となった。
末松太平の遺品から「1969年の日記」の一部を転載する。
◎6月9日/母が93歳で死んだ。
◎6月11日/葬儀のため郷里、大里に着いた。
◎6月13日/博多に行って建比古に会う。建比古の嫁さん候補に会う。
◎6月14日/大里を発った。これで親のうちがなくなった。「実家」がなくなったのである。故郷喪失である。
画像=1970年の秋。TBSラジオ番組「雪印クリーマ歌の広場」の公開録音光景。
佐川満男サンがこの日のゲストで 末松行子サンが生CMの担当をしている。
約一年ぶりの「再会」だが 松坂ユッコサンは(この年の5月末に)末松行子サンになって東京生活を始めていた。
余談だが 佐川満男サンの方は未だ独身で この翌年に(伊東ゆかりサンと)結婚している。
1970年11月25日。三島由紀夫が市ヶ谷台で割腹自刃した。
私は「歌の広場」の公開録音(毎回異なる団地商店街で行っていた)を終えて会社に戻る途中で、カーラジオの「臨時ニュース」を聞いた。瞬時に心を過ぎったのは《末松太平の反応は・・・?》ということだった。
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「佐川満男さん 胆嚢炎で死去 84歳」という死亡記事は、84歳の私への《天啓》かも知れなかった。
今まで以上に《終活》に勤しまなければならない。末松太平の遺品処分(史料・書籍類)に集中しなければいけない。
今年の2月17日に「國風講座」講師を務めた際に、数人の方から「持参された史料類を撮っても良いですか」と声をかけられた。
そのひとり「三島由紀夫烈士命 森田必勝烈士命 墓前 日輪祭実行委員会 委員長」のHサンには《學燈社「伝統と現代」昭和44年9月号》を貸与した。この号には《対談「軍隊を語る」三島由紀夫✕末松太平》が、全21頁というボリュームで掲載されている。
Hサンにも「撮っても良いですか・・・」と言われていた。しかし、この場で21頁全てを撮るのは大仕事である。初対面の方ではあったが「返却は急がないから・・・」と貸与するのが「仁義」というものだ。
終活の開始とか 遺品史料類の処分とか 高らかに進軍ラッパ(?)を吹きならしている。
それならば「返却は急がない」ではなく「進呈しますよ」という対応もあった筈である。
しかし 私の手許から「対談/三島由紀夫✕末松太平」が姿を消していた間は 何となく不安定だった。
「いろいろな人が近づいてくると思いますが どんなに望まれても 書籍や史料を貸しては駄目ですよ」
相沢正彦サンが(末松太平が死去した直後に)末松太平未亡人に戒めた言葉が蘇ったりもした。
いうまでもなく貸与した雑誌は「長い間 洵にありがとうございました」という名刺を添えて返却されている。
Hサンの人柄は「洵に」という文字に表われている。誠に、実に、真に、洵に…。私流の性格判断である。(末松建比古)
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