◎末松太平事務所  (二・二六事件関係者の談話室)

末松太平(1905~1993)。
陸軍士官学校(39期)卒。陸軍大尉。二・二六事件に連座。禁錮4年&免官。

なかなか投稿できずに申し訳ありません

2017年06月09日 | 今泉章利
いろいろと準備はしているのですが、どうも投稿できずにいます。
仕事や、体調があまりよくないことは、事実ですが、いいわけにはならなりません。いまや、私にとって、この投稿は私の遺書のようなものであり、重要なものです。
にもかかわらず、投稿して居ないのは、畢竟、精神が足らない證拠です。お詫びします。

昨日、父の獄中和歌を久しぶりに見つけました。

    

時鳥(ホトトギス)血に鳴く声は有明の月よりほかに知るものぞなき  今泉義道

22歳の父が、獄中で、銃殺されていった方々を思いながら、詠んだ歌だと思います。

私は、いま、もうすぐ68歳。あまり気負わず、思ったことを、記すべきだよという声が聞こえてくる気がします。今日も、様々な、行事がありますが、気負わず、流されず、投稿ができますよう、祈っています。
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◎「混淆ダブルス」の難しさ◎

2017年06月08日 | 末松建比古
吉村真晴サン&石川佳純サンの「混合ダブルス」が卓球の世界選手権で金メダルに輝いたが、当ブログは言うなれば「玉石混淆ダブルス」のようなもの。皆様には“玉(今泉)石(末松)混淆の内容”に戸惑うことも多々あると思われるが、玉(真面目)&石(軽薄)の“混交”から、それぞれの心情を推察していただければ幸いである。

“混淆ダブルスの難しさ”を示す実例として、5月3日付で記した“末松太平が「論争ジャーナル」に書いたこと”を挙げておく。
「論争ジャーナル」1967年3月号掲載の「2・26は怪獣ではない」については、当時の風潮を知らない方々に(同志相撃の如き)謝った認識を与えかねないので、いままで触れずにいた。しかし、今泉サンの文章(4月14日付)に「論争ジャーナル」が登場して「入手できていないが・・・」とあるので、避けては通れなくなった。それでも“差障り”は最小限にとどめたいので(今泉サンの文章の)コメント欄に記すだけにした。
末松太平が「いままた奇妙な尾鰭が二・二六事件につけられている」と指摘したのは、文藝春秋二月特別号に特集されている「これが“昭和維新”なのだ」という記事に対してである。しかし私が(4月14日付の)コメント欄で紹介したのは、内容の「ほんの一部分」だけにとどめている。その理由は、次の画像をご覧いただけば推察できると思う。



文藝春秋二月特別号は、今泉サンも所有している筈である。当然、今泉サンの意見(文藝春秋編集部への怒り)もあるだろう。私が記事の内容に触れるのは“今泉サンの次”で構わない。急ぐ必要はないのである。
当ブログの執筆には“下書き”機能が利用できるから、今泉も末松も“執筆途中の未公開原稿”の存在を知ることができる。ネタバラシになるが、今泉サンは現在“5件”の未公開原稿を抱えていて、その中には「これが“昭和維新”なのだ」に関するものもある。
そもそもは、半世紀も前の雑誌に書かれていたことである。反論を急ぐことはない。のんびり構えて、いつの日か原稿を完成されれば良いと思う。

因みに、文藝春秋(1967年)二月特別号の座談会「これが“昭和維新”なのだ」の出席者は、湯川康平、今泉義道、池田俊彦、舩木繁の4氏で、文藝春秋編集部(半藤一利氏は無関係の頃)の司会。サブタイトルは「30年目にして語られた、新事実?」で、悪意の憶測に「?」をつけて誤魔化す編集技術は、当時も今も変わらない。

そして、時間は「事件から30年目」から「事件から満50年」にワープして、再び事件関係者が集められた。文藝春秋(1986年)3月号掲載の座談会「われらが遺言・50年目の二・二六事件」がそれである。司会は半藤一利氏。出席は、赤塚金次郎、池田俊彦、今泉義道、常盤稔、湯川康平の5氏。陸軍士官学校(47期)を卒業して、事件当時は21歳の少尉だった。
半藤「二・二六事件は昭和史最大の事件の一つであり、いまだに最大の謎だと思うのですが、あれから満五十年、これを最後の機会として、いわば遺言のつもりで存分にお話し戴きたいと思います。今日お集まりの皆さんは、死刑にならずに生き残った青年将校の方々なのですが・・・」以下省略。
この1986年の座談会は、“半藤一利編著「昭和史探索・3」ちくま文庫2007年刊”に再録されているから、皆様も容易にチェックできると思う。(末松)
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◎「共謀罪」の衆院通過に思うこと◎

2017年05月24日 | 末松建比古


2017年5月23日(火)の午後、“犯罪を計画段階から処罰する「共謀罪」の趣旨を含む組織的犯罪処罰法の改正案”が衆院本会議で、自民・公明・日本維新の会などの賛成多数で可決された。因みに“”内に記した部分は、朝日新聞の記事によるもので、安倍晋三サンが「共謀罪という略称」を用いているわけではない。
それはさておき、安倍晋三サンの最近の言動は、森友学園&加計学園問題なども含めて、いささか常軌を逸しているように思える。
私なりの感慨は多々あるが、それは省略。穴埋め(?)として、末松太平が(約50年前に)記した“感慨のようなもの”を記しておく。

「信濃毎日新聞」昭和41年2月22日号(文化欄)に掲載された「二・二六事件三十年」という記事。
見出しの「“原因の根絶”が教訓」や「当時、政財界は混乱腐敗」という文言が、平成29年の“現況”に奇妙にオーバーラップしてしまうが、この文言は信濃毎日新聞の記者が記したこと。末松太平自身は、さほど過激なことを述べてはいない。
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 今年は二・二六事件から三十年と言われている。指折って数えてみると、三十年と言ったらいいのか、三十一年と言ったらいいのか、小学生のころ年齢算が苦手だった私にはよく判らない。が、私が二・二六事件関係者だということで、ここのところ、この三十年とやらを「記念」させられる。が、二・二六事件のことは私には、もどかしいくらい、あわあわしい記憶になってしまっている。時に忘友のことを切なく思うことはあっても、三十年とやらを格別「記念」するほどの感慨はない。
 二・二六事件関係者といっても私は東京で直接二・二六事件に関係した者ではない。私は当時青森にいた、大尉になったばかりで、青森の歩兵五連隊で、前年官制で新設された歩兵砲隊の隊長をしていた。東京の仲間から二月二十六日に、あんな事件を起こすなど、前もって何も知らされていなかった。昭和十一年二月二十六日の朝、当時東奥日報の記者をしていた友人の竹内俊吉(現青森県知事)から電話で知らされて、この事件をはじめて知ったわけだった。
東京の事件を知ると青森の私たち青年将校は順序を経て、師団長の下元中将に、これを契機に、徹底的に軍をも含めた国家の革新に邁進するよう軍首脳部に意見具申してほしいと申し出た。この一連の行動があとで「反乱を利するの罪」に問われて、青森組では右代表の私と志村中尉が禁固刑に処され、位階勲等を剥奪されることになった。二・二六事件関係者というものになったわけである。
 東京の反乱は青森の私たちには寝耳に水だったが、もちろんそれは全然予期しないことがらではなかった。五・一五事件、相沢事件のあとではあり、青森将校一般は危機感につつまれた日々を送っていたのだから。
 危機感は青年将校の恣意に基づくフィクションとばかりはいえなかったはずである。いまからでも年表をくれば、わかることである。その後も汚職その他で政財界の混乱腐敗が目立ちだすとよく「二・二六の前夜」などとマスコミも警告している。
 なんとかしなければ・・・というのが当時一般の風潮だった筈である。どんな鈴をどんな方法でつけるかはイデオロギーの差によって、違っていたではあろうが、ネコの首に鈴をつけなければ・・・には異議はなかった。が、議論は盛んだったが実行はしなかった。
 青年将校たちは民族的な鈴を民族的な方法でつけようと実行に移した。もちろん正しい民族的なものは普遍的であるという信念に基づいてである。が、この鈴つけは失敗した。失敗したから、失敗の欠点の指摘は容易になっている。成功していたら、いま欠点と指摘されているものが北一輝の「革命は勢いなり」式に、革命成功の教訓として革命哲学にくりいれられたかもしれない。
 腹をつつくと音をあげるお人形がある。私もときどき腹をつつかれる。どんな音をあげるかをためされるのだろう。二・二六事件のようなものが、またおこるでしょうかね、と。私が二・二六事件関係者だからである。が、私がどんな音をあげようと、それによって相手の人生観なり、身構えなりに変化が起こりそうには思われない。お人形がどんな音をあげるか、つついてみるくらいの退屈しのぎにすぎないようである。
 私は予言者ではないし、そう思われてもいまいから、私が二・二六事件のようなものが起こるといっても、起こらないといっても、その言葉にはなんの権威もない。それよりも、そういう質問を試みる暇があったら、二度とこういった事件を起こさないよう、それぞれの立場で、思い当たる節もあろうから、日常の言動を改めていったらいいと思う。熱核戦争が起こるか、起こらないかを論議するより、熱核戦争を根絶する線に沿って、日常の言動を、大なり小なりに、律していったらいいと思うのと同様に・・・。
(ベストン株式会社取締役。当時の青年将校の動きを回顧した著書「私の昭和史」がある)
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私の推定だが、末松太平に書かせたかったのは「混乱腐敗の原因を根絶せよ」というアジテーションだったと思う。末松太平は、非常に婉曲な(些か回りくどい)言い回しを選んで、記者の期待を外している。

(続きます)
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◎末松太平が「昭和維新史との対話」で書かれたこと◎

2017年05月05日 | 末松建比古


最近出版された“保阪正康・鈴木邦男著「昭和維新史との対話」現代書館刊”に、ざっと目を通してみた。
今までも、鈴木邦男氏の著作のいくつかには「末松太平」が、好意的に記されている。一方、保阪正康氏の著作のいくつかには「二・二六事件」が、批判的に記されている。そして、この「昭和維新史との対話」の内容も、私には“想定内”の展開になっていた。

昭和維新に関連した人々が語られる中で、鈴木氏が「末松太平さんに会いましたか?」と水を向ける。鈴木氏「あの人は理論家というか、話が非常に理屈っぽい人ですよね」。
保阪氏の反応「(私が会ったときは)千葉県の田舎にいて、自然食の運動をしていましたね」。オイコラ、お前は誰のことを言っとるんじゃい。デタラメもイイカゲンにしときんしゃい。

保阪氏が末松太平に会った日のことは “保阪正康著「昭和史 忘れ得ぬ証言者たち」2004年・講談社文庫”に載っている。この書籍は、2000年に清流出版から刊行された「一語一会 出会いで綴る昭和史」を改題、文庫化したものである。千葉市中央区登戸5丁目の末松太平宅訪問は「昭和63年に入ってまもなくのころだった」と書かれているから《前世紀の出来事》なのだが、その点を差し引いても「千葉県の田舎で」とか「自然食の運動をしていた」という事実に反する表現には“揶揄の響き”を感じてしまう。

「昭和維新史との対話」には(保阪氏が会った人として)河野司氏と大蔵栄一氏も登場する。大蔵氏に会ったのは“「二・二六事件への挽歌」1971年・読売新聞社刊”の直後だったらしく「(大蔵氏は)本が売れたかどうかばかり気にしていた」と、やはり“揶揄”の対象にされている。
河野氏に関連して“二・二六事件の法要”の話になる。しかし、保阪氏は「賢崇寺でやっていました」と、過去形で語っている。現在も続いている“法要”を(昭和史に詳しくない読者諸氏に)消滅したように印象づける。これはもう、揶揄の次元を超えた悪意としか思えない。

鈴木氏は、何度か“末松太平”に話題を振っている。
「(末松さんは)自分で自分にレッテル貼って局限することはない、と言っていた」
「(末松さんは)日本はどんどんだめになる、と言っていた」
「(末松さんは)偏屈な人ですね」
それに対して、保阪氏が全く何の反応も示さないのが、笑えるところである。(末松)
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◎末松太平が「論争ジャーナル」に書いたこと◎

2017年05月03日 | 末松建比古


今泉章利サンの(4月14日付の)文中に「この文中にある『論争ジャーナル』三月号は入手できていないが・・・」とあるので、関連資料として、末松太平が(論争ジャーナルに)掲載した記事のコピー画像を掲載しておく。

「論争ジャーナル」の実物は、末松太平が遺した書籍&資料類の中に在る筈だが、現時点では私の手元にない。以前に報告したことだが「末松太平が暮らしていた家=千葉市中央区登戸五丁目」を撤去した際に、膨大な書籍&資料類は未整理のまま、妹(末松太平・長女)に押しつけてある。妹は“書籍類の保存場所”だけのために、自宅マンション(千葉市花見川区)の同じ棟内に“別宅=3DK”を購入せざるを得なかった。無責任な兄(私)を持った妹の悲劇である。
というわけで、現時点で私の手元にあるのは「2・26は怪獣ではない」という記事のコピーが1部だけである。私の推察では、わざわざコピーしたのは“多数の方々に送付するため”だったのだと思う。末松太平の日記(1967年)に「文春の記事については三上卓、大曹曹玄氏より所見をきかれている。(論争ジャーナルに書いたことは)それへの答にもなる」と記してあることが、私の推察を裏付けている。

「論争ジャーナル」に書かれてある内容の一部分は、今泉章利サンの記事(4月14日付)のコメント欄で紹介してある。同じ文章の再掲は煩わしく感じられるので、ここには書かない。是非、コメント欄でお読みいただきたい。
但し、私なりの考えもあって、コメント欄で紹介したのは「ほんの一部分だけ」である。いずれ機会をみて「全文」を紹介できれば良いと思っているのだが、さてどうなるか。(末松) 
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26.事件関係者の息子が実際に接した「二・二六事件の人たち」 二・二六事件を研究される方へ (1)私流の資料の読み方 

2017年05月02日 | 今泉章利
26.事件関係者の息子が実際に接した「二・二六事件の人たち」
二・二六事件を研究される方へ (1)私流の資料の読み方 

二・二六事件の資料はたくさんあるが、それらをどのように扱ったらいいのか。

1.第一次資料 孫引きではなくて本人が書いたもの。又、公判調書のような公的なものもある。但し注意を要するのは、二・二六事件の裁判には、弁護士がなく、裁く側が一方的に作った資料なので、恣意的に、微妙に書きぶりを変えることである。
但し、今年には国立公文書館で公表されることが予定されている、東京地検が保管していた「訴訟記録」には、本人が書いた「上申書」「手記」などが含まれているはずであり、これらは間違いなく「一級資料」である。私は、安藤大尉のものを少し読んだだけであるが、様々なことが読み取れる。また、上申書のないもの、例えば、水上さんの場合、たくさんの資料があるが、一番実態にあっているものは、その直後の、2月28日の三島憲兵隊の調書である。水上さんは、ほとんど何の説明も受けず日本刀一振りを支給されたのだが、一か月後の3月18日、陸軍法務官西原周治によってなされた第一回被告人訊問調書では、機関銃や小銃、ピストル、発煙筒など用意した武器、その目的を説明したようになっている。電信兵で応召された経験はあっても、武器の扱いは全くの素人であるにもかかわらず作文がなされている。河野さん亡き後、湯河原班の主犯としてのフレームアップである。これなど、いまの裁判で検察が作文した自白調書に似ている。また、本人が書いたものでも、ある意図をもって、ところどころ捻じ曲げた表現もある。これも又、厳に注意を要する。
又、昭和40年代に多く出された本の中には誤謬や思い込みで書かれているものが少なくない。注意を要する。

2.歴史をなりわいとする人たちがまとめた資料。 ある歴史観や目的謎解きに基づいた資料が結構多くあり、注意を要する。これが新事実と声高に言う。また、資料であっても、解説で、さらりと想像を交えて書くことが多い。解説は、一般の人がほとんど目を通す場所である。また、統計資料を使って人を幻惑する手法もある。
また、上から目線で、よくわかっていないのに解説する。読んでる方には、すっきりしない思いと軽くなった財布になんとなく気が付く。

3.マスコミ資料 新聞や週刊誌でそれなりの証言であったりするものも多いが、背後の認識が不勉強なものが多い。新奇性が要求されることは認めるが、検証が足りない。しかし、国会図書館などで昔の週刊誌などの記事を読むと、大切なヒントを発見することも多い。史実をつなげる助けとして丹念に集めることをお勧めする。

4.小説 これが一番難敵で、三島由紀夫のような場合は、はっきりと小説家の世界と分かるが、すらすら読めるものは、極めて注意を要する。作家は「歴史小説」とこの事件の書きぶり内容に責任は持たない。が、一般の人たちはこの小説に一番影響される。また、マスコミもこれを前提に「小説家の歴史」を膨らませる。有名な、真崎大将の「お前らの心はようッく分つとる」という文言は、磯部さんの行動記にある言葉だが、「行動記」そのもので、戦おうとした、囹圄の身の磯部さんの唯一のそして必死の戦術であったこと、つまり、事件に直接、真崎さんを引き込むことで、北、西田を救おうとした磯部さんの気迫である。したがって嘘もあった。この点は、後日、磯部さんは真崎さんに申し訳ないと言っている。
小説家立野信之は「叛亂」の第9章のタイトルに、此の言葉を使った。そして、この本で昭和28年、立野は第28回直木賞を手に入れた。日本人は、それ以来、真崎大将がそういったものと信じている。実際はどうだったか。真崎大将の護衛のため、真崎大将の自宅からの車に同乗し、真崎大将とともに陸軍省に入った陸軍憲兵伍長の金子桂さんによれば、真崎さんは相当怒っておられ、怒りをあらわに、青年将校たちに「馬鹿者!」といったとのことである。金子さんはそれを書かれたし、私もそれを金子さんから直接聞いている。

5.推理を込めた歴史書 1965年に発売された高橋正衛氏の中公新書「二・二六事件」の「彼らをつきうごかしたもの」のなかの「真崎甚三郎」の野心があったと断定する。黒幕は真崎だというのである。そして、このことは、膨大な証言資料を集めた松本清張を経て、や澤地久枝の「雪は汚れていた」を頂点に推理が進められた。結論から言えば、何もなかった。しかし、一般の国民は、真崎という黒幕がいたという印象を確信した。澤地は大量の本を売り、NHKや文部省から表彰を受け、朝日新聞は一面で新事実と書きたてた。
しかし、事実は何もなかった。東京地検の地下に「公判資料」があるらしいと報道されたころだった。そんな中、澤地は、匂坂法務官が遺した資料が、「これが最後の資料で、他には存在しない」と言い切って、「新事実も出なかった「雪は汚れていた」」を売り逃げしたのである。二・二六事件の資料は他には存在しないと言い切った澤地は、「歴史学者でもない匂坂法務官の子息がそういった」ということを根拠に書いている。物書きの文章は上手い。

そもそも、高橋正衛の真崎黒幕論は、1989年2月、末松太平氏の立会いのもと、高橋は、「真崎甚三郎」研究家の山口富永に対し、「あれは私の勝手な想像」と平然と言ったのである。この黒幕を求めて、日本の黒い霧を書いた「松本清張」が必死になるのは已むをえまい。ただ副産物として、事件に関連する方たちのインタビューや、様々な資料の収集物は残った。父のところまで、清張の事務所のひとが、インタビューに来たのを覚えている。
久野収を信奉する高橋という人の一言が生み出した、25年間の「二・二六事件黒幕探し」は今もかすかに脈動している。

6.まだ他にもあると思うが、これら文献資料が、脈絡なく、雨あられのように、いきなり飛んでくるので、一般の人は何が何だか当惑の極みに立たされるのである。
どうか、ご自分なりに分類し、年表をつくられることをお勧めする。今は、エクセルという便利なものがあるからなおさらお勧めしたい。


いま、教育の現場では、二・二六事件はソ連の革命の影響によって起こったもの と理解している中学校の先生がいる。イメージは、ソビエト兵の軍帽なのである。これは、事件直後、陸軍省がばらまいた事件の背後の可能性の中にあるものである。
又今の若い右翼の人は、仄聞ではあるが、二・二六事件は天皇陛下のご宸襟を悩ませたとんでもない不敬事件として見向きもしない人も多いらしい。
何が理由なのか。おそらく、情報が、整理されずめんどくさいのではないか。

多くの切り口があり、多くの方たちが関与した。そして、中国との戦争が起こり、アメリカとの戦争が起こった。戦直後、文部大臣前田多門(後藤新平秘書官、朝日新聞をへてソニー初代社長、神谷美恵子の父)は、学校教育局長に東大法学部の田中耕太郎を、社会教育局長に朝日新聞の関口泰などを置いた。其の教育方針のもと、私達、戦後生まれは、二・二六事件などは殆ど何も教えられなかった。

それにしても事件はわかりにくい。次回、何がわかりにくいのか、少し考えてみたいと思う。
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◎「久保三郎」を検索して到達・・・というオハナシ◎

2017年04月17日 | 末松建比古


2月下旬、当ブログに「二・二六事件とは無関係な用件」のコメントが届いた。大分県の宇佐市民図書館(の松寿敬サン)からの問合せで「久保三郎の逝去年月」を知りたいという。
宇佐市民図書館では3月18日に(平成28年度宇佐学顕彰事業として)宇佐学マンガシリーズ⑥『主婦の友社創業者 石川武美』の出版&記念講演会が開催されることになっていて、マンガシリーズでは“石川武美をめぐる人々”として「久保三郎」も紹介されるらしい。

「1.久保三郎(1879~?)
 大分県生まれ。津房小学校時代の担任教師であり、石川武美の恩師。武見が久保を頼って上京した当時は早稲田大学に在学中であった。のち、内務省警保局の役人となる。1924年(大正13)、公選により千葉市長に。1930(昭和5)には主婦の友社の役員に就任。『主婦の友』創刊時にも惜しみなく武美の後援を行った。その恩義に報いるために、退官後に武美が顧問として迎えたという。」

「千葉市役所に問い合わせて、生年月は判ったのですが・・・」ということで、松寿サンと数回のメール交換。この間の経緯は、当ブログでは触れなかった。当ブログへのコメントは管理者(私)が“公開OR非公開”を判断しているのだが、特に個人情報(住所・電話番号・メールアドレス)が記されているコメントには慎重に対処している。因みに、私が「江翠サン」や「つらなサン」と年賀状やメールの交換が始まったのも“非公開コメント”の御縁である。

末松太平と久保三郎(私の祖父、末松太平が釈放された際の身元引受人)との関係については、当ブログで度々触れている。最近では、1月17日記『◎私流・末松太平××回忌ウオーク◎』の文中に“久保三郎の墓”が登場していて、私の推測ではこの記述が「松寿サンの検索」にヒットしたのだと思う。あるいは、2014年7月3日記『久保三郎邸に関わる事柄』かもしれない。この記事には、末松太平が仮釈放された際の「仮出獄證票」の写真を載せてある。

いずれにしろ、当ブログが「二・二六事件とは無関係」の事柄のお役に立つこともあるわけで、そういう問合せには出来るだけ応えていきたいとは思うが、さて・・・・。(末松)

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25.事件関係者の息子が実際に接した「二・二六事件の人たち」 末松太平さまのこと(その8)「初心」は失われやすい

2017年04月14日 | 今泉章利
25.事件関係者の息子が実際に接した「二・二六事件の人たち」
末松太平さまのこと(その8)「初心」は失われやすい

昭和42年2月24日 朝日新聞 文化欄 に「幻の雪」と題された記事がある。その中に、次のような記述がある

二・二六は、一世代を経て、奇妙なよみがえりを示している。三島由紀夫、利根川裕、それに武田泰淳ら諸氏の作品がそれにかかわりがあるが、むしろ当事者でありながら、そうしたムードに乗っかって、気楽な真相ばなしを流布したりする元軍人もいる。関係青年将校の一人末松太平氏が、そのような風潮に対して、、おさえがたいいきどおりをひかえ目に述べている文章を近ごろ読んだが(「論争ジャーナル」三月号)、なるほど「初心」は失われやすいものである


この文中にある「論争ジャーナル」三月号は入手できていないが、国会図書館にあることは確認したので、近いうちに入手したい。この記事の書かれた昭和42年ころは、二・二六産業と言われたほどに、実に多くの出版物が出された。
私だけが真実を知っているとか、その時、私が見た二・二六事件はこうだったとかいうたぐいのものである。私の父は「まさに汗牛充棟の如し」とよく言っていた。

末松さんは、悲惨な日本の状況を正すべく、その道をまっすぐに歩まれてきた。
真剣に日本をよくするために、身を挺する覚悟で歩き続けていた方である。亡くなる瞬間まで、事件のことから離れることはなかったと思う。だから、私のような無知の青二才にも、真剣に話をしてくださった。
88歳のお祝いをしたとき、先生は、殆ど食べ物に箸をつけられなかった。目も開けられないような感じであった。きっとおつらかったのだろう。しかし、若いものが自分の祝宴をして呉れるなら、喜んで受けようー
そういっておられるかの様だった。

宴席は、太平さま、奥様の敏子さま、相澤正彦さま、「史」を主催しておられた田々宮英太郎さま、真崎大将の薫陶を受けられた山口富永さま、国民新聞の山田恵久様、二・二六事件の後、橋本欣五郎の大日本青年党に参加した今澤栄三郎さま、そして43歳の私、だったように記憶している。
そして、いま、私は、70歳を前にして、不遜にも、末松建比古様のブログに、末松太平先生の思い出の一部をを記している。



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24.事件関係者の息子が実際に接した「二・二六事件の人たち」 末松太平さまのこと(その7)車力村の小作争議

2017年04月14日 | 今泉章利
24.事件関係者の息子が実際に接した「二・二六事件の人たち」
末松太平さまのこと(その7)二・二六事件の原点 車力村の小作争議

振り返ってみると、私が末松太平先生からお教えいただいたのは、わずか3年であります。先生が85歳の平成2年に、登戸のご自宅をお邪魔し、平成5年に88歳で亡くなられるまでのわずか3年なのであります。
にもかかわらず、何も知らない私に、事件についての神髄を語ってくださり、既に書きましたが、まず初めに先生は、車力村の小作争議をしめされ、これが二・二六事件の原点だと断言されたのです。
忙しいさなか、車力の高山神社に三回も行きましたが、何もわかりませんでした。でも、いま、こうして、このブログを書くに当たり文献を読み返してみました。

先生が大正14年、予科を卒業され、5聯隊に赴任された翌年の大正15年、青森県東津軽郡車力村(しゃりきむら)で、小作争議が起こりました。
明治憲法下、大地主制度が、江戸時代そのままにうけつがれ、明治5年、税金は現物ではなく、土地(地租)を基準に土地の値段の3%税金を取り立てる方法に代わりました。これは、
江戸時代の5公5民(税金は50%)とほとんど変わらない税率だったと、1973年(昭和48年)に発行された「車力村史」に記載されています。
具体的には、「小作料は、大正15年で54%、青森県北部では、コメの値段を勘案すると76%という「ベラボウ」な小作料が平気でとられていたと、かてて加えて、このほかに、小作人は、「礼米(感謝米)」と称して4年に一回、一年分の小作米にあたる米を地主に収め、地主から土地を新たに借りる時は、契約と同時に一年分の小作料金額を前納する。まさに残酷そのものであった。しかも、3年に一度は必ずといってよく、水害、冷害にみまわれて凶作となった。この様相を描いている書籍も少なくないが、これが50年前(注:大正末から昭和初期)の偽らざる車力のすがたであった。」とあります。

「車力村史」をもう少し引用してみましょう。

「明治に入ってからは、近在の地主たちが、二束三文で土地を買占め、殿様に代わって支配力を欲しいままにした。だから、この地方の農民の殆どは、みなこの地主の小作人として生殺与奪の権を握られていた。道端で、万一、地主と出会った際、挨拶の仕方が悪いと、文句を言われて、小作田を取り上げられた。横暴なやり方で不服であるが泣寝いりしたものである。また、いかに不当な条件であっても、それに対して、一言半句もいえない、文句をいうとたちまち田畑を取りあげられ、その日から食えなくなってしまうのだ。
この状態は、大正はおろか昭和時代になっても、少しも変わらなかった。
東北の農業は、全国的に一番立ち遅れていたが、それは、地主がはびこり、零細農民の数が多く、生血を吸われるように過酷な条件で年貢米を取り上げられるからだ。小作人から取立てた米屋金は、地主によって、今度は、商業資本や銀行資本、高利資本となって、略奪の資金に転化された。
大東亜戦争前後の強権発動と同じく、藩政時代に百姓から取れるだけのものは取った。それが次年度の凶作につながった。かくして凶作は凶作を生んだ。凶作は天災ではなくて、人災だといういい方はこんなことから生まれたのであろう。
そして、大地主たちが、どんな生活をしたか、それは西北の町や村に、今も残っている邸宅を見るとよくわかる。これらの地主たちは、終戦後のうちの大改革、要するに、農地改革で、その邸宅を人手(ひとで)に渡したものもあるが、その建物が当時の豪勢な生活振りが容易に想像される。赤レンガ塀を、大正八、九年頃、隣家の日照状況を考慮に入れず、周囲に高く廻し、お城のような家を築いて、公益を図ることもなく、自分勝手な暮しをしていたのだ。そして、彼らは小作人たちを、人間に値しない虫ケラ同然に思っていた。
農民の生活はどんなであったかは、幼児の死亡率、結核の死亡率、トラコームの罹患など、いずれも全国1,2位であったことでも想像できよう。まったくみじめな記録である。
この貧しさは、無知とからんで、彼らを一層みじめにした。小作人のほとんどは、娘を女工や女郎に売った。北海道やカムチャッカに出稼ぎに行った。そして、借金、貧困、病気の悪循環を繰り返した。」

読まれる方は、なぜトラコーマか、と思われるかもしれんせんが、小作人たちは、暖をとるために「サルケ」という泥炭を乾燥させたものをたいたのですが、これが煙がひどく、目や鼻やのどを刺激し、眼病の原因になります。
炊いていると隣にいる人の顔も見えなくなるほどの煙が出る、、とあるので、想像ができます。毎日サルケをたかなければ、凍えてしまいます。トラコーマの原因はこれだけではありませんでしたが、この地域ではこれが主な原因でした。

私たちは、ひとくちに、農村の疲弊といいます。然しそれがどんなものであったのか理解していません。私が今持っている参考文献(公式のもの、)を以下に示します。若い人にはもっともっと勉強してほしいと思います。
なぜ、二・二六事件が起こったのか、なぜあれほど優秀な軍人たちが、立ち上がったのか。いや、その前の、大正から昭和初期にかけての、経済を含めた歴史を整理してみてほしいです。

昭和6年の3月事件とはなにか。 なぜ血盟団事件は起こったのか、 同じ年の10月事件をどうとらえるのか、 昭和7年の515事件、 士官学校事件、 教育総監更迭事件、 相澤事件とは、、。
いや、一人でやるのはとても大変と思います。どうか、一次資料を使って、何人かで勉強をされるべきと思います。 一人では手に負いかねますし、珍妙な、分析が思い浮かんだりします。( 最近、信じられない想像の産物が、本やテレビなどにもよく出てくるようになりました。気になります。)

話を戻しましょう。「昭和の初期の農業恐慌」ということばもあるそうですが、私の参考にしているものは、次のようなものです。

・車力村史 昭和48年 車力村役場発行
・青森県史 資料編 近現代3  平成16年 青森県史友の会
・青森県史 資料編 近現代4  平成17年 青森県史友の会
・新編 埼玉県史 通史編5(近代1) 昭和63年 埼玉県発行
・新編 埼玉県史 通史編6(近代2) 平成元年  埼玉県発行
・新編 埼玉県史 資料編19(近代・現代1、 政治・行政1) 昭和58年  埼玉県発行
・新編 埼玉県史 資料編20(近代・現代2、 政治・行政2) 昭和62年  埼玉県発行
・新編 埼玉県史 資料編21(近代・現代3、 産業・経済1) 昭和57年  埼玉県発行
・新編 埼玉県史 資料編22(近代・現代4、 産業・経済2) 昭和61年  埼玉県発行
・各新聞資料 東北大凶作 1991年(平成3年)無明舎出版など  できれば 地方の公文書保存館にある地方紙の新聞記事などがよい
・県議会など議会の議事録
・警察や、内務省警保局資料など


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23.事件関係者の息子が実際に接した「二・二六事件の人たち」(20170407)末松太平さまのこと(その6)有馬頼義をめぐって(その2)

2017年04月11日 | 今泉章利
23.事件関係者の息子が実際に接した「二・二六事件の人たち」(20170407)
末松太平さまのこと(その6)有馬頼義をめぐって(その2)

前回私は、「実は有馬氏はもう一つ痛い反論を受けていた。それは、有馬氏の1967年(昭和42年)2月25日の投稿記事に対する、同年3月3日付けの朝日新聞文化欄の「河野司 二・二六事件の意味 前提に思想があった””ただの人殺し”は間違い」という記事であった。こちらのほうは、末松氏の反論よりも早い。が、それについては、もう少し説明をしたい。実はこの文章は、高橋正衛氏が書かれた文章なのである。」と書いた。

1995年、折目朋美氏の「雪降リ止マズ」という漫画の出版記念会に、出席したときのことである。
その6年前、高橋正衛氏は、山口富永、末松太平両氏に、「真崎組閣陰謀説は、何の根拠もない私の想像です」と自白したが、それから4年後の、平成5年(1993年)1月、末松先生が亡くなられた、そんな時期時だった。
私が、池田俊彦さんに、高橋正衛が来てますよと、多少非難めいて池田さんに言うと、池田さんは「いろいろあるが、彼は、二・二六事件そのものを日本人に啓蒙した実績はあるのだから、、」といわれた。この出版記念会は、池田さんがアレンジされたものなので、おそらく、池田さんが呼ばれたものと思う。
パーティの席上で、、ちょっと顔色が悪かった高橋氏と国家論についてしばらく話をした後、高橋正衛氏から、「今泉さん、昔、私は皆様のために頑張ったことがあるのですよ。今となっては誰も覚えていないでしょうけれど、、」と言って、28年も前の1967年(昭和42年)の朝日に掲載された有馬頼義事件の話をされた。

新聞記事の翌日の法要の後の直会の席では、多くの参列者が「二・二六事件は強姦、人殺しの類」という有馬の記事に激しく憤っていた。今から、朝日新聞に押しかけていって、抗議をしようじゃないか、声高に語る人が多かった。
当時44歳の、高橋氏は、立ち上がって、みんなに自分は朝日新聞を知っているので、どうかこの場は私に任せてほしいと、一世一代のお願いをした。何とか了解を取り付けて、自分は、賢崇寺からその足で、朝日新聞の担当に会いに行った。
自分から朝日に対するお願いは、有馬頼義の記事に対して同じスペースの反論の記事を書かせてほしいという事だった。朝日文芸部は、内部で検討をした後に、条件として、記事を書く人間は、朝日が記事を書くことを認めたレベル人でなければ認められない。このことは、暗黙の了解なのだが、「高橋正衛が書くならいいよ。」ということであった。しかし、自分の名前で出すわけにはいかない。結局、河野司さんの了解を得て、文章は、高橋正衛が書くが、筆者は「仏心会の河野司」とすることになった。

反論は、前述したように、その約一か月後の昭和42年3月3日に掲載されたのであった。以下は、その掲載文である。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「昭和42年3月3日  朝日新聞 文化欄」

二・二六事件の意味 河野司

有馬頼義(よりちか)氏への反論
二・二六事件で、いわゆる叛乱(はんらん)軍に襲撃され、そのため死をとげた、ときの内大臣・海軍大将斎藤実の縁戚(えんせき)にあたる有馬頼義氏の二月二十五日本欄「二・二六事件と私」と題する所論を読んだ。

遺族の一人として

私は有馬氏が、この事件の被害者の身内であるのと正反対の、加害者側の一青年将校側の肉親である。しかし、この事件の起きた瞬間は、有馬氏と同じく私も、直接には何らこの事件には関係のない人間である。
 そして現在有馬氏は文筆を業とし、私は一事業家である。このかぎりでは、私個人としては街の一読者として、有馬氏の所論を一人で読み、自ら感ずるところを、ただ一人胸中にとどめておくべきかもしれない。
 この二・二六事件は、もうすまでもなく、昭和史にとって重大な意味をもち、国民の生活に大きく作用した公的な事件である。私達青年将校の遺族としては、あの昭和十一年二月二十六日の明け方に起きた事件そのものは動かし得ない歴史的事実である限り、公的の場で、この事件の持つ意味を如何に論ぜられ、批判されるとも、それを静かに受け入れるであろう。
 この事件を素材とした小説、映画が書かれ、つくられても、それはあくまでも作者の事件への、その人の解釈であり、それに対する毀誉褒貶(きよほうへん)は、その道の専門家におまかせする。したがってここでは「宴」のことは私には関係ない。事実はひとつ、解釈は多様なのであるから。

確信犯だった彼ら

私たちは、わが身内、肉親の三十年前の激派の行動を全面的に肯定し、これを生涯かたくなに固持して、二・二六事件への批判をすべて拒否するものではないのである。
 しかしながら有馬氏の所論については、私は、この心がまえを破って、ここにいくつかの疑問を提示したい。
 この事件の首謀者の一人、磯部浅一の新しく発見された「獄中遺書」に次の如き一節がある。
 「吾人の行為が国賊的叛徒の行為ならば、その行動は最初から第一番に、直ちに叱らねばならぬ。認めてはならぬものだ。吾人を打ち殺さねばならぬものだ。直ちに大臣は、全軍に告示して全軍の力により吾人を皆殺しにすべきだ。大臣は陛下に上奏して討伐命令をうける可きではないか。間髪を入れず打つ可きではないか」
 御承知の通り、叛乱軍部隊は”間髪を入れず”討たれることなく四日間経過した。
 ところで叛乱将校を裁いた軍法会議では、二十六日の明け方」の殺人・放火の事実にのみ犯罪事実を想定して反乱軍将校を断罪している。それは有馬氏のいう”ただの人殺し”と断定したのと同じ態度である。
 二・二六事件は”ただの人殺しか”、つまり破廉恥罪か、それとも政治事件、確信犯罪かは重大な一点である。そして有馬氏が「革命ではなく人殺し」といっているのをみれば有馬氏の答えは明瞭(めいりょう)である。
 では、殺人罪とすれば、犯人は犯行後の現場にずっととどまっていたのである。何故”間髪を入れず討た”なかったのか。この事件は政治事件、確信犯の所業だから討てなかったのである。

国防国策の争い

さらに有馬氏はいう。「かれらをクーデターにかり立てたのは、陸軍部内の派閥抗争であり、第一師団の満州追放がきまったことについての反抗である」と。「地区軍部内の派閥闘争」とはおそらく皇道派と統制派の争いを指すものであろう。
 この争いは普通考えられる争いよりも、より根源的に国防国策をめぐる争いであった。だから高橋正衛氏の「二・二六事件」(中央公論社)は、全ページどこにも皇道派、統制派の文字がない。それでも二・二六事件は書きうるのである。まして、陸軍部内の派閥闘争がクーデターをかりたてたのなら、何故、軍の派閥に無関係の近衛文麿は、あのときこの叛乱軍将校の恩赦、特赦を画策したのか。この解答を有馬氏から聞きたい。
「第一師団の満州追放」という表現も杜撰(ずさん)?きわまる。戦時でない平常時の師団の海外駐留の手続き、国防方針の決定はほぼ二年はかかるのである。この点は。その衝に当った旧軍人にたしかめられたい。
 最後に重要なこと。「私は、二・二六事件は革命などというようなものでなく、ただの人殺しか強盗・強姦のたぐいだと思っている」という表現。「たぐい」というのは有馬氏が、この事件をとらえる抽象的意味として使用したと思う。しかし私は、すでに悪魔の意味をもつこのような言葉使用しなくては自分の悲憤と願望を表現できない文筆家を軽蔑(けいべつ)する。
まして、二・二六事件は、絶対にたとえ抽象的にせよ、このような言葉を浴びせられる事件ではない。テロリズムは「思想の争い」を直接暴力で解決せんとするから当然批判されるのである。しかし「思想」が前提であるその一点を、肉親への悲劇という表現からとりさるべきではなかろう。

革命の敗者と見る

襲撃のひどいやり方も斎藤実に関しては、有馬氏の目撃した事実を認めよう。しかし高橋是清については当時の流言以外、私としてはわからぬ。有馬氏に確証があればうけたまわりたい。しかし青年将校は今日生きている我々がどう解釈しようとも”革命”を実行しようとして決起したのである(計画の不徹底、幼稚さといわれることは別として)。有馬氏はこのことはあくまで認めないのであろうか、、、、、、、。
有馬氏の所論ののった同じ二十五日の読売新聞の夕刊に中野好夫氏は書いている。
「フランス革命の末期、、、ひどいときには一日五十人以上の大量処刑を行なった日さえあるという。厳たるこれは革命の事実である。だが今日ゴロリと血染めの生首写真(かりにあるとしてだが)だけをぬき出して「どうみるか」と問う酔狂者はまさかいまい。これも事実、しかもおそるべき異常事態にちがいないが、フランス革命そのものの歴史的意味はもっと奥のところにあることはだれでも知っているからであろう」
もちろん、二・二六事件とフランス革命は世界史的価値において全然ちがう。ただ革命という一瞬は美化すると、おとしめるとにかかわらず血染めの生首だけぬき出して「どう見るか」とは言えないのである。
二・二六事件の青年将校は死をもってあがなった革命の敗者であったのである。

**************

筆者は仏心会(二・二六事件処刑者遺族の会)会長。湯河原の旅館に牧野伸顕氏を襲撃し、十一年三月六日自決した事件首謀者の一人、河野寿元大尉の実兄。



写真はちょっとみにくいが、右が2月25日の有馬氏の記事、左が3月3日の反論。いずれも黄色の枠で囲ってある。

(備考)なお、高橋正衛氏は、1994年(平成6年)、中公新書「二・二六事件 増補改訂版」を出された。真崎大将の件はそのままだが、増補に二つの問題提起がある。一つは、軍隊のける命令の問題で、
もう一つは、大臣告示は、ただ単に紙切れであったのか、ということである。また、竹山道夫氏の「昭和の精神史」についても触れられている。「昭和の精神史」は、物静かだった父が、几帳面に何本も赤線をひいていた本である。
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22.事件関係者の息子が実際に接した「二・二六事件の人たち」(20170406)末松太平さまのこと 有馬頼義をめぐって(その5)

2017年04月05日 | 今泉章利
22.事件関係者の息子が実際に接した「二・二六事件の人たち」(20170406)
末松太平さまのこと 有馬頼義をめぐって(その5)

慰霊像が建立されてから二年後の1967年(昭和42年)2月25日、「朝日新聞」「文化」欄に、「二・二六事件と私」と題して、”事件は「革命ではなくて人殺し」”という記事が掲載された。筆者は、斎藤実内大臣の親戚、1954年(昭和29年)に直木賞を受賞、久留米藩主家の第16代当主である有馬頼義(ありまよりちか)氏。氏は、事件は「人殺し、強盗、強姦のたぐい」と決めつけたのである。
有馬氏はさらに週刊新潮に「二・二六暗殺の目撃者」を連載し、1970年(昭和45年)に、一冊の「二・二六暗殺の目撃者」として出版した。

週刊新潮の連載が終わるころ、末松太平さんは、長文の反論を有馬氏に送っている。有馬氏に送った手紙そのものは見ていないが、71年3月の「情況3」にのった「二・二六は革命だったか」には、その内容が書かれていると思われる。その内容は、1980年に発行された「軍隊と戦後の中で」「私の昭和史」拾遺 のなかでも見ることができる。

有馬氏の”勉強した歴史”には多くの間違いがあり、それを、末松さんはひとつづつ、ぐさりぐさりと指摘し、さすがの直木賞作家もうんざりしたとみえるが、なるほど、批判をすることというのは、このように書くのだなあとと今でも感銘深く思っている。
なお、以前に書いたと思うが、昭和41年の三島由紀夫の「二・二六事件と私」にも、末松さんはコメントを与え、軍隊を知らない三島は、文中、「末松さんの指摘に基づき小説を修正した。」と書いている。


さて、有馬氏は「二・二六暗殺のの目撃者」のあとがきで、「末松太平氏から長文の反論を受けた。末松太平氏の反論は、主として、二・二六事件が、人殺しでなく革命であったという趣旨のものである。ここでもまた「暗殺」とか「目撃者」とかいう言葉が、問題にされているが、これは週刊新潮のつけた題名で、はからずしも、私は、利根川君と同じ運命に立たされ、受けずもがなの攻撃を受ける結果となった。」と釈明付き文章を書いている。

実は有馬氏はもう一つ痛い反論を受けていた。それは、有馬氏の昭和42年2月25日の投稿記事に対する、同年3月3日付けの朝日新聞文化欄の「河野司 二・二六事件の意味 前提に思想があった””ただの人殺し”は間違い」という記事であった。
こちらのほうは、末松氏の反論よりも早い。が、それについては、次回説明をしたい。実はこの文章は、高橋正衛氏が書いた文
章なのである。そのいきさつも含めて。

 



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21.事件関係者の息子が実際に接した「二・二六事件の人たち」(20170327) 末松太平さまのこと(その4)慰霊像の碑文「由緒書き」

2017年03月27日 | 今泉章利
21.事件関係者の息子が実際に接した「二・二六事件の人たち」(20170327)
末松太平さまのこと(その4)慰霊像の碑文「由緒書き」

外は雨が降っています。なかなか投稿ができませんでした。書けるようで、書けない。わかっているようでわかっていない。忸怩たるものを感じています。
私は、本をじっくりとは読んではいませんでした。正確には、日常の些事におわれて、じっくりと読むことができなかったのです。

いわんや、同じテーマを語っている他の本との比較や、書かれている本を時系列でなど考えることなどは、できていませんでした。 でも、やはり、頼りになるのは、河野司先生や、末松太平先生、池田俊彦さんなど、お顔が浮かんでくる方たちの本ですね。また、もちろん、父や常盤さんや鈴木(赤塚)さん、北島さん、麥屋少尉、たちのお話も大切な資料になっています。
末松さんのこのブログに投稿するようになって、改めて、山のような本や資料を、じっくりと、様々な人の表情を思い浮かべながら、あせらずに、年表を作り、それを眺めながら、以前よりも少し、整理しながら考えをすることができるような気持ちになっています。

昭和40年にたてられた渋谷の慰霊像、正式には「二・二六事件記念慰霊像」(二・二六事件慰霊像)といいます。渋谷宇田川町の建立に当たっては、責任者河野司、相談役末松太平、常勤小早川秀治、会計監査藤田俊訓 田村町にある河野先生の三昭化成の一室の準備事務所で行われました。像に向かって前面の「慰霊」というのは「像名」といい、曹洞宗館長、髙階龍仙禅師の染筆によるものです。側面に大きくはめられているのは「由緒書」といって、末松太平さまが書かれたもので、河野先生の名前となっています。「由緒書き」は、河野先生の友人で日展の審査員のである大阪の花田峰堂師が揮毫されました。
以下は、碑文に書かれてある通り書き写したものですが、花田先生の書かれた楷書の原文のままなので、すこし読みづらいかもしれません。なお、花田先生の楷書と草書の原文は、今でも大切にを保管しております。

末松太平さまが、「由緒書き」の最終案を書きあげて、河野先生に見せたところ、河野先生から「何も加えるところはないですね。そして何も削るところはないですね。」といわれたのだと、私に話されたことを今でもはっきりと思い出します。
堂々たる「由緒書」は、見事な、末松太平さまの傑作と思っています。

昭和十一年二月二十六日未明、東京衛戍の歩兵
第一、第三聯隊を主体とする千五百余の兵力が、
かねて昭和維新断行を企圖していた、野中四郎
大尉ら青年将校に率いられて蹶起した。
當時東京は晩冬にしては異例の大雪であった。
蹶起部隊は積雪を蹴って重臣を襲撃し、総理大
臣官邸陸軍省警視廳等を占據した。
齋藤内大臣 高橋大蔵大臣 渡邊教育総監は
此の襲撃に遭って斃れ、鈴木侍従長は重傷を負い
岡田總理大臣牧野前内大臣は危く難を免れた。
此の間、重臣警備の任に當たっていた警察官の
うち五名が殉職した。
蹶起部隊に對する處置は四日間に穏便説得工
作から紆余曲折して強硬武力鎮壓に變轉したが
二月二十九日、軍隊相撃は避けられ事件は
無血裡に終結した。
世に是を二・二六事件という。
昭和維新の企圖壊れて首謀者中、野中、河野
両大尉は自決、香田安藤大尉以下十九名は軍法
會議の判決により東京陸軍刑務所に於て刑死した
此の地は其の陸軍刑務所跡の一隅であり、刑死した
十九名と是に先立つ永田事件の相澤三郎
中佐が刑死した處刑場跡の一角である。
此の因縁の地を選び刑死した二十名と自決二名
に加え重臣警察官其の他事件関係犠牲者
一切の霊を合せ慰め、且つは事件の意義を永く
記念すべく廣く有志の浄財を集め事件三十
年記念の日を期して慰霊像建立を發願し、
今ここに其の竣工をみた。
謹んで諸霊の冥福を祈る

昭和四十年二月二十六日
佛心會代表 河野 司 誌



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20.事件関係者の息子が実際に接した「二・二六事件の人たち」(20170316) 末松太平さまのこと(その3)

2017年03月15日 | 今泉章利
20.事件関係者の息子が実際に接した「二・二六事件の人たち」(20170316)
末松太平さまのこと(その3)

私が登戸の末松さまをお邪魔した1991年(平成3年)は、澤地久枝の雪は汚れていたが、あまりにも、でたらめで、おまけに、其の指南をしたのが、高橋正衛ということがはっきりしたころで、末松さまのお怒りは尋常のものではありませんでした。
お話したように、中央大学からみすず書房に入っていた高橋正衛氏は、中公新書のなかで、何の根拠もなく、青年将校を突き動かしたもののの一つに「真崎の野心」ありと想像し、もっともらしい「真崎陰謀」を想像で書き40版(50万部)も売り続け、日本中が、その「真崎黒幕説」に踊らされていた時期でした。

以下は、末松さまが21011年7月13日に書かれた、筆者あてのお手紙です。

「七月は悲しい三日と十二日       昨日は命日でした。
相澤中佐の唯一人の男の子正彦君から昨日のことの電話がありました。
高橋正衛が臆面もなく法要に現れたとの事でした。二月二十六日にも現れたと聞き、こんど法要に現れたら「お前さんなんかの来るところじゃないよ」と云ってやれと、正彦君には云ってあったのに、何も云ってやらなかったようです。
貴兄が「史」を直接入手されるようになってご尊父の方には拙文の手当てを除きました。コピーでも送るようにして下さると有難く思います。
ご尊父のところに「邦刀遺文」という本が届けられていると思います。邦刀というのは對馬勝雄中尉のことで對馬中尉伝記と云うわけです。若し届けられていたら機を見て御一閲ありたし。
拙文「津軽義民伝」で紹介してある本がやっと完成したわけです。
この前進呈した「時計は止まった針は落ちる」はゲーテの「ファウスト」のクライマックスにある、ことばです。この説明はまだしてありませんが、岩波文庫の森林太郎訳の他二、三程ファウストは刊行されていますから、お読みになり自得されれば十分ではあります。
お中元のお礼を云うつもりで筆を執り、それが後になりました。有難う御座いました。
こんど病院に健診にゆくのは、九月十二日です。これ以外は家にいますから、何時なりとお遊びにお出で下さい。
7.13 末松
今泉様

1936年7月3日は相澤中佐処刑の日、9日後の7月12日は15士の処刑の日でした。夫々の処刑は、宇田川町の衛戍刑務所内で行われました。末松さまによれば、信念をもって事に当たるのが武士の精神で、相澤さんの声はひときわ大きかった。堂々たる声で「天皇陛下万歳」を叫ばれたといわれておられました。空砲のパンパンという音の中に、ピューンという実弾の音が聞こえたといわれました。 なお、処刑の前には、看守がこっそり処刑が行われる旨教えてくれたそうです。
父も獄舎におりましたが、私に相澤さんのときの大音声の話をするときは、目が吊り上がって「それは大きなお声だった」と言っていました。


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19.事件関係者の息子が実際に接した「二・二六事件の人たち」(20170314) 末松太平さま(その2)三島由紀夫「英霊の聲」から

2017年03月14日 | 今泉章利
19.事件関係者の息子が実際に接した「二・二六事件の人たち」(20170315)
末松太平さまのこと(その2)三島由紀夫「英霊の聲」から



三島由紀夫さんの「英霊の聲」(昭和41年発行、河出書房新社)に「二・二六事件と私」という文章が収められています。
その中に、末松太平さまのことが書かれているので、その部分を抜き書き致します。三島由紀夫さんが末松さまのどのように見ていたかを知るうえでの参考になればとおもいます。

QTE

P226
戦時中は日の目を見なかった二・二六事件関係の資料が、戦後次々と刊行され、私が「英霊の聲」を書き終わった直後に上梓された「木戸幸一日記」と「昭和憲兵史」(未発表の憲兵隊調書を収載)を以て、ほぼ資料は完全に出揃ったものと思われる。壮烈な自刃を遂げた河野寿大尉の令兄河野司氏の編纂にかかる「二・二六事件」と、末松太平氏の名著「私の昭和史」は、なかんずく私に深い感銘を与えた著書である。


P232
..かくて私は、「十日の菊」において、狙われて生きのびた人間の喜劇的悲惨を描き、「憂国」において、狙わずして自刃した人間の至福と美を描き、前者では生の無際限の生(なま)殺しの拷問を、後者では死に接した生の花火のような爆発を表現しようと試みた。さらに「英霊の聲」では、死後の世界を描いて、狙って殺された人間の苦患の悲劇をあらわそうと試みた。
二・二六事件という一つの塔は、このようにして、三つの側面から見られたのであるが、まだ一つ側面が残っている。それは狙って生きのびた人間のドラマである。しかし私はそれについてもはや書く気がない。なぜなら、その課題は末松太平氏の「私の昭和史」の、バルザックを思わせる見事な最終章「大岸頼好の死」によって、すでに果たされているからである。


P233
また、「憂国」を次のように改訂し、以後これを底本とする。
「近衛輺重兵大隊」を「近衛歩兵第一聯隊」と改め、「中尉は享年三十一歳」を「三十歳」と改め、中尉の帰宅の件で、「軍刀と革帯を袖に巻いて」を、「軍刀を抱いて」と改め、中尉の遺書の、「皇軍万歳 陸軍中尉武山信二」を。「皇軍万歳 陸軍歩兵中尉武山信二」と改めた。
 この改定は、当時の実情をよく知る加盟将校の一人(当時陸軍歩兵大尉)末松太平氏の助言に依ったものであるが、「輺重兵」の改訂については、私自身多少未練があった。

UNQTE

なお、輺重(しちゅう)とは、いまでいう補給部隊、logisticsのことで、きわめて重要な役目であるのですが、当時は、誤解されていたようで、父などは、陸軍士官学校の将校生徒は、ほとんどが、「歩兵少尉」になることを熱望しており、なれなかったものの落胆は、みていられないぐらいとはなしていました。(この辺りは、澁川さんも同じような感じでありました。また、兵隊とともに勤務できない、事務屋になり下がった陸大卒業組、天保銭組は、本当に馬鹿にされていた様です。)
なお、輺重の重要性ですが、二・二六事件で、食料を27日夜届けたのは、第一師団経理部衣糧課長だった紺田少佐の独断で行われたことが昭和50年2月27日の新聞に載っていました。紺田少佐は、出動部隊の食料が一日分しかないので、300人が1週間食べられるだけの、米、麦、野菜、魚、肉などトラック一台分を届けるように命じたとのことです。後刻、紺田少佐は、取り調べを受けますが、兵たちが、空腹のあまり民家でも襲ったら大変であり、たとえ厳罰に課せられてもとの覚悟のもと、食料を送ったと説明し、処罰を受けることはありませんでした。
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18.事件関係者の息子が実際に接した「二・二六事件の人たち」 末松太平先生のこと(その1)  

2017年03月13日 | 今泉章利
18.事件関係者の息子が実際に接した「二・二六事件の人たち」(20170313)
末松太平先生のこと(その1)

私が千葉市、登戸(のぶと)にある末松先生のお宅を訪問したのは、平成2年、1990年の5月13日のこととであります。それから、27年という月日が過ぎました。感覚的には、つい昨日のような気がしているのに、30年近くもたってしまっていることを思い改めて呆然としております。そのとき、私は、40歳でした。先生は85歳。誰の紹介も受けずに、いきなりお手紙を差し上げたのに、すぐ地図付きの返事を頂きました。
三回目の目の手術を慶応病院でするから、事前に連絡がほしい。過去の二回の手術は、網膜剥離の手術だったが、今回は白内障だからそんなに大変ではない、と書かれていました。
地図には、西千葉駅を西友デパート側の道を5分ほどまっすぐ下り、京成の架橋をわたって右に曲がる、、とありました。

お宅にお邪魔すると、先生は、私の顔を覗き込むようにごらんになられ、「最近目が見えなくなっているが、君はお父さんに似ているね」といわれました。

何か、絵の道具が山のようにのっている大きな机を前に白髪の先生が座り、私は、かしこまって、何を話していいのかわからず、それでも、思い切って次の質問をしました。
「先生、二・二六事件って何でしょうか。」と聞いたのです。 すると、先生は言下に「正義の味方だ。」とはっきりといわれました。
私は、続けて「なぜ人を殺したのですか。」と尋ねたら、間髪をいれずに、「それは立場だ」といわれました。一点の曇りもためらいもない、瞬時に頂いた答でした。
この、問答は、私にとってずっと大切なものとして、ずっと心の中にあり、枝葉をつけながら少しずつ育っている気がしています。



先生は、私のような何もわかっていない闖入者に、そのあといろいろと話をしてくださいました。
「君はカレルの「人間この未知なるもの」を読んだか。「フランクリン自伝」を読んだか。ゲーテのファウストを読んだか。澤地、匂坂、中田の作り上げた「雪は汚れていた」「消された真実」で、真崎が事件を利用して組閣をたくらんだという話は、でたらめだ。なぜ、事件の話をゆがめるのか。」などとといわれました。
二年前の1998年の「雪は汚れていた」に対して、先生は、田々宮英太郎さんが主宰する雑誌「史(FUMI)」66号(1988年)に、「羊頭をかかげて」と題する論文を投稿。匂坂資料を太鼓をたたいて朝日とNHKで喧伝したあげく何も出てこなかった。など、多くのお話をしていただき、だんだん早く大きくなってくる先生の声に、目を白黒して聞いていた小さな自分を思い出します。

また、大正15年に青森県東津軽郡車力村で起こった小作争議のコピーを渡され、「これが、二・二六事件の原点だよ」といわれました。そのコピーには、胸まで浸かって田植えをしている小作人の写真がありました。



また、死刑が確定した對馬勝雄さまの田舎館(いなかだて)の叔父様宛の手紙を示され、「皆々様、勝雄は立派に皇国に尽し申し候、村の鎮守様に対しても面目相立候。私は絶対に死に申さず皇国と共に無窮に御座候、、」と書いてありました。
末松太平先生は、東北の苦しく貧しい農民たちの苦しさこそが二・二六事件の原点だといわれたのでした。
先生のお宅を辞去するに当たり、持参した「私の昭和史」(昭和38年2月20日 第1刷)を差出し、何か書いてくださいとお願いしたら、表紙の裏にサインペンで「尊王討奸 末松太平 今泉章利様」 と大きく書いてくださいました。

なお、私の把握している末松太平先生の著作は次の通りですがもっとたくさんあると思います。参考まで。

1963年 昭和38年(先生58歳) 私の昭和史
1965年 昭和40年(先生60歳) 二・二六事件慰霊像碑文原案(碑文は仏心会代表河野司名にて記す) 
1966年 昭和41年(先生61歳) 少尉殿と士官候補生(追想 大岸頼好 41.3)
1971年 昭和46年(先生66歳) 二・二六事件は革命だったか(情況1971.3、有馬頼義反論)
1980年 昭和55年(先生75歳) 軍隊と戦後の中で 「私の昭和史」拾遺 

1986年 昭和61年(先生81歳) ベストンの話(小田急建材)
1988年 昭和63年(先生83歳)  史66号 羊頭をかかげて
                史67号 「匂坂資料」信者への抗議
                史68号 表紙に寄せて(時計は止まった。針は落ちる)
1989年 平成元年(先生84歳)  史69号 末松太平 表紙に寄せて
          史70号 二・二六事件断章(その一)真崎大将の組閣説始末記
           史71号 津軽義民伝
1990年 平成2年(先生85歳)   史72号 二・二六事件断章(その三) 正義直諌の詔
           史73号 二・二六事件断章(その四) 生れ年としての明治の年号と、士官学校の期は、一致するかしないかの話
1991年 平成3年(先生86歳)   史74号 二・二六事件断章(その五) 事件第一報
           史75号 二・二六事件断章(その六) 翹望(ギョウボウ)
           史76号 二・二六事件断章(その七)岩淵国太郎中尉の死
           史77号 二・二六事件断章(その八)再び岩淵中尉の死について
1992年 平成4年(先生87歳)   史78号 二・二六事件断章(その九)三たび岩淵中尉の死について
           史79号 二・二六事件断章(その十)獄内人間模様 
1993年 平成5年 1月17日 ご逝去
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