◎末松太平事務所(二・二六事件異聞)◎ 

末松太平(1905~1993)。
陸軍士官学校(39期)卒。陸軍大尉。二・二六事件に連座。禁錮4年&免官。

◎訃報・山口富永氏ご逝去◎

2021年02月03日 | 末松建比古
2021年新春。山口富永氏から年賀状は届かなかった。そして 1月10日を過ぎて届いた葉書は・・・
「寒中お見舞申し上げます 喪中につき年賀のご挨拶を失礼させていただきます 
 ここに昨年中のご芳情を厚くお礼申し上げますとともに 皆々様の本年の御健勝を心よりお祈り申し上げます
 昨年長男を三月に 妻を八月に亡くしました 令和三年一月十日」
そして 差出人は「山口富永 代」となっていて 上記挨拶には以下の言葉が書き添えてあった。
「年賀状ありがとうございます。父は今 筆が持てません。私 次女渡辺郁子が代わりました」 

葉書が届いて数日後。 家人から「長野の山口さんから電話・・・」と伝えられ 瞬時に状況を理解した。
筆も持てないという山口富永氏から電話が来る筈はない。初めて聞く声が「山口の娘です」と訃報を伝えた。
「身内だけで 総て済ませました」「末松先生と撮った写真をいつも傍に置いていました」・・・ 冷静な声は 次第に涙声になっていった。



電話を戴いて数日後。山口家からの《御会葬御礼》が配送された。
「葬儀の際はご多忙中にも拘わらず態々ご会葬下され且つご丁寧な御芳志を賜り誠に有難く御礼申し上げます(中略)
尚本日の葬儀は大町市生活改善委員会の申し合わせにより執り行いましたのでご了承くださいますようお願いいたします
令和三年一月二十日 長野県大町市大町●●●● 喪主 山口晋平 渡辺郁子 前田すみ子 外 親戚一同」
私は葬儀に参列していない。御霊前も(現金書留の送付先が判断できず)未だの状態である。ところが 山口家からは《御会葬御礼=画像参照》《ご長女による挨拶状=下段に紹介》に《会葬御礼品=ギフトカタログ》まで添えられていたので 些か狼狽えてしまった。
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山口富永のこと(令和三年一月十八日逝去)
厳寒の候 冬晴れの日 北アルプスの山々が雪を冠り美しく映える日に 父は旅立ちました。
大正十三年 山口春芳・すみ乃の長男として大町市に生まれ(九十六歳)誠に昭和、平成、令和を生き抜いて力尽きました。
大町中学校時代に清水謙一郎先生の薫陶を受け、生涯の師と仰ぎ「ある教育者の生涯」を著しています。また真崎甚三郎大将に出会い 二・二六事件とその周辺の近代史を探り伝えることが生涯のライフワークとなり「昭和史の証言」「に支えられて過ごし、大町短歌会にも所属し、作歌、懇親に励み穏やかに過ごしました。
  滅びゆくものは思はじ梓弓 春の息吹の立ちくるままに
  この頃は身体(からだ)が邪魔になるといふ 先師のことば今にして思ふ (富永)
今頃は身体から抜け出した魂が自由に、母や先だった息子たちに会い、また先師たちと語らっていることと思います。
永年の御厚情に心から感謝申し上げます。
  小寒や父の命のまだありぬ 真一文字に口を結びて父逝けり (一月十八日)
ちちのみの父の歎きは信濃なる 山また山に谺するかも        長女 前田すみ子
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遅ればせながら 御霊前を「山口富永様方 渡辺郁子様」宛にお届けした。すぐに御礼の電話があり 数日後には高価な《御礼の品》も届けられた。
山口富永氏への追悼記事は 本来なら「国民新聞」や「史」などに掲載された筈である。しかし 既に 山田恵久氏も田々宮英太郞も逝去して「国民新聞」も「史」も姿を消している。
追悼文を記すには《余りにも力不足》な私には 山口富永氏の訃報を伝えることが《分相応》な役割だと思う。(末松)



★懐かしの画像=1992年7月25日「末松太平の米寿を祝う会」
前列=相沢正彦(相沢中佐長男)・末松太平&敏子・山田恵久(国民新聞社主幹)。
後列=今澤栄三郎・山口富永・田々宮英太郎(現代史懇話会主幹)・今泉章利。
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