◎末松太平事務所(二・二六事件異聞)◎ 

末松太平(1905~1993)。
陸軍士官学校(39期)卒。陸軍大尉。二・二六事件に連座。禁錮4年&免官。

◎千葉市営霊園「平和公園」第F3区71号◎

2024年03月29日 | 末松建比古
今年1月、当ブログ掲載の「末松太平32回忌?」に対して、森田朋美サンから下記のコメントをいただいた。
「・・・千葉市若葉区平和公園、暖かくなったら、今泉さんと、都子ちゃんと、四人で行きましょう」
実は 現時点に於いて「末松太平の墓」を訪問した方は(親族を除けば)相沢正彦サン、中川喜英サンの二人しかいない。
そして 森田朋美サンの提案が実現するかどうかは 微妙な状況にある。
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画像は 約30年前の昔 1994年7月に「末松太平(前年1月に逝去)の墓」を訪れた「八人!」である。
左から 私(末松太平・長男=当時54歳)、相沢正彦(相沢三郎中佐・長男)、尾島田鶴子(末松太平・長女)、末松敏子(末松太平夫人)、尾島匡則(末松太平・孫)、末松一輝(末松太平・孫)、末松行子(私の妻)という顔ぶれ。撮影=尾島正晃(田鶴子の夫)、これで「八人」になる。
相沢正彦サン(2004年2月に逝去)も 末松敏子サン(2011年9月に逝去)も 元気潑溂としていて その後の人生を 全く予感させない。

「建比古クンが会社を退いたら、一緒にやりたいことがある」
正彦サンには 顔を合せる度に 声をかけていただいていた。
「詳しいことは その時になってから・・・」という内容は 朧気ながらも推察できた。
私の脳裏を掠めたのは 相沢中佐と末松大尉が二人だけで味わった「昭和9年の(仙台での)年越しそば」の光景である。
一緒に東京に行かないか。相沢中佐の「さりげない誘い」に 末松大尉は即答できなかった。そして 昭和10年に「事件」は勃発した。
それでも 御遺族との交流は 途切れることなく続いて ついには「両家(相沢中佐夫人と末松太平)の葬儀」が重なるという《奇縁》へと導かれたのであった。

「会社を退いたら 一緒にやりたいことがある」という中佐の長男に 大尉の長男は応えるつもりでいた。
中佐の誘いは「一緒に東京に行かないか」であった。 中佐の長男の場合は「一緒に水戸に行かないか」だろうと推察していた。
しかし 私が会社を退く迄には長い時間が必要だった。 そして 長い時間を費やしているうちに 正彦サンは重い病に罹り 面会謝絶の闘病生活が続いて ついには「一緒にやりたいこと」は 幻のままに終わってしまった。
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森田朋美サンの提案が実現するかどうかは 微妙な状況にある。
その理由は 私が《弟=末松太平・次男》に宛てたメールの中にある。

「我々夫婦は 築地本願寺の合同墓を申込みました。合同墓と併せて《永代経》を申し込めば《永代供養=管理費不要》されるので 愚息夫妻を煩わせることもありません。埼玉県在住の愚息夫妻に《千葉市平和公園の墓参》を強いるのはモラハラになりますが、築地本願寺ならば 境内に和風食堂や喫茶レストランがありますので、いつでも気軽に墓参ができます。
「老母が《清和園=特養施設》に御世話になっていた頃は、毎週欠かさず《清和園+平和公園》に通っていたのですが、老母が死去してからは、毎月1回~数ヶ月に1回と徐々に減少。愚妻が原因不明の足の激痛で遠出が困難(介助認定2)になってからは、車を手放し免許証も返納して、更に《平和公園》が遠くなりました。
「平和公園の規約では、やがて管理費の納入が途絶えると 無縁墓地(遺骨廃棄場?)に移されます。築地本願寺(永代供養+管理費不要)との差違を思えば 早めの対応が必要です。
「墓じまいをするには 平和公園の管理事務所での手続き、千葉市役所の管理事務所での手続き、石材店への依頼=工事費(遺骨取り出し+墓石を処理して更地に戻す)など、何度か足を運ぶ必要がありますが、墓地使用者(私)の責任で対応する所存です。
「両親の遺骨は、我々夫婦と同様に、築地本願寺の合同墓に申し込むつもりです。扱いは個人単位なので《4件》それぞれの手続きになります。
「手続きは(郵送不可なので)印鑑証明+実印+管理委託冥加金+永代経懇志などを揃えて、築地本願寺で行います。順番待ちの盛況で、我々夫婦はようやく《5月》に《1時間だけ》予約できました。手続きが1時間で終わらぬ場合は 改めて新規予約することになります。
「両親の手続きが無事完了しましたら、ゆっくりと《平和公園の墓じまい》の準備にかかりたいと思います」
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送信して直ぐ 弟から「了解」のメールが届いた。

千葉市平和公園の市営霊園は 末松太平本人が生前に申し込んでいたものである。
遺骨6体が収納可能であるが 僅か夫婦2体を収納した段階で《墓じまい》に踏み切るとは・・・。忸怩たる思いもあるが・・・。(末松建比古)
 
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◎笑談「松本清張の昭和史」異聞◎

2024年03月16日 | 末松建比古


千葉の恵みを召し上がれ・・・。千葉市美浜区在住の妹(末松太平長女)から 宅配便が届いた。
箱の中身は地元「オランダ家」の御菓子いろいろ。そして《保阪正康「松本清張の昭和史」中央公論新社刊》。初版発行=2024年2月25日。
妹曰く「先日 書店に行った時に 表紙だけ見て衝動買いしてしまった。でも 私には不要本だから・・・」 

画像参照。松本清張の「昭和史」、末松太平の「昭和史」、どちらの表紙カバーも「二・二六事件」の報道写真が使われている。妹が(勘違いして)衝動買いしたのも無理はない。私自身は 先日 池袋の「ジュンク堂書店」と「三省堂書店」に立ち寄った際に「松本清張の・・・」を目にしているが 手に取ることはしなかった。当然ながら《松本清張「昭和史発掘」文春文庫版》は所有しているし 細部までチェックもしている。保阪正康氏が今更(その本をネタにして)何を書こうが興味はない。
「清張史観の核心を突く。」「『清張史観』の今日的意義とは。」「・・・戦後30年を経て、清張史観はいかに評価されるべきか。清張から『時代の記録者』としてバトンを託された著者がその核心を伝える。」
帯カバーを読めば 中央公論新社が出版した意図は 朧気ながらも理解はできる。でも「ムムム・・・」という思いも消すわけにいかない。

保阪正康氏は 以前にも《青年将校が要人を殺害する残虐性》について記しているが 本書でも同様である。
「2006年2月、『週刊文春』に、ある内務省関係者の遺族から斬殺現場の写真が持ち込まれている。私はそれを見てコメントを寄せたのだが、この青年将校たちの暴力性のなかに、度しがたいほどの人間性の退嬰を見る思いがした」「しかし、本質的に二・二六事件で語らなければならないのは、こうした青年将校たちの暴力ではなく・・・」
例えば 松本清張「昭和史発掘」の「秘密審理」の章には(ある法務官の「手記」からの引用として)渡辺教育総監が惨殺された模様が記されている。
「・・・(すず子夫人は身を以て制止せられたが)将校は拳銃を乱射し、下士官塀は縁側に機関銃を据えて射撃した。大将も拳銃を以て之に応戦せられたようである。とうとう大将は倒れてすでに絶命せられたにも拘わらず、叛乱将校は大将の頭部肩等に数刀を浴びせかけ、見るに堪えない残忍なことをした・・・」
これは、ある法務官が「他から聞いた話」を「手記」にまとめたものだという。当時公表されていた範囲での「公判記録」でも この辺りの「暴力行為」の数々は記されている。
保阪正康氏が 今更ながらに「惨殺現場の写真を見て衝撃を受けた」のは 当時(2006年)も奇異な言動に思えた。当時の「ブログ・末松太平事務所」には この辺りの「奇異な印象」が記してある。
そして今 保阪氏はわざわざ「青年将校の暴力性」に触れていながら 直ちに「しかし・・・」と方向を転じている。初歩的な「印象操作」の試みだと思えば 腹も立たないけれども・・・。



しかし、私が述べたいのは、保阪正康氏への表層的な批判ではなく・・・。
私も方向を転じて《保阪正康「松本清張の昭和史」》刊行による「プラス」の面にも目を向けようと思う。

先日立ち寄った「ジュンク堂書店」の「現代史書架」には「二・二六事件関連」が僅か数冊。最新刊が《末松太平完本 私の昭和史」昨年1月刊》という惨状(!)であった。何故か《保阪正康「松本清張の昭和史」》は、離れた場所に並べられていた。
そして「三省堂書店/池袋西武店」は更なる惨状(!)で、二・二六事件関連は「完本 私の昭和史」一冊だけであった。せめてもの救いは、少し離れて平積みされている「松本清張の昭和史」の存在だった。

《保阪正康「松本清張の昭和史」》の巻末には《好評既刊》として 次の3冊が紹介(広告)されている。
①/松本清張著「歴史をうがつ眼」/司馬遼太郎との10時間も及んだ伝説の対談「日本の歴史と日本人」、青木和夫を相手に清張史学のエッセンスを語った表題作ほか、日本とは何かを問う歴史講演・対談集。単行本初収録三篇。
②/玉居子精宏著「忘れられたBC戦犯 ランソン事件秘録」/1945年3月、日本軍が仏領インドシナ北部の町で多数の捕虜を殺害したランソン事件。その顛末と、裁きを受けた将校たちの思索を手掛かりに日本人が避けられない問題に向き合う。
③/末松太平著「完本 私の昭和史 二・二六事件異聞」/昭和維新運動の推進力であった「青年将校グループ」の中心にあった著者が、自らの体験を克明に綴った昭和史の第一級史料。関連文書などを増補した決定版。(解説 筒井清忠)。
・・・この3冊を「広告」として紹介したのは(保阪氏の意志ではなく)中央公論新社編集部の金澤氏だと思う。

「松本清張の昭和史」掲載の「今読む『昭和史発掘』/保阪正康+加藤陽子(司会・田中光子、特別参加・藤井康栄)」の中で 保阪氏は次のように語っている。
「・・・たとえば、僕が『二・二六を知りたいけれど何を読めばいい?』と聞かれたら、まず高橋正衛さんの『二・二六事件 増補改版』を薦めます。『昭和史発掘』はそういう入り口から一段ステップしたところにある本ですね。これからは、松本さんの本がより手に取られなければならないと思う。若い人が、入門書を読んで基本的なことを頭に入れた後、さて次へ進もう、という時に必ず松本さんに出会う、そういうことだと思います。」
・・・高橋正衛の本を読み、次に松本清張の本を読んだ「若い人」が、更なる次を志し《好評既刊・第一級史料》を思い出して・・・。ホップ ステップ ジャンプの三段跳び。それに応えて万歳三唱。

高橋正衛著「二・二六事件 増補改版」から「まえがき」の一部を(裏話と共に)紹介しておく。
「末松太平氏は常に私のよき助言者であり、とくに青年将校の横断的結合という点について教えられるところがあった。本書執筆の動機のひとつは、山口氏、西田さん、末松氏に伝わる、反乱軍将校の考え方や気持ちを、もう一度考えてみたいということであった。/昭和40年7月12日」
この本の「初版発行」は1965(昭和40)年8月25日。「増補改版/初版発行」は1994年2月25日。
この長い間には様々な葛藤があって、末松太平は(1990年頃に)高橋正衛と訣別し、強硬に「まえがきから名前を削除しろ」と申入れて、それに対する高橋正衛の回答は・・・(以下省略)。(末松建比古)
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◎「1936年7月12日」の真実◎

2024年03月09日 | 末松建比古


「御尊父さまから伝え聞いた事件の核心やエピソードなどを 氏が受け継ぎ語り伝えて・・・」
民族革新会議の公式ブログで 過分なご紹介をいただいたからには これからも 老骨に鞭打ち《語り伝えて》いくしかない。

私が(来賓挨拶で)語り伝えた「7月12日」のことは、末松太平著「完本 私の昭和史/蹶起の前後(その二)」にも載っている。しかし「ドキュメンタリー」として書かれてはいないから、代々木練兵場の訓練のことなどは 全く登場していない。
来賓挨拶の《ネタ元》は、末松太平直筆の「未公開」原稿にあった。この原稿には(書込・訂正・削除など)推敲を重ねた痕があり、筆者の執念が感じられる。当人しか知り得ない「事実」も記述されている。ブログ掲載には長すぎるかも知れないが 敢えて全文掲載することにした。
・・・敢えて「未公開」と謳ったのは、掲載誌(紙)の類いが未だ見当たらないが故である。



◎画像は「未公開原稿」の一部分。以下は「未公開原稿」の全文である。
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 弘前の拘禁所には二十日間いた。その間に青森の聯隊から兵がひとり、哨令違反で入ってきた。歩哨に立っていて居眠りしていたのを巡察将校に見つけられたのだった。看守が可哀相な兵だ、と言っていた。家に心配のある兵は、人の眠るときに眠れず、その寝不足のため、かえって眠って悪い時に眠る。
 拘禁所にいる間に、師団法務部長の簡単な調べがあった。師団長に意見具申したり、電報を打ったりしたことと、私が佐藤正三に旅費をやったことなどが、叛乱幇助になるということだった。
 三月二十六日に東京へ送られることになった。一度青森に出て、東北線の夜の七時の急行に乗るのだった。
 一人に憲兵と看守が一人づつ附いたので、三人で六人の護衛に、憲兵大尉が総指揮をした。合計十人の一行だった。軍服に手錠は目立つというので、和服に袴に手錠をかけ腰縄をうち、それを上から二重廻しで隠した。青森で汽車が出るまでしばらく駅長室で休憩した。中の温もりで曇った硝子戸越しに、駅前の街の鈴蘭灯がぼんやり眺められた。雪切りを終わった街路に綿雪が音も無く降っては消えていた。

 翌朝着いた東京も曇り空だった。上野から三台の自動車に分乗して衛戍刑務所へ向かった。刑務所に着くとすぐ着換室で囚衣に着換えた。その時、帯を解いた志村中尉の嚢から、勅語勅論集が床に落ちた。捕われの身になってもなお膚身から話さなかったのだった。
 この時、私の脳裏に、さっき上野駅で自動車に乗るとき見た戒厳指令部の腕章をつけた大尉のことが急に蘇ってきた。我々を待ち構えていた三台の戒厳司令部の自動車の他に、もう一台、前の硝子に戒厳司令部と貼紙した自動車が並んでいた。その車に戒厳司令部の腕章をつけた大尉が、着飾った若い妻とその母らしい女性を、はしゃぎながら案内して、一緒に乗るとどこともなく走り去った。官物私用である。
 戒厳司令部ができて、民間の自動車を臨時に徴用すると、早速それを私用に使う。そんな将校が取締りの側に立ち、手錠打縄の身になお勅諭勅語を離そうとしない将校が囹圄の身になる。こんな階調の乱れが、将来の国策にどんな現象を生むだろうかと思った。
 弘前から附いてきた看守は、三人が着換えるはしから、羽織袴を片付けていた。兵隊の入営日に、軍服に着換える新入兵の着てきたものを、父兄が始末する風景に似ていた。着換えが終わって別れるとき三人の看守は、途中汽車の中では、お陰様で東京見物ができますと、喜んでいたのに、お身体を大切に、と泣きそうな顔で言った。
 監房に入ろうとするとき、近くの監房に栗原のいるのが見つかった。暗い中に栗原の顔がほの白く、夕顔の花のようだった。私を見て、いたずらっぽく笑った。しかし翌日はもう、その監房にはいなかった。

 獄中暦日なしで、はっきりしたことは憶えていないが、東京に来て一週間位して、私の予審が始まった。どこかの師団から増加派遣になったらしい予審官の軍用行李の上には、陸軍刑法講義録が乗っていた。
 この頃は、濡れても苦にならないほどの雨がよく降った。塀に沿った赤煉瓦道を伝って調室に通うと、調室に近いあたりは、塀越しに枝を差伸べた民家の大きな八重桜が盛りを過ぎて、一面に散った花瓣が雨に汚れていた。
 獄舎の外は兵隊が警戒していて、物珍しそうに監房を覗きこんだりする兵もいた。雨の降る夜は、怠けて監房のすぐ前の軒端に雨宿りして、樋を伝う雨音を伴奏に流行歌を歌う兵もいた。動物園の檻の中の猛獣を、子供が怖がらないように、叱る能力を失った将校を怖がるには及ばなかった。

 予審は私が三回位、続いて志村、杉野がそれぞれ二三回、大雑把に調べられて中断された。どうして引続き調べないのかなと思っているうち、蹶起将校の裁判が始まった。塀に沿った赤煉瓦道を、私たちの監房の前を、行列を作って裁判に通った。
 私の監房は、この赤煉瓦道に近いので、この行列が良く見えた。何もすることのない毎日だったので、この行列の行き帰りを送り迎えすることが、しばらくは私の日課だった。裁判が休みらしく行列が通らない日は、何か物足りなかった。
 ほとんどが黒紋付の羽織袴で、白足袋に畳表の草履を履いたり、桐の駒下駄を履いたりしていた。顔は覆面で隠されていたが、体つきで誰彼は判った。雪の多かったこの年は、雨も多く、その度に行列は難渋していた。手錠をはめた不自由な手で、袴の裾をからげたりしていた。
 季節は移って、行列の人々も羽織を脱ぐようになったかと思うと、そのうち夏姿も一人二人見られるようになった。

 行列は、六月のはじめ頃から見られなくなった。論告があって、判決を準備しているのだろうと思っていた。渋川の残した日記によれば、論告のあったのは六月五日となっている。
 この間に、我々三人の予審は無雑作に終わった。初めの頃より、予審官の態度が好意的になっていた。
 七月が近づいても雨は減らず、暑さは加わってきた。調室にいる予審官に、多摩川の船遊びの回書が廻ってきたりしていた。

 七月五日に、久しぶりに行列の出て行くのが見られた。判決を聞きに行ったのだった。渋川の日記の七月四日のところに「夕方、裁判宣告申渡ノ為メ、明五日午前九時ヨリ開廷ノ通知アリ。理髪ヲ行フ。之ガ最後ノ理髪ナルベシ」とあるから、前日の夕方知らされたようである。t続けて「叛乱幇助トカ、事件関係民間被告ノ公判モ開カレザル模様ナレバ、判決ハ当分遅ルルモノト思ヒ居タルニ案外早カリキ」ともある。
 刑が重かったことは、あらましを看守から聞いた。詳しいことは聞こうとはしなかった。

 判決の日は日曜日で、渋川の日記に「朝来曇天、公判ノ頃、暫時日照ス」とあるが、翌六日は「朝細雨、本降リトナリ終日止マズ」とある。この日に監房の入換えがあって、死刑になる十七人が一棟に集まった。監房が十七房だったのも不思議な一致だった。同じ日記には、その部屋割りが書いてあるが、第一房に安田、それから村中、水上、高橋、竹嶌、中橋、坂井、対馬、香田、栗原、丹生、安藤、田中、林、磯部、中島の順序で、端の第十七房が渋川だった。
 もうこの頃になると、お互い話し合うこと位は寛大にしたとみえ、七月七日の同じ日記に「夕ヨリ夜ニカケテ皆残念々々ト語ル。死ンデモ死ニ切レヌト云フ。士官学校ノ寝室ノ如キ感アリ。楽シ」とあって、士官学校時代、消燈ラッパが鳴ったあと寝室で、週番士官に「早く寝ろ」と毎度のように叱られながら、その裏をかいて、よく無駄話をして楽しんだことを偲んでもいる。

 判決があってからは、面会や差入れで赤煉瓦道は賑やかになった。差入れは処刑の日が近づくにつれ増えてきた。手提籠に入った果物や、木箱の菓子などが、ここには不似合いな華やかな風呂敷に包まれたりして運ばれていた。運ぶ看守も、服装を改めていて、何かこれからお目出度いことでも始まりそうな気配だった。しかしそんな情景とは別に、刑務所の一隅、風呂場の裏に、処刑場は完成を急いでいた。風呂には大分前から、風呂が壊れたといって、入れてくれなくなっていた。

 処刑の日は、十二日だった。
「七月十二日(日)朝晴、今朝執行サレルコトガ昨日ノ午後カラウスウス解ッテ夜ニ入ッテハッキリ解ッタ」と、渋川は書き遺している。
 前日の夜は、お互いの話声が、間に一棟を隔てているのに、私たちのところまで、はっきり聞こえてくるようになった。夜が更けるに従って、詩を吟じたり、お経や祝詞をあげているのも聞こえてきた。私はいつものように就寝の鐘を合図に、獄則通り寝床に入ったけれど、容易に寝付かれそうもなかった。渋川の般若心経をあげる声が特に耳を離れなかった。そのうち暫くまどろんだようだったが、眼が覚めてみると、まだ暗かったが明け方近い感じだった。話声は昨夜のままだった。夜通し話していたのだろう。残る同志の名を呼んで、あとを頼む、などとも言っている。
 夜が次第に明けると、一面の靄である。すると突然、君が代の合唱が起こった。続いて天皇陛下万歳を三唱、大日本帝国万歳を三唱、あとは士官学校の校歌を歌う者もいた。

 靄が晴れかかった頃、赤煉瓦道に沿って、看守が一定の間隔をとって墸列した。とみるうち、元気で行けという声がしたかと思うと、第一の組の五人が、間の一棟の獄舎の蔭から現われてきた。先頭から将校のときの古参順に、香田、安藤、竹嶌、対馬、栗原と並んで来た。一人一人に看守が一人づつ附添い、看守長が一番左に附添っていた。看守長は左手に目隠しにするらしい白布を捧げていた。
 新しい夏の囚衣が死出の晴衣だった。いつもの覆面は今日はしていず、新しいスリッパを履いていた。そのスリッパの音も軽く、通り過ぎていった。墸列の看守は、通り過ぎる一人一人に、挙手の礼をして見送った。

 靄がまだ晴れぬ頃から、代々木練兵場では激しい空砲射撃が始まっていた。機関銃や軽機関銃が、ひっきりなしに射ち続けていた。処刑が迫るにつれ、それはひときわ激しくなった。しかし、その射撃の音も、実弾の音を紛らすことを出来なかった。天皇陛下万歳の絶叫と同時に、実弾特有の重い鋭い音がした。

 第一回が終わったのは、午前七時という。
 第二の組は、丹生、中島、坂井、中橋、田中の順だった。
 第三の組は、安田、高橋、林の年少将校と、民間の渋川、水上の年長者だった。
 
 第三回が終わったのは、八時三十分という。
 処刑が終わると、練兵場の射撃はぴたりと止んだ。反動で一瞬真空のような静けさになった。その静けさの中を、ラジオ体操の放送が近処の民家から流れてきた。七月十二日は「朝晴」と、渋川は日記に書いている。

 みんな天皇陛下万歳を叫んで死んで行った。奉勅命令に反抗したというけれど、それもこれで帳消しだろう。
 もっとも、奉勅命令は聞いていないと、みんなは法廷で言っていたと看守から聞いた。後で聞くと、山口大尉が間で握りつぶしたから、聞いていないのが本当ということだ。
 しかし、奉勅命令に反抗したことを楯にとって、裁判は進められた。錦の御旗が担ぎ出されたわけだが、昔から担ぎ出された錦の御旗に本物はないそうだ。裁かれる身になって、奉勅命令がどうのこうのと言ってみても仕方はない。被告人の国体観は━━と犯罪の一環として訊かれる国体観に何の意義もないように。

 この日から、監房が一棟そっくり空いた。看守も勤務が軽減されただろう。二・二六事件もこれでクライマックスは終わった。
 昼頃、黒い衣の坊主が、もののけのように、スーッと廊下を通り過ぎていった。
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以上が「獄舎の中」から伝える「七月十二日の真実」である。当然「獄舎の外」から伝える「七月十二日の真実」も知りたくなる。

「・・・ここに三角友幾氏の二・二六事件処刑前後のことをしるした手記があるから、その一部を抜粋して、当時の事情の一斑を知る参考にしよう」
《末松太平著「完本 私の昭和史」/夏草の蒸すころ》に登場する三角友畿氏(松本市郊外で長期療養中)は、渋川善助に兄事していた方である。抜粋された手記も「獄中の渋川善助」を中心に記されている。
「七月七日、面会許可の通知が来た。嗚呼何もかもお終いだ。」
「七月十日、朝早く出かける。今日は直ぐ面会出来た。憲兵に身体検査をうけ、法務員の身許調べをうける。例によって渋川さんの甥になり済ましている。係員も全然気がつかぬでもあるまいが、大目に見ているのであろう。
「奥さんに導かれ、渋川さんの圄両親、御兄弟、奥さんのお母さんと兄さん、渡辺さん御夫妻と面会所に入る。八畳敷ばかりの土間だ。
「直ぐ正面の机の前に、紋付姿の渋川さんが立っておられる・・・・」以下省略。
「完本 私の昭和史」には 渋川善助の遺体を霊柩車で落合火葬場に運び 荼毘に付すまでが 丁寧に記されている。

末松太平=獄の内から見た光景。
三角友幾=獄の外から見た光景。
渋川善助を念頭において併読すれば「七月十二日」の真実が見えてくる。(末松建比古)
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◎民族革新会議の公式ブログから◎

2024年03月07日 | 末松建比古
「令和六年 二・二六事件殉国烈士慰霊祭」の報告が「民族革新会議」の公式ブログに掲載されている。
慰霊祭の式次第。烈士に対し黙祷。国家斉唱。導師の読経に合せて参列者全員の焼香。そして 来賓紹介・・・。



ここでは「来賓=私に関する部分」だけをピックアップ。慰霊祭の詳細は「公式ブログ=大熊雄次氏報告」でお読みください。
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「そののち、水谷浩樹氏より本日ご参加いただいたご来賓の紹介があり、かって青森歩兵第五連隊に所属し、二・二六事件に加わった末松太平氏のご子息である末松たけひこ氏(八十四歳)をご紹介いただきご挨拶を賜った。
「氏は本慰霊祭にも人知れず毎年のように訪れ、遠くから見守っておられたそうである。
「御尊父さまから伝え聞いた事件の核心やエピソードなどを氏が受け継ぎ、語り伝えておられる。
「この日もご挨拶の中で、処刑場のあった、まさにこの場所で拘束されていた際、隣接の教練場での射撃訓練に紛れて処刑が行われたが、空砲での訓練と実弾発砲では音に大きな違いがあり、当日は同志の処刑を傍で実感することになり、大変つらい思いをされたという生々しいお話しを伺った。」

「昨年の二月二十六日、産経新聞に掲載された末松太平氏の著書『私の昭和史』の書評。二・二六事件関連書籍の名著である」
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来賓挨拶(私)に続く式次第。「青年日本の歌」奉唱。國士會會長の挨拶。民族革新会議副議長の挨拶。主催者の謝辞。そして お開き。

「完本 私の昭和史」の紹介を載せていただいたこと。全く予期していなかったので 吃驚した。
掲載された画像は 先日講師を務めた「國風講座」のレジュメに載せていたもの。水谷サン(國風講座の参加者)のご配慮によって「民族革新会議」のブログ閲覧者にも紹介していただけた。担当の大熊サンにも感謝感謝である。
「御尊父さまから伝え聞いた事件の核心やエピソードなどを氏が受け継ぎ 語り伝えておられる・・・」
水谷サンと大熊サンの御厚意によって「完本 私の昭和史」に関心を持つ人が 一人でも増えてくれれば嬉しい。

冒頭の写真二点。自分では「まだ壮年」に見えると思っていたので「現実=もう老人」を見せられて・・・。レ・ミゼラブル。嗚呼無情。
左の写真=樹木の横に立ち 周囲と同じ姿勢を保っているつもりの(紅一点ならぬ)老一点。
右の写真=水谷サンの隣で カメラにガンを飛ばす(頑なそうな)老一点。

「老一点」の日常は 家人の指令で食品スーパー巡り。脊柱管狭窄症に悩まされ(痛み耐えつつ)間欠性跛行。顔で笑って心で泣いて・・・自分自身は「物静かな老人」に見えてるつもり。写真見るまで そのつもり。
自己の思いと他人の目。食品スーパーの女性には「頑なそうな老人」と見られてる!?。写真眺めて 自戒して・・・。(末松建比古)
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◎映画「叛乱」と「珍説忠臣蔵」との間に◎

2024年03月01日 | 末松建比古
2月26日の朝 新聞を開いて(予期しながらも)失望したことは 既に記した。
・・・というのが前説で 二人の新聞記者の「心意気」の一端を紹介するのが 今日の本題になる。
画像参照。左=読売新聞記者・大石健一氏の著名入り記事。右=毎日新聞記者・栗原俊雄氏の著名入り記事。

  

「左」は 大石サンが我家を訪れた際にいただいたもの。
「事件関係者が 徐々に世を去って・・・」「御遺族には 遺品資料の保管が負担になって・・・」「賢崇寺に預けたりもしたが それも次第に無理になって・・・」「防衛庁の施設に寄贈したら 個人情報ナントカ法が出来て 資料閲覧が難しくなって・・・」「襲撃した相手の記念施設に(襲撃側の)遺品資料を寄贈する方もいて・・・」「三上卓氏の関連施設は岐阜県にあるけれど・・・」「末松太平関連の遺品資料は 愚息に負担はかけたくないから・・・」。以下省略。
こうした「講釈」の流れに沿って 大石サンが取材した「磯部浅一記念館」の話になった。

「右」は 今泉章利サンから(賢崇寺で)いただいたもの。
栗原記者は 10年ほど前から「賢崇寺法要」の取材を続けていて 今泉サン(慰霊像護持の会・世話人)サンを主役に置いた記事が多い。今年も積極的に取材して ロビーでPCに書込んでいた。
栗原記者とは(かなり以前に)今泉夫人の紹介で名刺交換したことがあるが 顔も忘れていた。先方も顔を忘れているようで 挨拶することもなかった。

ここで唐突に話題を変える。AI(人工知能)が生み出した「珍説 二・二六事件」の紹介である。
最近は NHKテレビのニュースでさえ「ここからは人工音声がお届けいたします」が当たり前になっている。
パソコンの検索すれば「AIチャットツール」が素早く対応してくれる。
しかし 珍回答が表示されることも時にはある。そして「珍説」が「事実」として世間に撒き散らされる。



◎「慰霊像護持の会」は、末松太平氏に関連する組織であり、彼の名前を記念して設立されました。末松太平氏は、日本の陸軍士官学校卒業生であり、二・二六事件に連座したことで禁錮刑を受けました。彼の息子である「末松太平大尉の御長男」が、慰霊像の前で挨拶を行ったこともあります。
この組織は、慰霊像の維持管理や慰霊祭の主催などを通じて、事件の歴史的事実や意義を広く世界に発信し、次世代に継承することを目的として活動しています。慰霊像護持の会は、末松太平氏とその関連の歴史に敬意を示し、彼の名前を後世に伝える役割を果たしています。

◎末松太平氏は、日本の歴史的な人物であり、彼の名前は特定の出来事と関連しています。
末松太平氏は、日本の陸軍士官学校を卒業した軍人でした。彼は二・二六事件に連座し、禁錮刑を受けました。この事件は、1936年に発生した日本の軍事クーデターであり、陸軍内の一部の軍人が政府に対して反乱を起こしたものでした。
慰霊像護持の会は、末松太平氏に敬意を表し、彼の名前を記念して設立されました。この組織は、慰霊像の維持管理や慰霊祭の主催などを通じて、事件の歴史的事実や意義を広く世界に発信し、次世代に継承することを目的として活動しています。
末松太平氏とその関連の歴史について学ぶことは、日本の歴史を理解する上で重要です。

◎今泉章利さんは、日本の歴史的出来事である「二・二六事件」に関連して知られています。彼は、事件に突然巻き込まれ、ロウゴの身となり、国賊として出獄した後、生涯を閉じた人物です。
「二・二六事件」は、1936年2月26日に発生したクーデター未遂であり、青年将校たちが政治的な野心を排除し、真の皇軍の姿に戻すべしと、昭和維新を成し遂げようとした事件です。この事件は、日本の歴史において重要な出来事であり、多くの人々によって研究されています。
今泉章利さんは、父である今泉義道少尉の行動や事件について、追悼式や法要などで語っており、その姿勢と生き様は、事件の背後にある人間ドラマを浮かび上がらせています。

◎今泉章利さんは、二・二六事件として知られる1936年のクーデターに参加した日本の青年将校でありました。彼は安田優少尉としても知られています。以下は、今泉章利さんと、彼の兄である対馬勝雄中尉が事件に参加した経緯の一部です。(★ 流石に呆れ果てて以下は割愛。末松)

・・・この 抱腹絶倒 前代未聞の「末松太平に関わる珍説」は「COPILOT=コパイロット」が作成した文章である。
2月28日に発見したものだが 翌日には(末松関係のこの記述は)消滅していて 再読出来なかった。
最近は AIチャットツールを頼りに 論文やレポートを作成する輩も多いと聞く。珍説を根拠にした(二・二六事件についての)論文やレポートが登場する可能性も ゼロではない。

1954年に《新東宝映画「叛乱」佐分利信監督、阿部豊応援監督》が公開された。二・二六事件を初めて描いた作品として話題を呼び 千葉市の映画館では(原作者・立野信之と末松太平の)トークショーが行われたりもした。
「珍説忠臣蔵」の公開は その前年(1953年)のことである。古川緑波(大石内蔵助)伴淳三郎(吉良上野介)などの人気喜劇俳優がドタバタを演じた。赤穂浪士の討ち入りは 元禄15年(1702年)の出来事である。それから「250年」の歳月が経過して 蹶起行動をドタバタで演じた喜劇映画が誕生した。 
「二・二六事件」は 昭和11年(1936年)の出来事である。新東宝映画「叛乱」に続いて「事件」は何度も映画化されたが 全て真面目に制作された。しかし 事件から「250年」が経過して 西暦2186年を迎える頃には 忠臣蔵の場合と同様に・・・。
現在上映中の「身代わり忠臣蔵」では ムロツヨシが「上野介と実弟」を一人二役で演じている。250年も過ぎれば「喜劇」にされても仕方ない。例え喜劇「二・二六事件」が制作されたとしても 笑って見過ごすしかない。

しかし 現在は僅かであっても「事件参加者の子息や兄弟」が健在でいる。人工知能による「偽史」の発信は 笑って済ませることではない。(末松建比古)
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