◎末松太平事務所(二・二六事件異聞)◎ 

末松太平(1905~1993)。
陸軍士官学校(39期)卒。陸軍大尉。二・二六事件に連座。禁錮4年&免官。

◎84歳・・・終活実行適齢期?◎

2024年04月22日 | 末松建比古
朝日新聞・2024年4月21日朝刊。死亡記事(写真付)。
「佐川満男さん(歌手、俳優)。12日、胆嚢炎で死去。84歳。葬儀は近親者で営んだ。・・・」
「60年に歌手デビュー。61年以降、NHK紅白歌合戦に4度出場した。ヒット曲に『今は幸せかい』などがある。
俳優としてNHK連続テレビ小説『カムカムエブリバディ』などに出演。現在公開中の映画『あまろっく』にも出演していた。・・・」

「佐川満男=84歳」という文字が 私(84歳)に特別の感慨をもたらした。
厳密に言うならば 佐川サン(1939年11月9日生れ)が逝去した時点では、私(1940年4月17日生れ)は未だ「84歳直前」だったのだが・・・。

 

画像は「30歳」の佐川満男サン。1969年12月24日。場所は「博多東急ホテル=今は存在しない」の13階にあった「トップオブハカタ」で、九州朝日放送の人気ラジオ番組「ジャンピングディスク」クリスマス特集(午前0時~1時)を放送中の情景である。
この日の放送台本には「提供・日米コカコーラボトリング/構成・末松建彦」と記されている。転勤生活4年目の私(広告会社勤務)は、地元の人脈にも恵まれて「他社の仕事」も依頼されていた。この番組の構成もそのひとつで「出演者=渡久山アナ+松坂ユッコ」も、コカコーラ宣伝部の田島サンも、親しい友人たちだった。
因みに「1969年の末松太平」も周囲の人脈に恵まれて、三島由紀夫と対談(學燈社「伝統と現代」9月号)したり、三島由紀夫に(私以外の末松家4人が)観劇&会食に招待されたりしていた。

「・・・どうでした、佐川さん、ミニミニ歌謡ドラマを演じた感想は」
「・・・いやあ、ひどいですね、こんなにひどい台本を演らされるとは思わなかった」
佐川サンは 会場で募った一般女性を相手に(歌の一節を交えたコントを)マジメに演じてくれた。 
「・・・今からユッコちゃんの恋人探しをやります。立候補なさる方は前に出て来て下さい」
このコーナーには 佐川サンの参加は考えていなかった。予期せぬ(佐川サンの)飛び入りで画像の情景となった。

末松太平の遺品から「1969年の日記」の一部を転載する。
◎6月9日/母が93歳で死んだ。
◎6月11日/葬儀のため郷里、大里に着いた。
◎6月13日/博多に行って建比古に会う。建比古の嫁さん候補に会う。
◎6月14日/大里を発った。これで親のうちがなくなった。「実家」がなくなったのである。故郷喪失である。

 

画像=1970年の秋。東京。TBSラジオ番組「雪印クリーマ歌の広場」の公開録音風景。
佐川満男サンがこの日のゲストで 末松行子サンが生CMの担当をしている。
約一年ぶりの「再会」だが 松坂ユッコサンは(この年の5月末に)末松行子サンに変身して東京の生活を始めていた。
余談だが 佐川満男サンは未だ独身だった。そして この翌年に(伊東ゆかりサンと)結婚した。

1970年11月25日。三島由紀夫が市ヶ谷台で割腹自刃した。
私は「歌の広場」の公開録音(毎回異なる団地商店街で行っていた)を終えて会社に戻る途中で、カーラジオの「臨時ニュース」を聞いた。瞬時に心を過ぎったのは《末松太平の反応は・・・?》ということだった。
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「佐川満男さん 胆嚢炎で死去 84歳」という死亡記事は、84歳の私への《天啓》かも知れなかった。
今まで以上に《終活》に勤しまなければならない。末松太平の遺品処分(史料・書籍類)に集中しなければいけない。

今年の2月17日に「國風講座」講師を務めた際に、数人の方から「持参された史料類を撮っても良いですか」と声をかけられた。
そのひとり「三島由紀夫烈士命 森田必勝烈士命 墓前 日輪祭実行委員会 委員長」のHサンには《學燈社「伝統と現代」昭和44年9月号》を貸与した。この号には《対談「軍隊を語る」三島由紀夫✕末松太平》が、全21頁というボリュームで掲載されている。
Hサンにも「撮っても良いですか・・・」と言われていた。しかし、この場で21頁全てを撮るのは大仕事である。初対面の方ではあったが「返却は急がないから・・・」と貸与するのが「仁義」というものだ。

終活の開始とか 遺品史料類の処分とか 高らかに進軍ラッパ(?)を吹きならしている。
それならば「返却は急がない」ではなく「進呈しますよ」という対応もあった筈である。
しかし 私の手許から「対談/三島由紀夫✕末松太平」が姿を消していた間は 何となく不安定だった。
「いろいろな人が近づいてくると思いますが どんなに望まれても 書籍や史料を貸しては駄目ですよ」
相沢正彦サンが(末松太平が死去した直後に)末松太平未亡人に戒めた言葉が蘇ったりもした。
いうまでもなく貸与した雑誌は「長い間 洵にありがとうございました」という名刺を添えて返却されている。
Hサンの人柄は「洵に」という文字に表われている。誠に、実に、真に、洵に…。文字は人なり。私流の性格判断である。
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1989~90年「84歳の末松太平」のことも記しておく。
「末松さんは網膜剥離という難病に罹り、二度の大手術を受けて、視力が甚だしく衰え、天眼鏡でしか本を読むことができない状態だった。」(池田俊彦著「生きている二・二六」文芸春秋・1987年刊)。
末松太平は「草のことば 二・二六外伝」「二・二六事件異聞」「二・二六事件断章」という《事件シリーズ3部作》を執筆している。
そして「二・二六事件断章(その一)真崎大将の組閣説始末」が掲載されたのは「84歳のとき」である。現代史懇話会「史・70」1989年7月号。
1990年9月。末松太平は慶応病院に19日間入院し、三度目の手術を受けた。それでも執筆を止めることなく「史・74/1990年12月号」には「二・二六事件断章(その五)事件第一報」が掲載されている。
天眼鏡を片手に 乱れた大きな文字で書き続ける半盲目の84歳・・・。終活に勤しむ「84歳の私」には真似の出来ない姿である。(末松建比古)
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コメント

◎読売新聞西部本社(福岡県)筑後版◎

2024年04月02日 | 末松建比古
読売新聞の大石記者から 封書が届いた。
「前略 二月にお訪ねした折には たいへん御世話になりました。本来取材ではなく 個人的な研究のためお会いしたいという趣旨でしたが、折角の機会でもあり、私の昭和史の紹介という形で記事にさせて頂きました。
「筑後版掲載ですが、末松太平さん出身の北九州版でも後日掲載されるよう頼んでおりますので、載りましたらまた送付いたします。
「お聞きしたことの何分の一も盛り込めませんでしたが、誌面の制約もあり、御容赦戴ければ幸いです。
「末松様のお話を伺い、二・二六事件の意義を改めて考えねばならないとの思いを強くしました。ぜひまたお訪ねし、御指導頂きたく存じます。」



大石健一記者の著名入り記事は「完本 私の昭和史」の紹介がメイン。 末尾にはわざわざ「570ページで税込み3980円。全国の主要書店やインターネットで販売している」と書き添えてある。
「・・・独自に事件の分析を続けている建比古さんは『分厚い本だが、電子版で購入してくれる人もおり、若い世代にも関心を持ってもらえているようだ』と話す。/・・・2月26日には、東京の賢崇寺で法要が営まれ、建比古さんも新型コロナ禍を経て数年ぶりに参列した。『2・26事件は陸軍の派閥争いだったという説など、父たちの思いや実情と違う話が流布されている。事件から88年がたった今も政治不信が言われており、この本を通して社会のありかたを考えてもらえればありがたい』と離している。」

あ~あ・・・。思わず苦笑したのは 2点並んで掲載された写真。
毅然と背筋を伸ばした老人(右)と 姿勢の悪い老人(左)では 撮影当時の年齢が違う。・・・些か苦しい自己弁護。
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《老老夫妻=私&妻》の住居には(毎年一度)地元の民生委員サンが「状況確認」に訪れる。
「ご心配ありがとうございます。お陰様で何事もなく・・・」が例年の定番だったが 今年は会話をいろいろと・・・。
老老夫婦が(C棟からB棟に)転居した理由、家人(介助2認定)の現状、そして愚息(B棟に居住していた)の現況・・・。
「サンシティでは 有名な存在で・・・」「・・・?」「秀才で ハンサムで・・・」「・・・?」「二・二六事件のことをネット発信していらっしゃる・・・」「・・・!」「私の父も軍人だったので・・・」「・・・!」

玄関先での立ち話なので 会話の流れも混濁する。
説明するまでもなく「秀才で ハンサムで・・・」と言われていたのは 私のことではない。
何よりも嬉しかったのは 民生委員のYサン(女性)が「ブログ・末松太平事務所」をご存じだったこと。 
今まで以上に 民生委員サンが「心強い味方」に見えてきた。
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「一般社団法人 仏心会+慰霊像護持の会」から葉書が届いた。
本来なら「仏心会の公式ホームページ=休止状態」に掲載される内容だが 代行して発信しておく。

拝啓 去る二月二十六日の八十九回忌法要は、賢崇寺藤田俊英大和尚により、無事円成いたしました。法要に際し、丁重なるご芳志、お供物を賜り、誠に有難く心より御礼申上げます。
コロナが収まってまいりましたので、日本全国から、二十数名の方のご参加を頂き、心静かな法要を営むことが出来ました。九十八歳の安田様は、ご用心にため欠席されましたが、七月のご法要にはぜひ出席したいと言われています。なお、悲しい残念なおしらせです。仏心会理事として永年ご尽力頂いた安藤日出雄様が昨年十一月二十七日八十八歳でご逝去されました。慎んでご報告申上げます。
私共は、今後とも、慰霊の誠を捧げて参ります。何卒、変らぬご指導ご鞭撻の程、宜しくお願い申上げます。敬具。
令和六年(二〇二四年)三月

「一般社団法人 仏心会」の横には「代表理事は香田忠維より栗原重夫に交代いたしました」と記されていた。
栗原重夫氏について 特別の紹介はない。(末松建比古)
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