◎末松太平事務所(二・二六事件異聞)◎ 

末松太平(1905~1993)。
陸軍士官学校(39期)卒。陸軍大尉。二・二六事件に連座。禁錮4年&免官。

◎末松太平のDNA?/國風講座の後遺症?◎

2024年02月26日 | 末松建比古
皇紀2084年(西暦2024年)2月26日。
朝日新聞朝刊を開いて 先ずは「二・二六事件」という文字を探す。
予想的中 成果ゼロ。多少は期待した「二・二六事件関連の新刊書」の広告も見当たらなかった。
昨年1月に発刊された《末松太平「完本 私の昭和史/二・二六事件異聞」中央公論新社刊》を最後に「事件関連の新刊書」は姿を消したままである。
昔々「二・二六産業」などと揶揄されるほど「出せば売れた」時期があって 2月26日が近づくと「新刊本」が書店を賑わしていた。書名に「二・二六」と付ければソコソコに売れたから 愚劣なシロモノも少なくなかった。まさに隔世の感がある。
2月17日朝刊で《鈴木邦男「鈴木邦男の愛国問答」集英社新書》の広告を見た。気にしながらも まだ実物に接する機会がない。鈴木邦男サンの著書には「末松太平」が度々登場しているから 今回の中身も気になるところである。
しかし 鈴木サンは昨年死去していて「愛国問答」は他人が仕立てたものだから・・・。以下省略。



数日前 今泉章利サンから電話があった。
「末松さんの連絡先を知りたいと 知り合いに頼まれました。電話番号を教えてもいいですか・・・?」
しばらくして 読売新聞西部本社の記者サンから「お目にかかりたい」という電話があった。
チンプンカンプンの対話は御免被りたい。会うか会わないか 私の判定基準は二つだけあった。
「貴方は 末松太平の『私の昭和史』を読んでいますか・・・?」「貴方は 昭和何年生れですか・・・?」

「2月25日午後1時、都営地下鉄・志村三丁目駅に迎えに行きます。目印に読売新聞を持っていて下さい」
画像参照。福岡県の久留米支局から(2泊3日で)やってきた大石健一サンは昭和50年生れ。末松一輝(愚息)は昭和49年生れ。家人も息子相手のような気持になって 茶菓やコーヒーを出したり「夕方4時に届けて」と寿司を頼んだりしていた。
相沢三郎 渋川善助 村中孝次 三上卓・・保管している遺墨や掛軸の数々や、大岸頼好 西田税・・・書棚に並べた遺品資料の数々も 自宅だからこそ素早く披露できる。逆に言えば「披露目当ての人」と会うことは絶対にない。
息子相手のような会話が続いて(事件と関係のない)過去のエピソードなども披露してしまった。大石サンは「変なモノ」にも興味を示してカメラに収めた。変なモノの一例。広告会社時代の私が「ステテコ姿」で写っているポスター。ある駅ビル商店街の「父の日セール」用に貼られたポスターである。
最後に「末松サンが『私の昭和史』を持っている姿を撮らせて下さい」という。今日の記念写真だろうと快諾。しかし 視線をあっちに向けろ こっちに向けろとポーズを指示する。記念写真にしては可笑しなポーズだが 後になって「新聞記者=取材写真」だったと思い至った。苦笑。
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2月26日。JR原宿駅から代々木公園を抜けて 10時半少し前に「二・二六事件慰霊像」に到着した。
「慰霊像護持の会」主催の「追悼式」は既に終了し 今泉章利サンや森田朋美サンの姿はない。
「二・二六事件殉国烈士慰霊の会」主催の「慰霊祭」は 参列者から離れた場所から見守るつもりでいた。しかし 少し離れた場所(向かい側の歩道)は「黒っぽい服装をした大勢の男達」に占められていて 私の居られる場所がない。男達=公安関係。一般の通行人には「諸団体の人達」との区別はつかず「同じ仲間」にしか見えないだろう。
居る場所がないから 慰霊像の前に行き「民族革新会議の水谷サンは?」と尋ねる。水谷サンの知人だから 周辺も気遣って「来賓」のような扱いになる。
君が代斉唱で「慰霊祭」が始まる。曹洞宗の僧侶によって「慰霊」は粛々と進み 読経に併せての御焼香。「最初」を勧められたが 流石にそれは辞退。それでも(水谷サンと並列して)偉そうな順番での御焼香となった。
役目を終えて僧侶は退出。殉国烈士への決意書 蹶起趣意書の朗読 式次第は順調に進んで 来賓の御挨拶・・・。
驚いてはいけない。この日 最初に挨拶する「来賓」は「青森第五連隊・末松太平大尉の御長男」だったのだ。
思いがけない展開になったが 平然とした素振りでマイクを持つ。簡単な挨拶でもよかったのだろうが 慰霊像建立の経緯などを話す。先日の「國風講座」での体験が「こういう場」でも怯まず語れる下地になったのだと思う。
鈴木康隆氏(二・二六事件殉國烈士慰霊の会・世話人代表)を紹介される。温厚で物静かな紳士である。諸団体の方々は「慰霊祭」進行中も 通行人への気配りを忘れずにいた。世話人代表の人柄が反映されてのことだろう。

★追記★・・・・・・
私の書き方が拙いので「國風講座」が「殉国烈士慰霊祭」を主催・・・と誤解されたコメント(非公開)をいただいた。
「國風講座」の森田サンは「二・二六事件殉国烈士慰霊の会」とは無関係。民族革新会議の水谷サンが「國風講座」を聴講して 末松センセイと出会って・・・というだけのオハナシです。
蛇足少々。「慰霊像護持の会」の「追悼式」では 国歌斉唱や蹶起趣意書朗読は行いません。 

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「殉国烈士慰霊祭」の後は 諸団体毎に分れて「直会」を開くという。私は(迷いを抱えて)ブラブラと坂を下って渋谷駅方面へ。迷い=賢崇寺に向かうべきか、このまま自宅に帰ろうか。さあ どうする。
「追悼式」には顔を出さずに「慰霊祭」に参加したことで《不公平感》が生じている。バランスをとるには「賢崇寺」に行くしかない。法要の参加不参加は その場で判断することにして 渋谷駅東口からバスに乗る。
賢崇寺の門前に「愛国党」の街宣車が停車していた。賢崇寺に隣接したマンション工事は 完成間近で「急な登り坂」も以前の姿に戻りつつあった。
本堂前の広場には「黒服の群れ」が屯している。法要に参列する人数よりも「黒服=公安」の方が多い。「黒服」を迂回して「二十二士の墓」に向かう。しかし「十人ほどの集団」が墓前を占拠していて近寄れない。
久しぶりに「賢崇寺の法要」に顔を出す。今泉サン&森田朋美サンの笑顔に迎えられる。大石記者サンの笑顔もある。万一の場合を考えて「志」を(仏心会と慰霊蔵護持の会)持参していたのが役立った。5千円✕2。後で家人から「1万円✕2が常識でしょ」と叱られた。
参列者は意外なほど多かった。椅子が足りなくなる度に 大石記者サンが(正面祭壇の奥から)運び出していた。相沢一郎(相沢中佐直系の孫)サンも来ていたと 大石サンから後で聞いた。

香田サン(仏心会・前代表)と久しぶりに歓談。すぐ隣に「新代表」が坐っていたが 紹介されなければ(大人げないけれど)無視するしかない。香田サンは「法要が『三島由紀夫との合祀』として一度だけ行われた」ことをご存じなかった。新代表は「栗原中尉の弟サンのご子息」のようだが こうした話題に加わることはなかった。それが悪いというわけではない。法要が「《事件》を追悼する集い」だった時代は確かにあった。現在の法要は「仏心会=遺族の会」という原点に立ち返って行われている。あれこれ錯綜している過去の出来事に(仏心会代表が)精通する必要はない。

今泉サン+森田朋美サン+渡辺都サンが揃えば「末松サン 一緒に飲みましょうね」になり定番コース(池田少尉の墓参~はしご酒)になる。しかし 賢崇寺ロビーでの歓談が長々と続いて 次第に心理的な疲労も強まって ついには「今日は帰ります・・・」と 大人げない結末を迎えてしまった。(末松建比古)
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◎さあて どうしようかな…◎

2024年02月21日 | 末松建比古
ことしも「2月26日」が近づいてきた。
諸事情あって かなり以前から「賢崇寺法要」に参列しなくなっている。まして ここ数年前からは(新型コロナの影響もあって)法要参列者は《NPO法人・仏心会》のメンバー数人に絞られているから 今の私(仏心会の会員ではない)は「招かれざる客=シドニー・ポアチエ主演」のようなもの。安心して(!)欠席できるのである。
「午前中は慰霊像の前にいて 渋谷駅前のバス停まで歩いて 麻布十番までバスで移動して 賢崇寺の法要に参列して・・・」
これが毎年の《2月26日の定番》だった時代もあったのだ。当時のあれこれは今なお鮮烈に記憶されている。
慰霊像の前には 池田少尉や柳下中尉や北島伍長の姿があって 移動するバスの隣席には 高橋正衛サンが坐っていて…。

さあて どうしようかな…。
安心して(!)欠席するつもりでいた私に《微かな迷い》が生じたのは 先日参加した「国風講座」に起因している。
直会で名刺を交換した「民族革新会議」のMサンに「2月26日は、慰霊像にいらっしゃいますよね…?」そして「当日お見かけしたら お声をかけてもいいですか…?」と言われてしまった。
民族革新会議の公式ブログには「二・二六事件殉国烈士慰霊の会・主催」の「慰霊祭」の模様が 写真と共に報告されている。それを見て「慰霊祭」開催の意図や《Mサンの役割》などを知ることができた。



画像は 1965(昭和40)年2月26日に開催された「慰霊像除幕式」の模様で 壇上には河野司氏と末松太平の姿もある。
午後1時半、導師賢崇寺住職(藤田俊訓師)及び二伴僧+唐津善興寺住職+浦賀東福寺住職の五師が、一段高い前庭正面に着席、末松太平の司会によって開式された。君が代合唱、仏心会河野司代表の挨拶を経て、栗原中尉御母堂が除幕の紐を引き、慰霊観音像が姿を現した。



建立代表者(河野司)による啓白文奏上、開眼供養の読経。続いて事件殉難諸霊の「三十回忌法要」に移り、読経のうちに焼香に入る。仏心会遺族十三家、殉難警察官遺族代表(土井スミ子未亡人)、関係殉難者代表(宇治野みき子未亡人)を始めとする遺族の方々。荒木貞夫を始めとする参列の方々。最後に殉難者五十士の名が読み上げられ、末松太平の閉会の辞をもって約1時間の行事が終了した。
除幕式を終了し 参列者」一同は隣接の渋谷公会堂の地下食堂へ。正2時半「記念慰霊像竣工祝賀披露会」が、末松太平の開会の辞に始まる。河野司仏心会代表が完成までの経過報告と感謝の辞を述べ、参列者を代表して荒木貞夫、石原広一郎の祝辞、工事関係者への感謝状贈呈、各地からの祝電の披露、最後に建立準備事務所を代表して小早川秀浩より募金経過及び概況を報告。隣接した祝宴会場に移って 祝杯&歓談&追憶のひとときを過ごし 午後5時に行事完了となった。
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画像は「除幕式」が開催された日の約1年前。1964年3月末に於ける「現地」である。
責任者河野司+相談役末松太平+常勤小早川秀浩+会計監査藤田俊訓を中心に設立した「記念慰霊像建立準備事務所」が 多数の方々の支援協力のもとに「慰霊像」の建立に着手。現地で「記念式典」が開催された。
処刑場の跡地に「慰霊像」を建立するまでの苦難の数々は《河野司著「ある遺族の二・二六事件」河出書房新社・1982年刊》に詳しいが 今では入手が困難かも知れない。

ここで話を「今年の2月26日」に引き戻す。
当日 仏心会と慰霊像護持の会が主催するのは《慰霊》のための催しである。慰霊像の碑文には「・・・この因縁の地を撰び、刑死した二十名と自決二名に加え、重臣、警察官この他事件関係犠牲者一切の霊を合せ慰め、且つは事件の意義を永く記念すべく・・・」と記されている。かって「君側の奸」とみなした方々も《殉難者》として一緒に《慰霊》している・・・ということである。
毎年 賢崇寺の法要では「◎◎回忌法要招霊物故者」として 殉難重臣・殉難警察官・二十二士・その他の物故者という順に名前が呼ばれている。因みに「末松太平」は(筆頭の齋藤実氏から数えて)78番目の招霊物故者になる。

2月26日の慰霊像前では 先ず「慰霊護持の会(世話人代表=今泉章利)の慰霊祭」が行われ 次いで「殉国烈士慰霊の会の慰霊祭」が行われる。勿論 民族革新会議のMサンが参加するのは「二・二六事件殉国烈士慰霊の会」による「慰霊祭」の方である。
そこでは 威儀を正して「蹶起趣意書」が読み上げられ 続いて「殉国烈士の志」を引継がんとする思いが 毅然と述べらる。

この「ブログ・末松太平事務所」は「二・二六事件を風化させない」という願いを込めて立ち上げたものである。そのために《過去を伝え続けること》は重要だが 単なる《慰霊》に留まらず《志を伝え続けること》も大切にしなければならない。
さあて どうしようかな・・・。森田忠明主宰「国風講座」の後遺症(?)として 迷いの日々が続いている。(末松建比古)
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◎森田忠明主宰「国風講座」体験報告◎

2024年02月18日 | 末松建比古


2024年2月17日(土)。森田忠明サンに依頼された「勉強会」の講師を無事に終えた。
12時30分に会場(西新宿)に到着。勉強会&直会&二次会を終えて帰宅したのは22時であった。

森田サンに依頼された「勉強会の講師」だが いまいち釈然としない部分があることは 前回に記したとおりである。だから どういう状況にも対応できる心構えが必要になる。そういうわけで「レジュメ」20部と「資料類」を大きな肩掛けバッグに入れて我家を出発する。
画像参照 一見すると雨傘に見える丸筒には「昭和十年十一月鹿児島県での特別大演習記念写真」が納めてある。数千人の将兵が整列した超大版の記念写真で 前列中央は昭和天皇 左右に真崎甚三郎 川島義之 荒木貞夫 渡辺錠太郞 香椎浩平 山下奉文などが並んでいる。
都営三田線+大江戸線経由で「都庁前」下車、新宿中央公園を通り抜けて 会場(新宿角三町会・会館)に向かう。
会場入口の「本日の催し」には「国風」とだけ書かれていた。あ そういうことだったのか。一瞬にして全てが了解できた。

「日本経綸機構」祈誓
「一・萬世一系の皇統を護持すべし/一・国體の正氣恢復に邁住すべし/一・国風の雅を欽慕し推重すべし」
「上記祈誓のもと以下の諸組織を横断的に包括する機構とし、国家存立の諸懸案に不羈敢為をもて懸命せんとす」
「国民行動 国風講座 天長節を祝ふ會実行委員会 大詔奉戴祭實行委員会 玉鉾奉仕團 玉鉾書院 玉鉾歌壇 山酔會」

今日の私は「センセイ」である。
民族◎◎会議…、國體◎◎研究会…、政治結社◎◎…、◎◎烈士墓前祭実行委員……、政治団体◎◎事務所…、以下省略。こうした肩書を持つ皆様から「末松先生」と呼ばれながらの名刺交換。一見コワモテの方々だが《私より年下》ばかりなので 今日一日だけは「センセイ」でいることにする。
今日の勉強会には「古賀中尉(五・一五事件)の次男=昭和23年生れ」サンも参加していた。お父上の古賀不二人サンは「賢崇寺の法要」に度々参列して(末松太平の日記によれば)末松家に一泊したこともある。



画像は当日配布したレジュメ。A3サイズ2枚を横につないで撮影したもの。
「尊皇討奸」を全体を貫くテーマに据えて 大正後期から昭和平成令和の現在までの《「二・二六事件異聞」その周辺》を一気呵成に講義する…という試みだったのだが 次第次第に「持参した資料の数々」との連携が難しくなっていき いくつかの《語れなかった部分》が残ってしまった。
末松太平が死去するまで「公安の監視下」に置かれていたことも(エピソードを交えて)語ったのだが 今回の「勉強会」にも「公安」が参加していた。私の監視で来た筈はないから 気軽に名刺交換して 雑談も少々。

講義終了。世話役数人が近くのコンビニで飲食物を調達して 国風講座の会場は「直会」の場へと姿を変える。 
講義では詳しく紹介できなかった「持参資料の数々」に近寄る方々も多数いて 民族◎◎ 國體◎◎ 政治結社◎◎…と 名刺の肩書きが違うように 各人それぞれ《思い込み》や《関心》が異なるから その場での質疑応答も多岐にわたることになる。
初めて見る資料も多いようで「写真撮っちゃ駄目ですか?」「別に構いませんよ」「これも撮っていいですか」「いいですよ」。残念ながら「センセイとのツーショット」を求める人はいなかった。(末松建比古)
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◎「二・二六事件異聞」その周辺・・・◎

2024年02月09日 | 末松建比古


森田忠明氏に依頼された「勉強会」の本番が近づいて ぼちぼちと準備を進めております。
勉強会とは何か・・・? 多分 森田サン主宰「玉鉾書院勉強会」であろうと思ってはいるのだが・・・。
森田サンは 令和2年に発足した「日本経倫機構」の代表理事でもあるから 万一の場合も予期しなくてはならない。
いずれにしろ「二・二六事件関係者ではない方々」を相手に「事件ベッタリ」の内容を クドクド語っも仕方が無い。
ということで 講演タイトルは《「二・二六事件異聞」その周辺》ということにした。

登場人物は 大岸頼好・三上卓・古賀不二人(清志)・井上日召・佐郷屋義昭(留雄)・三島由紀夫・・・など「周辺の方々」を加えたオールスター。B型人間(私)に相応しい「雑学的展開」になりそうである。退屈させないために 秘蔵写真や秘蔵資料も持参して「バラエティ要素」を加える予定だが さてどうなるか。
《その周辺》の始まりは「大正14年(1925)陸軍士官学校・予科卒業」になるから そこから現在までの「ほぼ一世紀」を 一気呵成に語ることになる。錯綜する事柄を理解していただくためには「レジュメ」の配布が肝要だろう。
レジュメ=要約・摘要のこと。本来は「研究・教育分野」の用語だが 最近は「就職・転職分野」で履歴書や職務経歴書を指す用語にもなっている。今回作成した「レジュメ」は A3サイズ✕2枚に文字がぎっしり。要約・摘要というよりも「議事録」に近い分量になってしまった。
森田朋美サンのコメントでは「講義1時間+直会」のつもりらしいが 果たして講義1時間に無事収まるかどうか。多分「話は早く切り上げて 楽しく飲みましょうよ」と言われそうな予感がする。 

池田俊彦「回想の末松太平」/掲載誌=現代史懇話会「史」№81(1993年)号。 
「・・・昭和59年(「生きている二・二六」を執筆する際に)末松さんを千葉のお宅に訪ねた。末松さんは当時 網膜剥離という眼の難病に罹り、二度の手術を受けたが、視力が衰え、天眼鏡を頼りに本を読む状態であった。それにも拘わらず至ってお元気で、十月事件当時の話、対馬中尉のこと、西田税、大岸頼好のこと、そして戦後の旧軍人の動きなどを熱心に語られ、お話しは尽きることがなかった。・・・」
「・・・その後も時折末松宅を訪ねて、事件のことについて長話をした。夕刻になって私が帰ろうとすると、これからが大切な話だといって引き留め、とうとう夕食を御馳走になってしまうことも、度々あった。帰りには犬を連れて、西千葉駅まで送って下さった。その後、体調を崩されてからは、玄関で私の手を握り、別れを惜しまれた。・・・」
こうした《話は尽きることがなかった》や《これからが大切な話だと引き留めた》という「末松太平のDNA」は、そのまま長男(私)が引継いでいる筈である。現在の私は「他人との会話が苦手な孤立老人」なのだが、森田氏主宰「勉強会」の場で「末松太平のDNA」が顔を出すのか出さぬのか。それが悲劇と喜劇の分岐点になりそうな気がする。
「・・・末松さんが話し出すと、二、三時間は瞬く間に過ぎてしまう。しかしあの声はもう聞かれない。私(池田俊彦)の部屋には、末松さんの画かれた平和観音の像が額に入れて掲げてある。観音様は末松さんのような顔をしている。・・・」

画像は「学校法人・千代田学園/千代田工科芸術専門学校・千代田ビジネス専門学校」主催の「番組コンクール全国大会」表彰式で「審査委員長」として偉そうに総評を述べている私。広告代理店のCMディレクターだった私は「本業以外の役割」も演じていて 某チェーン店の「主婦のカラオケコンクール」で総評を述べたりもしていた。昔々の出来事である。(末松建比古)
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