◎末松太平事務所(二・二六事件異聞)◎ 

末松太平(1905~1993)。
陸軍士官学校(39期)卒。陸軍大尉。二・二六事件に連座。禁錮4年&免官。

◎堀真清著「二・二六事件を読み直す」の周辺◎

2021年03月16日 | 末松建比古


◎2021年2月26日は 賢崇寺の法要には参列しなかった。と同時に「江翠サンは如何したのだろうか」と思ったりもした。
※江翠サンは「末松事務所」の訪問客で 2月と7月には欠かさず賢崇寺を訪れ(法要には参列せずに)墓参を続けておられる方である。

※「昨日昼下り、所用で出かけた先が大江戸線の駅に近かった。一日早いなあ、と思ったけれども、つい麻布に足が向いた・・・」「いつものように賢崇寺の階段を上る。明日という日を控えて、未だ人気もなくひっそりとしている墓前で冥福を祈る・・・」 
以上はブログ「歴女同盟」からの引用で 筆者=江翠サン。「曇天の空」と題された名文は 直接「歴女同盟」でお読みいただきたい。

※数日後 江翠サンから届いたメールで《堀真清著「二・二六事件を読み直す」みすず書房刊》の存在を知った。
「丸の内オアゾの丸善の新刊本コーナーに平積みされている中で 二・二六シーズンということもあると思いますが 売れておりました。4000円近いというのに」「持って帰るのは重い故、取り寄せにします(笑)」

※更に数日後 江翠サンから(未だ半分ぐらいしか読めていないという前提で)報告メールが届いた。
「伏線となる 天剣党から三月事件、十月事件、桜会、11月事件、を時系列に書いていくのは、末松太平氏の『私の昭和史』同様で分りやすいです」「著者のいう『忠誠と反逆』という全くの矛盾に引き裂かれる蹶起将校たちの行動ですが、基底にあるのは、あくまでも農村を救わねば、というところだったと何度も表明しているところが、膝ポンです」「著者の堀先生という方は、学生時代から関係者の方々に も会っていた由、ひょっとしたら末松様もご存じの方かも知れませんね」「何ですか『真っ直ぐな人が好き』なんだそうです。そうだろう、土方もそうだよね、と妙な納得をしました」



※江翠サンには《「土方歳三を歩く」1988年・新人物往来社刊》という著作(友人と共著)がある。
現在では入手困難な名著だが 内容紹介には「われらが青春の土方歳三、2人の乙女がその足跡を追って京都から雪の箱館まで歩きに歩いたノンフィクション」と記されている。私は(長距離ウオークの途中に)さいたま市の図書館に立ち寄って 一気に読了している。
※新人物往来社には《二・二六事件関連》の出版物も多く 末松太平も(それ以前の「人物往来社」時代から)何度か執筆していた。
編集部の大出俊幸氏から届いた年賀状も多々残されている。そして今 大出氏と江翠サンとは交流が続いているという。
大出氏を媒介にして 末松太平と江翠サンを結ぶ《不思議な連鎖》がそこにある。
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註★「二・二六事件を読み直す」については《菱海》サンから懇切丁寧な解説を戴いています。コメント欄を是非お読みください。
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※外出自粛で都心の大型書店には足が向かないから 当分は「二・二六事件を読み直す」との対面は叶いそうもない。
ということで「みすず書房」のHPを開いて 本書の紹介をチェックしてみる。
※「クーデター未遂」統制派と皇道派の抗争」政治腐敗と農村の窮状を見かねての義挙」真崎甚三郎黒幕説」。事件についてはいくつかの総括があったが、実相は理解されているだろうか。本書は、資料を虚心に読み直すことで事件のありようをとらえる試みである。首謀者が「皇道派青年将校」だという巷説は正しいのか。真崎陰謀説に便乗することで、皇道派と青年将校をまとめて退治したい幕僚・統制派の作為ではないか。・・・いくつかの論点について考察する・・・。

※続けて「紀伊國屋書店」のHPを開いて 本書の紹介をチェックする。
「・・・二・二六事件が語られる際、蹶起した将校たちは「皇道派青年将校」と呼び習われてきた。しかし、それは皇道派と青年将校らをひと まとめに排撃するための作為だったのではないだろうか。困窮する家庭が存在し、政治は貧困で、ジャーナリズムにも批判精神が乏しい社会状況から生まれたあの事件は、85年後の私達に何を投げかけているのだろうか。いくつかの疑問点を巡って、二・二六事件に新しい光をあてる・・・」
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◎「《みすず書房刊》/二・二六事件を読み直す」から連想した事柄。
※《末松太平著「私の昭和史」1963年2月初版・みすず書房刊》のこと。。
※巻末に「2段組5頁」というボリュームで「刊行者のあとがき」が記されている。この高揚気味な《刊行表明》は 編集者・高橋正衛氏によるものである。
※この「私の昭和史」は1974年5月に《新版》が発行されたが やがて絶版状態になる。高橋正衛氏も退社し「みすず書房」は事件関係書籍と無縁になっていたと思う。そういうこともあって 今回の《「二・二六事件を読み直す」みすず書房刊》は 私にとって快哉&快哉の出来事であった。
※末松太平は「皇道派青年将校」という誤認(あるいは意図的な曲説)と出会う度に立腹反論していた。その思いは「末松太平事務所」が継承したつもりである。快哉&快哉を覚えた理由は そういう辺りにある。
※半世紀以上の時を隔てて登場した「みすず書房刊」の事件関係書籍。当然 堀真清氏は「私の昭和史」も読み直したと思うが みすず書房版と中公文庫版(校閲部の凄さを実感!)と どちらで読み直したのか 少々気になるところではある。(末松)
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◎座談会「二・二六事件を現代に問う」◎

2021年03月08日 | 末松建比古
◎出席者/末松太平(元陸軍大尉・現在87歳)+相沢正彦(相沢三郎中佐の子息)+山口富永(昭和史研究家)+司会=山田恵久(国民新聞・主幹)。
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※今回のタイトルを見て「現在=2021年」と思われた方が多いと思うが これは傘寿老人(私)による一種のギミック。
実は1992(平成4)年2月25日付の国民新聞に掲載された座談会で、今では全員が出席者全員が故人となりました。



※座談会の全文を転載しても お読みになる方も(書き写す私も)疲れるだけだから 要点(大きな活字の見出部分)だけを羅列して構成してみたい。それだけでも 座談会の流れのようなものが感じ取れる筈である。
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※《永田一派の罠にはまる》
●金融恐怖で農村が疲弊● 末松=軍の改革目指した村中。山口=大岸は「米騒動」を画策。山田=「第五連隊」上京計画も。
●統帥権干犯問題を問う● 
●統帥権は軍人にとっては命● 末松=永田斬殺に大岸は反対。山口=真崎は再三勅許を申請。山田=永田が真崎追放を画策。
※《決起の時期誤る青年将校》
●相沢裁判の勝利を目指す● 相沢=真崎大将は急進派を制止。末松=柳川中将の台湾行が契機。山口=澤地氏には先入観がある。 
●ロビンソン検事は正しい● 末松=事件前に陰謀があった。相沢=人間の記憶は変化する。山口=公的資料の公表に期待。山田=朝日新聞も襲撃された。
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※末松太平や山口富永と違って 相沢正彦の「執筆文書」や「発言の類い」は殆ど公表されていない。
ということで この座談会の《相沢発言の部分》だけは 少し丁寧に紹介したいと思う。

●末松「(直ちに決起することより)公判闘争をやろうというのが我々の考えであった。だから二・二六事件は決して青年将校の一致した行動ではない」
●相沢「二・二六事件は、真崎大将が相沢裁判に出廷した翌日に行動を起こした。(後日、真崎大将邸で大蔵栄一大尉からも聞いたのだが)とにかく相沢裁判を有利に導いて、全国的な啓蒙運動を行い、これを生かして軍部の革新をやろうとした。私は真崎大将からそのことを直接聞いた。二・二六事件はもっともやってはいけない時期にやってしまった。結局、今になってみると“ものの弾み”というほかない」
●山田「相沢中佐を裁く第一師団軍法会議の裁判長になる柳川平助第一師団長は、相沢事件直後、台湾軍司令官として飛ばされてしまう。相沢中佐に肯定的な立場の柳川中将が解任されれば、法廷闘争はうまくいかない。青年将校は焦慮せざるを得ない」
●相沢「二・二六事件研究家の高橋正衛や作家の澤地久枝などの集めている資料からは、二・二六事件の真相は判らない」
●末松「資料屋は“真崎が巧みに情報を青年将校にリークして操っていた。だから真崎が事件の責任者である”という論理で説明する。しかし永田鉄山が真崎を更迭する前から存在していた“陰謀”から話さないと、真相はつながってこない」
●相沢「昭和三十年ごろ辻政信に会った。辻さんは私の手をとって『相沢さんのお父さんは本当に正しかった。ただやり方がちょっとまずかった』と言っていた。最近感じることは、人間の話というのは、現在の状況判断で過去のことを話したりするが、生き証人だとか書いたものも甚だあてにならない。例えば、私は北一輝のお宅に父と一緒に伺ったことがある。東中野の豪邸で、その時私はホテルに行ったような感じがした。しかし、その時の私は四歳ぐらいで、ホテルのようかどうか判断つかない筈であるのに、後にそのように付け加えて話してしまうわけだ。二・二六事件に加わったある人は酒の席で“一波乱あって、自分が特別な位置につけると思った”と言った。しかし、その人が事件当時まさかそのようなことを考えていたとは到底思えない。しかし今、その人が当時の心境を話すと、そういう感覚になってしまう。そして、真実とは異なる情報が世間に伝播されていく」
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※相沢正彦氏は「書きたいことが溜まってきたので 執筆開始しようと思う。そのための資料も大分揃ってきた」と 私に語っていた。しかし 難病に冒され 面会謝絶でお見舞いも出来ぬまま 逝去の報に接することになった。
※平成16年2月12日(故相沢正彦氏・通夜)。2月13日(故相沢正彦氏・告別式)。
私が期待した「相沢正彦著作」との出会いは ついに叶わずに終わった。
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★余録★
※この機会に 相沢中佐宅を舞台にした《昭和史》のヒトコマを記録に留めておきたい。
田村重見編「大岸頼好 末松太平 交友と遺文」まえがきに記されているエピソードである。
※「敗戦の年、阿佐ヶ谷の大岸家と軍需省の生産戦指導部室は、五・一五、二・二六両事件生存者の梁山伯の様相があり、ここで末松太平の知遇を得て、千葉市登戸の末松家をしばしば訪れるに至った。敗戦処理が終了するや、大岸頼好・末松太平相計り、財団法人《在外戦災者協力会》を設立して、在外同胞の帰国援助活動を開始した」
「私は末松太平の配慮によって、鷺ノ宮の《故相沢中佐留守宅》に居住を許され(飛行学校時代の教え子である)少年飛行兵復員者十数名と生活を共にしつつ、都内の清掃工事や防空壕埋め立て工事に従事した」
※《故相沢中佐留守宅》は 時を経て《相沢正彦宅》になり 私も何度かお邪魔させていただいている。(末松)
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◎「青年将校の心情を伝える」ということ◎

2021年03月07日 | 末松建比古
◎2021年3月5日(金)。NHK-BS1「二・二六事件の全貌」再放送。
※2月23日の昼下りに放映された番組の再放送だが 正確を期するなら《再々放送》と書くべきだろうか。
いずれにしろ「波多江たま様の葬儀場面」に再び出会えたことは 望外の喜びだった。



◎国民新聞(平成4年2月25日)掲載。《2・26事件の対馬中尉偲ぶ「邦刀遺文」》山口富永。
※以下は 私なりの校閲を加えた要約である。
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※この著書は 二・二六事件で処刑された青年将校の一人である対馬勝雄中尉の令妹にあたる白井タケ、波多江たまのお二人が生前の兄を偲んで出版したものである。
「兄は昭和八年ごろ号を『邦刀』とつけておりましたので、この印刷物を『邦刀遺文』とすることにいたしました・・・」と述べているが、その末尾に「昭和五十二年八十八歳で逝去いたしました母なみが最後まで兄の日記、日誌、手記、手紙などを断簡寸墨にいたるまで保存しておりましたのを死後発見いたしました。これこそ兄の人柄を物語る遺文であり、これを子孫に見せて記憶に残してもらいたくて印刷に代えた次第でございます・・・」とある。そして、既に七十歳も半ばすぎたお二人が、二年の歳月をかけて出版を決意するに至った動機を次のようにいっている。
「昭和十一年の事件から五十五年の歳月が過ぎようとしています。私達遺族は、総てを忘れてしまいたいと思いながら暮らしてきました。
でも、ある検察官の残した事件の公判資料や、思いもよらないテレビ放映や、それを追うように出版された本などによって、昔のことが昨日のように鮮烈に浮かんできて、幾夜も眠れない日が続きました・・・」「私達は刑死した兄を美化するつもりは毛頭ありません。ただ、兄の本当の心が判って下されば何よりも有難いと思います」とこの一章を結んでいる。
ある検察官とは、匂坂春平法務官のことであり、テレビ放映とは、昭和六十三年のNHK特別番組「二・二六事件 消された真実」であり、出版された本とは、澤地久枝著「雪はよごれていた」日本放送出版協会刊である。
「あのNHKのやり方、澤地さんの本を見て、あれでは余りにも兄が可哀相で・・・」と、このお二人は、兄との同志で当時の青森の連隊にいた末松太平大尉に相談したという。国民新聞の主幹から、この本の紹介を依頼されたとき、私よりも末松さんこそ最適任と思い、この旨を主幹に伝えて謝絶していた。このようなある日、久しぶりに末松さんの手紙が届いた。
「対馬中尉の遺文を読んで所感如何。小生はまだ一頁も読んでいません。いうまでもなく読めないからです」「小生は五年来 新年歌会始に詠進することにしています。あと、生きてる限り詠進しますが多分当選はしないでしょう。しかし銃殺された同志は 銃殺されたらそのままの姿で天皇陛下の傍に行こうと言って死にました。詠進歌で当選したら陛下の傍に呼ばれます。小生が陛下の傍近くに参ることは、此の方法しかありません。死んだ同志は陛下の傍に未だ参っていないと思います。だから小生が参るのです」と、既に八十七歳の高齢、往年の覇気は今も片言隻語の中に迫るものがあるとはいえ、数年来眼を患い不自由に耐えながら天眼鏡を頼りに執筆さえしている末松さんである。この手紙の末尾の一句に私は絶句した。私がこの「邦刀遺文」について紹介の労をとらせてもらおうと思い立った経緯である。
末松さんは「邦刀遺文」の中の追悼録に、対馬中尉の生家が、青森といっても北端の下北半島寄りの寒村であることを挙げ、対馬中尉は、この津軽農民のための構造的貧困を抜本的に救わんがために蹶起したもので、いわば、軍服を着た百姓一揆の精神であった、と述べている。これはまた、全く、末松さんの心境でもある。
末松さんは追悼録の中で、生前の対馬中尉の御母堂から聞いたという逸話を載せている。それは御母堂が天皇陛下に対し「陛下のことをあれ程大事に思った勝雄を、陛下は何故殺させたのでしょう」と不敬の念を持ったという。こんな時、ある夜、対馬中尉が夢枕に立って、天皇をお恨みしてはいけないという仕草をしたという。それは「対馬中尉は、天皇陛下にも坐っていただくといって、せっせと円座を作っていたという。出来上がった一つを指さして、母堂にも坐るよう勧めたという。この夢を見て以来、母堂の天皇陛下に対する不敬の念は立ち消えたという・・・」のである。その人を見んと欲すればその友を見よ、という。革新将校として、対馬中尉と末松大尉を」思う。
NHKの放映と澤地の著書・・・「これでは余りにも兄が・・・」という対馬中尉令妹の深い嘆きを、昭和史の中から抹殺埋没させてはならない。
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◎山口富永氏と波多江たま様との間には「直接的な交流」はなかった。
※そういうわけで 山口氏に依頼されて 私経由で《山口富永著「近衛上奏文と皇道派」2010年・国民新聞社刊》を 波多江様宅に送付したこともあった。
波多江様からは直筆の(そして長文の)お手紙が届いた。二・二六事件に関しては言いたいことが限りなく浮かんでくる。長文のお手紙からは波多江様の思いが溢れでているように感じられた。(末松)
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◎波多江たま様にまつわる事柄◎

2021年03月05日 | 末松建比古
◎「二・二六事件」関連事項をチェックしていたら 次の記事に辿りついた。

◎《特別連載・引き裂かれた時を超えて━「二・二六事件」に殉じた兄よ》
※《新潮社フォーサイト》という頁で 執筆者名は寺島英弥氏(ローカルジャーナリスト)1957年生・福島県相馬市出身と記されている。
※連載第1回=2019年8月15日。記事には「当時を知る生き証人だった遺族の女性が6月末、104歳で他界した」という件がある。 
即ち 波多江たま様の逝去を契機に始まった特別連載ということで 第13回=2020年10月4日。長期連載になっている。
「20年間の取材の縁ををいただいた者として 終生の思いの一端を記していきたい」
「2019年2月26日。たまさんの名代をかねて 賢崇寺の法要に参列した」

※この特別連載記事は その一部分しか読むことができない。
《この続きは会員登録すると読むことができます》ということで フォーサイト会員登録は月額800円。
私には 有料サイトに接触する習慣がないので《この続き》を読むことはないのだが 興味ある方のために紹介だけはしておく。



※言うまでもなく「二・二六事件に殉じた兄」は 対馬勝雄中尉。
因みに 末松太平著「私の昭和史 二・二六事件異聞」の冒頭を飾る「残生」という章は 対馬勝雄中尉を中心に展開している。

※画像=故・白井タケさん(対馬中尉の妹・波多江たまさんの姉上)、今泉章利サン、そして私。
昔々 賢崇寺の法要で。白井さんの横に坐って「ワンカップ清酒」を開けてさしあげるのが 私の役割だった。(末松)
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