◎末松太平事務所(二・二六事件異聞)◎ 

末松太平(1905~1993)。
陸軍士官学校(39期)卒。陸軍大尉。二・二六事件に連座。禁錮4年&免官。

◎1986年2月/末松太平と筒井清忠と・・・◎

2023年02月14日 | 末松建比古

◎「コロナ禍」が続く日々・・・今年も「2月26日」が近づいてきた。
※昭和~平成~令和。「前の前の年号」の頃に起こった「昔々の事件」を 今でも 新聞その他のマスコミは 取上げてくれるのだろうか。

 
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◎画像参照。
※大きいスペース=1986(昭和61)年2月19日(水)の「朝日新聞」掲載記事。
※小さいスペース=1986(昭和61)年2月26日(水)の「毎日新聞」掲載記事。

◎朝日新聞「証言/二・二六事件から半世紀」
※「この二十六日は、昭和史に決定的な転換をもたらした『二・二六事件』の五十周年に当る。
1936年のその日、一部の青年将校に率いられた在京の陸軍部隊約千五百人が、閣僚や要人の公私邸、朝日新聞社などを襲撃、高橋是清蔵相、齋藤実内大臣、渡辺錠太郎陸軍教育総 監などを殺し、首相官邸などを占拠した。
クーデターは四日間で崩壊し、首謀者将校や右翼民間人ら十九人が死刑に処せられて事件は終わる。計画自体は実にあいまい、無謀なものだったが、その鎮圧、粛軍などの名で、軍部の強圧政治を引き出す役目は、十二分に果たした。
事件直後から、軍機(軍事機密)保護法の改定強化、思想犯保護観察法制定、ナチス・ドイツとの防共協定締結など言論、思想の弾圧、ファッショ化が急速に進められていく。
『二・二六事件』とは何だったのか。そして、現代は事件から何を学ばなければならないか。半世紀の区切りが来た今、関係者の証言を得ながら考えてみたい。(藪下彰治朗編集委員)」

※「言論の抑圧がテロを呼び、テロがまた抑圧を呼ぶ」
 「過去のものか 暗黒の構図」
 「戒厳令の引き金役担う」
 「計画粗雑だが 軍が混乱利用」
  ・・・見出しを連記しただけで 新聞記事の概要は推察できるだろう。

※「関係者の証言」ということで(顔写真付きで)選ばれているのは 五人の方々。
・・・渡辺和子さん、池田俊彦さん、末松太平さん、高山信武さん、荒垣秀雄さん。
高山信武さん=「二・二六事件」の特別軍法会議で判士を務めた 当時の第一師団砲兵大尉。
荒垣秀雄さん=「二・二六事件」のとき、朝日新聞社内で銃剣を突きつけられた 当時の社会部次長。
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※「反乱軍に、襲撃後の計画は事実上なかったはずだ、と千葉市登戸に住む元歩兵第五連隊(青森)の大尉、末松太平さん(80)もいう。
当時、昭和維新を呼号するいわゆる『青年将校運動』の中心人物の一人だったため事件の一味とみなされて、禁固刑を受けた」
「『維新のための破壊さえすれば、あとはおれたちの気持ちをくむ将軍たちが、維新をしてくれる。叛乱将校たちは一般にそう考えていましたね。実際、反乱軍支持の大将や当時の陸相らが叛乱に呼応しようとしたのですが、信頼する重臣を殺された天皇が、激怒された。尊皇が唯一の旗印なのに、これじゃ、もうだめでした』/戦後やっと表れた数多い文献や証言はおおむね末松さんのこの回想を裏付けている」
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◎毎日新聞「筒井清忠氏に聞く/二・二六事件から五十年」

※「二・二六事件が起きて今日でちょうど五十年である。この日本近代史最大の軍隊叛乱は、いまなお多くの人たちの関心を引きつけている。しかし、その一方この事件を『クーデター』として客観的に解明する研究は、必ずしも十分ではなかった。/歴史社会学の立場から事件に新しい光を当てた筒井清忠氏は『成功の可能性もあったクーデター』という。『無計画・非現実的・観念的』といった二・二六事件の支配的イメージの修正を迫る筒井氏の見解を聞いた。(奥武則記者)」

※筒井清忠/奈良女子大助教授(社会学)。1948年、大分県生れ。京大大学院博士課程修了。二・二六事件の研究を含む著書に「昭和期日本の構造」(有斐閣)がある。・・・「毎日新聞」が当時紹介した「筒井氏の経歴」である。
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1986年2月。末松太平と筒井清忠の二人は 偶然に「朝日新聞」と「毎日新聞」で《競演》を果たしていたのだ。(末松)
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◎新井勲著「日本を震撼させた四日間」◎

2023年02月11日 | 末松建比古

◎2月10日(金)。朝日新聞朝刊に「中央公論新社2月の新刊・話題書」の広告が掲載された。
※この段階で 末松太平著「完本 私の昭和史」は「 新刊」として優遇された日々を終えたことになる。
直ぐに扱いが変わるわけではない。2月26日までは「季節商品」として それなりの扱いをうけるだろう。
「2月26日」から先は判らない。顔(表紙=平積み)を見せていた日々から 背中(背表紙=書棚)しか見えない日々へ 徐々に移行していくのだろう。



※《青年将校運動の当事者が綴った記録としては本書以外にもいくつかの著作がある。
中でも、新井勲「日本を震撼させた四日間」、大蔵栄一「二・二六事件への挽歌」、池田俊彦「生きている二・二六」は代表的なものである。いずれも興味深い内容が綴られており歴史的資料としての価値も高い。しかし、その運動の最深部からの長期にわたる報告という点では本書に優るものはない。》
これは 中公文庫版の「私の昭和史」に掲載されていた「解説 筒井清忠」の一部分である。

※わざわざ《中公文庫版の》と書いたのは この解説が「完本 私の昭和史」に(最初の2行だけを変えて)そのまま載せられているからである。厳密に言えば《「完本 私の昭和史」についての解説》は存在しないのだ。
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◎新井勲著「日本を震撼させた四日間」。
①/1949(昭和24)年9月20日 文藝春秋社刊。B5判248頁。序=岩淵辰雄。
②/1986(昭和61)年2月25日。文藝春秋社刊。文春文庫。解説=高橋正衛。

※新井勲氏(1911年~1986年)。
陸軍中尉の時に 二・二六事件が起き その時の行動(判決文/司令官軍隊を率い故なく配置の地を離る)により禁錮六年の刑に処せられた。新井中尉は 蹶起に加わったわけでなく 身に覚えのない罪科「配置を離れた」で禁錮六年の刑。末松大尉・大蔵大尉は「叛乱者を利する」で禁錮四年。不思議な罪状であり 不思議な判決だが 兵を動かしたかどうかが 六年と四年の差になったのかも知れない。

※新井勲氏=1986年逝去。文春文庫版「日本を震撼させた四日間」1986年刊。そして 末松太平が(著者から贈呈された)文春文庫版を手にしたのが 1986年4月6日。全て「1986年」の出来事である。

※末松太平が(慶応大学病院で)眼の手術を受けたのは 1984年8月のこと。1986年には 眼が不自由になりはじめていた。
「贈呈の著者は、すでに此の世を去っている。」戴いた本に書かれた文字からは 数年後の「半盲目状態」は想像できないし 本人も 自らの運命を予測していなかったと思う。

◎毎年2月26日。賢崇寺の法要では「招霊」される「物故者」の方々の名前が読み上げられる。
※最初に 齋藤実 高橋是清 渡辺錠太郎 松尾伝蔵「殉難重臣」4霊。続いて 村上嘉茂左衛紋 土井清松 小舘喜代松 清水与四郎 皆川義孝「殉職警察官」5霊。そして「二十二士」と「その他の物故者」の霊。
※「その他物故者=有罪判決者」の25番目が大蔵栄一氏の霊、32番目が新井勲氏の霊、48番目が末松太平の霊である。(末松)
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◎2月3日「慰霊像の四人」/後編◎

2023年02月09日 | 末松建比古

◎慰霊像の左端(渋谷区役所・地下駐車場沿い)が、清掃奉仕の「主戦場」である。
※水道蛇口の奥に 小さな倉庫があって 清掃用のバケツやモップやゴミ袋 御焼香用の品々 等々が納められている。



※写真は(水道蛇口の傍で)作業中の3人。〇〇サン+今泉章利サン+森田朋美サン。
駐車場通路での作業だから 車が出る度に 急いで場所を譲らなければならない。 
〇〇サン=相澤一郎サン。故・相沢正彦氏の長男。即ち 相沢三郎中佐の(直系の)孫。
相沢正彦氏の葬儀(2004年2月)以来の邂逅だが 約20年後の今では「初対面」も同然である。
清掃奉仕を終えて 慰霊像前に4人整列。焼香&(今泉サンが唱える)般若心経&記念の集合写真。

※慰霊像を後に(タクシーで)麻布十番に向かう。
創業寛政元年「総本家 更科堀井」で 昼食&焼酎ボトル1本&料理いろいろ。
昼食場所に「更科堀井」を選んだ理由は 故・相沢正彦氏を偲んでのことである。

※昔々 賢崇寺の法要を終え 2階和室の直会も終えた(事件関係者の)方々は 二組に分れて歓談していた。
「喫茶店派/池田少尉・柳下中尉・北島伍長・その他」と「蕎麦屋派/相沢正彦・その他」とである。
法要に対する思いの違いもあって お互いの交流はなく どちらにも顔を出したのは(ノンポリの)私だけだった。    
あるとき 相沢正彦サンは(帰りの車の運転者として?)息子サンを同伴したことがあった。
息子サン=相澤一郎サン?。でも 一郎サンは「記憶にない」と言う。では 弟サンだったのかな?。いずれにしろ 20年以上も昔の懐かしい出来事である。



※昼の営業時間終了を告げられるまで「更科堀井」で歓談。私の持参した「資料」が歓談のネタとして役立つ。
今泉サンが持参していた《末松太平著「完本 私の昭和史」》に吃驚する。何だ 何だ 新刊書だというのに もうボロボロじゃないか。
あちこちの頁が折り曲げられ あちこちの頁に付箋が貼られて 古書店でも相手にしない傷み方。これ即ち「片時も手放さない」ことの証明である。ここまで繰返し丁寧に読まれれば 読まれる本も本望だろう。
※昔々 今泉サンは 1963年刊「私の昭和史/初版」を購入し(未だ付合いのなかった)末松太平に署名を求めたという。そして 私の代には「中公文庫版」も謹呈した。初めて手にした本ではない。それなのに今 このように・・・。

※賢崇寺の坂を登る。本堂横の「合同墓」に合掌。森田朋美サンのご両親は ここに眠っている。
「二十二士の墓」に参拝。写真=墓石を清める相澤一郎サン。墓石の裏には祖父(相沢三郎中佐)の名前も刻まれている。
※賢崇寺を出たところで 相澤サンとはお別れ。本日は金曜日 相澤サン(現役の会社経営者)には仕事がある。
残り3人 毎度おなじみ「あべちゃん」へ。制限時間(1時間半)を宣告されるまで 熱燗&歓談。午後8時40分に無事帰宅。(末松)
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◎神様・仏様・ジュンク堂書店様◎

2023年02月06日 | 末松建比古
◎今回の記事は 公共性ゼロ。言うなれば 私の個人的なメモ 日記の類い。
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※季語?=確定申告。板橋税務署にちょいと立ち寄り。ついでに(シルバーパスの恩恵を生かして)池袋まで足を伸ばす。
池袋東武(旭屋書店)~池袋西武(三省堂書店)~池袋ジュンク堂書店。題して「私の昭和史」視察ウオーク。
売場面積は「旭屋書店」が最も狭く 日本近代史関連も僅かな品揃え。視察対象(私の昭和史)は 1冊だけ書棚で背表紙を見せていた。
※「西口の東武」から「東口の西武」に移動。「三省堂書店」のスペースは 地下1階と地上1階の二段構成。視察対象(私の昭和史)=平積4冊+書棚1冊。

 

※明治通りを渡り「ジュンク堂」へ行く。エスカレーターを4階(歴史関連フロア)で降りると 目前に「人文書 新刊・話題書コーナー」があった。期待半分。置かれている書籍をチェックする。
※左の写真=コーナーの全景。右の写真=置かれていた視察対象(私の昭和史)。



※4階(歴史関連フロア)を進んで「日本近代史関連」の書棚に向かう。
左の写真。こちらの書棚にも 視察対象(私の昭和史)が置かれていたので安心する。正面を見せて4冊。背表紙を見せてもう1冊。(他の「二・二六事件関連」と一緒に)書棚の下段に並んでいた。

※神様 仏様 稲尾様・・・。1958年「日本シリーズ」稲尾和久投手(西鉄ライオンズ)の快投に対する最大級の賛辞である。
「神様 仏様 ジュンク堂書店様」。2023年「視察ウオーク」ジュンク堂書店の優遇に対する(私からの)最大級の賛辞である。

※それにしても 池袋ジュンク堂書店(歴史関係フロア)の充実ぶりは素晴らしい。
●例えば 堀真清著「二・二六事件を読み直す」。
●例えば 小林亮著「二・二六/弱者救済という『叛乱』」。
●例えば 寺島英弥著「二・二六事件/引き裂かれた刻を越えて 青年将校・対馬勝雄と妹たま」。
この三冊が背表紙を並べている光景は 他ではなかなか見られない。二・二六事件を風化させないためにも ジュンク堂書店の存在は「心強い味方」と言えるのだ。
・・・それにつけても つい先日 渋谷東急本店が閉店して 同じ建物内の「M&J=丸善&ジュンク堂」も姿を消したことは 残念としか言い様がない。出来ることなら 渋谷界隈で再開して欲しいものである。

※右の写真は(ジュンク堂ではなく)池袋西武「三省堂書店」の売場状況。
視察対象(私の昭和史)の直ぐ隣に《別冊太陽/地図と写真で見る半藤一利「昭和史」①②》が置かれている。手に取って「例の部分」を確認。ビジュアル中心の本だから解説は大雑把。「例の部分」に触れている余裕はなかった。
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◎中央公論新社の橋爪サンから「出版契約書の原案」がメールで届いた。
※出版契約を結ばないままでも出版はできる。出版界独特のルール。「中公文庫版」で体験済みのこと。(末松)
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◎2月3日「慰霊像の四人」/前編◎

2023年02月04日 | 末松建比古
◎「2月3日(金)午後1時 慰霊像に集合ということで 如何でしょうか」
※今泉章利サン(慰霊像護持の会・世話人代表)から お誘いのメールが届いていた。
主な要件は「〇〇サンに 是非会っていただきたいので・・・」ということである。



※いつものように JR原宿駅で下車。代々木公園経由で慰霊像に向かい 午後0時30分頃に到着。
森田朋美サン(慰霊像護持の会・世話役)が既に到着していて ひとり黙々と清掃奉仕をしていた。
やがて〇〇サン到着。しかし 今泉サンは大遅刻。釈明=渋谷駅構内で迷ってしまって・・・。
渋谷駅は先日(山手線の運行を止めて)大改装したばかり。柏市在住の高齢者が迷子になるのもやむを得ない。

※この日の顔ぶれを想定して 会話のネタになりそうな資料をいくつか持参していた。
例えば 河野進サン(河野司氏の次男・仏心会世話役代表をしていた)と私との交流に関する《非公開》資料。
例えば 村中静サン(村中孝次氏夫人)から末松太平宛てに送られた《写真(笑顔の静様とお孫サン)葉書》。
例えば 国際探訪通信社出版部「相沢中佐の片影」昭和11年2月10日発行・定価金拾餞。

※右の写真は「相沢中佐の片影」。色褪せているのが実物。ホチキスで綴じてあるのが(末松太平が知人配布用に作成した)復刻版。
発行当時は(差障りを避けて)◇◇中尉や△△少尉など匿名にした部分に 末松太平が鉛筆で「末松」とか「志村」とか書き添えている。未来の「歴史研究家」には こちらの方が有益かも知れない。
ゼロックスして 頁を揃えて 一冊一冊ホチキスで綴じて・・・。この「末松太平の労作」も残り二冊。その一冊を◎◎サンに進呈しようと持参した次第。

※慰霊像に到着=午後0時30分。自宅に帰着=午後8時40分。この間の出来事は 後編で。(末松)
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◎善太と三平?・・・善助と太平!◎

2023年02月01日 | 末松建比古
◎坪田譲治著「善太と三平」は 私の愛読書のひとつだった。「風の中の子供たち」というようなタイトルで映画化もされている。
※流石に「1937年公開/清水宏監督作品」は記憶にないが「1957年公開/山本嘉次郎監督監督作品」は 山内賢(善太)と三平(小柳徹)の映像と共に 鑑賞した映画館の名前も憶えている。
当時の「京成千葉駅」すぐ横にあった東宝系の「竹沢映画劇場」。黒沢明監督作品も ゴジラやラドンの怪獣映画も ここで観た。やがて「京成千葉駅」は現在の場所に大移転。映画館も姿を消した。

※実は「善太と三平」について記すのは初めてではない。2014年7月に掲載した「遺品資料類の重要度について」の中に記して 江翠サンからコメントも頂戴していた。皆様の「遡る手間」を省くため 一部分を再掲しておく。
「かなり以前から『善助と太平』という構想を温めている方がいた。名著「実録相沢事件」の筆者・鬼頭春樹氏である。このことは 1年ほど前に頂いたメールに記されていた。作者が秘かに明かした構想を 発表前にネタバラシはできない。既に1年半が経過していても 未だメール内容は紹介できない・・・」
あれから10年。鬼頭氏に特別の動きもなく 結局「善助と太平」は 単なる構想のままで「むかしのはなし」になってしまった。



◎「《ゆうパック》に入れ忘れた・・・」という本が二冊(千葉市美浜区在住の妹から)送られてきた。
※《佐藤正三著作集編集委員会「佐藤正三著作集」昭和45年・道標社刊・1000円》と《片倉衷著「片倉参謀の証言 叛乱と鎮圧」昭和
56年2月26日・芙蓉書房刊・2200円》。どちらも函入りの立派な本である。

※「佐藤正三著作集」の函には 300余頁の「著作集」と 80頁の「回想の佐藤正三」が収まっている。佐藤正三を「回想」しているのは30名。末松太平もその一人である。
佐藤正三(1914年~1968年)。「二・二六事件」叛乱幇助罪。禁錮1年6月(執行猶予4年)。

※実は「回想の佐藤正三」についても 2006年12月に掲載していた。「末松太平邸」が取壊される前に書かれたもので 遺品を収めた書棚に「佐藤正三著作集」も並んでいた。
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◎「佐藤正三君と私」末松太平(ベストン会社取締役)
※昭和3年のことだった。少尉になって2年目の私は千葉の歩兵学校に、歩兵砲学生で派遣されていた。ある日曜日、私は東京に出て渋川善助を訪ねた。訪ねた先は瑞穂寮といって、国文学者沼波氏の未亡人が学生の世話をしている家だった。一高、東大生が建前だったが、明大生の渋川も一部屋借りていた。亡夫の沼波氏は北一輝や西田税と交流があったので、配慮されたのであろう。
歩兵砲学生は修行期間が3ヶ月で、10月1日に入校、12月末に終業だった。私が渋川を訪ねたのは、その終業に近い頃であった。寒いからといって渋川が、大きな火鉢に上に毛布を掛け、椅子に腰掛けた二人は、足を突っ込み、炬燵がわりにした記憶がある。

※渋川はこの前年の春、卒業まであと数ヶ月で士官学校本科を退校になり、明大予科に入学した。飛び抜けて秀才だった渋川は、士官学校本科を退校になると、一高を受験。学科試験は合格したが、内審で、士官学校退校の前歴が祟り落とされた。それならばと明大予科を受け、
ここでも士官学校退校が祟った。辛うじて入学できたのは 栗原という教授の取り計らいによるもので、その経緯を私は、二・二六事件の獄を出た後に、栗原教授から聞かされている。
渋川の退校の原因は、士官学校本科の教育方針の欠陥を、大学当局に面と向かって批判したからだった。校長は当時中将の真崎甚三郎で、軍事以外の一般教養に於いても、陸軍部内では群を抜いてると評判されていた。その真崎校長が教育者としての資格を問われ プライドを傷つけられたのである。真崎校長の直々の裁断によって渋川は退校させられた。渋川の退校直後に行われた士官学校予科の入学式において、真崎校長は暗に渋川を非難する言葉を、わざわざ訓示の中に組み入れた。

※渋川を瑞穂寮に訪ねた頃。私は二年目の少尉、渋川は明大予科二年生だった。二人が急造の炬燵にあたっていると、障子の外で声がした。庭伝いに東大生が一人訪ねてきたのだった。私には初対面の伊東六十次郞だった。私は、渋川によって伊東六十次郞を知り、弘前の東門会の青年群像を知り、鳴海理三郎や、二・二十六事件に関係した宮本誠三、佐藤正三らを知ることになった。
佐藤君が、初めて私を訪ねて独身将校の合同官舎に来たのは、満州事変直前で、佐藤君は弘前高等学校に在学中だった。その後、東京に遊学した後も、帰郷する度に訪ねてきた。が、どんなことを話し合ったのかは、茫漠として記憶にない。

※昭和六年八月、私は東京の戸山学校に半年の修業期間で入校した。この戸山学校にいる間に、私は十月事件を経験するわけだが、東門会関係の青年では、当時東大に在学中だった鳴海理三郎君が下宿に一度か二度訪ねてきただけで、あとの人とは会わなかった。佐藤君とも会わなかった。十月事件は未遂に終わって、十二月下旬、折からエスカレートしていた満州事変のために、私は戸山学校を中退して満州に出征した。
満州事変から凱旋したのは昭和九年の春だった。佐藤君とよく会ったのは、この凱旋直後の青森だった。

※海軍の伊東亀城少尉は、五・一五事件で刑は受けたが執行猶予で入獄せず、私が凱旋した頃、たまたま郷里の青森に帰省していた。この伊東亀城と佐藤君がすっかり馴染んでいて、青森の夜の町を連れ立って散策しているようだった。それに凱旋した私が加わった。が、三人の夜の散策は長くは続かなかった。伊東亀城が上海に去ったからである。
伊東亀城が青森の町から姿を消すのと同時に、佐藤君も青森の町に現れなくなった。その後、佐藤君が私の前に、はっきり姿を現すのは、二・二六事件のときである。

※二月二十九日の早朝、連隊に出勤しようとする私の官舎の玄関前に、佐藤君が立っていた。私は前年の暮れに結婚して合同官舎を引き払い、家族持ちの官舎に移っていた。
佐藤君は渋川の使いで来たといっていた。渋川の言い分は、東京では維新は概ね予定通り進展しているが、いま一歩押しが足りず峠が越せない。その一押しを青森に期待したいという趣旨だった。私は佐藤君に、それどころではない、東京の連中はもう討伐されて、討死するか自決してるかだろう、と言った。佐藤君は、私が東京を出るときは、そんな風ではなかったと言って反駁した。私は、では東奥日報に行って竹内俊吉に会い聞いてみたまえ、はっきりするだろう、と竹内俊吉に紹介する名刺を与えた。 私は連隊には出勤したものの、溜まっていた命令、会報録の印漏れに捺印したぐらいで、早々に連隊を出た。
官舎に帰り着くと、間もなく佐藤君が東奥日報から戻ってきた。やっぱり駄目だったと言った。私は、これからどうすると聞いた。佐藤君は、ちょっと親許に寄って東京に引き返すと言った。旅費がないだろうというとない、渋川さんが青森までの旅費だけくれた、東京は金がなくて困っている、と言った。それで私は三十円、佐藤君に渡した。この三十円が、私が調べられた時、一番先に問題となった。三十円は旅費としては多すぎる。叛乱幇助だといって、佐藤君は一年半の刑を受けたが、執行猶予で陸軍刑務所を出た。私は入獄したから、私の入獄中の佐藤君のことは知らない。

※私が出獄したのは昭和十四年四月二十九日、天長節の日だった。その直後、佐藤君は東京にいたから、数回は会った。宮本誠三もたいてい一緒だった。私が出獄して間もなく、昭和通商が出来た。私は昭和通商の大岸頼好と相談して、東京に出たがっていた竹内俊吉を昭和通商に世話した。入社した竹内俊吉が、今度は大岸頼好と相談して、佐藤君を昭和通商に世話したようだった。昭和通商での佐藤君の消息はよく知らない。昭和通商に在籍しながら東大を卒業したことなども。

※終戦後、弘前にいる佐藤君からの依頼で雑誌「道標」に原稿を送ったことはある。佐藤君は東亜連盟にも関係していたようだが、詳しくは知らない。こうして、思い出さずに忘れずに式の、つきあいが続いていた。佐藤君に限らず、私は終戦後しばらく誰とも世間づきあいが十分できない情態に置かれていた。貧乏していたからである。

※世間づきあいには金がかかる。葉書、切手代にも事欠き、葉書一枚の不義理もやむを得なかった。数年、年賀状を出さなかったことで、末松は生きているのだろうかと、噂されたこともあった。
「私の昭和史」が刊行された前後から、切手代ぐらいは困らなくなり、ベストンというセメントに混和する防水剤の商売に関係するようになると、商用で青森に出る機会もでき、佐藤君と会う機会も生じるようになった。それは時期を同じくして、竹内俊吉が青森県知事になったことによって、さらに増えた。私は青森に出ると、時にはついでに弘前まで足を伸ばし、佐藤君に会うと同時に、そのグループとも会う
ことになるわけだった。

※その後、ベストンの青森における商況が芳しくなくなって、青森に行く機会も絶えていた。
去年の暮れ、久しぶりに青森に商用で行き、図らずも佐藤君の重症を知り、神頼みを念じながら病症を見舞うことになった。久しぶりの邂逅だったが、帰宅して間もなく、佐藤君の訃報を聞かされた。

※今年も、賢崇寺で二・二六事件の法要が営まれた。三十四回忌の法要である。法要では、二十二士の名前に続いて、事件に関与した人々の名前も読み上げられる。ことしの法要で、導師は宮本誠三の次に佐藤正三と読み上げた。昭和四十四年二月二十六日の法要で、新たに佐藤君もまつられたのである。(昭和44年3月記)
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◎佐藤正三氏に所縁の方々には 佐藤氏の「一挙手一投足」が追慕の対象になる。末松太平の「思い出話」が長くなるのも 仕方ないことである。
※実は ここに転載した「回想」は原文そのままではない。私が(文意や史実を損なわぬ範囲で)割愛を重ねて 短く書き直している。
文責=私。前半は「私版/善助と太平」シリーズ(?)のつもりである。(末松)
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