※前回の記事の中で 週刊新潮編集部と末松太平との「バトル」について 少しだけ触れた。
半世紀も前の出来事だから 週刊新潮編集部のWR氏(当時5歳)がご存じないのも当然だが これを機会に概略を記しておきたいと思う。
◎「情況」1971(昭和46)年3月号。
※表紙には 特集「日本ファシズムの再検討」として6篇がのタイトルが掲げられている。
戦後啓蒙主義の崩壊と30年代(橋川文三・清水多吉)、昭和維新の思想と行動(西山逸)、二・二六は革命だったか(末松太平)、前期ファシズムと大正デモクラシー(秋山清)、西田税試論(鈴木正節)、東洋におけるユートピア思想(藤堂明保)。
※頁を開くと「二・二六は革命だったか」には「有馬頼義の『二・二六暗殺の目撃者』に就いて」という副題がついていて 冒頭に情況編集委員会による解説が記されている。
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●昭和42年2月25日の「朝日新聞」文芸欄に、作家の有馬頼義氏が二・二六事件の犠牲者の一人、斉藤実のことを「二・二六事件と私」と題して書いたことがある。その中に、二・二六事件は革命などという代物ではなく、強盗・殺人・火つけの類いだというような文句があり、それに対して蹶起将校の遺族の会である仏心会代表の河野司氏が、同じ「朝日新聞」紙上で反論を展開した。有馬頼義氏はその後まもなく、先の文章を詳述した「二・二六暗殺の目撃者」を「週刊新潮」に連載した。連載が終わった時にそれを批判する原稿を末松太平氏が執筆したが、『二・二六事件の目撃者』読売新聞社刊の〈あとがき〉で有馬頼義氏が「週刊新潮の連載が終わった段階で、今度は、末松太平氏から長文の反論を受けた」としているのが、それである。
●末松太平氏のこの原稿は、彼の友人が文藝春秋社に持ち込んだが敬遠され、次いで新潮社に持ち込んだが再び敬遠され、しばらく新潮社に留めおかれたという。『二・二六暗殺の目撃者』が新潮社からではなく、読売新聞社から刊行されたのは昨年8月である。この書評を出版ニュース社から依頼された末松氏は、前記旧稿を一字一句訂正せず載せれば自ずから書評になるといってそのまま掲載することを希望したが、スペースの関係でこれも実現しなかった。
●「二・二六は革命だったか―有馬賴義の『二・二六暗殺の目撃者』に就いて」は以上のような経過を経たものであるが、末松氏の了承を得て、一字一句訂正せずここに掲載する。情況編集委員会
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※さて ここから本文・・・と続けたいところだが、いささか難題である。本文の分量は「一行29文字×合計290行」もあるのだ。
それとともに 本文は有馬頼義氏への「反論」であるから「有馬氏が書いたもの」も並記しないと(当時を知らない方々には)論点が理解できないに違いない。というわけで・・・残念ではあるが 以下割愛。
※有馬頼義氏は「末松氏から長文の反論を受けた」と記している。しかし 私なりの感想を述べるならば 有馬氏の文には(二・二六事件に関しての)事実誤認の部分が多すぎる。要するに「知識不足」なのである。
※末松太平が長々と記したことも「反論」というよりも「無知に対する戒め」に近いように思える。
末松太平が長々と記したなかに「被害者側への攻撃」はない。ただ「誤った記述への攻撃」をしているだけなのだ。(末松)
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半世紀も前の出来事だから 週刊新潮編集部のWR氏(当時5歳)がご存じないのも当然だが これを機会に概略を記しておきたいと思う。
◎「情況」1971(昭和46)年3月号。
※表紙には 特集「日本ファシズムの再検討」として6篇がのタイトルが掲げられている。
戦後啓蒙主義の崩壊と30年代(橋川文三・清水多吉)、昭和維新の思想と行動(西山逸)、二・二六は革命だったか(末松太平)、前期ファシズムと大正デモクラシー(秋山清)、西田税試論(鈴木正節)、東洋におけるユートピア思想(藤堂明保)。
※頁を開くと「二・二六は革命だったか」には「有馬頼義の『二・二六暗殺の目撃者』に就いて」という副題がついていて 冒頭に情況編集委員会による解説が記されている。
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●昭和42年2月25日の「朝日新聞」文芸欄に、作家の有馬頼義氏が二・二六事件の犠牲者の一人、斉藤実のことを「二・二六事件と私」と題して書いたことがある。その中に、二・二六事件は革命などという代物ではなく、強盗・殺人・火つけの類いだというような文句があり、それに対して蹶起将校の遺族の会である仏心会代表の河野司氏が、同じ「朝日新聞」紙上で反論を展開した。有馬頼義氏はその後まもなく、先の文章を詳述した「二・二六暗殺の目撃者」を「週刊新潮」に連載した。連載が終わった時にそれを批判する原稿を末松太平氏が執筆したが、『二・二六事件の目撃者』読売新聞社刊の〈あとがき〉で有馬頼義氏が「週刊新潮の連載が終わった段階で、今度は、末松太平氏から長文の反論を受けた」としているのが、それである。
●末松太平氏のこの原稿は、彼の友人が文藝春秋社に持ち込んだが敬遠され、次いで新潮社に持ち込んだが再び敬遠され、しばらく新潮社に留めおかれたという。『二・二六暗殺の目撃者』が新潮社からではなく、読売新聞社から刊行されたのは昨年8月である。この書評を出版ニュース社から依頼された末松氏は、前記旧稿を一字一句訂正せず載せれば自ずから書評になるといってそのまま掲載することを希望したが、スペースの関係でこれも実現しなかった。
●「二・二六は革命だったか―有馬賴義の『二・二六暗殺の目撃者』に就いて」は以上のような経過を経たものであるが、末松氏の了承を得て、一字一句訂正せずここに掲載する。情況編集委員会
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※さて ここから本文・・・と続けたいところだが、いささか難題である。本文の分量は「一行29文字×合計290行」もあるのだ。
それとともに 本文は有馬頼義氏への「反論」であるから「有馬氏が書いたもの」も並記しないと(当時を知らない方々には)論点が理解できないに違いない。というわけで・・・残念ではあるが 以下割愛。
※有馬頼義氏は「末松氏から長文の反論を受けた」と記している。しかし 私なりの感想を述べるならば 有馬氏の文には(二・二六事件に関しての)事実誤認の部分が多すぎる。要するに「知識不足」なのである。
※末松太平が長々と記したことも「反論」というよりも「無知に対する戒め」に近いように思える。
末松太平が長々と記したなかに「被害者側への攻撃」はない。ただ「誤った記述への攻撃」をしているだけなのだ。(末松)
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