◎末松太平事務所(二・二六事件異聞)◎ 

末松太平(1905~1993)。
陸軍士官学校(39期)卒。陸軍大尉。二・二六事件に連座。禁錮4年&免官。

◎令和元年師走/週刊新潮編集部との因縁◎

2019年12月15日 | 末松建比古
※前回の記事の中で 週刊新潮編集部と末松太平との「バトル」について 少しだけ触れた。
半世紀も前の出来事だから 週刊新潮編集部のWR氏(当時5歳)がご存じないのも当然だが これを機会に概略を記しておきたいと思う。



◎「情況」1971(昭和46)年3月号。
※表紙には 特集「日本ファシズムの再検討」として6篇がのタイトルが掲げられている。
戦後啓蒙主義の崩壊と30年代(橋川文三・清水多吉)、昭和維新の思想と行動(西山逸)、二・二六は革命だったか(末松太平)、前期ファシズムと大正デモクラシー(秋山清)、西田税試論(鈴木正節)、東洋におけるユートピア思想(藤堂明保)。
※頁を開くと「二・二六は革命だったか」には「有馬頼義の『二・二六暗殺の目撃者』に就いて」という副題がついていて 冒頭に情況編集委員会による解説が記されている。
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●昭和42年2月25日の「朝日新聞」文芸欄に、作家の有馬頼義氏が二・二六事件の犠牲者の一人、斉藤実のことを「二・二六事件と私」と題して書いたことがある。その中に、二・二六事件は革命などという代物ではなく、強盗・殺人・火つけの類いだというような文句があり、それに対して蹶起将校の遺族の会である仏心会代表の河野司氏が、同じ「朝日新聞」紙上で反論を展開した。有馬頼義氏はその後まもなく、先の文章を詳述した「二・二六暗殺の目撃者」を「週刊新潮」に連載した。連載が終わった時にそれを批判する原稿を末松太平氏が執筆したが、『二・二六事件の目撃者』読売新聞社刊の〈あとがき〉で有馬頼義氏が「週刊新潮の連載が終わった段階で、今度は、末松太平氏から長文の反論を受けた」としているのが、それである。
●末松太平氏のこの原稿は、彼の友人が文藝春秋社に持ち込んだが敬遠され、次いで新潮社に持ち込んだが再び敬遠され、しばらく新潮社に留めおかれたという。『二・二六暗殺の目撃者』が新潮社からではなく、読売新聞社から刊行されたのは昨年8月である。この書評を出版ニュース社から依頼された末松氏は、前記旧稿を一字一句訂正せず載せれば自ずから書評になるといってそのまま掲載することを希望したが、スペースの関係でこれも実現しなかった。
●「二・二六は革命だったか―有馬賴義の『二・二六暗殺の目撃者』に就いて」は以上のような経過を経たものであるが、末松氏の了承を得て、一字一句訂正せずここに掲載する。情況編集委員会
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※さて ここから本文・・・と続けたいところだが、いささか難題である。本文の分量は「一行29文字×合計290行」もあるのだ。
それとともに 本文は有馬頼義氏への「反論」であるから「有馬氏が書いたもの」も並記しないと(当時を知らない方々には)論点が理解できないに違いない。というわけで・・・残念ではあるが 以下割愛。

※有馬頼義氏は「末松氏から長文の反論を受けた」と記している。しかし 私なりの感想を述べるならば 有馬氏の文には(二・二六事件に関しての)事実誤認の部分が多すぎる。要するに「知識不足」なのである。
※末松太平が長々と記したことも「反論」というよりも「無知に対する戒め」に近いように思える。
末松太平が長々と記したなかに「被害者側への攻撃」はない。ただ「誤った記述への攻撃」をしているだけなのだ。(末松)
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◎令和元年師走/週刊新潮編集部との対面◎

2019年12月12日 | 末松建比古
※師走第1土曜日の午後 飯田橋駅の東口。WR氏「週刊新潮を目印にしてお待ちします」という待ち合せ。
MH氏(学研プラス総合企画部)が参加することも事前承諾している。WR氏に案内されたのは駅近くの喫茶店。
ウオーキング仲間が一緒なら駅近くの「源ちゃん酒場」が定番だが 初対面の方と居酒屋で秘蔵資料を拡げるわけにもいかない。



※この日の午前中は 千代田ウオーキング協会の「例会」を歩いてきたので 持参できる資料には限りがある。
千鳥会『千鳥の栞』原稿2綴の他に『追想・大岸頼好』『大岸頼好 末松太平 交友と遺文』の2冊である。
『追想・大岸頼好』は1966(昭和41)年3月の発行で(逝去後15年の法要を機に)末松太平が編集したもの。
『交友と遺文』は1993(平成5)年10月の発行。 田村重見氏が(末松太平の遺体に対面したことを機に)自費出版したもので 大岸と末松の遺文に加えて「追想・大岸頼好」の全文も採録されている。

※「25年の年齢差を意識して オトナゲナイ態度を慎まなければならぬ」と前稿に記した。
当然ながら WR氏の関心事は「塩谷信男氏にまつわる事柄」であって 大岸頼好への関心も「千鳥会と関わる部分だけ」であろう。
一方 私の方は塩谷信男氏について全く知らなかったし 今更知ろうという意欲もない。お互い「領域の違い」を自覚しつつも 共通項を探りながらの歓談のひとときとなった。

※世代の違いを実感した「笑談」を少々。
その1=「週刊新潮は 末松太平と縁があるんですよ」「・・・?」「逝去した時に 今も連載が続いてる“墓碑銘”に載せていただいたんです」「え、そうだったんですか」
週刊新潮「墓碑銘」に「最後の『将校』末松太平元陸軍大尉」が掲載されたのは 1998(平成5)年2月4日号で 取材された当時の私は51歳であった。昭和40年生れのWR氏は当時26歳だから「え、そうだったんですか」という反応も無理はない。
因みにこの「墓碑銘」シリーズには 志村陸城中尉 安藤輝三大尉夫人などの事件関係者も登場したことがある。
その2=「それより以前には 有馬頼義の件で 週刊新潮編集部に激烈な抗議活動をしてるんです」「え、そんなことがあったんですか」
この件の経緯は「情況」1971(昭和46)年3月号に詳しく紹介されている。当時の私は30歳。WR氏は僅か5歳。 週刊新潮vs末松太平の「バトル」のことを知るよしもない。

※末松太平が「大岸頼好の死」で描いたのは「大岸がそのころ信仰していた新興宗教に関する事柄」についてである。
私の手元に「千鳥の栞」の草稿が遺されているのは そのあたりにも起因している。
私が持参した「追想・大岸頼好」には30人の想いが寄せられているのだが そのうちの数人が「陸軍第五連隊の大尉だった末松太平が(大岸の要請に応えて)青森を訪れた際の期待と戸惑い」について”記している。

※WR氏に「千鳥の栞」と「交友と遺文」をお貸しした。実を申せば 私が信用するのは「賢崇寺法要で親交のある方々だけ」といっても過言ではない。日頃の私は 初対面の方への「資料の貸与」は謝絶しているので 今回は例外的な対応になった。(末松)
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◎令和元年師走/週刊新潮編集部からの手紙◎

2019年12月09日 | 末松建比古


  

◎11月が終わるころ 未知の方(週刊新潮編集部・WR氏)から手紙を戴いた。
※「末松様にぜひとも一度お目にかかり見せていただきたいものがあり、ご連絡申し上げました」とのこと。
この「見せていただきたいもの」については、当ブログ(2015年2月07日)に『◎初公開・宗教法人千鳥会編「千鳥の栞」原稿◎』というタイトルで掲載している。
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※「私は塩谷信男氏の足跡を調べております。氏は大岸頼好氏が入っておりました『真の道』の前身『千鳥会』の創始者であり、直木賞作家・皆川博子氏の御尊父になります。(中略)塩谷氏の人生で最も重要なのは『千鳥会』で活動されていた頃だと思っておりますが、機関誌『千鳥』の一部が国会図書館にあるだけで、他に資料を見つけることができずにおります。」
「末松様はその『千鳥会』の『千鳥の栞』を所蔵していらっしゃると知りました。ぜひともこの冊子を見せていただきたいのです。『千鳥会』『真の道』では、大岸頼好氏と大久保弘一氏が『真手』の組になるなど、その経緯を知りたいことが多々あります。その手掛りがそこ にあればと期待しています(後略)」。
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※真摯な思いが伝わる手紙ではあるが 返答するには躊躇いがあった。理由は 文中の「冊子」という語句である。私の直感は「WR氏は当ブログを読んでいない」ということだった。画像参照。一目瞭然 これは「冊子」ではない。
当ブログと無縁な方との対話は「不愉快な結末」を迎えることが多い。対話の途中で「これ以上話を続けたいなら(二・二六事件について)もう少し勉強して出直してこい」と拒絶したことも何度かある。森田朋美サンに言わせれば「末松サンは(いい歳をして)オトナゲナイ」ということである。

※数日後 WR氏から自宅に電話があった。そこまで熱意を示されれば了承するしかない。当方にお越し戴くことは謝絶して 外で会うことにした。その前に「WRサンは昭和何年の生まれですか?」と質問。予め「その年齢だったら◎◎について知らなくても仕方ない」と納得するためである。WRサン=昭和40年生れ。私=昭和15年生れ。25年間の体験差を意識して オトナゲナイ態度を慎まねばならない。・・・ということで 次回に続く。(末松)
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◎追記(2019年12月23日)
※上記で紹介した「WR氏からの手紙」に(中略)と記した部分があった。中略したのは「また、『宮中魔女追放事件』として知られる香淳皇后の女官・今城誼子氏の追放劇の原因となった人物です」という部分で 割愛した理由は 浅学な私が「宮中魔女追放事件」を全く知らなかったためである。

※先日 WR氏から「週刊新潮・1月27日号別冊」が ゆうパックで届けられた。
《週刊新潮「輝かしき昭和」追憶1964ー1989》。表紙には「別冊令和元年」の帯が印刷されている。
特集として WR氏が執筆した(であろう)記事が掲載されていた。
 
※特集 宮内庁が忘れ去りたい悪夢! 香淳皇后を操った「宮中の魔女」裏舞台。昭和天皇皇后陛下初の外遊は、昭和46年の欧州7カ国訪問だった。その準備のさなか香淳皇后が全幅の信頼を寄せる一人の女官が宮中から追放された・・・。
記事の後半に「塩谷信男という東京帝大出身の内科医」が登場する。以下省略。詳しくは「週刊新潮・1月27日号別冊」をお読み戴きたい。(末松)
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