◎末松太平事務所(二・二六事件異聞)◎ 

末松太平(1905~1993)。
陸軍士官学校(39期)卒。陸軍大尉。二・二六事件に連座。禁錮4年&免官。

◎承前「末松太平に何が起こったのか・2」◎

2020年04月17日 | 末松建比古
◎2020年4月17日(金)。
※昨日 安倍晋三首相は 新型コロナウイルス対応の特別措置法に基づき「緊急事態宣言」の対象区域を全国に拡大した。
そして今日 末松太平の長男は80歳の誕生日。僅か1日の違いだが 昨日(70代)と今日(80代)では意識が変わってくる。
そして「80歳の末松太平」と比較してみたくなる。

※末松太平は78歳の夏(1984年8月)に慶応病院に入院。網膜剥離の手術を受けている。
この頃のことを 池田俊彦氏が自著(文藝春秋刊「生きている二・二六」の中で記している。
「60年(1985年)に入って、手記を書きながら、様々な問題にぶつかった。私は自分の考えを整理するためにも、先輩である末松太平氏の話を聞くことを思い立った。4月半ば、千葉の末松宅を訪れた私は、昼から晩までゆっくり末松さんと話すことができた。末松さんは網膜剥離という難病に罹り、二度の大手術を受けて、視力が著しく衰え、天眼鏡でしか本を読むことが出来ない状態だった。それにも拘わらず、十月事件当時の話や、対馬中尉のこと、西田税のこと、大岸頼好のこと、そして戦後の旧軍人の動きなど、熱心な話は尽きることが無かった」
※そして 雑誌「史」に《二・二六事件断章》を連載開始したのは 82歳(1988年4月号)になってからのことになる。
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◎今泉サンの質問「末松太平が法要から姿を消したのは何故?」への考察。その後編。
※画像参照。賢崇寺の法要風景(撮影日は不詳)。末松太平は何故か《関係者席》でなく《一般者席》に坐っている。
さて 末松太平に何が起こったのか。前回と同様に「末松太平の日記」を辿ってみよう。


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※1980年2月26日。
「2・26法要。参会者代表として話をせよと小早川君がいうから、KDD社長室長佐藤陽一に北一輝の改造法案を講義したことについて話す」
「初版『軍隊と戦後の中で』が200数冊届けられる。寄贈のための署名を書き始める。こちらの好意がどれほど相手に反応するやら」
※1980年7月12日。
「2・26法要で賢崇寺に行く。寺からの帰途、黒沢元晴君、金子元憲兵と六本木の喫茶店で長談義となり、帰宅は8時頃になる。エントロピーの話をしたら、二人から大いに興味を持たれた」
※1980年7月16日。
「四元義隆氏と40余年ぶりに会う。池田俊彦君同席。銀座の竹葉亭で御馳走になる。茶室しつらえの凝った料亭である。但し、高価につくだろうと思い、しっくりしない。勿体ないのである。この日、鈴木善幸総裁になる。鈴木内閣の閣僚に竹内黎一も下馬評にのぼっているようである。この方もしっくりしない」
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★1981年の日記。行方不明。
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※1982年2月24日。
「うすく雪が降っていたが、すぐ解けた。少し寒さが戻る。来栖静馬の息子さんが明日来訪したいと電話あり。郵便物を出すついでに1000m位散歩するのだが、足許がおぼつかない。仲義の葬式に行ってこの方、この現象が起こっている。脚力減退。何とか回復しなければ。賢崇寺行きは無理のようだ。欠席にしよう」
末松仲義は実弟。葬式は1月12日に北九州市門司区(末松太平の故郷)で行われた。
※1982年2月26日。
「2・26の法要があるが遠出は体に悪いから欠席する。欠席は絶えてないことだから噂になるだろう。今朝の毎日新聞に『核廃絶 大きな輪に』という見出しで文学者、音楽家、美術家ら連帯しようとしている記事があり、その中心人物に中野孝次氏の名前が見える」
※1982年7月12日。
「今から46年前の今日、彼らは銃殺された。賢崇寺の法要は欠席する。体調上無理と判断」
※1982年7月22日。
「北島弘君見舞いに来る。いろいろ秘めた疑問があるようだ。2・26、7・12、両度の法要に僕が出席しなかったので案じて来てくれた。多数の中の唯一人である。有難し」
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※1983年1月31日。
「河野司氏よりの葉書によれば、小早川秀浩君が1月22日に死んだとのこと」
※1983年2月26日。
「天気は大変よい。が、2・26法要は欠席。体の調子がよくても、もう出席しない方がよいかも知れない。河野司氏より同氏著『二・二六事件秘話』を送ってくる。実川義昭氏来訪。市会議員選挙がらみ」
※1983年7月12日。
「2・26の法要。但し欠席」
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※1984年2月26日。
「2・26は2・26に語らせよ だが2・26に口なく 語るのは人間である。本当よりも嘘の多い 歴史というものも 人生というものも 大抵がそうだ 無駄が多いね。
朝来よりの雨。雪混じる。東京は完全に雪のようだ。賢崇寺は今回も欠席。渋川、西田、村中さんらのことを思い、心痛む。渋川に、先に行っておれ、の言葉を平石看守に託したが、もう随分先に行ってしまって、今から追いかけても、追いつくのに大変だな」

※眼の悪化が進んで 日記帳の文字も乱れている。3月9日付には「目がちっともよくならない。新聞も読めない。本など読んでも仕方ないよという啓示かも知れない」という記述もある。



※眼の悪化は急激に進み 3月17日付では《日記帳の横線》も判断できなくなって 書き殴り状態になっている。そして 3月25日以降の日記帳は白紙のままになる。
《7月12日》には もはや外出どころではない状況だったと思われる。そして8月 慶応大学病院で手術を受けることになる。
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※1985年。もはや日記帳の日付に関係なく 思いつくままに記している。
「菅波三郎さん死す。われ一人残る。正に残生である」(2・12)
「鳥籠の小鳥と同じ時を生く 2・26涙の50年」「まだ駄目と エンマの庁から戻される」
「長生きするのはよいけれど、それに比例して思い出が重なる。この重圧に耐えられるかどうか。過去を忘れればよいのだが、うまくいきそうにない」「渋川善助が悲し 立春の夢」
「2・26 50周年という。時計は止まり、針は落ちる・・・では困る」(2・26)
「中央公論3月号に、河野、高橋、沢地3氏の鼎談が載っている。買っても読めず、徒らにちり紙交換の餌食になっても仕方ないから買わない。読めないから」
「古賀不二人さんから心配の便りくる。賢崇寺の欠席、年賀状の欠礼」
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※1986年。思いつくままの記述。
「新井勲君の未亡人より『日本を震撼させた四日間』の文芸文庫版を寄贈される」
「2・26 50年。天皇在位 60年。2・26を供養し 天皇在位を祝す」
「4・29 天皇誕生日、おれの出獄記念日、義父母の法要の日、天皇在位60年を祝う日」
「ある朝は 毛布たたみつつ 亡友を恋う」「毛布たたみて殺される 天皇万歳を絶叫しつつ」 
「伊勢新聞社長・小林正雄氏、相沢正彦君の案内で来訪」(11・20)
・・・相沢正彦氏=相沢三郎中佐の長男。末松太平を《オジサマ》と呼んで慕ってくれていた。末松太平の死後は 長男同士の親交が始まる。  
蛇足ながら 後日 末松太平の墓参をした《2・26関係者》は相沢正彦氏ひとりだけであり 相沢正彦氏の葬儀に参列した《2・26関係者》は私ひとりであった。
「桃栗三年 柿八年 馬鹿な柚子は十三年 俺は八十一 未だ実がならぬ 何時まで経っても実はならぬ」
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※1987年。思いつくままの記述。
「亀屋万年堂の菓子持ちて 陸軍歩兵二等兵村上宗縁参りましたと 村上君来たる。2・26の時の入隊兵で、名前も顔もおぼえぬ間に引き離された部下である。友の遠方より来たる有り、また楽しからずや。50年の遠方より来た部下であり、友である」
「間違えて 吸い取り紙に 絵を描いた」
「銃殺の日 我れ生きてあり 82(7・12)」
「乃公出でずんばも 今は空し 銃殺の日よ(7・12)」
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◎依然として《今泉サンの疑問》は未解決のままである。ある日突然《関係者席》を去った理由が判らない。
※1980年までは出席 1982年以降は欠席。その間の事情は《1981年の日記》に記されているような気がするのだが・・・・さて。 (末松)
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コメント

◎昔々「末松太平に何が起こったのか」◎

2020年04月14日 | 末松建比古


◎令和2年2月26日。賢崇寺の法要後に(今泉サンの愛車で)池田俊彦少尉の墓参に出かけたことは既に記した。
※今回は(その日の車中で)今泉サンに訊ねられたことに対する《個人的な報告書のようなもの》として御理解いただきたい。

◎今泉サンの質問「お父上(末松太平)が賢崇寺にお見えにならなくなったのは 何故ですか」
※画像参照。賢崇寺の法要で挨拶する末松太平。何よりも驚くのは 本堂をぎっしり埋めた参列者の多さである。

※何度か記したが 私は(末松太平が死去するまで)「二・二六事件」に全く関心がなかった。「賢崇寺の法要」も「渋谷の慰霊像」も何も知らずにいた。だから 末松太平が急逝して《喪主》になったときは困惑した。いろいろな問合せにも答えることが出来なかった。
私は「末松太平が法要に参列していた」のをリアルタイムでは知らない。「いつから行かなくなったのか」も知らない。晩年 目の手術をして 半盲目状態になってからのことは記憶にあるが 「行けなくなった」と「行かなくなった」では意味が違う。というわけで またまた《廃棄予定の資料》に頼ることになった。廃棄予定の資料=末松太平の日記帳である。



※二十二士の御遺族の席は正面左側。処刑を免れた事件参加者の席は正面右側。
言うまでもなく 末松太平は正面右側の関係者席に座っている。
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※1968年2月26日。
「2・26。33回忌法要。次第に『青年日本の歌』を歌うことになっていた。三上卓は自作を歌われることを好まなかった。仏心会のやることは仏心会のペースで行けと説得した。歌うより行え、ということである。三上は、その後で、ふところから俳句19首を出し、公開は好まぬ、仏心会にやってくれという」
※1968年7月18日。
「銀座《甚兵衛》で、河野司氏の慰労会。午後6時から。2時間位で閉会。ぶらりと大雅堂書店に入ったら、今東光が入ってきた。もう早速に 議 員バッジをつけている。生臭坊主、嬉しいのだな、ばかげたことだ。」
※1968年10月27日。
「三島由紀夫作のバレエ『ミランダ』を日生劇場で観る。三島氏の招待である。終わって霞が関ビル35階のレストランで夕食をご馳走になる。三島氏ご両親、伊沢氏も一緒。三島氏の両親との睦まじさが微笑ましかった。バレエを観たのは初めてだから観賞の眼はない。むしろバレエは見ず、三島氏の好意を見たというべきだろう」
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※1972年2月26日。(末松太平=66歳)
「2・26法要。閏年だから、4×9=36、2・26以来36年ということである。賢崇寺本堂完成。戦災で焼失した本堂が再建され、今年はその本堂で法要。天候悪し。みぞれ気味。小早川秀浩君から八日市場の落花生煎餅を貰う。川端康成が僕の年賀状の字を褒めていたと小早川君がいう。小早川君は川端康成と懇意だという」
※1972年7月12日。
「(※前日)西日本に水害被害。2・26法要の日までには大抵梅雨があがるのだが今年は例外。梅雨が遅れて来た。(※当日)天気予報とは違って青空が出ている。西日本の水害は相当なもの。天災のようであり、人災のようである」
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※1973年2月26日。
「2・26の法要に賀陽恒憲王初めて参列。皇族の待遇を離れて一般市民となった宮様は、あまりにも市民的だった。変な気持ちでる。テレビ取材があったらしく 翌日の日記「テレビの我が姿を見る。何とも異様である。各所よりテレビを見たと電話がある。まあテレビに出た方がよかったということのようだ」。
※その翌日。「今日もなおテレビの電話がかかる。友人を楽しませただけでいいことだった」との記述がある。
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※1974年2月26日。
「2・26法要。加藤秀徳君香典持参。野中四郎大尉に教えられた兵3名と会う。いずれも小学校校長、定年退職者。野中四郎大尉は余程人格すぐれた人と思われる」
※1973年7月12日。
「2・26法要に行く」
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※1975年2月26日。
「10時に渋谷の慰霊像に行く。テレビに撮られる。法要に松尾大佐の遺族を招く。元歩三にいたという職業軍人が変テコな挨拶をする。
幼年学校出身者に対するお門違いの非難。25日に賢崇寺住職死亡したことを知る。
法要で挨拶する。短く『(内容省略)』と。百峰神社宮司中井君としばらく話す(内容省略)」 ※1975年7月12日。
「2・26忌、土砂降り雨。帰途風呂敷包みをタクシーに忘れる。書籍、ピース2、賢崇寺のお菓子、相沢中佐夫人の伊豆土産を村上さんに貰った風呂敷に包んだもの。惜しかった」
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※1976年26266日。
「2・26忌。法要に行く。40周年」
※1976年7月6日。
「銀座8丁目の太湖飯店で河野司氏接待の夕食会。高橋正衛、毛呂清輝など同席」
※・・・何故か「7月12日」の記述はなし。
※この年の12月8日に興味深い記述があったので紹介しておく。
「研秀出版社企画の杉森久英との対談。面白くないので途中で席を立った。晩飯は食えず、当てにしていた対談料もフイ。馬鹿を見たものである。事の起こりは杉森が北一輝を『胡散臭い人物』といったことに始まる』
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※1977年2月26日。
「2・26法要。出席者代表として挨拶する。小早川君より落花煎餅を貰う。時空空しく過去となり、われ無為にして徒に齢を重ねて70余才である。せめて法要に参じて往事の志を確かめるのみ。挨拶要旨」
※1977年2月27日。
「午後8時よりTBSラジオで利根川裕君との対話が放送される。三国一朗が最初に解説をする。録音取りは何時だったか忘れた」。原作・利根川裕の映画「宴」は 二・二六事件が背景。
※1977年7月12日。
「2・26忌。42年前のこの日のことを想い出す。小早川君からアロハを貰う。法要後、小早川君を案内して知事を見舞う。黎一君にも会う」。知事=竹内俊吉青森県知事。
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※1978年2月26日。
「文藝春秋3月号の菅波三郎さんの記事につき、怪しからんことをいうものが二三いた。法要の後、中井君他一名と黒崎君のうちに行き、8時頃までいる」
※1978年7月12日。
「2・26忌。賢崇寺の法要。読経を聞いていたら勇気が出た」
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※1979年2月26日。
「法要に行く。池田早苗に珍しく会う。夜、2・26事件の盗聴電話の再録を聴く(NHKテレビ)。馬奈木とドイツ大使館との関係が判ったことは興味がある。」
※1979年7月12日。
「2・26法要。曹洞宗の根本経典のひとつ修証義も結局は功利主義であることが判り、とたんに法要が馬鹿らしくなった。こんな教典を誦んでも同志は浮かばれまい。(以下省略。要するに修養次第で 浮かばれるか否かを区別することへの疑義のようなことである)
※1979年9月20日。
「菅原裕氏の告別式にまいる。法曹界の人々の中に伍して焼香する。参る者多し。焼香したあと出口に向かうところに嗣子国隆氏がいて僕を呼び止めた。とたんに涙が出た。親子の縁といったようなものに触れたからだろう。しばらく瞼の裏に涙がふくまれていた。 河野司、高橋正衛両氏と山の上ホテル食堂で夕食しながら東映の『動乱』のシナリオについて話し合う。正直なところ右に転んでも左に転んでも大差なしと思う」
菅原裕氏=元東京弁護士会会長。元日弁連副会長。五・一五事件や相沢事件の弁護を手がけ、東京裁判では主任弁護人を務めた。末松太平が御長男に呼止められるほどの御縁があったとは・・・。
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※長くなったので 1980年以降については 稿を改めて。
ここまでの記録では 河野司氏の良き相棒として  積極的に「法要」に参加している。
※河野司氏の逝去は1990年。末松太平の逝去は1993。
この数年間を境として 賢崇寺の法要は 《新しい時代》を迎えることになる。(末松)
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コメント

◎新型コロナウイルス感染・警視庁武蔵野署◎

2020年04月06日 | 末松建比古
◎新型コロナウイルスの感染拡大が止まらぬ日々。
※4月6日午前0時時点で 国内死者は100人を超え 東京都内の感染者数も千人を超えた。都内感染者には警視庁武蔵野署の33歳の警察官も含まれていて 署員70余名が自宅待機中であるという。
実は「警視庁武蔵野署」は 私にとって懐かしい場所のひとつでもあるのだ。

※前々回《応急対応版「1960年・賢崇寺の周辺で・・・》の中で「警視庁に逮捕されたら、早く出して貰えるように、オレが頼みに行くよ」という 60年安保当時の父子の会話について記した。その後 末松太平の長男が登場する「青森県評論」掲載のエッセイは更に二編発見されたが それはまた別の話。結局 60年安保は自然承認という形で終結し 安保反対闘争に青春を懸けた若者たちは それぞれ次のステージに移っていった。

※そして 私の場合は 1960年秋 武蔵野警察署・・・
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※以下 二・二六事件とは全く関係ない雑文が延々と続くが《外出自粛中の時間つぶし》のひとつとして通読いただければ幸いである。



※廃棄処分対象資料「手記 1960・11・18~11・26」というノートから部分的に再録。但し 11月23日以降のページは白紙。釈放後に記憶を辿りながら記したものなので 途中で面倒くさくなってしまったのだと思う。要点を記したメモが挟んであった。
※因みに 新聞記事にある「東京第七区革新系候補」は山花秀雄氏(故人)であるが 公職選挙法文書違反のビラ配りは《山花秀雄選対事務所》の指示ではない。若者たちが《勝手に》選対事務所の2階に泊まり込んで《勝手に》謄写版印刷ビラを作成し配布していたのである。リーダーの小嶋氏は 私のクラスメート。前々回に記した「東大中退オルグ」が彼である。

●18日(金)夜9時35分逮捕。黙秘。午前2時頃犯行否認のまま取調終了。
●19日(土)刑事取調べ。現場連行(場所不明)。取調(黙秘)。
●20日(日)地検連行(手錠数珠繋ぎ)。河上検事。佐藤と連絡付く(口裏合わせ)。弁護士差入れ。
●21日(月)裁判所連行(手錠数珠繋)10時~16時)。大矢根判事。10日間拘留決定。接見禁止令。18時近く逆送。弁護士接見。
●22日(火)刑事取調べ(初めて罪状自白=口裏合せ通り)。荒川嬢差入(接見禁止)。末松太平差入(接見禁止)。
●23日(水)刑事取調べ(調書完成)。初めて入浴。差入れの金でうどんを食べた。
●24日(木)検事取調べ(調書完成)。差入(他の2人から柿をもらう)。
●25日(金)取調べなし。小山君差入れ。弁護士接見(パン差入れ)。
●26日(土)取調べなし。小山君差入れ。赤堀氏(末松太平関連)差入れ。4時15分頃・小嶋氏と面通し。18時釈放。

※バカな話だが 自分が留置されている警察署の場所を知らなかった。釈放された後(帰宅方法が判らず)武蔵野署に引き返して「最寄りの駅までの道を教えて下さい」と訊ねてしまった。

 

※11月18日(金)。
夜9時頃、合言葉(公職選挙法違反のビラ配布なのでヤバイ場合に備えて合言葉を決めていた)を聞き逃げる。ワゴン車の後部座席で移動していたので、方角や場所など皆目見当がつかず適当に歩くしかない。警官やパトカーの横を(鼻歌まじりで)そしらぬ顔で通過。何度かパトカーと出会いながらも運良く「終点らしきバス停」に到達できたのだが、一瞬の差で最終バスに乗り遅れる。シマッタと思った途端に 職務質問にあう。(派出所巡査とのヤリトリ、刑事とのヤリトリの部分は長くなるので割愛)
結局黙秘のまま(但し職務質問の祭に住所氏名学校などは話している)留置場送り。既に深夜2時過ぎであり、留置場の住人は高イビキ。そこで身体検査をされ問題のビラが発見される。79枚。疲れ切っていたので、初めてのブタ箱入りの感想を考える間もなく眠ってしまった。
※所有していたモノ=留置場に預けることになったモノ(刑事取調とは無関係らしかった)
問題のビラ79枚。チラシ「総評・号外」。浅沼稲次郎氏の葬儀プログラム。ゴムの指サック(チラシ配布用)・定期入れ(定期券・身分証明書2枚《東京学芸大学・政経新論社》・小嶋君の名刺・メモ類・現金約2千円)

※11月19日(土)。
「起床」の声でたたき起こされる。かくして単調な生活のスタート。午前中、刑事取調。姓名、住所、学校、家族、etc、自分のことについては全部答えるが《事件》のことは一切しゃべらず。ビラが刑事の手元にまだ届いておらず、今村・佐藤から押収したビラの束を示して「君のはどうした」と訊かれるが、捨てたと思わせておく。
今村・佐藤は既にパトカーでどこかへ連れていかれた様子だったが、やがて僕も桜堤団地に連れていかれる。一度手錠をかけられ立腹したが、すぐに取りやめてくれる。ベルトを取られているのでズボンが気になってこまる。(注★この時代の学生ズボンは腰回りが太かった)
(桜堤団地での現場検証部分は割愛。初めての場所で夜だったので判らないと繰り返す)午後、森井係長より調書をとられる。ビラを押収される。例によって自分の考えなどは話したが《事件》のことは黙秘権。森井係長がしまいには怒って「黙っているのを見るとキミが首領だろ」等とカマをかけるが沈黙。キミの将来にキズがついてもよいのかと脅すので、いいですと答えたら「そんなら覚悟しておけ」と言って取調べは終了。
指紋と写真をとられる。これで罪人の仲間入り?。万一逮捕されたときの対応を、事前に教えてもらわなかったので、何を喋ったらいいのか全く判らず、黙秘するより他はない。いらいらして食欲ゼロ。三食とも向かい側の第3房にいるチンピラに進呈。一日中考えていたら、第3房のチンピラが慰めてくれた。
この日の夕方か20日か定かではないが、第3房のチンピラと第6房のチンピラが騒いでいる間に、佐藤(第4房)から「午後6時半、三鷹駅北口」との連絡がある。これを基にして今後はデタラメを組み立てれば良いのだなと思い、少し安心する。

※11月20日(日)。
身柄送検される。8時過ぎ、5人(我々とチンピラ2人)手錠をかけられ、数珠繋ぎされた護送車でいろいろな警察署をまわり、数珠繋ぎ の人数を増やしながら八王子の地検に向かう。\護送車内はまるっきり不快でありミジメ。車外の風景を見てもちっとも面白くない。
地検の同行室でも手錠はかけたまま。トイレに行っても食事の時も外してくれない。非常に腹が立つ。検事の前でも手錠のまま。帰路もミジメ。護送の看守諸氏のゴウマンな態度が、シャクに障って仕方がない。
この日は選挙の投票日。朝、留置場の係長に呼び出され、本日の選挙に棄権する旨の申告書(?)を書かされる。どうしても投票したい場合はどうするのかと質問。投票所(私の場合は千葉市)に手錠のままで電車往復との返答。生まれて初めての選挙権を棒に振るのは癪に障るが、表面上は達観したように素直にしている。
(途中省略)夜8時から朝6時まで、10時間も寝ていられるものではない。まして(板の間に)僅か7枚の薄汚い毛布と粗末な枕で作る寝床では、背中がゴツゴツして寒々とした感じで安眠はできぬ。朝、6時に起こされると、自分の寝具を畳む。看守が鍵を開けてくれると、布団部屋にしまいに行き、顔を洗い、再び自分の房に戻る。直ぐに鍵がかけられ、しばらくすると狭い窓口から箒と雑巾が差し込まれるので、それで自分の房を掃除する。それが終わってから朝飯までの時間が実に長く感じられる。
親しくなった看守氏から聞いた話では(破廉恥犯罪ではない)我々3人は《それなりに優遇》され、寝具の毛布も多めに与えられ、当番制の《便所掃除》も免除されていたらしい。

※11月21日(月)。
今日も八王子へ。同じ建物内の地裁に行く。まったくもって手錠の数珠繋ぎは不快千万。この上ない屈辱感を味わう。いかにも悪者らしく堂々とした連中もいて、そういう連中と一緒に繋がれていると、耐えられない気分になる。ベルトを取られてずり落ちるズボン、ペタンコの草履も惨めさを煽り立てる。
係の大矢根判事が公判中とかで延々4時間も同行室で待たされる。地裁の同行室は、昨日の地検に比べると小さくて椅子も座りいいが、4時間も満足に手も動かせず(手首が痛い)一言も口をきけないのでは、いいかげんまいってしまう。金網の向こうに監視人がイバッた目つきで睨んでいるのも、感じが悪い。途中、どこかのラジオが選挙速報をやっていて、山花秀雄氏が当選したらしいと感じる。
判事から「十日間の拘留を命ず」と言われてガッカリ。調べが全く進んでいないのに釈放されるわけがない。ついでに「接見禁止指令」までくっつけられる。また、しばらくの間、そのまま待たされ、暗くなってから武蔵野署に戻る。帰途も愉快ではない。
今永弁護士が来ていて、金網で隔てられたチッポケナ部屋に行って、ひとりずつ10分間の会見。弁護士は接見禁止令の対象にならない。
盗聴の恐れがあると言うので、今までの自白内容を話しただけ。真面目な顔して「盗聴の恐れ」などと言う弁護士には、いささか失望。。
昨日の千円(差入れ)で洗面道具を購入。ようやく歯が磨けて、少しサッパリした。寒いので時々房内をグルグル歩くことにする。
今までは何も持たせてくれなかったが、今日から「接見禁止指令書」2枚と「弁護士の名刺」を持っていられる。こんなものでも、所持品があるのは嬉しい。活字に飢えていたので、こんなものでも読んでいると楽しい。時々ポケットから出して《文字》を眺めている。

※11月22日(火)。
刑事取調。初めて罪状自認し、自白する。といっても「三鷹駅北口・6時半」という口裏合せを基にした《創作台本》のようなもの。
しかし、創作台本に「小嶋」という実名登場という、最大のミステイク。すぐに刑事が学校に「小嶋」を探しに行くための支度を始めたので、内心青くなる。
運動時間は3人別々。久しぶりの青空、空気が旨い。久しぶりに身体を動かしたら、やっと身体が快調に戻る。運動しながら、看守氏と雑談少々。山花秀雄氏の最高点当選を知る。
差入れがある。「荒川節子」という名前を見たら、とても懐かしい気がした。差し入れの用紙に受け取ったしるしの《印》を押すとき、孤独感から僅かなりとも解放される。4時頃、父からの差入れ。父の字が非常な慰めとなり、かつ力づけともなる。但し、変なことをしゃべって、自白内容と食い違ってしまったら困るので、いささか気がかり。もう来ない方がいいなとも思う。夕食の時、看守が大福を添えてくれた。父からの差入れ。ガブリとやったら、涙が出てきた。瞬間、センチになった。
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※11月23日以降については、白紙のまま。
※11月26日に「小嶋クン」が逮捕され、末松と佐藤は釈放された。
もうひとりは頑張り続けて、釈放まで数日を要した。
最終的には「小嶋クン」も起訴猶予で済んだようだが、やがて「東大中退オルグ」の役割を終えて、クラスから姿を消した。(末松)
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