◎2020年4月17日(金)。
※昨日 安倍晋三首相は 新型コロナウイルス対応の特別措置法に基づき「緊急事態宣言」の対象区域を全国に拡大した。
そして今日 末松太平の長男は80歳の誕生日。僅か1日の違いだが 昨日(70代)と今日(80代)では意識が変わってくる。
そして「80歳の末松太平」と比較してみたくなる。
※末松太平は78歳の夏(1984年8月)に慶応病院に入院。網膜剥離の手術を受けている。
この頃のことを 池田俊彦氏が自著(文藝春秋刊「生きている二・二六」の中で記している。
「60年(1985年)に入って、手記を書きながら、様々な問題にぶつかった。私は自分の考えを整理するためにも、先輩である末松太平氏の話を聞くことを思い立った。4月半ば、千葉の末松宅を訪れた私は、昼から晩までゆっくり末松さんと話すことができた。末松さんは網膜剥離という難病に罹り、二度の大手術を受けて、視力が著しく衰え、天眼鏡でしか本を読むことが出来ない状態だった。それにも拘わらず、十月事件当時の話や、対馬中尉のこと、西田税のこと、大岸頼好のこと、そして戦後の旧軍人の動きなど、熱心な話は尽きることが無かった」
※そして 雑誌「史」に《二・二六事件断章》を連載開始したのは 82歳(1988年4月号)になってからのことになる。
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◎今泉サンの質問「末松太平が法要から姿を消したのは何故?」への考察。その後編。
※画像参照。賢崇寺の法要風景(撮影日は不詳)。末松太平は何故か《関係者席》でなく《一般者席》に坐っている。
さて 末松太平に何が起こったのか。前回と同様に「末松太平の日記」を辿ってみよう。
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※1980年2月26日。
「2・26法要。参会者代表として話をせよと小早川君がいうから、KDD社長室長佐藤陽一に北一輝の改造法案を講義したことについて話す」
「初版『軍隊と戦後の中で』が200数冊届けられる。寄贈のための署名を書き始める。こちらの好意がどれほど相手に反応するやら」
※1980年7月12日。
「2・26法要で賢崇寺に行く。寺からの帰途、黒沢元晴君、金子元憲兵と六本木の喫茶店で長談義となり、帰宅は8時頃になる。エントロピーの話をしたら、二人から大いに興味を持たれた」
※1980年7月16日。
「四元義隆氏と40余年ぶりに会う。池田俊彦君同席。銀座の竹葉亭で御馳走になる。茶室しつらえの凝った料亭である。但し、高価につくだろうと思い、しっくりしない。勿体ないのである。この日、鈴木善幸総裁になる。鈴木内閣の閣僚に竹内黎一も下馬評にのぼっているようである。この方もしっくりしない」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
★1981年の日記。行方不明。
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※1982年2月24日。
「うすく雪が降っていたが、すぐ解けた。少し寒さが戻る。来栖静馬の息子さんが明日来訪したいと電話あり。郵便物を出すついでに1000m位散歩するのだが、足許がおぼつかない。仲義の葬式に行ってこの方、この現象が起こっている。脚力減退。何とか回復しなければ。賢崇寺行きは無理のようだ。欠席にしよう」
末松仲義は実弟。葬式は1月12日に北九州市門司区(末松太平の故郷)で行われた。
※1982年2月26日。
「2・26の法要があるが遠出は体に悪いから欠席する。欠席は絶えてないことだから噂になるだろう。今朝の毎日新聞に『核廃絶 大きな輪に』という見出しで文学者、音楽家、美術家ら連帯しようとしている記事があり、その中心人物に中野孝次氏の名前が見える」
※1982年7月12日。
「今から46年前の今日、彼らは銃殺された。賢崇寺の法要は欠席する。体調上無理と判断」
※1982年7月22日。
「北島弘君見舞いに来る。いろいろ秘めた疑問があるようだ。2・26、7・12、両度の法要に僕が出席しなかったので案じて来てくれた。多数の中の唯一人である。有難し」
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※1983年1月31日。
「河野司氏よりの葉書によれば、小早川秀浩君が1月22日に死んだとのこと」
※1983年2月26日。
「天気は大変よい。が、2・26法要は欠席。体の調子がよくても、もう出席しない方がよいかも知れない。河野司氏より同氏著『二・二六事件秘話』を送ってくる。実川義昭氏来訪。市会議員選挙がらみ」
※1983年7月12日。
「2・26の法要。但し欠席」
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※1984年2月26日。
「2・26は2・26に語らせよ だが2・26に口なく 語るのは人間である。本当よりも嘘の多い 歴史というものも 人生というものも 大抵がそうだ 無駄が多いね。
朝来よりの雨。雪混じる。東京は完全に雪のようだ。賢崇寺は今回も欠席。渋川、西田、村中さんらのことを思い、心痛む。渋川に、先に行っておれ、の言葉を平石看守に託したが、もう随分先に行ってしまって、今から追いかけても、追いつくのに大変だな」
※眼の悪化が進んで 日記帳の文字も乱れている。3月9日付には「目がちっともよくならない。新聞も読めない。本など読んでも仕方ないよという啓示かも知れない」という記述もある。
※眼の悪化は急激に進み 3月17日付では《日記帳の横線》も判断できなくなって 書き殴り状態になっている。そして 3月25日以降の日記帳は白紙のままになる。
《7月12日》には もはや外出どころではない状況だったと思われる。そして8月 慶応大学病院で手術を受けることになる。
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※1985年。もはや日記帳の日付に関係なく 思いつくままに記している。
「菅波三郎さん死す。われ一人残る。正に残生である」(2・12)
「鳥籠の小鳥と同じ時を生く 2・26涙の50年」「まだ駄目と エンマの庁から戻される」
「長生きするのはよいけれど、それに比例して思い出が重なる。この重圧に耐えられるかどうか。過去を忘れればよいのだが、うまくいきそうにない」「渋川善助が悲し 立春の夢」
「2・26 50周年という。時計は止まり、針は落ちる・・・では困る」(2・26)
「中央公論3月号に、河野、高橋、沢地3氏の鼎談が載っている。買っても読めず、徒らにちり紙交換の餌食になっても仕方ないから買わない。読めないから」
「古賀不二人さんから心配の便りくる。賢崇寺の欠席、年賀状の欠礼」
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※1986年。思いつくままの記述。
「新井勲君の未亡人より『日本を震撼させた四日間』の文芸文庫版を寄贈される」
「2・26 50年。天皇在位 60年。2・26を供養し 天皇在位を祝す」
「4・29 天皇誕生日、おれの出獄記念日、義父母の法要の日、天皇在位60年を祝う日」
「ある朝は 毛布たたみつつ 亡友を恋う」「毛布たたみて殺される 天皇万歳を絶叫しつつ」
「伊勢新聞社長・小林正雄氏、相沢正彦君の案内で来訪」(11・20)
・・・相沢正彦氏=相沢三郎中佐の長男。末松太平を《オジサマ》と呼んで慕ってくれていた。末松太平の死後は 長男同士の親交が始まる。
蛇足ながら 後日 末松太平の墓参をした《2・26関係者》は相沢正彦氏ひとりだけであり 相沢正彦氏の葬儀に参列した《2・26関係者》は私ひとりであった。
「桃栗三年 柿八年 馬鹿な柚子は十三年 俺は八十一 未だ実がならぬ 何時まで経っても実はならぬ」
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※1987年。思いつくままの記述。
「亀屋万年堂の菓子持ちて 陸軍歩兵二等兵村上宗縁参りましたと 村上君来たる。2・26の時の入隊兵で、名前も顔もおぼえぬ間に引き離された部下である。友の遠方より来たる有り、また楽しからずや。50年の遠方より来た部下であり、友である」
「間違えて 吸い取り紙に 絵を描いた」
「銃殺の日 我れ生きてあり 82(7・12)」
「乃公出でずんばも 今は空し 銃殺の日よ(7・12)」
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◎依然として《今泉サンの疑問》は未解決のままである。ある日突然《関係者席》を去った理由が判らない。
※1980年までは出席 1982年以降は欠席。その間の事情は《1981年の日記》に記されているような気がするのだが・・・・さて。 (末松)
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※昨日 安倍晋三首相は 新型コロナウイルス対応の特別措置法に基づき「緊急事態宣言」の対象区域を全国に拡大した。
そして今日 末松太平の長男は80歳の誕生日。僅か1日の違いだが 昨日(70代)と今日(80代)では意識が変わってくる。
そして「80歳の末松太平」と比較してみたくなる。
※末松太平は78歳の夏(1984年8月)に慶応病院に入院。網膜剥離の手術を受けている。
この頃のことを 池田俊彦氏が自著(文藝春秋刊「生きている二・二六」の中で記している。
「60年(1985年)に入って、手記を書きながら、様々な問題にぶつかった。私は自分の考えを整理するためにも、先輩である末松太平氏の話を聞くことを思い立った。4月半ば、千葉の末松宅を訪れた私は、昼から晩までゆっくり末松さんと話すことができた。末松さんは網膜剥離という難病に罹り、二度の大手術を受けて、視力が著しく衰え、天眼鏡でしか本を読むことが出来ない状態だった。それにも拘わらず、十月事件当時の話や、対馬中尉のこと、西田税のこと、大岸頼好のこと、そして戦後の旧軍人の動きなど、熱心な話は尽きることが無かった」
※そして 雑誌「史」に《二・二六事件断章》を連載開始したのは 82歳(1988年4月号)になってからのことになる。
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◎今泉サンの質問「末松太平が法要から姿を消したのは何故?」への考察。その後編。
※画像参照。賢崇寺の法要風景(撮影日は不詳)。末松太平は何故か《関係者席》でなく《一般者席》に坐っている。
さて 末松太平に何が起こったのか。前回と同様に「末松太平の日記」を辿ってみよう。
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※1980年2月26日。
「2・26法要。参会者代表として話をせよと小早川君がいうから、KDD社長室長佐藤陽一に北一輝の改造法案を講義したことについて話す」
「初版『軍隊と戦後の中で』が200数冊届けられる。寄贈のための署名を書き始める。こちらの好意がどれほど相手に反応するやら」
※1980年7月12日。
「2・26法要で賢崇寺に行く。寺からの帰途、黒沢元晴君、金子元憲兵と六本木の喫茶店で長談義となり、帰宅は8時頃になる。エントロピーの話をしたら、二人から大いに興味を持たれた」
※1980年7月16日。
「四元義隆氏と40余年ぶりに会う。池田俊彦君同席。銀座の竹葉亭で御馳走になる。茶室しつらえの凝った料亭である。但し、高価につくだろうと思い、しっくりしない。勿体ないのである。この日、鈴木善幸総裁になる。鈴木内閣の閣僚に竹内黎一も下馬評にのぼっているようである。この方もしっくりしない」
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★1981年の日記。行方不明。
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※1982年2月24日。
「うすく雪が降っていたが、すぐ解けた。少し寒さが戻る。来栖静馬の息子さんが明日来訪したいと電話あり。郵便物を出すついでに1000m位散歩するのだが、足許がおぼつかない。仲義の葬式に行ってこの方、この現象が起こっている。脚力減退。何とか回復しなければ。賢崇寺行きは無理のようだ。欠席にしよう」
末松仲義は実弟。葬式は1月12日に北九州市門司区(末松太平の故郷)で行われた。
※1982年2月26日。
「2・26の法要があるが遠出は体に悪いから欠席する。欠席は絶えてないことだから噂になるだろう。今朝の毎日新聞に『核廃絶 大きな輪に』という見出しで文学者、音楽家、美術家ら連帯しようとしている記事があり、その中心人物に中野孝次氏の名前が見える」
※1982年7月12日。
「今から46年前の今日、彼らは銃殺された。賢崇寺の法要は欠席する。体調上無理と判断」
※1982年7月22日。
「北島弘君見舞いに来る。いろいろ秘めた疑問があるようだ。2・26、7・12、両度の法要に僕が出席しなかったので案じて来てくれた。多数の中の唯一人である。有難し」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
※1983年1月31日。
「河野司氏よりの葉書によれば、小早川秀浩君が1月22日に死んだとのこと」
※1983年2月26日。
「天気は大変よい。が、2・26法要は欠席。体の調子がよくても、もう出席しない方がよいかも知れない。河野司氏より同氏著『二・二六事件秘話』を送ってくる。実川義昭氏来訪。市会議員選挙がらみ」
※1983年7月12日。
「2・26の法要。但し欠席」
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※1984年2月26日。
「2・26は2・26に語らせよ だが2・26に口なく 語るのは人間である。本当よりも嘘の多い 歴史というものも 人生というものも 大抵がそうだ 無駄が多いね。
朝来よりの雨。雪混じる。東京は完全に雪のようだ。賢崇寺は今回も欠席。渋川、西田、村中さんらのことを思い、心痛む。渋川に、先に行っておれ、の言葉を平石看守に託したが、もう随分先に行ってしまって、今から追いかけても、追いつくのに大変だな」
※眼の悪化が進んで 日記帳の文字も乱れている。3月9日付には「目がちっともよくならない。新聞も読めない。本など読んでも仕方ないよという啓示かも知れない」という記述もある。
※眼の悪化は急激に進み 3月17日付では《日記帳の横線》も判断できなくなって 書き殴り状態になっている。そして 3月25日以降の日記帳は白紙のままになる。
《7月12日》には もはや外出どころではない状況だったと思われる。そして8月 慶応大学病院で手術を受けることになる。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
※1985年。もはや日記帳の日付に関係なく 思いつくままに記している。
「菅波三郎さん死す。われ一人残る。正に残生である」(2・12)
「鳥籠の小鳥と同じ時を生く 2・26涙の50年」「まだ駄目と エンマの庁から戻される」
「長生きするのはよいけれど、それに比例して思い出が重なる。この重圧に耐えられるかどうか。過去を忘れればよいのだが、うまくいきそうにない」「渋川善助が悲し 立春の夢」
「2・26 50周年という。時計は止まり、針は落ちる・・・では困る」(2・26)
「中央公論3月号に、河野、高橋、沢地3氏の鼎談が載っている。買っても読めず、徒らにちり紙交換の餌食になっても仕方ないから買わない。読めないから」
「古賀不二人さんから心配の便りくる。賢崇寺の欠席、年賀状の欠礼」
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※1986年。思いつくままの記述。
「新井勲君の未亡人より『日本を震撼させた四日間』の文芸文庫版を寄贈される」
「2・26 50年。天皇在位 60年。2・26を供養し 天皇在位を祝す」
「4・29 天皇誕生日、おれの出獄記念日、義父母の法要の日、天皇在位60年を祝う日」
「ある朝は 毛布たたみつつ 亡友を恋う」「毛布たたみて殺される 天皇万歳を絶叫しつつ」
「伊勢新聞社長・小林正雄氏、相沢正彦君の案内で来訪」(11・20)
・・・相沢正彦氏=相沢三郎中佐の長男。末松太平を《オジサマ》と呼んで慕ってくれていた。末松太平の死後は 長男同士の親交が始まる。
蛇足ながら 後日 末松太平の墓参をした《2・26関係者》は相沢正彦氏ひとりだけであり 相沢正彦氏の葬儀に参列した《2・26関係者》は私ひとりであった。
「桃栗三年 柿八年 馬鹿な柚子は十三年 俺は八十一 未だ実がならぬ 何時まで経っても実はならぬ」
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※1987年。思いつくままの記述。
「亀屋万年堂の菓子持ちて 陸軍歩兵二等兵村上宗縁参りましたと 村上君来たる。2・26の時の入隊兵で、名前も顔もおぼえぬ間に引き離された部下である。友の遠方より来たる有り、また楽しからずや。50年の遠方より来た部下であり、友である」
「間違えて 吸い取り紙に 絵を描いた」
「銃殺の日 我れ生きてあり 82(7・12)」
「乃公出でずんばも 今は空し 銃殺の日よ(7・12)」
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◎依然として《今泉サンの疑問》は未解決のままである。ある日突然《関係者席》を去った理由が判らない。
※1980年までは出席 1982年以降は欠席。その間の事情は《1981年の日記》に記されているような気がするのだが・・・・さて。 (末松)
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