山岳信仰

私は何の為に山に登っているのだろう。1000座の山を登り、無い知識を絞って考える。私個人宗教にかぶれているわけではない。どちらかと言えば妻が亡くなったあと、仏式の葬儀を済ませた。先祖からの宗派でお坊さんを呼び、葬儀と3回忌をやり、お経について関心を持った。毎日妻の仏壇でお経も読むようになった。一番の供養になるとされている。山頂に何時も妻の写真を携え、余裕があればお経を読む。山には霊魂が集まり、神聖な場所でもある。妻に会えるのかもしれないと。山行の数が増える事でウクライナの悲劇をしずめていただきたいと祈ることもある。プーチンという鬼を鎮めたいとも思う。広い意味で世界への平和を望むようになった。どこの宗教でもいいのである。大日如来、キリスト、アラーの神でも。我々人類として人を愛し、排他的な感情を持たず、人々の気持ちを受け入れる寛容さが必要なのではないだろうか。~さて話は山岳信仰である。先日、栃木の三峰山を登った。麓に御岳山(おんたけさん)神社があり、手を合わせて来た。この地は空海(真言宗)が開山されたと伝えられている。なぜ神社なのだろうかと。今の日本は神仏分離という不条理な状況が続いている。明治政府のブレーンに国学者平田篤胤がいた。飛鳥時代前の日本神道つまり復古神道を唱える過激な人物である。政府内で時間をかけ、慎重に進める重大な法律をいとも簡単に神仏分離政策をとったのである。聖徳太子から始まった神仏習合政策は続く天皇たちの努力によりお寺が数多く創建され、本地垂迹(神仏合体)の思想のもと、宇佐神宮、伊勢神宮、二荒山神宮などの神宮寺が出来上がる。これは日本独特な宗教観で世界にない平和的な宗教思想である。平和を念頭に置いた人類たぐいまれな国(日本人)である。他国と違い宗教戦争などはない。もちろん権力闘争による戦はあった。他国を支配するという(太平洋戦争)一部過激な人物たちには日本独特の宗教心が無かったのだろう。戦後になっても政教分離の考えは良いとしても、天皇家の信教の自由はない。今の天皇家は今までの天皇の位牌(泉湧寺)すら拝められないのは無知な政治家の多いせいだろう。どうにかかつての天皇家が進めた神仏習合にならいたいものである。~今の山岳信仰は神を祀っている。私には仏教、儒教と道教が入り混じっているように感じている。特に道教の思想には自然の山を重きに置いている。山の神に使える仙人。日本の山岳信仰の先達。修行僧(山伏、修験者)たちと相通じるところがあるのかな。卑弥呼時代前の人々の暮らしには、山の神を信じて、生活の安寧を感謝し、山を尊んでいたのだと思う。それこそ古来の神様である。地域地域のそれぞれの山の神がいたのである。我々一人一人が自然に崇敬の気持ちと、隣人を愛し、助け合い、先達、先人たちに感謝する心を持ち続けたい。山岳信仰は密教(山岳仏教)と強く結ばれている、修験道の行者で在家である。新時代の行者に私は取り組むことにしよう。

 

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
« エリザベス英... 悟りを開く »
 
コメント
 
コメントはありません。
コメントを投稿する
 
名前
タイトル
URL
コメント
コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。