悟りを開く

山を歩き悟りを開くときが訪れるのだろうか。山の頂上に辿り着くと、神様への感謝も忘れ、景色に奪われ(感動を含め)、それで終わる。自分には心の修行が皆無なのであろう。初めての山に登る時、ルートを外れず、安全に心がけ、周囲の状況を確認するだけで精一杯である。特に獣道とか人の踏みあとが気になり、どちらを進むのかその判断はおのれ自信が決断する。これは経験者だから自分の未踏の山へ挑戦する喜びでもあるのだが。山頂への道のりが楽しみなのである。それゆえ、山頂での行動に自然を畏敬し、感謝する気持ちのゆとりが足りないのだ。ひとつ、いいことがある。単調に歩いていると色々な発想やイメージが浮かぶ。その時は何と素晴らしい「発想」だと我ながら感心する。だが下山してみるとすっかり忘れている。記憶し、心のどこかに仕舞って置ける場所(仮置き)がないのか、年齢によるものか記憶低下しているのかもしれない。振り返るとトイレの中とか、就寝中に目がさえ、考えるときがある。もちろん山中で歩いている時も。心の安寧する場所、空間なのである。良い発想はメモでもすればよいのだが、面倒でもあり、自身天邪鬼の性格でもある。~随分本題から外れてしまった。ひとり静寂な所で生命とか、宇宙とか、考えることがある。そして疑問もたくさん出てくる。そして疑問を解き明かす為に色々と調べる。だがそのことについて学問をしなければわからい部分も出てくる。そういう学問をする機会を得たいのであるが。今は食うだけが精一杯でもあり、贅沢なことは諦めた方がよいのかも !悟りを得ることとは、諦める事。なのかもしれない。「今」を一生懸命(感謝と思考すること)歩むことである。

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