今日は月曜日であるから、県立図書館が休みである。だから、赤坂憲雄先生の本を借りることができない。
せっせと電車に乗り継いで大学図書館から借りた。そしてそれをずっと読み続けながら、カード取りをしている。ありがたいものである。しかも、今日は、赤坂憲雄先生の書籍に、柳田国男への批判があるという紹介があって、それも二系統あることを初めて知った。
ある種のイデオロギーを基盤とした批判である。そういえば、ボクと同世代で、70年安保で騒いでいた学生運動家が、転向の果てに柳田学にのめり込んでいったのがいることを思い出した。ある種の階級闘争的イデオロギーを持ったものには、ひかれるものがあるのだろう。赤坂先生は別である。
政治嫌いのボクには、これ以上ふれる資格はない。もっとも、政治が嫌いになったのは、中立性を求められる職業についていたからかもしれない。
このことは、宗教についても発言を禁じられていたようなものである。当然、退職後に農民芸能と宗教というテーマで、いろいろと雑文書きをすることは現職中は不可能であったに違いない。仕事を辞めてまで、それをやることはできなかったし、むろんそれだけの大風呂敷を広げる才能も資質も自信もなかったからである。あ、むろん今でもまったくないけれども。
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それにつけても、柳田国男について、知ったような気になっていたことを恥じる。定本柳田国男集と柳田国男全集の違いもわからなかったことを正直に書いておいて、これからのボクの戒めとしたい。
むろんこのことは文字が違うという意味ではない。内容が違っているからである。イデオロギー的にも。
赤坂憲雄先生のちょっと不思議な暗さが、ボクを引きつける。東北芸術工科大学という我がふるさとの大学の先生でもあられる。東北学という学問もやっておられる。碩学である。たいしたものである。これから大いに勉強させていただくつもりである。
このようななんとなく引かれる、不思議な魅力というものは、けっして疎かにできない感情であると思う。決して、文字文化だけであるいは資料だけで追求できない魅力もボクのやっている民俗芸能という分野にはあるからである。いろいろと伝承されている庶民の芸能には、資料だけで伝わらない感覚の世界があるのである。
声一つとってもそうである。声を無視してはならないと思う。
たとえば、寺院でお経を参列者と読経しているときの、あの荘厳なる体験は得も言われぬコスモロジーを表象している。たまらない魅力である。宗派はなんでもいい。一致して読経をしているときに得られる感覚をもって、ボクは民衆芸能の基盤として考えていきたい。
あれは西洋音楽をやられる方も同様であると思っている。コスモロジーというものがあるからやれるのであろうと思っている。独自に、それぞれにである。
琵琶法師の平家物語を聴いていても同様である。あの独特の世界観は、それぞれのコスモロジーを表しているのである。
歌謡曲もそうである。誰でもいいから、なんとかという歌手を好きになるのは、その歌手の持っているコスモロジーを共有したいからなのであると思う。
そのあたりを考えていないと、あまりに煩瑣な分析をもってして、学問的であるという道に迷い込むのであるとボクは思っている。あるいは知識の量を誇るだけというマチガイを犯すことになる。
戒めである。自分自身への。