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伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

挙家離村のムラ“高地”へ②

2016-06-19 23:11:17 | 民俗学

挙家離村のムラ“高地”へ①より

 午前中は3人の方々より課題提供の発表があった。

 土田拓氏は北海道生まれで、近代の開拓村を調べてきたといい、2年ほど島根県飯南町で地域づくりの仕事をしてきたという。長野県に来てまだ1年余という土田氏は「農村における集落の限界化と民俗のかかわり」と題して発表された。暮らしの場が解体されゆく現状や、そこに積み重ねられてきた生活の知恵や技術、文化のこれからについて、考える糸口を目の前の消滅集落から探ってみるというものである。農山村の姿が変革するなか、民俗学ができることがないのか、という模索でもある。

 限界集落が多い中山間地域において起きているのは、三つの空洞化と言われている。そのひとつは「人」の空洞化であり、人口流出にあたる。二つ目は「土地」の空洞化であり、土地の荒廃を経て自治力の低下が起き、「ムラ」の空洞化へと進んでいる。そして三つ目が「誇り」の空洞化であり、地域の誇りを失いつつある。こうしたなか、実践的な動きと現状を捉えようとする二つの動きが起きており、前者は地元学で、後者は民俗学による動きだと土田氏は言う。地元学は地元の方々から話をうかがって絵図にまとめ、良いところを探すというもの。また民俗学では農山村において人々がどのように現実に対応したのか、そして暮らしがどう変わったのかというところを見ようとするものがある。土田氏は民俗学における視点から、各ムラの固有の生活誌とか民俗というものが、集落の限界化の過程で一定の地域性をもたらしているのではないかと言う。

 土田氏はまず、限界化する際の耕作放棄地に焦点をあて、どこから耕作放棄地になり、どこは耕作が続けられたのかという視点で調査をしてみたという。北安曇から上水内にかけては、近代において麻の主要な産地であった。その理由は風害が少ない地形、雨が少ないとか排水性、冬場の気象環境などがかかわったと言われるとともに、養蚕よりも麻栽培が有利だった環境にあるとも言う。戦後衰退するなかで、最後まで麻栽培が継続されたのが旧美麻村で、昭和40年代まで続けられたという。美麻では家に近いところにアソウ(麻畑)があったようで、それは畑の一等地でもあったと言われる。上質な麻を育てるために土地も肥えていたといい、家に近いことから運搬上のメリットもあった。また乾燥させた麻の表皮を剥ぐための煮る作業において、水に近い、水源に近いということから家に近いという環境がアソウの位置を定める要因にもなった。しかるに「価値の高い畑」=アソウとなったわけである。こうした一等地は麻がダメになると、ホップや葉たばこといった換金作物が作られるようになる。換金作物という観点から、こうした土地は耕作を継続するための要件にもなったのだろう。このほか水田に対する稀少意識は高く、最後まで耕作が継続された土地となった。

 次に耕作放棄地からさらに進んだ状況としての「離村」において、暮らしはどう変わるのか。事例として小谷村戸土(とど)をあげられた。長野県内から海が見える唯一の集落と言われる土戸である。昭和46年に緊急民俗調査が行われており、当時すでに2戸しか残っていなかったという。越後側との関係が強く、労働交換も越後側と行っていた。もちろん婚姻関係も越後側とのものが多く、離村していった先は糸魚川方面だったという。ようは離村の際にはそれまでのかかわりが影響するというわけだ。同じことは美麻村でも聞くことができるという。そして離村後においては、元のムラに戻って農作業をする、あるいは神社の管理をするということが継続されていく。

 そして、今回の巡検先でもある旧美麻村高地(一般に「コウチ」と呼んでいるが、本来は「タカチ」だという)の事例に「離村」のひとつのカタチを見ることになる。高地は明治5年に110戸、大正15年に99戸、昭和9年に95戸と緩やかな減少を見せたものの、ほぼ100戸ほどの集落を保っていたが、昭和52年に3戸、昭和55年には住民ゼロとなった。高地は急傾斜地の畑を耕作して生計を立てており、冬は薪、麻の加工などを行ってきたムラである。転出の理由は山村にあっても時代に応じた文化的生活をしたい、あるいは子どもの教育を伸ばしてあげたいというものがあったという。収入も少なく、交通の便が悪いという山間地特有の理由でもあった。こうした意識は隣近所の将来の課題として持ち上がっていたともいう。高地からみれば距離的には信級が近く、婚姻関係も、そして生活上の行き来もあったというが、その転出先は県内が3戸、村内が1戸、松川村7戸、池田町1戸で、残りの70戸ほどが大町市であった。その選択理由は、職場が近かったり、麻の出荷先が大町だったことも関係している。いっぽう高地にあった神社は大町市の王子神社に移転祭祀されており、現在も祭典が続けられている。また、移転後も年代の新しい石造物がかつてのムラ内に造立されていたりする。同様に廃村となった小谷村真木においても、徒歩でなければかつてのムラには入れないものの、かつての家屋敷が管理されて維持されているという。真木や高地の現状から見えるのは、廃村になっても人々はかつてのムラを忘れることなく何らかの活動を続けていることであり、「限界集落」と一言でくくれないそれぞれの姿が見えてくる。経済的視線だけでは見えないものを掬い上げ、丁寧に見ていくことが必要ではないかと土田氏は説かれた。

続く


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