Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

個人と、組織と

2015-03-11 23:25:42 | ひとから学ぶ

 人事異動の季節である。こんな話も10年以上記している日記には何度も記してきたことなのだろう。あらためて紐解いてみると、リンクをあえて貼らないが、5年前の同じころ異動の内示に対して記している。一大決心があっての綴りである。当時担当していた業務のこと、そしてお客さんに対してどうあるべきかを会社の視点と天秤にかけて、もしもの時のために決心をしていた。わたしの思うところとなって、今もってこの会社にお世話になっている。希望通りにしていただいた人事担当の方には感謝しているところであるが、あらためて自分が会社としての視線で人事をみたとき、果たしてそれだけで良かったのかについて考えさせられているところだ。

 収支が合わなくなって会社が厳しい状態に陥ったころから、我が社の人事は比較的社員の希望に沿うような傾向を強めた。わたしに言わせれば、かつての心配は嘘のように、希望が比較的通る。もちろんひとと人の交流であるから、変わるべき居場所がなければ希望通りにゆかないのは仕方のないこと。したがって、いまだ「希望通りではない」と思う人も数多いかもしれない。しかしわたしから見るとかつてとはまったく違うと断言できる。いや、かつてまだ二十歳そこそこのころ、異動の内示を部署のトップから打診されて断れないかと打ち明けたことがあった。そしてトップはわたしの思いを受け入れてくれて、わたしの個人的理由ではなく、部署として異動を拒否していただいた。ようは部署のトップとまだ会社に入ったばかりの若僧の信頼を確立できていたからこそ可能にした人事である。こうした信頼があれば、「希望通りではない」という意識は生まれないのだろう。故に若いころのわたしは、比較的「希望通り」だったといえる。しかしながら、個人の希望と、会社としての人づくりとは一致しない。

 先ごろ我が社でも内示があった。人員削減が進んで人事が難しくなっていることは容易に想像つく。わたしの部署も3人しかいない。小さな部署にバランスよく人事するのは、社員が同じ能力を持ち得ていないとすれば難しくなる。そもそも人づくりに関わることなのだ。誰を配置しても同じ処理ができるというのなら悩むことはないが、どうしても能力差がある。もちろん日夜励まないと処理できない業務量をこなしている現状では、「この社員は動かされると困る」と思う存在がどこの部署でもいるもの。そんな思いに沿おうとすれば、異動はなおさら限られた人員で行うことになって難しいことになる。もちろんみなの希望を汲んで人事担当に伝えたが、やはり「この社員は」という部分を汲んでもらうと、理想の人事にはならないと内示後の組織を見渡して見えてくる。加えて能力を人事で反映しようと思っていたら、結果的にその埋め合わせができなかったような印象で、疑問が湧く。果たして「これで良かったのか」と。自分の部署を思う余り(これって自分の部署を思ってのことか、それともわたし個人が楽をしたいと思ってのことか、については紙一重かもしれないが)組織全体に悪影響を与えているのではないか、と。いずれどこの部署のトップも自分の部署を優先して考えるから当然のことなのかもしれないが、そんな自分のエゴのために希望を汲んでいたら、結果的に人づくりは二の次になってしまう、ということなのだが、そう思っている人は、もしかしたらいなのかもしれない。だからこそ結果的に正直者がバカをみないために、それぞれが希望することになる。もちろん人事担当は希望は希望として、組織を考えて人事すればよいのだが、そうは簡単にゆかないことも十分承知している。希望通りだったものの、後味すっきりしない思いが巡るその後の日々である。


コメント    この記事についてブログを書く
« 雪“霰” | トップ | 春へ »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ひとから学ぶ」カテゴリの最新記事