前半日程と私の興味を引かれたことと、疑問点をいろいろ書いてみました。
わかる方、教えていただけるとありがたいです。
3/23
人吉→球磨川下りで→一勝地(球磨村)
出立に際しお城では家来の面々に会い、留守中よろしくと話をしています。
また、「青井神社」(現在国宝になってます)に安全祈願に行ってます。
雨のため途中(人吉から10kmほど下流)の一勝地へ上陸。
現代の球磨川下りでもかなりの急流体験ができるところですが、雨が降ればかなり水かさも増して川くだりは相当危険だったと思われます。
3/24
一勝地(雨のため滞在)
一勝地に停留することになったので、お城の家来やご隠居様からの 見舞いの重詰などが運ばれてきます。
3/25
一勝地
ご隠居様や親戚の子供から手紙が来ます。
近隣の村から役人がお見舞いにやってくる。
3/26
一勝地
お見舞いの手紙や品物がどんどん届く。
重詰、塩鮎、あわび、筍など。
3/27
一勝地
雨も上がったもののまだ、水がひかずに滞在が続いている。
退屈を紛らわすためか、家来を敵味方に分けて鉄砲打ちの紅白戦(?)を開催。
どんなものだったのか?
3/28
一勝地→萩原(現八代市)(球磨川下り)
イヨイヨ出発。球磨川を船で下る。途中の村の役人から「串猪壱籠」(いのししの串焼き??)到来。
ご隠居様や親戚の子供からまたまた手紙。
3/29
萩原→(響野原参詣)→川尻 (熊本市)
昼は小川町で休憩。響野原(古戦場)に参詣するので、精進料理にしたらしい。
参詣のときは麻の上下を着用し、花瓶や茶壷など八代で用意したものを献納。
響野原は相良氏にゆかりがあるのかな?
※調べました。
響野原は、現在の熊本県宇城市豊野にある古戦場ですが、戦国時代に、
相良氏当主が甲斐氏と戦い戦死した場所のようです。
相良神社と言うのが残っているようです。
3/30
川尻→山鹿 (熊本県山鹿市)
途中、熊本(熊本で朝鮮飴をもらう)、植木など休憩しながら通過。
4/1
山鹿→羽犬塚(福岡県筑後市)
途中南関、瀬高経由、羽犬塚で 海老・到来 この間歩行。
4/2
羽犬塚→内野(福岡県飯塚市)
この間歩行。冷水峠の山越えがあったので、お供に「大儀であった」とねぎらい。
「供中より大義の詞之礼申出候事」
供からもお礼があったのですね。
言葉だけなのかな? それとも何か振舞われたとか?でも記載がないからやっぱり言葉だけか・・。
4/3
内野→木屋瀬(北九州市八幡西区 こやのせ宿)
途中、飯塚、直方通過。宿で大阪帰りの家来と一緒になる。
4/4
木屋瀬→小倉
途中黒崎通過。小倉の殿様に挨拶の使者を送る。鯛、水飴到来。
当地の船頭にお金と反物をやる (去年の夏に難破船を助けたお礼?)
4/5
小倉→吉田(山口県下関市)
小倉城主の船を借りて関門海峡を渡る。下関、長府通過。
宿から竹の子2本牡丹三枝到来。
吉田には高杉晋作の墓がありますが、このころは7歳の子供です。
4/6
吉田→小郡(山口市)
途中厚狭(あさ)で、太閤秀吉が九州征伐を行った際に拝領したと言う名刀のある酒屋で休憩。
※ところで、小郡(おごおり)は私もよく利用したJRの主要駅だったのですが、今回地図で見たら見つかりません。調べたら、2003年に新山口駅に改名したらしい。こんな個性のない名前に変えなくていいのに。
4/7
小郡→福川(周南市)
小郡に薩州公のお手植えの松があるとのことで見物。宮市(防府市)、戸田(周南市)通過。福川本陣
4/8
福川→高森(岩国市)
徳山、花岡、久保市通過。
4/9
高森→久波(広島県大竹市玖波)
岩国の錦帯橋見物のため回り道。岩国藩吉川家から案内が来る。
錦帯橋を歩いて渡る。松ケ根香一箱干菓子壱台到来。
関戸、小瀬、小瀬川吉川家の船で渡る。
家来四名が厳島参詣したいと申し出たので、許す。
4/10
久波→海田(広島県海田町)
大野通過。雨のため、厳島参詣は中止にしたいと申し出あり。
宮ノ内、廿日市、広島城下、岩鼻通過。
広島の初橋(どこかな~?)から広島城のやぐらの数を数えたらしい。
4/11
海田→本郷(三原市)
上瀬、大山峠で野立、飯田、溜り村、大原、本郷川の橋歩いて渡る。
本郷本陣着。
今日は七十二丁の里数二里。
※この後里数の記載が増えてくるのですが、単位が場所によって違ったのかもしれませんね。
4/12
本郷→今津(福山市)
小葉、大野、三原城下、糸崎八幡、吉和 。
駕籠つきの家来に懐中金二百疋を渡す。中国なので二百疋と記述有り。
意味は??路銀を小分けにして渡していたのだろうか?
尾ノ道本陣で、豊臣秀吉が泊まった座敷を見物する。(どうも秀吉好き?)
七十二丁の一里
※里数についての考察。現在のJRの距離によると、海田市-本郷は55.5キロ。
本郷―松永(今津の最寄)は30.4キロ。
海田→本郷が二里で、本郷→今津が一里というのは妥当ですね。
4/13
今津→七日市(岡山県井原市)
福山城を海側に見ながら通る。大渡り渡船、中津原、神季辺本陣で昼食。 「備後領先拂不出候事」お金のことかな?七日市本陣着。
4/14
七日市→板倉(岡山市吉備津)
掛矢本陣、「先拂出候事」ここでは先払いできたらしい。ここの本陣で「床」が目立っていたので尋ねたら「唐木」とのこたえ。
板倉領五十丁壱里。小瀬村野立、岡山領五十丁壱里七十二丁壱里。川止本陣、伊東領五十丁壱里。川辺川舟渡。備中山手三軒茶屋本陣。備前領先拂相出。板倉本陣
どうも領地によって、里数の基準が違うようですが、岡山領は二種類が混在していたのでしょうか?
4/15
板倉→片上(備前市)
市之宮、三角村、二本松、藤井宿、一市本陣、吉井川、小刀長船祐直到来、加賀戸村、片上駅本陣
備前長船では刀が献上されているようです。名産品だったのですね。
4/16
片上→片嶋 (兵庫県たつの市揖保川町原地区)
三石、赤穂領、有年川渡舟、鶴亀村(相生市)で鶴亀石を見物。片嶋本陣
4/17
片嶋→加古川
猩條川(揖保川)脇坂馳走人渡舟、山田、笹輪峠から姫路城が見えた。
姫路本陣、藤井宿本陣、先拂出、市川馳走舟、加古川馳走舟、加古川本陣
川を渡るときには、地元の領主の出した「馳走舟」で渡ったようですね。
お金を払うのでしょうか?
4/18
加古川→大蔵谷(明石市)
家来に風邪が流行ったため、予定通りの日程では無理だと家来から相談あり。今日はもともと兵庫まで行くはずだったが、大蔵谷までにして、明日兵庫へ行き、あさってから予定通りの日程で動くことになる。風邪のため、長髪の段申出、明石城よりは先拂出
※風邪のために長髪ってどういう意味なのでしょうか??
4/19
大蔵谷→兵庫
垂水、羽箒、今日里数少ニ付昼休無、兵庫本陣。家来次々病気で寝込む。江戸の亀井隠居が亡くなったと知らせが来る。明日は郡山まで行くはずだったが、西宮までにする。あさってから予定通りにする。
----------------------------------
7.21追記
父から、私のギモンについての解説がメールできました。
一勝地の慰鉄砲について
ご推察のとおり家臣たちの狩りの紅白戦です。
この時代一勝地は火薬の原料となる硝石が採れていました。
ここに鉄砲撃場の仮屋があったのです。
もともと鉄砲に縁のある地だったのです。
ちなみに、今は一勝地駅へ各地の運動部から、まず一勝ということでキップの注文があるそうです。
これもご時世・・
響野原
よく調べましたね。
18代義陽が甲斐早運の奇襲により討ち死にしたところなのです。
旧暦12月1日が命日で、この日には今でも相良家の参詣があるそうです。
そのとき球磨川の水を持参されるのか、一度立ち会ってみたいとおもっています。
冷水峠越え
大儀の詞だけでなく、なにがしかのご祝儀があったあったと思います。
これを文献で証明しようとすれば、なかなか大変な作業になります。
里数
度量衝で1里の長さは統一されていたはずで、36丁で1里というのはきまっていたのですが、地方によって以前の慣習が残っていたのかもしれません。
そういうところへ長福公の注意があったというのがおもしろい・・
馳走船
海・川を渡るとき所の領主の助けをかりていますが、これには相応の謝礼があったと思います。
毎年上り下りを繰り返していれば自然と、きまりみたいなものができあがり、それが当たり前となって、ことさら記録しないのだとおもいます。
これも文献的には面倒なことです。
風邪による長髪
月代を剃らないために、髪が伸びて見苦しい様になっていますが、おゆるし下さい、という程の意味とおもいます。
4月15・16・17日に季節外れの寒気があったとあり、18日に風邪の者おびただしとあります。寒気が風邪の伏線になっているところ、おもしろい。
な~る~ほ~ど~。
わかる方、教えていただけるとありがたいです。
3/23
人吉→球磨川下りで→一勝地(球磨村)
出立に際しお城では家来の面々に会い、留守中よろしくと話をしています。
また、「青井神社」(現在国宝になってます)に安全祈願に行ってます。
雨のため途中(人吉から10kmほど下流)の一勝地へ上陸。
現代の球磨川下りでもかなりの急流体験ができるところですが、雨が降ればかなり水かさも増して川くだりは相当危険だったと思われます。
3/24
一勝地(雨のため滞在)
一勝地に停留することになったので、お城の家来やご隠居様からの 見舞いの重詰などが運ばれてきます。
3/25
一勝地
ご隠居様や親戚の子供から手紙が来ます。
近隣の村から役人がお見舞いにやってくる。
3/26
一勝地
お見舞いの手紙や品物がどんどん届く。
重詰、塩鮎、あわび、筍など。
3/27
一勝地
雨も上がったもののまだ、水がひかずに滞在が続いている。
退屈を紛らわすためか、家来を敵味方に分けて鉄砲打ちの紅白戦(?)を開催。
どんなものだったのか?
3/28
一勝地→萩原(現八代市)(球磨川下り)
イヨイヨ出発。球磨川を船で下る。途中の村の役人から「串猪壱籠」(いのししの串焼き??)到来。
ご隠居様や親戚の子供からまたまた手紙。
3/29
萩原→(響野原参詣)→川尻 (熊本市)
昼は小川町で休憩。響野原(古戦場)に参詣するので、精進料理にしたらしい。
参詣のときは麻の上下を着用し、花瓶や茶壷など八代で用意したものを献納。
響野原は相良氏にゆかりがあるのかな?
※調べました。
響野原は、現在の熊本県宇城市豊野にある古戦場ですが、戦国時代に、
相良氏当主が甲斐氏と戦い戦死した場所のようです。
相良神社と言うのが残っているようです。
3/30
川尻→山鹿 (熊本県山鹿市)
途中、熊本(熊本で朝鮮飴をもらう)、植木など休憩しながら通過。
4/1
山鹿→羽犬塚(福岡県筑後市)
途中南関、瀬高経由、羽犬塚で 海老・到来 この間歩行。
4/2
羽犬塚→内野(福岡県飯塚市)
この間歩行。冷水峠の山越えがあったので、お供に「大儀であった」とねぎらい。
「供中より大義の詞之礼申出候事」
供からもお礼があったのですね。
言葉だけなのかな? それとも何か振舞われたとか?でも記載がないからやっぱり言葉だけか・・。
4/3
内野→木屋瀬(北九州市八幡西区 こやのせ宿)
途中、飯塚、直方通過。宿で大阪帰りの家来と一緒になる。
4/4
木屋瀬→小倉
途中黒崎通過。小倉の殿様に挨拶の使者を送る。鯛、水飴到来。
当地の船頭にお金と反物をやる (去年の夏に難破船を助けたお礼?)
4/5
小倉→吉田(山口県下関市)
小倉城主の船を借りて関門海峡を渡る。下関、長府通過。
宿から竹の子2本牡丹三枝到来。
吉田には高杉晋作の墓がありますが、このころは7歳の子供です。
4/6
吉田→小郡(山口市)
途中厚狭(あさ)で、太閤秀吉が九州征伐を行った際に拝領したと言う名刀のある酒屋で休憩。
※ところで、小郡(おごおり)は私もよく利用したJRの主要駅だったのですが、今回地図で見たら見つかりません。調べたら、2003年に新山口駅に改名したらしい。こんな個性のない名前に変えなくていいのに。
4/7
小郡→福川(周南市)
小郡に薩州公のお手植えの松があるとのことで見物。宮市(防府市)、戸田(周南市)通過。福川本陣
4/8
福川→高森(岩国市)
徳山、花岡、久保市通過。
4/9
高森→久波(広島県大竹市玖波)
岩国の錦帯橋見物のため回り道。岩国藩吉川家から案内が来る。
錦帯橋を歩いて渡る。松ケ根香一箱干菓子壱台到来。
関戸、小瀬、小瀬川吉川家の船で渡る。
家来四名が厳島参詣したいと申し出たので、許す。
4/10
久波→海田(広島県海田町)
大野通過。雨のため、厳島参詣は中止にしたいと申し出あり。
宮ノ内、廿日市、広島城下、岩鼻通過。
広島の初橋(どこかな~?)から広島城のやぐらの数を数えたらしい。
4/11
海田→本郷(三原市)
上瀬、大山峠で野立、飯田、溜り村、大原、本郷川の橋歩いて渡る。
本郷本陣着。
今日は七十二丁の里数二里。
※この後里数の記載が増えてくるのですが、単位が場所によって違ったのかもしれませんね。
4/12
本郷→今津(福山市)
小葉、大野、三原城下、糸崎八幡、吉和 。
駕籠つきの家来に懐中金二百疋を渡す。中国なので二百疋と記述有り。
意味は??路銀を小分けにして渡していたのだろうか?
尾ノ道本陣で、豊臣秀吉が泊まった座敷を見物する。(どうも秀吉好き?)
七十二丁の一里
※里数についての考察。現在のJRの距離によると、海田市-本郷は55.5キロ。
本郷―松永(今津の最寄)は30.4キロ。
海田→本郷が二里で、本郷→今津が一里というのは妥当ですね。
4/13
今津→七日市(岡山県井原市)
福山城を海側に見ながら通る。大渡り渡船、中津原、神季辺本陣で昼食。 「備後領先拂不出候事」お金のことかな?七日市本陣着。
4/14
七日市→板倉(岡山市吉備津)
掛矢本陣、「先拂出候事」ここでは先払いできたらしい。ここの本陣で「床」が目立っていたので尋ねたら「唐木」とのこたえ。
板倉領五十丁壱里。小瀬村野立、岡山領五十丁壱里七十二丁壱里。川止本陣、伊東領五十丁壱里。川辺川舟渡。備中山手三軒茶屋本陣。備前領先拂相出。板倉本陣
どうも領地によって、里数の基準が違うようですが、岡山領は二種類が混在していたのでしょうか?
4/15
板倉→片上(備前市)
市之宮、三角村、二本松、藤井宿、一市本陣、吉井川、小刀長船祐直到来、加賀戸村、片上駅本陣
備前長船では刀が献上されているようです。名産品だったのですね。
4/16
片上→片嶋 (兵庫県たつの市揖保川町原地区)
三石、赤穂領、有年川渡舟、鶴亀村(相生市)で鶴亀石を見物。片嶋本陣
4/17
片嶋→加古川
猩條川(揖保川)脇坂馳走人渡舟、山田、笹輪峠から姫路城が見えた。
姫路本陣、藤井宿本陣、先拂出、市川馳走舟、加古川馳走舟、加古川本陣
川を渡るときには、地元の領主の出した「馳走舟」で渡ったようですね。
お金を払うのでしょうか?
4/18
加古川→大蔵谷(明石市)
家来に風邪が流行ったため、予定通りの日程では無理だと家来から相談あり。今日はもともと兵庫まで行くはずだったが、大蔵谷までにして、明日兵庫へ行き、あさってから予定通りの日程で動くことになる。風邪のため、長髪の段申出、明石城よりは先拂出
※風邪のために長髪ってどういう意味なのでしょうか??
4/19
大蔵谷→兵庫
垂水、羽箒、今日里数少ニ付昼休無、兵庫本陣。家来次々病気で寝込む。江戸の亀井隠居が亡くなったと知らせが来る。明日は郡山まで行くはずだったが、西宮までにする。あさってから予定通りにする。
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7.21追記
父から、私のギモンについての解説がメールできました。
一勝地の慰鉄砲について
ご推察のとおり家臣たちの狩りの紅白戦です。
この時代一勝地は火薬の原料となる硝石が採れていました。
ここに鉄砲撃場の仮屋があったのです。
もともと鉄砲に縁のある地だったのです。
ちなみに、今は一勝地駅へ各地の運動部から、まず一勝ということでキップの注文があるそうです。
これもご時世・・
響野原
よく調べましたね。
18代義陽が甲斐早運の奇襲により討ち死にしたところなのです。
旧暦12月1日が命日で、この日には今でも相良家の参詣があるそうです。
そのとき球磨川の水を持参されるのか、一度立ち会ってみたいとおもっています。
冷水峠越え
大儀の詞だけでなく、なにがしかのご祝儀があったあったと思います。
これを文献で証明しようとすれば、なかなか大変な作業になります。
里数
度量衝で1里の長さは統一されていたはずで、36丁で1里というのはきまっていたのですが、地方によって以前の慣習が残っていたのかもしれません。
そういうところへ長福公の注意があったというのがおもしろい・・
馳走船
海・川を渡るとき所の領主の助けをかりていますが、これには相応の謝礼があったと思います。
毎年上り下りを繰り返していれば自然と、きまりみたいなものができあがり、それが当たり前となって、ことさら記録しないのだとおもいます。
これも文献的には面倒なことです。
風邪による長髪
月代を剃らないために、髪が伸びて見苦しい様になっていますが、おゆるし下さい、という程の意味とおもいます。
4月15・16・17日に季節外れの寒気があったとあり、18日に風邪の者おびただしとあります。寒気が風邪の伏線になっているところ、おもしろい。
な~る~ほ~ど~。
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