まもなく明治、神仏混淆 時代の、
1865年に造営した隋神門、
1865年に造営した隋神門、
三間一戸の八脚楼門で高欄付き。
神仏混淆時代は、仁王門と称していて、
仁王像が立っていたという。
今は隋神が安置されていて・・。
仁王像が立っていたという。
今は隋神が安置されていて・・。
👇振り返れば、こじんまりとした髄神門、
👇髄神門くぐれば、室町時代の建築様式の拝殿に、
朱で化粧した神社が見える。
朱で化粧した神社が見える。
👇楼門の大工は、越後国中之嶋の浅野喜内藤原長正さん。
彫り物師は、武州熊谷宿玉井村の小林栄次郎さん
小林栄次郎さんは、榛名山の榛名神社の双竜門の扉、
北野神社の木鼻を彫った、
小林(長谷川)源太郎正俊さんから、2代目の彫り物師。
小林(長谷川)源太郎正俊さんから、2代目の彫り物師。
小林源太郎正俊さん石川雲蝶さんに誘われ、新潟まで行き、
その後、関東に戻ったという噂もあるけど、
源太郎さん当時、生きてれば76歳の時の髄神門、
栄次郎さんの、この彫り物を眺めていたかも知れない。
その後、関東に戻ったという噂もあるけど、
源太郎さん当時、生きてれば76歳の時の髄神門、
栄次郎さんの、この彫り物を眺めていたかも知れない。
怒涛のように迫り、舞い上がる砂
車から降りたら身体が飛ばされ
ドテ、どて・・スーパー駐車場
隣の車に引っ付いたら
隣の車に引っ付いたら
ピジョンフリーゼに怒られた
明日は風、吹かないように・・と
今夜はノンアルコール
胃袋に、供えることにした
大伴家持の「堅香子の花」は今咲き始めました。
それにしても美しい色彩で残っているのですね。
井戸で水汲む少女たち、カタクリの清楚に照らして、
遠くから眺めてる家持の眼差し、
情景がとてもいいですね。
日本では見なくなってるのでしょうか・・・
咲く時期になりました・・・
辛抱強いカタクリ、間違っても踏みつけられないですね・・・‼
玉村八幡宮素晴らしい建築と彫刻。
凛々しい建物の中の天井のゆかしさ。
上を眺めて優雅なひと時と外へ出れば
重厚な彫刻・・素晴らしいですね。
仁王門に鎮座する仁王様・全てが素晴らしいばかりです。
楼門にぐるりと彫刻が施されているのは見事ですね。
石川雲長の名を覚えました(名だけは)。
そして群馬県、関口文治郎ですね。そして一度お聞きしたかったのですが、
神社仏閣に施された細やかな彫刻群は関東と関西では違いがあるのでしょうか。
京都には少ないのでしょうか。見ても知識もなく、スルーしていただけなのかなあと思ったりするのですが。
わからないなりにも興味深く拝見しております。
厳かな 拝殿・本殿の域と、納経所・みくじ売り場あたりの和やかな、まるでサロンのような場所、
町も人たちが憩いの場にもなっているようでした。
お尋ね、社寺の彫刻、
関西と関東、明らかに違いますね。
関西には関東のような彫刻群はありません。
関東の彫り物師は、日光の彫刻を施した幕府の棟梁と、
その後、幕府から任命されて、補修を手掛けた彫り物師。
彫刻がある社寺関東は、この補修を手掛けた彫り物師が、隣群馬県のわたらせ渓谷の花輪村に、11人の彫り物師を育て、58人の集団を作り、
それぞれが独立し、多くの社寺に彫り物を施したからと思います。江戸中期から後期にかけての集団です。
東照宮の彫刻は、全国から集められた彫り物師で装飾されていますが、関西の朝廷のある社寺での活躍はできなかったのでしょう。
関口文治郎には集団の中心人物ではありません。
彼の歴史と、彫刻はブログでも書いてきましたが、
私が彼に興味を持った理由は、書いていません。
おいおい、機会を作ってご説明いたします。
大雑把ですが、関西と関東の彫刻群の違いの説明です。
不明瞭でしたら、疑問を投げて下されば幸いです。
あまりの彫刻の見事さに目を奪われるようになりました。
これまで自分が知らなかっただけなのかと、時折訪ねるこちらでの印象を思い浮かべるのですが、
ほとんど記憶になくって、違いがあるのだろうかと思い至ったのです。
明らかに違いがある。
これからはそう思って、参拝先では目を凝らします。
いろいろ教えていただけて感謝です。
彫刻があったりすると、お詣りするというだけでなく、社寺の建造物の特異さに、眼を奪われて、
印象が強くなりますね・・。
彫り物があるのは一種、記憶に残るのかもしれません・・・ね。