春. 夏. 秋. 冬. 河童の散歩

八王子の与太郎河童、
つまづき、すべって転んで、たちあがり・・。
明日も、滑って、転んで・・。

江戸後期の花形スターの決断。 宿稲荷神社。群馬県榛東村

2023-04-17 22:49:35 | 鑿に賭けた男たち

遠く榛名山系をのぞむ、
田んぼの中で、江戸後期の花形スターが、
最後の鑿を持った。明治年号まであと5年

爪のように磨いた鑿は、指先の動きのように自在に動き、
樫の木に喰い込む。

掘っ立て小屋で寝起きしたのは、1858年、
石原常八主信72歳(
前回、雷電稲荷の彫り物師)
その子の、石原常八(恒蔵)主利49歳。
主利の長男、石原(高沢)改乃助28歳と、
一世を風靡した石原3代。



北関東の彫り物師として、
関東の社寺に鑿裁きを残した爺さんの、
常八主信は、榛名講の信仰が浸透する中、
信者が、寄金を出して神社建設を計画する。

そこで呼ばれたのが石原常八主信。
高齢の主信は、63歳で常八を継がせた
長男の常八主利を棟梁にして図柄を描く。
けれど・・・




まもなく明治、群馬花輪の彫り物集団の彫り師への、
受注がほとんど無くなり、
彫師たちはどんな生活を強いられたか・・。
榛東村宿稲荷神社に鑿裁きを残した、
石原常八主利は、この作品を最後姿を消す。


長男の石原改乃助は高沢家の養子にし、
次男の歓次郎は、高松家に、
三男の幸助は、仲間だつた岸又八の養子にと、
常八主利本人の栄華とは裏腹に、時代の流れに飲まれて、
家系を自ら断ち切る。

そんな主利の心意気は、製作品にも見える。
榛名講・榛名神社の双竜門1855年に刻んだ、
小林(長谷川)源太郎の丸い形にした、
龍を宿稲荷にもオマージュとして刻み、
榛名神社まで行けない、
信者への心優しい心遣いをしている。











そして、心を打たれるのは、
柱一本、一本、木鼻の獅子頭20個ばかり、
海老虹梁の龍、
寄金をした人たちの名を刻む作業までを・・











爺さん、石原常八主信は完成後5年には77歳で亡くなり、
棟梁の常八主利は、どこに行ったか・・

江戸神田町・・‼
江戸後期の花形スターへの悲劇は、
妬みもあって、
棟梁・主利の3男、(岸)幸作は28歳で、
不意に襲われ刃に命を落とす。


もし、
榛東村宿稲荷神社1863年落成に、
出むことがあったら
散歩に出かけることが、あるなら
ここの彫り物師スターは
庶民たちが、金を出し合って
作りたかった神社の飾りを彫った

日々の生活にも、困窮しながら
後世、私たちに溜息を付かせ
指に豆を作り、血を流した
結晶、最後の技がここにある
想い
境内、木陰でお茶をするのも

紹介くださった
mamanjyon326youさんに感謝して
誤字訂正です⇒mamanjyun326you ごめんなさい



コメント (4)
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鑿に賭けた男たち ⑤ 石原常八主信。群馬県邑楽郡。

2023-04-14 11:36:02 | 鑿に賭けた男たち

頭痛に、歳を思うとやばい、と思うのですが、
片肺で生きてる私には、
白内障の施術後の、調子の悪さを抱える私には、
美人の顔もぼやけて・・・
花粉症より黄砂が始末の悪い現象のようで、
行楽を楽しみにしてた、今日の休み、
出掛け予定のメモは円を描いて、ゴミ箱に・・。


群馬県わたらせ渓谷に江戸中期、
日光東照宮お参りに整備された、
銅(あかがね)街道の花輪宿。

東照宮の彫刻を手入れする彫師が、
11人の弟子を持ち、やがて大集団となって、
それぞれが独立して、
北関東の社寺に腕を競って、全国に類を見ない数の、
彫り物を残した。



八王子市の高尾山に残こした、
石原常八雅詖の子、
1786年生まれで、1863年5月2日に亡くなった、
石原常八主信。

宮大工の棟梁に見込まれ、彫物棟梁に名指しされて、
1819年、33歳で栃木県の野木市の、
梟の里、野木神社を手掛けたながら同年
歩けば、2時間ちょい、
群馬県板倉町の、👇 雷電神社の拝殿を・・。
後1835年、49歳では本殿を・・。
彫刻の詳細には、も、少し考察が・・




























1861年、16歳で皇女和宮が下向した際に、
中山道の板鼻宿陣屋から出向いた、長傳寺の欄間は
1849年、63歳で施した、
石原常八主信の傑作のひとつ。

よぼよぼになっても、かくしゃくとした精神は
1860年、亡くなる3年前
高崎市榛東村で、子の石原常八主利と
その子、養子に出した石原改乃助知信と共に
 宿稲荷神社で江戸後期の代表作を彫ります

花形スター・石原親子3代
借金地獄でひーひー言いながら
厳しい鑿裁きの修行に耐える姿
湧くのは、親しみ




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高尾山御本社、 石原雅詖・唯一の彫り。八王子市。

2023-03-24 11:48:02 | 鑿に賭けた男たち

高尾山のすみれ👆も一週間を過ぎると、
なんで早く公表しなかったかと、
膝をつねられ、遅まきながら・・。
3月16日、薬王院飯綱大権現、石段脇の恋人です。

👇飯縄大権現  
いいづなだいごんげん
誰が彫ったか興味のない方には、
ぐるり一回り、♬ 綺麗ね~ ♪ と、

脇をすり抜けて通る処は、
彫刻探索人には、貴重な場所・・・・。

明治の廃仏運動で、
運動員が高尾山に登るのに疲れ、
中腹で回れ右、下山して廃仏毀釈を逃れたエピソード。



投稿した、 わたし、
破壊されず彫刻歴史の記録を燦燦と残し、
回れ右した明治の廃仏毀釈の運動員には、

感謝状を贈りたい。

飯縄大権現、白狐に乗った剣と索を持つ烏天狗形、
歴史は古いのですが、ここは彫刻を・・

初代石原雅詖が、1780年65歳で彫った、
記録に残っている、唯一の作品。
飯縄大権現の御本社👇






この時期の社寺は、
火災や災害で沢山破壊されているようで、
火災や災害がなければ、彼の作品は、もっと、
群馬各地で見られたかもしれませんね。



この時の宮大工は、
高尾町の栗原佐兵衛門能政・政右衛門能常親子で、
中島七兵衛清重が加わり、
彫物師・雅詖の弟子には、16歳の桑原新蔵がいる。
雅詖の厳しい教えに、
耐えた彫り物師でもありましょう。
総勢7人での作品、その中には、
前原藤次郎と門人松島金蔵の名もある。



1804年の拝殿の改修では、
関口文治郎の弟子、
俳句をたしなむ星野政八昌輿が拝殿👇を彫ってる。


















江戸中期、全国でも類を見ない数多くの
彫刻を産んだ集団、わたらせ川添いの花輪

汗をかきかき、涙を流、
荒れた手で技術の研鑽に励んだ少年たち
一端になった少年が
大谷選手のような花形スターに育った
石原常八主信、常八主利、甲斐之介、
デザインの斬新さ、鑿さばきの切れ味さは
宮大工棟梁からは引っ張りだこ
茨城、栃木、群馬と渡り歩き
私生活でも、なかなかの物
不幸もあった
その石原軍団を育てたのが
石原雅詖
その唯一、彼の彫刻は
高尾山飯縄大権現・御本社で

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鑿に賭けた男たち ③ 関口文治郎有信 ②

2023-03-13 19:26:04 | 鑿に賭けた男たち

彫物師・関口文治郎有信
1731~1807

制昨年・1770年・39歳
前掲・榛名神社の海老虹梁の龍と一緒で
江戸後期まで、
多くの彫り師たちに
オマージュされたフォルムかと

群馬県前橋市
植野惣社稲荷神社


















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鑿に賭けた男たち ② 関口文治郎

2023-03-10 22:08:49 | 鑿に賭けた男たち






彫物師・関口文治郎有信
1731~1807年没

肩書
公儀御彫物棟梁関東彫物大工
彫工武衛棟梁
日光山彫物棟梁

制作年・1805年、75歳
榛名神社
文治郎最後の彫物代は
1年後、そっくり榛名神社へ
奉納した記録。









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