春. 夏. 秋. 冬. 河童の散歩

八王子の与太郎河童、
つまづき、すべって転んで、たちあがり・・。
明日も、滑って、転んで・・。

風の音、鐘の音、全国に轟いた民の音。23番・音楽堂。秩父札所道。

2024-02-25 20:06:52 | 秩父34札所



息の切らして登り切る石段に、納経所の休息場が救いの、
秩父札所23番、松風山・音楽堂。
秩父谷からの風が、心地よく、秩父34札所を開設した、
13権者が、松風が音楽だと感心し、音楽寺にしたという。



音楽、現代的な響きの言葉、
漢字の起源は中国で、
秦の始皇8年(紀元前239年)に完成した、
『 呂氏春秋』という書物に、記録されてるという。

万葉集にも、風土記にも字面はある、と知ったけど・・・。

👇コロナ禍の2021年5月3日、皐月の垣根の坂道、
行き交う人たちとの挨拶も、首を縦横にして。






登りきると、水屋、鐘楼、地蔵さんが、
こじんまりと配置されてる。


仕入れた知識、ここが秩父事件を繰り広げた、
出発点かと思うと、感慨も深くなる。

1884年(明治17年)
国が提唱した、輸出で豊かな生活が出来ると、
製糸の副業に民衆は、高利貸しからも、多額の金を借り、
精を尽くしものの、その輸出は相手国恐慌の為、
ストップし、残ったのは、多額の借金。
高利貸しの悪徳の横暴や、減税に耳を貸さない国に、
民衆は、政府に対して、負債延納・雑税の減少などを求めて、
民衆が起こした『武装蜂起』としては、唯一の事件。

秩父周辺、他県の農民1万人のうち、
旧吉田村の椋神社に集まった農民たち約3,000名は、
小鹿坂峠を越えて、音楽寺の境内に集結して、
音楽寺の梵鐘を鳴らし、
蜂起を察知した、中央官憲が仕切る、
秩父市内へと突入したと言われてる。










音楽堂の名に、今でも音楽関係の人たちが訪れるという。




👇分厚い回廊の床板、並べるのも体力勝負、難儀ですね  ‼





札所参りでは、最初に鐘を撞いてからと云われますが、
今は、鐘付きを禁じてるところもあり、ちと、残念 ‼
音楽堂の鐘は、骨の髄に染みる優しい音だと・・
一突き・・・ウン うん ・・ほんわかだねぇ~ ‼


鐘の下のほうに、
聖観音、不空羂索観音、十一面観音、
如意輪観音、千手観音、馬頭観音の六観音がみえます。





👇830年ごろ、慈覚大師が刻んだ、
聖観音像を本尊にして、音楽堂でした。



明日から、自由時間が少なくなります
訪問閲覧、投稿、不手際になっても
体調を崩したのではないので
ご理解を


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江戸の夫婦が建てた童子堂。豆腐がない。秩父札所道。

2024-02-23 17:45:35 | 秩父34札所

寺伝によると、807年、伊予親王(淳輪天皇の弟)の菩提を、
弔うために遍照僧正がこの地の領主に堂宇を作らせたとある。

旧蒔田村・清水谷の山奥に草創され、花台山と呼ばれ、
915年、村の子供たちの間で疱瘡(天然痘)が流行し、
寺の場所を移すよう観音様からのお告げがあって、
里たちの住むこの場所に移して、
観世音に平癒を願ったら、天然痘は威力を失い、
以来、病魔に犯された子供は、観世音に祈って救われて以来、
童子堂と呼ぶようになる。

誰が彫ったか、子供にも好かれるフォルムで、仁王像。





👇広い寺域の仁王門の虫食いの柱や、
猫(?)肉球もまた素朴で







好物のネギに挨拶すれば、藤棚、右手に堂宇が。



👇江戸中期・1701年、江戸の田井三右エ門弘祐と、
その女房、お銀が施主となって、
秩父府坂峠の地に再建したもので、
1910年、この土地に移築された、
極彩色豊かにして華麗な、秩父札所22番、童子堂。









天井には、
👇迦陵頻伽(かりょうびんが)の浮彫りが施されていて、
納経所の人影を確認し、周りを見回し、
1枚だけ撮りたいなァ~・・
でも、やめた ‼ 
張り紙がマナー違反を、強烈に戒める ‼












明日は、古河市へ日帰り出張
明日は、陽が射すとなれば、気も晴れ
今夜の寒さの、賄いは
湯豆腐にゴマ入りの高菜漬けをまぶして
ちびッと、八海山で一杯・・ッと
・・・・・
のに、豆腐がない

無い 無い


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今日の雨、眺めて、観音寺。秩父札所道。

2024-02-22 10:39:35 | 秩父34札所

秩父札所20番の緑ある岩之上堂から、
21番に向かう、小道。この辺りから
山村風景、秩父の山々を眺めていると、
札所巡りのリズムが少しずつ、のろくなります。
自然とそうなります。




















額の矢之堂、
昔、この辺り秩父郡矢納村と呼んで、
矢納が矢之に転化したものと云われ、






亦、御堂の建立に反抗し、堂に火を降らせる悪ガキを、
八幡宮が
矢を以って、退散させたという謂れもあり、



度々、火災に遭って、観音堂の寺歴は焼失したという、
札所21番・観音堂です。



ニワトリは、近くばかり見てるから
鳥の中でも、一番視力が悪いという
鷲や鷹は、50メートル離れた蟻をはっきり見ているという
あやかりたいですね

半年ほど点眼しなかったら、パソコンの文字が、踊り始めて
ひとつになったり、重なったり
これから、眼科で薬の調達です
今夜、また


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岩之上堂、時にはゆっくり散策。秩父札所道。

2024-02-20 20:44:45 | 秩父34札所

札所巡りをしていると、なぜか、
ここでゆっくり骨休みをしていたい、と、
思わせるお寺があるものです。
ここ札所20番・岩之上観音堂がそうでした。

今は、頑丈で近代的な橋がありますが、
昔は19番札所から、ここ20番までは、
市内(村内)を流れる、荒川を渡し船に乗って、
荒川を晴れた日は、3文の船賃、
雨の日には5文、15文と天候に合わせて変動乗船料。

荒川の岸壁にあるから、岩之上堂。
兵乱で本堂が灰燼となり、里人は離散し、
ここを通った人が、岩の上に有った観音像に手を合わせたから、
岩之上堂と名付けたのか。

至る所に無造作な植栽。
眺めているだけで、疲れが取れる。
不謹慎ですが、
御利益は、観音様の教えだけでない、と、つい・・・。
















秩父札所で最も古い堂で、堂を守る人がいて、
堂は先祖の方が25年かけて造ったという
自然に囲まれた、札所20番・岩之上堂
縁起もいくつかあるのですが

ひとつひとつ、関連付けは無用にして
今はゆっくり、散策です




厄除けの天蓋も気晴らしになる。














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能登の魂、キリコは燃えていなかった。北國新聞。

2024-02-19 21:11:02 | 被災


『キリコは能登のシンボルであり、
祭りは生活とも密接に関わっている。
祭りができなくなってしまうと、みんなの心が折れてしまう』
1月1日の能登の震災、
家屋の崩壊、地盤の隆起、道路の亀裂、火災・・

火災で焼失しなければと願った、キリコ会館。
約30基が保管、展示されていて、20基が壊れたと。
職員も被災したため、
これまで詳細な被害を、確認できていなかったという。

2月18日午後2時、北國新聞と職員たちが、
キリコ会館に入って、1枚の写真を公開。

職員たちは、暗闇に懐中電灯を照らしてみた光景に、
言葉を失い、
『 あの日以来、展示室に入るのが怖かった 』
『 地震は日常だけでなく、能登の魂まで奪うんか 』と、
5、6メートルのキリコが行く手を阻むように横倒しとなり、
漆塗りの担ぎ棒には痛ましい亀裂が刻まれていた・・と。

北國新聞の写真は、
下の写真の、左の青い2つの丸印以外の、
キリコは右、左に折り重なって倒れている。


一枚の写真だけですが、私はいくらか、ホッとした。
ひとつ、肩の荷が下りたような気がした。
燃えてなかった ‼
折れて倒れても、形が残っているなら ‼・・と。


👇この「蒙福徳」の山車は12メートルちょい、
担ぎ棒と、4本柱が折れ、傾いていたと。





『 祭りや行事、
人と人のつながりが能登を復活させる
一番のモチベーションになる
それを支援するのが県の最大の仕事だ』・・と、
馳浩知事は云う。
今、私は信じる‥ウン ‼

職員がつぶやく、
『 夏には祭りができる状況になってほしい 』

現実になるのを願いながら

 
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