「信仰と理性」の関係

2017年07月10日 10時08分57秒 | 社会・文化・政治・経済
「宗教が理性に反するものでないことを示さなければならない」パンセでのパスカルの言葉。
「信ずること」と「理解する」ことを一体にした言葉が「信解」である。
信解の「解」は理性を意味するとも捉えることができるので、信解」という言葉それ自体が信仰の本質を一語で示している。
「信」だけで、「解」がないのでは盲信になってしまう。
また、「解」だけで「信」がないのでは信仰と呼べない。
信仰者にとって、「信」と「解」は一体であるべきだ。
「宗教は理性に反するもの」と思い込んでいる人が多い。
「宗教に対する無知」が根底にある。
「自分は無宗教」と言っている人も何かを信じて生きている。
「人間は何かを信じている」
無信論者は「無信論」を信じているのである。
また、唯物論者は「唯物論」を信じている。
共産党員は「共産主義」という「宗教」を信じている。
「お金だけがすべてだ。お金が何より大切だ」という価値観で生きている人は「拝金教」の信者である。
「生きる」ということは、何らかのものを「信ずる」ことから出発している。
社会自体が、互いの信頼なくしては成り立たない。
「信」は人間の生の基本条件であり、人間は「信ずるか」「信じないか」を選択することはできない。
選択できるのは「何かを信じるか」といことだくなのだ。
「何を信じ、何を信ずべきでないか」を体系化したのが宗教であり、その意味で宗教は、万人の人生・日常に密接にかかわっている。
信仰について深く考えたことのない人々が、宗教を特別視して怖がったり蔑んだりするのはおかしな話だ。
作家・佐藤優さん
























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