てつりう美術随想録

美術に寄せる思いを随想で綴ります。「てつりう」は「テツ流」、ぼく自身の感受性に忠実に。

小雨、ときどき、お正月(2)

2009年01月05日 | 写真記


 正月2日。いよいよ初詣のために、人ごみの少なそうな穴場の神社を目指して出かけることにした。今年最初の運試しをスムーズに終わらせることができれば、それだけで幸運というものだろう。この日も雨が降ったりやんだりしていて、参道に何十分も並ぶ気にはなれない。

 目的地に選んだのは、京阪七条駅から近い豊国神社だった。かつてはここに京都大仏があった。秀吉が作らせたもので奈良の大仏より大きく、全身は金ピカに輝いていたといい、いかにも太閤の好みに合わせたものだったようだが、開眼法要をするより先に地震で倒壊してしまったらしい。その後何度か再建されたり壊れたりを繰り返すが、今では影もかたちもない。豊国神社はその跡地に建てられた秀吉を祀る神社で、完成したのは明治に入ってからのことである。


東山名所図屏風(部分、細見美術館蔵)
ありし日の京都大仏のたたずまいを伝える

 京都国立博物館の正門が新館の工事にあわせて立入禁止になり、厳重な柵で囲われているのを横目に見ながら歩いていくと、ほどなく壮麗な唐門が姿をあらわした。この門はもともと伏見城にあり、のち二条城に移築され、さらに南禅寺塔頭の金地院(こんちいん)に移されたあと、ここに落ち着いたということである。もともと秀吉のものだったのが家康の手に渡り、紆余曲折を経てまた秀吉の手もとに返されたということだろうか。何とも数奇な運命だといわざるを得ない。

 初詣に訪れている人は、意外なほど少なかった。正月にしかくぐることのできない唐門を抜けると簡素な拝殿があり、その奥に本殿がある。神社というと鮮やかな朱色に塗られている印象があるが、ここはいたって地味で質素だ。かつての秀吉の栄華を考えると、拍子抜けするほどである。本殿には鰐口がなく、賽銭をばらまく音と拍手(かしわで)だけが雨もよいの空に響いていた。ぼくも手を合わせてお祈りをしたが、何となく勝手がちがうせいか、おみくじを引くのをうっかり忘れてしまった。


〔豊国神社唐門。国宝に指定されている〕

                    ***

 豊国神社の隣には、方広寺がある。もともとは巨大な寺で、今の京博あたりまで敷地が広がっていたらしい。京都大仏はこの寺院のものだったのである。

 今となっては、ほとんどガイドブックにも載らないような小さな寺だ。ただ不釣り合いなほどに大きな鐘が、これまた大きな鐘楼にぶら下がっている。この名鐘は大仏の再建に合わせて作られたもので、当時の伽藍の大きさを推量するよすがとなるだろう。鐘の側面に刻まれた銘文のなかの「国家安康 君臣豊楽」という8文字に家康が難くせをつけ、大坂冬の陣の引き金になったという話は有名である(この文字は白い枠で囲まれてわかりやすいようになっているが、それにしても小さな字にすぎない)。

 現代の日本の政治を見ても、発言の言葉尻をとらえて喧々囂々の論戦をやらかしたり、声明文ひとつ出すのに些細な表現をめぐってああでもないこうでもないと議論を重ねたりしているようだ。この国は江戸時代からちっとも進歩していないような気がする。

 鐘の内側に入れば、人間のかたちをした白い影が見えるという。淀君の霊だという話だ。新年早々そんなところに入って、安珍のような目にあってはかなわないが、除夜には今でも百八つの鐘がつかれる現役の梵鐘でもある。ぼくは映像で見たことがあるだけだが、腹に響くような重々しい音だ。さしもの亡霊もうるさかろう。

 そういえば、ぼくはかつて奈良のことを書いた記事のなかで、奈良国立博物館が東大寺と興福寺と春日大社とに囲まれた絶妙な地点に位置していて、古都の歴史と文化のエッセンスを凝縮した一種のテーマパークのようだと書いたが、方広寺と豊国神社と京博の関係もそれによく似ている。奈良の大仏は兵火で焼け落ち、京都大仏は天災で壊滅したというところがちがうといえばちがうけれど・・・。


〔歴史の証人たる方広寺の梵鐘〕

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