会津八一&団塊のつぶやき

会津八一の歌の解説と団塊のつぶやき!

会津八一 1669

2018-01-20 18:56:50 | Weblog
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小泉八雲と3男・清 2015・8・28(金)

 「怪談」の著者としてしか知らなかった小泉八雲・ラフカディオ=ハーン(1850~1904)の随筆「知られざる日本の面影」の解説をテレビで見た。そこで初めて生い立ちその他を知った。
 アイルランド人の父と、ギリシャ人の母との間に生まれたが、父母の離婚により、アイルランドに住む大叔母の元へ。16歳の時に左目を失明(このため彼の写真は右からの横顔しかない)、大叔母の破産などの不幸の後、19歳でアメリカへ。新聞記者や翻訳などを手がける。1890年に来日、日本が気にいり定住し、妻・セツとの間に4人の子供をもうけた。島根県尋常中学校及び師範学校の英語教師を皮きりに、1896年に東京大学、1904年3月に早稲田大学に勤務したが同年9月に狭心症で亡くなる(54歳)。
 また、八雲は会津八一とも関連があった。そのことは會津八一記念館に簡単に紹介されているが、補足すると東大を追われるように退官した八雲を他の教師たちと運動して早大に招聘したのは八一だった。また、子供達の教師(早稲田中学時代)として八雲亡き後も面倒を見たのは八一である。とりわけ3男・清(画家)は八一を師と仰いだ。
 テレビから八一や小泉清の事を思い出したが、八一の死(1956年)の6年後糟糠の妻・静子(1961年死亡)の後を追うように清はガス自殺する。遺書にある「血が複雑すぎたのだろう」から八雲の生い立ちを想った。
 「浅草の善光寺でもどこでもよいから骨は、ママと一緒に葬ってくれ。意志の力ではどうにでも出来ないわたしのことについて、何も弁解することはできないのだ。要するにアブノーマルな男としての自分の生涯だけであった。これはどうにもならぬ宿命だった。血が複雑すぎたのだろう。みんな生き抜く立派な力を以って、らん子、閏、一枝、ゴーディ、仲よく愛し合って人生を肯定して生きてくれ。この上もない迷惑ばかりかけつづけた