鹿鳴集・山中高歌10首の後に鹿鳴集・放浪吟草63首が続く。
会津八一 鹿鳴集・放浪吟草(六十三首)
大正十年十月より同十一年二月に至る
大正10年6月、「憂患」の山田温泉(山中高歌10首)での時を契機に、学校運営から学術の道に軸足を移す。その後の奈良行きを経て、同年11月から翌年2月まで西国九州の古寺古跡、石造美術の調査を行うとして西国を遍歴する。その時の歌が放浪唫草である。
2月18日帰京した八一は、早稲田中学教頭辞任を坪内逍遥に3月22日に申し出て受理される。
西国遍歴の意義は、捨て身の思いで旅だった病身の道人が大自然や古代の美術のおおらかな精神にふれることによって、心の懊悩煩悩が消え、腎臓障害、神経痛などからも解放され、心身ともに新鮮で充実した時を過ごすなかで生気を蘇らせたことにある。(植田重雄著「會津八一の生涯」を参考に)