会津八一&団塊のつぶやき

会津八一の歌の解説と団塊のつぶやき!

会津八一 1377

2017-03-31 23:26:27 | Weblog
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「大和路」(堀辰雄)と會津八一7 2012・11・18(日)

 「大和路」の「十月二十四日、夕方」から
 『きのう、あれから法隆寺へいって、一時間ばかり壁画を模写している画家たちの仕事を見せて貰いながら過ごした。これまでにも何度かこの壁画を見にきたが、いつも金堂のなかが暗い上に、もう何処もかも痛いたしいほど剥落(はくらく)しているので、殆ど何も分からず、ただ「かべのゑのほとけのくにもあれにけるかも」などという歌がおのずから口ずさまれてくるばかりだった。――それがこんど、金堂(こんどう)の中にはいってみると、それぞれの足場の上で仕事をしている十人ばかりの画家たちの背ごしに、四方の壁に四仏浄土を描いた壁画の隅々までが蛍光灯のあかるい光のなかに鮮やかに浮かび上がっている。…
 荒れてしまった壁画を保存する模写の様子を生き生きと堀は描写している。しかし残念なことだが模写中に壁画は燃えてしまう。

 八一の「病中法隆寺をよぎりて(第4首)」   解説 

  ひとり きて めぐる みだう の かべ の ゑ の 
        ほとけ の くに も あれ に ける かも
 
    (一人来て巡る御堂の壁の絵の仏の国も荒れにけるかも)

会津八一 1376

2017-03-30 19:51:55 | Weblog
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「大和路」(堀辰雄)と会津八一6 2012・11・12(月)

 「大和路」の「十月二十一日夕」から
 「・・・午後からはO君の知っている僧侶の案内で、ときおり僕が仕事のことなど考えながら歩いた、あの小さな林の奥にある戒壇院(かいだんいん)の中にもはじめてはいることができた。
 がらんとした堂のなかは思ったより真っ暗である。案内の僧があけ放してくれた四方の扉からも僅かしか光がさしこんでこない。壇上の四隅に立ちはだかった四天王の像は、それぞれ一すじの逆光線をうけながら、いよいよ神々しさを加えているようだ。
 僕は一人きりいつまでも広目天(こうもくてん)の像のまえを立ち去らずに、そのまゆねをよせて何物かを凝視している貌(かお)を見上げていた。なにしろ、いい貌だ、温かでいて烈(はげ)しい。……
 ・・・僕がいつまでもそれから目を放さずにいると、北方の多聞天(たもんてん)の像を先刻から見ていたA君がこちらに近づいてきて、一しょにそれを見だしたので、「古代の彫刻で、これくらい、こう血の温かみのあるのは少いような気がするね。」と僕は低い声で言った。
 A君もA君で、何か感動したようにそれに見入っていた。が、そのうち突然ひとりごとのように言った。「この天邪鬼(あまのじゃく)というのかな、こいつもこうやって千年も踏みつけられてきたのかとおもうと、ちょっと同情するなあ。」
 僕はそう言われて、はじめてその足の下に踏みつけられて苦しそうに悶(もだ)えている天邪鬼に気がつき、A君らしいヒュウマニズムに頬笑みながら、そのほうへもしばらく目を落した。……


 八一は 「戒壇院をいでて」で広目天を詠んだ。 解説

  びるばくしや まゆね よせたる まなざし を
      まなこ に み つつ あき の の を ゆく

   (毘楼博叉まゆね寄せたるまなざしを眼に見つつ秋の野を行く)

 天邪鬼についてはこう詠う。

 三月堂にて                 解説

   びしやもん の おもき かかと に まろび ふす
        おに の もだえ も ちとせ へ に けむ

   (毘沙門の重き踵にまろび伏す鬼のもだえも千年経にけむ)

 “毘沙門の重い踵に踏まれて転び伏している邪鬼の悶えも、もう千年を経たのだなあ。”

会津八一 1375

2017-03-29 19:50:25 | Weblog
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法起寺(ほうきじ) 2012・11・1(木)

 会津八一の奈良における18基目の歌碑(法隆寺前)を見て、近くの法起寺、法輪寺を回る。
 八一は53歳の時に「法隆寺、法起寺、法輪寺建立年代の研究」を学位請求論文として提出し、翌年1933年に文学博士の学位を受けている。1931年には「法起寺塔露盤銘文考」を発表し、三重塔の建立時期に一石を投じた。その三重塔をコスモス畑を前景に大勢の人達(写真教室の人?)が写真を撮っていた。一緒に写真を撮って、法輪寺へ。もちろん、八一の名歌を思い起こしながら。

 奈良博物館にて(第1首)   解説

  くわんおん の しろき ひたひ に やうらく の
          かげ うごかして かぜ わたる みゆ

     (観音の白き額に瓔珞の影動かして風わたる見ゆ)   



会津八一 1374

2017-03-28 21:01:04 | Weblog
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「大和路」(堀辰雄)と會津八一5 2012・10・30(火)

 「大和路」の「夕方、西の京にて」は続く。
 「・・・裏手から唐招提寺の森のなかへはいっていった。
 金堂(こんどう)も、講堂も、その他の建物も、まわりの松林とともに、すっかりもう陰ってしまっていた。そうして急にひえびえとしだした夕暗のなかに、白壁だけをあかるく残して、軒も、柱も、扉も、一様に灰ばんだ色をして沈んでゆこうとしていた。
 僕はそれでもよかった。いま、自分たち人間のはかなさをこんなに心にしみて感じていられるだけでよかった。僕はひとりで金堂の石段にあがって、しばらくその吹(ふ)き放(はな)しの円柱のかげを歩きまわっていた。・・・
 僕はきょうはもうこの位にして、此処を立ち去ろうと思いながら、最後にちょっとだけ人間の気まぐれを許して貰うように、円柱の一つに近づいて手で撫でながら、その太い柱の真んなかのエンタシスの工合を自分の手のうちにしみじみと味わおうとした。僕はそのときふとその手を休めて、じっと一つところにそれを押しつけた。僕は異様に心が躍った。そうやってみていると、夕冷えのなかに、その柱だけがまだ温かい。ほんのりと温かい。その太い柱の深部に滲(し)み込(こ)んだ日の光の温かみがまだ消えやらずに残っているらしい。


 八一の代表作 「唐招提寺にて」    解説

  おほてら の まろき はしら の つきかげ を 
      つち に ふみ つつ もの を こそ おもへ
 
   (大寺のまろき柱の月影を土に踏みつつものをこそ思へ)

会津八一 1373

2017-03-27 20:01:33 | Weblog
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18基目の奈良の歌碑(会津八一) 2012・10・24・(水)

 会津八一の奈良における18基目の歌碑が2012年9月9日に建立された。場所は法隆寺正門近くの斑鳩町観光協会・法隆寺iセンター前である。
 10月15日に出かけ写真を撮ろうとしたら、子供が歌碑を読み始めた。平仮名書きなので読みやすい。「も」と「なる」に首をかしげ、省略された濁点は読めなかったが、素空が手伝って最後まで読むことができた。
 歌碑については鹿鳴人のブログを、歌の解説はこちらで!


         

会津八一 1372

2017-03-26 19:59:28 | Weblog
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「大和路」(堀辰雄)と會津八一4 2012・10・20(土)

 「大和路」の「夕方、西の京にて」は
 「秋篠の村はずれからは、生駒山(いこまやま)が丁度いい工合に眺められた」で始まる。
 先に引用した八一の「秋篠寺にて」 が浮かぶ。

  秋篠寺にて     解説

   あきしの の みてら を いでて かへりみる 
     いこま が たけ に ひ は おちむ と す


 「・・・ひとりでに西大寺(さいだいじ)駅に出たので、もうこれまでと思い切って、奈良行の切符を買ったが、ふいと気がかわって郡山行の電車に乗り、西の京で下りた。・・・荒れた池の傍をとおって、講堂の裏から薬師寺にはいり、金堂や塔のまわりをぶらぶらしながら、ときどき塔の相輪(そうりん)を見上げて、その水煙(すいえん)のなかに透(す)かし彫(ぼり)になって一人の天女の飛翔(ひしょう)しつつある姿を、どうしたら一番よく捉まえられるだろうかと角度など工夫してみていた。が、その水煙のなかにそういう天女を彫り込むような、すばらしい工夫を凝らした古人に比べると、いまどきの人間の工夫しようとしてる事なんぞは何んと間が抜けていることだと気がついて、もう止める事にした
 八一は 「薬師寺東塔」で水煙と天女を詠んだ。  解説

   すゐえん の あま つ をとめ が ころもで の 
        ひま にも すめる あき の そら かな

     (水煙の天つ乙女が衣出のひまにも澄める秋の空かな)

会津八一 1371

2017-03-25 19:49:44 | Weblog
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観音堂第9首(会津八一) 2012・10・17(水)

 10月15日(月)、奈良の友人・鹿鳴人夫妻に素空の彫った八一の書画を寄贈した。会津八一が好きで、奈良まほろばソムリエとして活躍する彼のもとにあれば、奈良を酷愛した八一も喜んでいるだろう。

 観音堂(第9首)     解説

  ひそみ きて た が うつ かね ぞ さよ ふけて  
          ほとけ も ゆめ に いり たまふ ころ  

   (ひそみきて誰が打つ鐘ぞさ夜更けて仏も夢に入り給ふころ)



会津八一 1370

2017-03-24 19:57:03 | Weblog
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「大和路」(堀辰雄)と會津八一3 2012・10・14(日)

 「大和路」の「海竜王寺にて」は続く
 「・・・私はそれからその廃寺の八重葎(やえむぐら)の茂った境内にはいって往って、みるかげもなく荒れ果てた小さな西金堂(さいこんどう)(これも天平の遺構だそうだ……)の中を、はずれかかった櫺子(れんじ)ごしにのぞいて、そこの天平好みの化粧天井裏を見上げたり、半ば剥落(はくらく)した白壁の上に描きちらされてある村の子供のらしい楽書を一つ一つ見たり、しまいには裏の扉口からそっと堂内に忍びこんで、磚(せん)のすき間から生えている葎までも何か大事そうに踏まえて、こんどは反対に櫺子の中から明るい土のうえにくっきりと印せられている松の木の影に見入ったりしながら、そう、――もうかれこれ小一時間ばかり、此処でこうやって過ごしている。女の来るのを待ちあぐねている古(いにしえ)の貴公子のようにわれとわが身を描いたりしながら。……

 八一の 「海龍王寺にて」第2首は柱の落書を詠む    解説

  ふるてら の はしら に のこる たびびと の 
        な を よみ ゆけど しる ひと も なし
 
     (古寺の柱に残る旅人の名を読み行けど知る人もなし)

 「楽書を一つ一つ見たり」と書く堀はきっとこの歌が頭にあったのだろう。「大和路」は「海竜王寺にてから「夕方、奈良への帰途」に続く。
 「海竜王寺を出ると、村で大きな柿を二つほど買って、それを皮ごと噛(かじ)りながら、こんどは佐紀山(さきやま)らしい林のある方に向って歩き出した。・・・

  まめがき を あまた もとめて ひとつ づつ
        くひ もて ゆきし たきさか の みち

    (豆柿をあまた求めて一つづつ食ひもて行きし滝坂の道)

 これは八一の「滝坂にて」第2首である。(解説)「噛(かじ)りながら」は「くひ もて」と同じ表現だ。

会津八一 1369

2017-03-23 20:03:41 | Weblog
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「大和路」(堀辰雄)と會津八一2 2012・10・8(月)

 「大和路」の「海竜王寺にて」でこう展開する。
 「・・・村の入口からちょっと右に外れると、そこに海竜王寺(かいりゅうおうじ)という小さな廃寺がある。そこの古い四脚門の陰にはいって、思わずほっとしながら、うしろをふりかえってみると、いま自分の歩いてきたあたりを前景にして、大和平(やまとだいら)一帯が秋の収穫を前にしていかにもふさふさと稲の穂波を打たせながら拡がっている。僕はまぶしそうにそれへ目をやっていたが、それからふと自分の立っている古い門のいまにも崩れて来そうなのに気づき、ああ、この明るい温かな平野が廃都の跡なのかと、いまさらのように考え出した。・・・
 この描写から八一の

  秋篠寺にて     解説

  あきしの の みてら を いでて かへりみる 
     いこま が たけ に ひ は おちむ と す

  (秋篠のみ寺を出でてかえり見る生駒ヶ岳に日は落ちんとす)

が浮かんでくる。そして「古い門のいまにも崩れて来そうな」から「ついぢ の ひま」を連想する。

  高畑にて      解説

  たびびと の め に いたき まで みどり なる
        ついぢ の ひま の なばたけ の いろ

      (旅人の目に痛きまで緑なる築地の隙の菜畑のいろ)

 初めて海竜王寺を訪ねた時、真っ先に目に入ったのは門前にある古い築地だったのを昨日のように思い出す。

会津八一 1368

2017-03-22 20:47:00 | Weblog
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「大和路」(堀辰雄)と會津八一1 2012・9・30(日)

 會津八一は唐招提寺でこう詠んだ。 

  おほてら の まろき はしら の つきかげ を 
       つち に ふみ つつ もの を こそ おもへ      

    (大寺のまろき柱の月影を土に踏みつつものをこそ思へ) 解説

 堀辰雄は「大和路」冒頭の「10月・夕方、唐招提寺にて」で
 「いま、唐招提寺(とうしょうだいじ)の松林のなかで、これを書いている。
・・・秋の日が一ぱい金堂や講堂にあたって、屋根瓦(やねがわら)の上にも、丹(に)の褪(さ)めかかった古い円柱にも、松の木の影が鮮やかに映っていた。それがたえず風にそよいでいる工合は、いうにいわれない爽(さわ)やかさだ。此処こそは私達のギリシアだ・・・この寺の講堂の片隅に埃(ほこり)だらけになって二つ三つころがっている仏頭みたいに、自分も首から上だけになったまま、古代の日々を夢みていたくなる。・・・

 鹿鳴集を携えた堀辰雄が上記の八一の歌を思い浮かべていたことは想像に難くない。「古い円柱」「古代の日々を夢みていたくなる」は古代のギリシャや日本への思いであり、それは八一の「ものをこそおもへ(深いもの思いに耽っている)」に通じる。
 しばらく、「大和路」の中に八一を探してみたい。

会津八一 1367

2017-03-20 19:59:59 | Weblog
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堀辰雄と会津八一 2012・9・19(水)

 最近手に入れた岩津資雄著の「會津八一」で八一の歌と「大和路」(堀辰雄)の関連が書かれていた。
 私の古都奈良への関心は「古寺巡礼」(和辻哲郎・1919年)と「大和古寺風物誌」(亀井勝一郎・1943年)だったが、堀辰雄の「大和路・信濃路」(1943年)にも影響を受けている。
 上記以外に会津八一の「鹿鳴集」(1940年)が多くの人の古都奈良への導きの書になっている。
 しかし、当時は会津八一を全く知らず、「大和路」が鹿鳴集に大きく影響を受けていることを読み落としていた。早速読み返してみて、鹿鳴集を手に奈良を歩く堀の姿が鮮明に浮かび上がってきた。
 「大和路」の中で触れているが、その時書いた小説が「曠野」(1941年)、早速、ネットの青空文庫で探して読んだ。短編なので関心のある方はどうぞ。王朝物の悲恋。(青空文庫・曠野へ


会津八一 1366

2017-03-19 20:05:25 | Weblog
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萩 2012・9・13(木)  解説

 あきはぎ は そで には すらじ ふるさと に 
       ゆきて しめさむ いも も あら なく に 
 

 会津八一は萩を失恋を背景にしてこう歌った。
 星野富広さんの9,10月を飾る詩と絵は「支えられて(ハギ)」、同じ詩歌でもこうも違うものだ。
     
    

会津八一 1365

2017-03-18 20:15:25 | Weblog
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高倉健と会津八一 2012・9・11(火)

 9月8日のNHKの番組「高倉健73分スペシャル」を見た兄から「会津八一の歌が放送で出てきた」と電話があり、翌日録画を届けてくれた。

 夢殿の救世観音に(会津八一)  解説

  あめつち に われ ひとり ゐて たつ ごとき
         この さびしさ を きみ は ほほゑむ   

   (天地にわれ一人ゐて立つごときこの寂しさを君はほほゑむ)

 高倉健の台本の最後にこの歌が大事に貼り付けてあるのだ。数分前に彼が「心を研ぎ澄ます」と言うようなことを語ったことと関係あるのだろう。

会津八一 1364

2017-03-17 21:31:41 | Weblog
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香薬師如来 2012・8・14(火)

香薬師を拝して(会津八一)   解説

  みほとけ の うつらまなこ に いにしへ の   
          やまとくにばら かすみて ある らし

 歌意
  香薬師のうっとりとした眼には古代の大和の国が春の霞にかすんでみえているらしい。 

 香薬師の歌十一首

 盗難にあった香薬師の右手が発見されたと今話題になっている。「香薬師の右手 失われたみほとけの行方」貴田 正子 (著) 2016/10/13
 素空はこの仏像を模作して自宅に安置している。