会津八一&団塊のつぶやき

会津八一の歌の解説と団塊のつぶやき!

ペシャワール会6(完)   M新聞・NKDさんより

2008-10-15 22:44:27 | Weblog
【伊藤和也さんが、ペシャワール会のワーカーを志望したときに提出した「志望動機」の文章です。2003年6月15日】

 私がワーカーを志望した動機は、アフガニスタンに行き、私ができることをやりたい、そう思ったからです。
 私が、アフガニスタンという国を知ったのは、2001年の9・11同時多発テロに対するアメリカの報復爆撃によってです。
 その時まで、周辺国であるパキスタンやイランという国は知っているのに、アフガニスタンという国を全く知りませんでした。
 「アフガニスタンは、忘れ去られた国である」
 この言葉は、私がペシャワール会を知る前から入会している「カレーズの会」(※注)の理事長であり、アフガニスタン人でもある医師のレシャード・カレッド先生が言われたことです。今なら、うなずけます。
 私がなぜアフガニスタンに関心を持つようになったのか。
 それは、アフガニスタンの復興に関係するニュースが流れているときに見た農業支援という言葉からです。
 このこと以降、アフガニスタンに対しての興味を持ち、「風の学校」(※注)の設立者である中田正一先生の番組、偶然新聞で見つけた「カレーズの会」の活動、そして、「カレーズの会」の活動に参加している時に見せてもらったペシャワール会の会報と、その活動をテーマにしたマンガ、それらを通して、現地に行きたい気持ちが強くなりました。
 私は、関心がないことには、全くといっていいほど反応しない性格です。
 反応したとしても、すぐに忘れてしまうか、流してしまいます。その反面、関心を持ったことは、とことんやってみたい、やらなければ気が済まないといった面があり、今回は後者です。
 私の現在の力量を判断すると、語学は、はっきり言ってダメです。農業の分野に関しても、経験、知識ともに不足していることは否定できません。ただ私は、現地の人たちと一緒に成長していきたいと考えています。 私が目指していることは、アフガニスタンを本来あるべき緑豊かな国に戻すことをお手伝いしたいということです。これは2年や3年でできることではありません。
 子供たちが将来、食料のことで困ることのない環境に少しでも近づけることができるよう、力になれればと考えています。
 甘い考えかもしれないし、行ったとしても現地の厳しい環境に耐えられるのかどうかも分かりません。
 しかし、現地に行かなければ、何も始まらない。
 そう考えて、今回、日本人ワーカーを希望しました。

【以下は、NKDの注です】
※ 「カレーズの会」=在日のアフガン人医師のレシャード・カレッドさん(58)が、医療や教育を通じてアフガンの復興支援を進める目的で2002年に発足させた。「カレーズ」とは、アフガニスタンをかつて豊かに潤していた地下水路を意味する言葉。カレッドさんは、アフガンがまだ王国だった1969年に留学生として来日して以来、在日歴39年。京都大学の医学部を卒業して、専門とする呼吸器科の医師を各地でつとめた後、静岡県の島田市に「レシャード医院」を設立して院長として今日に至っている。この間、地域の老人保健など福祉活動にも積極的にかかわっている。

※ 「風の学校」=昭和42年に茨城県の内原で農学博士、中田正一さんを中心に発足した。当時は「国際協力会」の名称だったが、昭和59年「風の学校」と改名。現在までに「風の学校」で学んだ生徒は100人以上を数える。金や物資ではなく、適正技術(現地調達、あるいは現地で作れる道具を使って、その国、土地に合った、農業や畜産を育成する技術)を学び、そしてその技術を開発途上国の人々に伝えることを目的としている。正一さんの死後、夫人の章子さんが中心になって運営。ペシャワール会がアフガンで井戸掘り事業をした時、「風の学校」が井戸掘りのプロを派遣した。

ペシャワール会5  M新聞・NKDさんより 

2008-10-12 23:59:58 | Weblog
 掛川市の葬儀での父親・伊藤正之さんの言葉

 5年前、初めてアフガニスタンに行くとき、「僕に何かあったら、アフガニスタンにこの身を埋めてくれ」と言って家を出て行きました。その時から、このようなことが起きるかもしれないと危惧を感じておりましたが、本人の強い意志を尊重し、送り出しました。
 現実に、心配していたことが起きてしまいましたが、私たち家族は決して和也をかわいそう、気の毒など思っておりません。小さいときからやさしく、他人思いの子で、妹、弟に対しても、いつも自分はいちばん後でいいと言って、何でも譲っていました。アフガニスタンでも決して変わることなく地元の人々に接することで、少しずつ受け入れられたと信じております。
 むしろ今回のことで、あらためてわが子がこんなにもたくましく成長していることに喜びさえ感じます。今回、本当に多くの皆様にお世話になり、私どもからお礼を申し上げるべきところですが、今この場でその言葉がうまく言い表せません。今までも申し上げましたとおり、和也は家族の誇りであり、胸を張って自慢できる息子であります。
 和也は新たに別の世界に旅立ちましたが、また大好きなアフガニスタンの地で、心温かな村の人たちと一緒になって井戸を掘り、川を造り、作物を育て、子供たちと仲良く話をしていると思います。私たちは決してアフガニスタンを憎んでおりません。恨んでおりません。ほんの一部の人間により、このようなことになりましたが、、和也も同じ気持ちだと思います。
 たまに帰ってまた出かけるとき、行ってらっしゃいと声をかけると、「行くんじゃなくて、アフガニスタンに帰るんだ」と言って出て行きました。「アフガニスタンは夜空の星がきれいだよ」と言っていました。和也はアフガニスタンの星になりました。そして、わが家の大きく輝く星になりました。会えなくなったことは寂しいですが、和也はアフガニスタンで生きております。今、日本に帰ってきていますが、もう少し家でゆっくりして、また出かけて行きます。和也の新たな旅立ちを拍手で送ってやってください。
 今回のことで、和也は私たちがなくしていたもの、忘れていたものを教えてくれました。思いやり、人の心の温かさ、そして、急ぐことなく、ゆっくりでも少しずつ積み上げていくことの大切さ、道徳の心を。
 最後に、今後は決してこのようなことが起きないよう、安全を第一としたご配慮を関係者の皆様にお願いしたいと思います。
 これから先も皆様方には大変お世話になることと存じますが、どうか今まで同様、よろしくご指導くださいますようお願い申し上げます。本日は、誠にありがとうございました。

ペシャワール会4  M新聞・NKDさんより 

2008-10-10 23:44:09 | Weblog
【9月1日、伊藤さんの実家のある静岡県掛川市の斎場で「お別れの会」として告別式がとりおこなわれ、親族や関係者など約700人が参列しました。ここでの中村現地代表の弔辞】

 故・伊藤和也くんは、2003年12月、大干ばつによって流民のあふれるアフガニスタンで、当時ペシャワール会が始めた「緑の大地計画」に参加、用水路建設を数ヵ月手伝った後、試験農場を担当、約5年間にわたって地道な活動を続けてきました。
 アフガンの村に溶け込み、アフガン農民の一人になりきって、全ての人々に愛されました。次第に砂漠化していく大地、餓死と隣り合わせにある農民たちの状態に胸を痛め、文字通り、人々と苦楽を共にしました。頑固ともいえるほど、ひたむきで誠実に働く姿は、彼に接する全ての農民に信頼感を与えました。
 しかし、さる8月26日、不幸にして心ない凶弾に倒れ、異国の地で人生を閉じました。享年31歳、余りに短い命ではありましたが、充実した一生であったと思います。
 寡黙で愚痴一つこぼさず、村人たちの生活を思いやり、必死で汗を流す姿は、多くの者に温かい励ましを与えました。
 和也くんは、決して言葉ではなく、その平和な生き方によって、その一生をもって、困った人々の心に明るさを灯してきました。
 成し遂げた業績も数々ありますが、何よりも、彼のこの生き方こそが、私たちへの最大の贈り物であります。
 平和とは、戦争以上の力であります。戦争以上の忍耐と努力が要ります。和也くんは、それを愚直なまでに守りました。
 彼は私に代わって、そして、すべての平和を愛する人々に代わって、死んだのであります。
 昨今、世界を覆う暴力主義――それが個人的なものであれ、正義という名の政治的・国家的なものであれ――和也くんを倒した暴力主義こそが私たちの敵であります。そして、その敵は、私たちの心中に潜んでいます。今必要なのは憎しみの共有ではありません。
 憤りと悲しみを有効と平和への石に変え、今後も力を尽くすことを誓い、天にある和也くんの霊が安からんことを心から祈ります。

ペシャワール3   M新聞・NKDさんから

2008-10-08 22:21:31 | Weblog
【9月9日、アフガニスタンのシェイワでの現地葬儀には、約800人の人が集まり、各村の有力者たちが弔辞を読み上げ、祈りをささげたそうです。そこでの中村哲・現地代表の弔辞】

 まず、ダラエヌール、シェイワ、シギの全ての人々が伊藤くんの捜索活動や遺体搬送に協力し、そして今日、こうして多くの方々が哀悼の意を表してくださることに、心からの感謝を申し上げます。
 伊藤くんの遺徳については、多くの方々がさまざまに生前のことを述べられたので、私がくどくどと申すことは無用かと存じます。ダラエヌールの小さな子供やご婦人方に至るまで、悲しみを表し、私たちPMS(ペシャワール会医療サービス)への同情と感謝を、あらためていただいたことは、悲しみの中にあっても、光栄というほかありません。
 伊藤君を殺したのはアフガン人ではありません。人間ではありません。今やアフガニスタンを蝕む暴力であります。政治的なものであれ、物取り強盗であれ、心ない暴力によって彼は殺されました。
 不幸にして世の中には、伊藤くんの死を政治目的に利用しようとする者もいます。また、アフガニスタンという国の文化を知らず、PMSと皆さんとの交誼を知らず、さまざまなうわさや論評が横行いたします。その中には聞くに堪えない無理解、戦争肯定が少なからずあります。そうして生まれる武力干渉が、現在のアフガニスタンの混乱を招いてきました。このことを否定する者は,今日集まられた方々の中にはいないと思います。私たちはもう、戦争に疲れました。
 私たちPMSは、極力アフガンの文化を尊重し、アフガン人がアフガンのふるさとで、アフガンのやり方で生活できるように、平和なやり方で、事業を進めてきました。繰り返しますが、「平和に」です。戦争と暴力主義は、無知と臆病から生まれ、解決にはなりません。
 いったい、イスラム教徒であることが罪悪でしょうか。アフガン人が自らの掟に従って生きることが悪いことでしょうか。私はキリスト教徒であります。しかし、だからとて、ただの一度としてアフガン人から偏見を持たれたことはありません。良いことは誰にとっても良いことで、悪いことは誰にとっても悪いことであります。現に、このようにして全てのクズクナールの人々が集い、異教徒である伊藤くんの死を悼んでいるではありませんか。心ない者はどこにもいます。今回の事件でアフガン人と日本人との間に亀裂があってはなりません。
 アフガン人も日本人も、親として、人としての悲しみに、国境はありません。命の尊さに国境はありません。「困った時の友こそ、真の友だ」といいます。今、アフガニスタンは史上最悪の時を経ようとしつつあります。500万人以上の人々が飢餓に直面し、無用な戦争で多くの罪のない人々が命を落としています。
 かつて60年前、日本もまた、戦争で国土が廃墟となりました。200万の兵士と、100万人の市民が死に、アジアの近隣諸国にはそれ以上の惨禍をもたらしました。私も、生まれた直後の様子をよく覚えております。外国人はいつでも逃げることができます。しかし、この廃墟と化した土地にしがみついて生きなければならぬアフガン人は、どこにも逃げ場所がありません。
 であればこそ、私たちPMSは、変わらずに事業を継続して、皆さんと苦楽を共にいたしたいと思います。それがまた、伊藤くんへの追悼であり、過去の戦争で死んだ人々への鎮魂であります。皆さんの協力と要望がある限り、PMSの活動をやむことなく継続することを誓い、弔辞といたします。
 
    2008年9月9日  アフガニスタン・シェイワにて ペシャワール会現地代表・中村 哲


ペシャワール会2  M新聞・NKDさんから

2008-10-06 00:16:43 | Weblog
先日、アフガンで殺された伊藤和也さんのことに少し触れましたが、『DAYS JAPAN』が特集を組み、ペシャワール会からは「追悼号外」が送られてきましたので、その情報をお知らせします。
まず、『DAYS JAPAN』もペシャワール会号外も、伊藤さんが生前に撮影した「菜の花畑の少女」の写真を表紙に使っています。『DAYS…』の写真はカラーなので、雰囲気がよく分かると思います。旱魃の恐怖に追いかけられているような国での「菜の花畑」なので、伊藤さんたちがやっていた仕事の意味合いがよく分かる写真だと思います。そして、少女の表情からは、撮影者を信頼している様子がうかがえます。
「号外表紙」のほか、もう1点モノクロの写真を添付しましたが、これは、号外の中に掲載されたペシャワール会現地代表・中村哲の弔辞(9月1日、伊藤さんの実家がある掛川市の斎場での葬儀のときのもの)に添付掲載されている写真です。ショベルカーを運転しているのが中村代表で(この人は、いつもこのように土まみれになって現場で働く人です)、ちょっと分かりにくいですが、ショベルの先の部分の上に顔だけ少し見えるのが伊藤さんです。 

ペシャワール会1  M新聞・NKDさんから

2008-10-04 00:10:01 | Weblog
SURUMEさん

さっそくのご返信、ありがとうございました。特にペシャワール会のことは多くの人に知ってもらいたいので、ご協力をお願いします。

(以下は9月初旬に書いた文章ですが、ご参考に)

私がペシャワール会のことを知ったのは、アメリカがアフガンへの爆撃を開始した後だったと思います。日本の国会で「アフガン復興」が議論され、ペシャワール会の現地代表・中村哲医師(ペシャワール会は、もともと中村医師の活動を支援するために組織されたものなので、会長は別の人です)が参考人として呼ばれ、長年、現地で医療活動・農業支援活動などを経験してきた立場からの意見を求められました。その頃、アフガンへの自衛隊派遣が論議にのぼっていたのですが、自衛隊派遣についてどう思うかと尋ねられた中村医師は、はっきりと「有害無益です」と答えました。それを聞いた与党議員たちは烈火のごとく怒り、「発言を撤回しろ!」などと議場は大騒ぎになったそうです。
そのことを知った私は、中村医師に「惚れ込み」、ペシャワール会の会員(年会費は3千円で、年3回ほど会報が送られてきます。会員数約1万2千500人)になったわけです。
後で知ったのですが、中村医師は、あの、映画にもなった『花と龍』の玉井金五郎の孫です(小説『花と龍』を書いた火野葦平は主人公・金五郎の息子で、中村医師の伯父に当たる)。その気骨は、おじいさん譲りだったのわけです。

ペシャワール会の内容などについては下記のサイトをご参照ください。
http://www1a.biglobe.ne.jp/peshawar/

今回の事件について中村医師がどんな総括をするか分かりませんが、ペシャワール会の地道な現地支援をアメリカの根拠薄弱な(むしろインチキな――というべき)攻撃(侵略)が妨害してきたことは事実です。そのアメリカと、それに追従している日本政府の姿勢が今回の事件を産んだ――つまり、伊藤さんを殺したと私は思っています。ほとんどのペシャワール会会員も、そう思っているでしょう。


「平和」に関する情報   M新聞・NKDさんから 

2008-10-02 01:01:33 | Weblog
SURUMEさんへ

ごぶさたしています。
この夏の暑さで、体も精神力もガタガタになりつつあります。
が、なんとか、「平和」に関する情報です。

米軍の原子力空母は、ついに横須賀に配備されてしまいました。残念ですが、私たちは諦めるわけにはいきません。もし、この空母がチェルノブイリのような原子炉事故を起こしたら、隣町に住んでいる私たちは「即死」だそうですから。
そこで、空母がくる前夜の9月24日と、きた当日25日の2晩続けて、横須賀の反対集会・デモに参加してきました。24日は共産党系の集会でしたが、約2,000人が集まったものの、国会議員は1人もきませんでした。25日は、江橋崇法政大学教授が代表をつとめている「平和フォーラム」(正式名称は「フォーラム平和・人権・環境」)の主催で、約5,000人が集まり、民主党、社民党の国会議員4人が出席しました。

およそ40年前、原子力空母エンタープライズの佐世保寄港に反対する集会が日比谷野外音楽堂で開かれ、ノンポリ学生だった私たちは友人と2人で労働組合の中にまぎれ込み、東京駅までデモしました。腕を組んで道路いっぱいに広がり、ジグザグに歩く「フランスデモ」で、隊列は警備している機動隊とあちこちでぶつかりました。それに比べると、今回のデモは、機動隊員も一部(革マル派が演説している周辺)にしかおらず、とっても静かな行進でした。

平和フォーラム
http://www.peace-forum.com/


原子力空母の横須賀母港問題を考える市民の会
http://cvn.jpn.org/cvn/