続・浜田節子の記録

書いておくべきことをひたすら書いていく小さなわたしの記録。

デュシャン『回転ガラス版(精密光学)』

2020-05-26 06:49:14 | 美術ノート

   『回転ガラス版(精密光学)』
 ペイントされた5枚のガラス板がの軸を中心に回転し、一メートルほど離れて見ると一つの円が現れる。

 静止と回転の間・・・まったく同じものが異なる映像に転移する現象である。つまり、見えていたものが見えなくなり、新規の現象が姿を現すという視覚上の変化。

 こうしたらこうなったという偶然は新鮮であると同時に繰り返されることにより必然と認可される。 
 精密光学、人為的な構築(操作)であり、自然界には起こり得ない現象である。エネルギーの媒介、人がエネルギーを利用して世界を変える見本でもある。
 この機械仕掛けの仕組みは実に簡単である。回転という操作で今在った景色が消えるという驚異、そして異なる景色が現出するという発見は多くのことをもたらしている基因である。

 精密光学という人智、進化は留まるところを知らないが、自然界には決して有り得ない現象を発見していくデータの集積。
 時間と空間を操作する人知の原初を解説風に提示している。記念碑的なモニュメントであるが、機械文明のさなかにいる鑑賞者は(熟知している)とばかり通過していくに違いない。急速な発展の影で、忘れられかねない基本の風景である。


 写真は『DUCHAMP』ジャニス・ミンク www.taschen.comより


『城』3424。

2020-05-26 06:20:31 | カフカ覚書

そんなことをしようものなら。ものの一時間か二時間でたちまち辞めさせられてしまいます。ましてや、客室付きの女中のようなやりかたをここでもしようというような料簡でいようものなら、たいへんなことですわ!


☆予想外のことをしようものなら、全く受け付けてもらえません。さもないと外書の見習いでさえも失ってしまいます。ここでの作り事、小舟のやり方は終わったのです。


エドワード・ホッパー「ナイトホークス」④

2020-05-25 07:05:26 | 美術ノート

 心理劇…視線は画面の中央辺りに位置している。上部と下部の真ん中あたりに人物の配置がある、つまり主要人物である彼らは上からも下からも圧を受けている。
 横拡がりの画面は焦点を定めにくい。その上、左右の空間は繋がっているが、右の人物のいる景に比して左は空虚である。半分に切り落としてもいいとさえ言える。しかし敢えて左半分の空虚を必然としたのは右半分の空気をより明確にするためである。この無空に潜在する漠然とした空気感は想像を掻き立てる。

 左半分の彩色の暗さは、希望ある明日を排除する。この暗さは夜の景である以上の意味を、右半分の彼ら四人の間に広がるムードによって醸し出している。
 ストップモーション、切り取られた静止画は、彼らの吐息を再生させる。何でもないありきたりの光景に明日の時間を垣間見せている。
 一人一人が際立ち、人生の片鱗を見せている。夜の一隅にたまたま居合わせた四人、カップルと見える二人でさえ行きずりかも知れない。

 画面は人生の重さ、しいて言えば孤独を、左半分のがらんどうな空気に測っている。人の成した叡智である建築(建物)、近代という時代の狭間で人は沈黙を余儀なくされる。自由を約束されているはずの国、アメリカのナイトホークスである。


 写真は日経『経済で見る名画/十選』田中靖浩より


『忘れえぬ人々』153.

2020-05-25 06:49:48 | 国木田独歩

我れと他と何の相違があるか、皆なこれこの生を天の一方地の一角に享けて悠々たる行動を辿り、相携えて無窮の点に帰る者ではないか、というような感が心の底から起って来て我知らず涙が頬をつたうことがある。


☆画(はかりごと)は多い。
 化(教え導く)総ての意(考え)の解(さとり)を展(ひらく)。
 逸(隠した)法(神仏の教え)は、字に逸(隠れている)。
 覚(感知する)教(神仏のおしえ)は幽(死者の世界)が有(ある)という講(話)が漏れてくる。
 点(小さいしるし)は、総て系(つながる)謀(はかりごと)である。
 究めると、転(ひっくり返る)記である。
 視野(思考見解観察などの及ぶ範囲)を勘(調べ)審(正しいかどうかを明らかにする)記である。
 磊(小さなことにこだわらない)画(はかりごと)の質(内容)の塁(より所)は、教(神仏のおしえ)である。


『城』3423。

2020-05-25 06:21:15 | カフカ覚書

わたしだって、それまでむだに日を送っていたわけではありません。どんなに奔放な空想をほしいままにしているときでも、この地位を手に入れようなどと考えたことは一度もありませんでしたが、それでも十分に観察だけはしていて、この地位がどんなに重要なものであるかを承知していましたから、準備なしに引受けたわけではありません。この地位は、とても準備なしに引受けられるようなものではありません。


☆その上さらに単にただ日を送っていたわけではありません。傷痕を取り除いてほしいというこの立場は、決して厚かましい考えではありません。しかも十分に遵守を承知していますが、この事は予測しておらず受けることはできません。 


エドワード・ホッパー「ナイトホークス」③

2020-05-24 06:54:10 | 美術ノート

「ナイトホークス」、人口の光彩である。カップルの彼はバーテンと視線を一つに会話している。彼女は彼に左手をのばし、彼の右手の指先に触れている。
 一人で座っている男の手はなぜかカウンターの内部に伸びている。
 それぞれ積極的な動きはなく気だるい雰囲気だが、秘密めく妖しいムードはぬぐえない。

 今日一日の疲れを癒す、しかし労働者ではない彼らの仕事は何なのだろう。戦火にいる身内への想いなのか自身の明日への不安なのか・・・夜が明けるまでの安息、否、震えるような緊張かも知れない。
 機密情報のやり取りなどではなく、単なる休息に過ぎないかもしれない。窓越しの光景に荒々しさは微塵もない。
 静かすぎる夜更けの街角、道を挟んだ灯りの消えた店内にも人影があるように見える。

 クリーム色の壁の明るさが全体の暗さを脅かしている。全体の暗さは明るい壁の部分に全力で対抗している。しかし、夜が明ければ勝敗は一つの色の中に集結してしまうに違いない。
 夜の安らぎ、平穏なひと時。忍び寄る気配は妄想にすぎない。

 だが、真夜中の時間と空間は秘かに暗躍している。


 写真は日経『経済で見る名画/十選』田中靖浩より


エドワード・ホッパー『ナイトホークス』②

2020-05-23 07:07:09 | 美術ノート

 鑑賞者が作品(画面)を見るとき、人がいれば先ず人を見るのは、自然のことである。景色(空間)より人物の動きを察知するのは潜在意識のなせる止む無き行動に他ならない。

 にも関わらず、この画の場合、なぜか左半分手前の空間に引っ張られてしまう。それは店のフレームのような腰板部分と天井の枠が、黒く太い二本の線状になっており、あたかも遠近法により焦点を誘う構図になっているからである。

 つまり、この画は初めから視線を左右に分散させ、人物たちと空虚を並置している。ゆえにポツンと一人で腰をかけている男の背中と店の光を受けているポールに視線が留まるという具合である。脳裏には左右の景色が残像としてあるが、なぜか意味をもたない暗闇へと誘引される。

 もちろん無意識な流れを正当化する術はないが、鑑賞者の視線の流動は打ち消し難い。男の背や照明の当たったポールがなければ、カップルとバーテンの三者に比重がかかり左半分の空間は意味のないただの空間として浮いてしまう。

 光と影の交錯を調合するのが彩色である。黒と赤、赤と緑、緑と黄、この対比(補色)のバランスの巧妙さがそれぞれの配色を活かしている。
 黄と緑(光)をつなぐ黒と赤(影)は直線と緩いカーブの線によってくっきりとした境界を判別し堅固な動かし難い空間を模り、人物に反映させ存在の翳りを浮上させている。

 劇中の無言劇はとてつもなく多くを語り、鑑賞者に沈黙を強いている。


 写真は日経新聞「経済で見る名画・十選」田中靖浩より


エドワード・ホッパー『ナイトホークス』

2020-05-22 07:09:58 | 美術ノート

   『ナイト・ホークス』

 この画を見た時、画にはこういう手法があったのかと胸を衝かれた。
 画面半分は不在の空間が拡がり、右半分の店内、奥に三人の客とバーテンが描かれている。
 打ち沈んだ空気、大声や怒号は聞こえない。にもかかわらず精神の波の大きなうねりがある。
 店内の照明(灯り)が全体に落ちている影を引き立てている。光が影を支え、光が影の役目を担っている。
 1942年、第二次世界大戦の最中であれば肯ける暗さである。

 人が主役という観念めく思いがあるが、ここでは光景の一端として無言の空間に対峙している。無駄と思われる床面積の広さ、手前の空間は鑑賞者を後ろに退けさせる。
 故に、ここには描かれた以上の距離が生じ、男女の会話や一人で飲む男の背に近づけさせないタブーのバリアがある。笑いやユーモアのない陰鬱な空気、明日が不明な凍結したような空気は、まるで地上の安定を揺らしているかのようである。

 地上の空間であるに違いないのに、何か客船、海上を漂っているような不安定さが垣間見える。
 ホッパー、この画家への動揺を隠せない。


 写真は日経新聞「経済で見る名画十選/田中靖浩」より