ガタゴトぷすぷす~外道教育学研究日誌

川口幸宏の鶴猫荘日記第2版改題

静かに過ごす

2017年03月24日 | 日記
○7時起床、起床時室温12℃。
*どうしてだかほとんど眠れず。昨日痛めた右脚の痛みは引きずっていないが。
○「この薬は血管が詰まりにくくなる血液サラサラ薬です。怪我をしたら血が止まりにくくなる薬です。」
 効能というか注意というか。
 用心に用心を重ねて、転ばないように、切らないように、ひっかかないようにと生活をしてきたが、「打たないように」という心根は少しも持っていなかった。
 で、昨夕、外階段で思いっきり右の向こう脛を打った。痛いことは痛いけれど耐えられないほどではなかったが、後刻、出血をしているのに気づいたーこれがとんまなぼくらしいところなんです、ハイ。
 本当に血が止まりにくいですね。薬効万全です。
 傷口を消毒し、絆創膏を張り止血代わりにしましたーあ、弘美君にしてもらいました。
 気をつけよう、自分は自然な健康体ではないのだぞ。
○ほぼ終日、清水先生に手紙書き。これは、ぼくのセガン研究を、ぼくの方法論の視点からの再点検というか総括というか、そういうことが出来るようになった2012年のシンポジウムであったこと、やっと孤独な戦いを終えることが出来るようになった、というぼくの心根を背景とした、新しいセガン研究情報の一環としてお伝えする趣旨。だから、ぼくのセガン研究の「応援者」たちにもお送りしようと思っている。なるべく簡潔、鮮明に。

S氏にあて、2012年シンポジウム報告に関する手紙

2017年03月24日 | 研究余話
S 先生

寒さもすこし和らいで参りました。その後いかがお過ごしでしょうか。
たびたびお便りを差し上げる無礼をお許しください。我が国のセガン研究を開拓され、リードをしてこられた先生だからこそ、先生とは別視角でセガン研究の世界に参入した者の立場で、「セガン」を、今、どのように読むことが出来るか、どのように読まれているかをお伝えしたいと思っての一連の行為であります。
今便では、とくに、2012年10月、クラムシーで開かれたセガン生誕200周年記念シンポジウムではどのようなセガン像が提案されていたのか、についてお知らせしようと思っております。今回は「白痴教育」には関わらない情報です。生誕から1830年代半ばまでの幾つかのトピックスを取り上げ、内容紹介と共に私のコメントを添えることにいたします。取り上げた報告は、心理学者ダニエル・ジャロウ「エデュアール・セガン:出自と後継―伝承と虚構の間で」。私の研究内容と重なる唯一の(活字化された)報告です。シンポジウム報告書pp.19-48.
(なお、私が、セガン研究において大いなる賛辞を送り学んできた医学博士ジャン・マルタン氏のセガン研究報告は残念ながら活字化されておりません。マルタン氏の報告の中に私のセガン研究の成果が、アドリブではありましたが、大きく採り入れられていたことを思えば、残念なことです。)

1.学歴に関して
   おそらく1818年~1824年頃 クラムシーのコレージュの初等科
       1824年頃~1828年 オーセールのコレージュ
       1828年頃~    パリの王立コレージュ、ルイ=ル=グラン 
バカロレア有資格者となる。
       1830年      パリ法学校在籍開始
コメント
①クラムシーのコレージュに在籍したであろう、ということであり、確定ではない。現在の就学習慣をそのままセガンにあてはめているようだ。「おそらく」とか「頃」とかの言葉を付加して学歴を綴っていることから、公的な記録文書にはあたっていないと判断される。また、この報告全体に「祖母の家の自室」記述もなければ、セガンが白痴教育論の中で厳しく批判を繰り返している当代の貴族・ブルジョア階級の子育て・教育についての論究も一切ない。近世・近代の子ども史・教育史について、あまり知見を持っておられないと感じる。
②パリの在籍コレージュをルイ=ル=グランとしているのは、セガン史資料を収集し公開しているギ・ティエイエ氏の説に従っているのだろう。しかし、ルイ=ル=グラン在籍とする根拠資料は、ギ・ティエイエ氏同様、提示していない。私はパリ国立古文書館で検索した結果を2010年著書に綴っているが、発見し得た史料はただ一件に過ぎないけれども、それに従うことに瑕疵はないと確信する。
③「パリ法学校」在籍はフランス近代教育制度史知らずであることを明らかにしていると言わざるを得ない。ナポレオン教育改革によって、旧制度下にあった法学校、さらに医学校は、それぞれ法学部、医学部と改称した。セガンが在籍したのは新制度の法学部である。

2.セガン20歳(1830年)の時の徴兵検査結果に関わって
ダニエル・ジャロウ氏は、徴兵検査の結果は、「右手奇形にして虚弱体質」「兵役可能」であり、7年間の兵役義務が生じている、ところが、1834年9月22日、ジャック・オネジムは、「兵役請負人」によってセガンの身代わりをさせた、としている。
コメント
①私は、2010年の著作で、徴兵検査の件について、公文書に基づいて書いている。「兵役可能」であったにもかかわらず兵役に就いていないことは、徴兵検査の翌年1833年11月に法学部試験、同日学籍登録をしていることで明らかである。一体どうしたことか。
②ダニエル・ジャロウ氏はこの問題を、上記のように、「兵役請負人remplaçant」という存在を示すことによってクリアした。
③セガンは、徴兵検査の結果合格し、徴兵くじを引いた。徴兵される順番である。「召集兵第19番」であった。父親が徴兵検査合格の2年後に、前記のように、「兵役請負人」を雇ったのには、営舎入りが徴兵くじに当たった順番待ちによるのだろうか。このあたりはダニエル・ジャロウ氏も綴っておらず、推論でしかないが、すぐに兵役に就いていないことがこうした推論を成り立たせる。
④セガンに代わって兵役を請け負った人について、ダニエル・ジャロウ氏は、クラムシーの公証人アンギニオの息子ミニュートという人物であったことを明らかにしている。政治的権力と経済的優位性がなければ不可能なこの「交換」は、セガンの父親が、医学博士として国家の医療行政を通して身にまとった「力」がどれほどに大きかったことかを、推察することが出来る。そしてこの「力」は、セガンの白痴教育開拓史に遺憾なく発揮されたことだろう。

3.セガンがサン=シモン家族であったという従来の解釈に関して、ダニエル・ジャロウ氏は、おそらく、サン=シモン家族の一員ではなかった、と書き出している。それは、自身の見解ではなく、パリ国立鉱山高等専門学校技師であるアンリ・フールネル氏による次の指摘の引用からである。「ムーリス・ワロンは、1908年、『サン=シモン主義者と鉄道』を著している。その71頁、大方の鉄道敷設の主導は、多かれ少なかれ、サン=シモン主義教義の下になされた。すなわちジュール・セガンが、1831年にサン=シモン家族の第3位階メンバーとして加わっている。(・・・)彼は技師マルク・セガンの兄である。」
コメント
①エデュアール・セガンが、1831年5月5日に、サン=シモン主義家族に第3位階メンバーとして列せられたとした私の典拠史料とムーリス・ワロンの主張の典拠史料とは同じである。その史料にはただSEGUINとのみしか記されていないので、両者とも論理上の史実=氏名特定となる。
②サン=シモン主義理論が鉄道の敷設等産業の近代化を実践的に図ったことは史実である。ムーリス・ワロンは、鉄道敷設の人的主導と理論的主導とを、ジュールとマルクの両セガンに求めたわけである。そのこと自体は決して誤りではない。ただ、1831年5月5日のセガンがマルクの兄ジュールだとする論理そのものは、アンリ・フールネル氏の指摘を借りて述べたダニエル・ジャロウ氏の報告からは読み取ることが出来ない。
③それに対するエデュアール・セガン説を採り入れた私の論理は2010年著書に示したとおりである。何よりもセガン自身の「回想」に、サン=シモン主義家族との親密な関係(学び等)が述べられていることは大きな意味を持つだろう。しかも、サン=シモン主義集団を宗教家族集団としての性格を持つことを、私は指摘しており、セガンの実践理論の中に、その性格を垣間見ることが出来ることを、現在、肯定的に検討中である。

4.1836年、セガンは、「芸術批評」を内容とした著書を出す計画であったこと(これは実現しなかった)、同タイトルで『ラ・プレス』紙に評論を執筆している。
コメント
①ダニエル・ジャロウ氏はセガンの芸術評論の現物を見ていないのだろう。もし見ていたとするならば同評論の執筆者名の検討が必要であることに気づいたはずである。この問題は、拙著執筆時より引っかかっていたことであるが、同書公刊時には等閑に付しておいた事柄である。
②第1評論1836年8月3日、第2評論1836年9月8日、第3評論1836年9月22日。それぞれの筆者名は、第1がED. SEGUIN、第2,第3がSEGUIN AINÉ。
私は拙著で、SEGUIN AINÉについて、「セガン兄」という意味であること、弟ジュールがパリで医療に従事していたからだろう、と説明している。これは苦渋の策で取ったことであり確証はなかった。だが、この時期、SEGUINの名で活躍していた者に、前記3.で触れたジュール及びマルクのセガン兄弟がいる。そのことも視野に入れた執筆者確定をすべきであったと、今は反省している。
③気になることは、第1評論のあと第2評論までに約1ヶ月の間が開き(なんせ日刊紙なのに、なのだ)、しかも執筆者名が変更されている。ちなみに、セガンがSEGUIN AINÉを名乗ることは後にも先にもない。ひょっとしたら、ED. SEGUINとSEGUIN AINÉとは別人であるのかもしれない。1837年に白痴教育の道に歩みだした時のことを「死に瀕した病からようやく立ち上がった」と書いている。もしかして、その病の床に伏せり始めたのが第1評論発表の後なのかもしれない。当時、インフルエンザがパリ中に蔓延し、夥しい死者も出た、という。ある記録では、パリの住人の半分がインフルエンザで寝込み、残りの者がその看病に当たっていた、とあるほどの大流行だったそうだ。

今便は以上であります。史資料発掘と論理読み以外にセガン史を描くことは難しい作業だということを、今もなお痛感させられたシンポジウム報告でありました。私に体力と能力に余力があれば、シンポジウムの邦訳をしたいところですが、この作業は、後に、どなたかがなさるだろうことを期待してやみません。
それでは失礼いたします。