ガタゴトぷすぷす~外道教育学研究日誌

川口幸宏の鶴猫荘日記第2版改題

セガン話 第7回

2014年09月23日 | 日記
ロマン・ロラン『コラ・ブルニヨン』と筏師
 過ぎ去ったことを懐かしむだけでは今を十分に満足して生きることはできない。ましてや明日のことを展望できるはずもない。・・・なんて、急に教訓的な物言いになってしまいましたが、今回の「セガン話」は、少し立ち止まり、セガンが生まれ育った地域について、そう、階層・階級文化的なとらえ方ではなく、セガンを理解するために、ひょっとしたらセガンに染みついているかもしれない土着的なものを探ってみようかと、思いますんや。
 大作『ジャン・クリストフ』の作者の同一作品とは思えない、自由で闊達な『コラ・ブルニヨン』は、作者ロマン・ロランをして、「永久に眠ったものだと思っていた過去を、つまり、わたしの皮膚に染みついて離れないコラ・ブルニヨンのすべてを、呼び覚ました。わたしは彼らに代わって語らなければならなかった。」(拙訳)という代物です。今を生きる者がそのご先祖様の声を聞き、筆記するという物語様式を採り入れることによって、「過去」の中に「今」を見るロマン・ロランの歴史の切り取り方。どうです?共感しません?
 ところで、『コラ・ブルニヨン(Colas Breugnon)』という書物タイトルですが、「ブルゴーニュ地方のコラ」という意味になります。コラというのはフランス・ブルゴーニュ地方に多くある伝統的な苗字です。ロマン・ロランが同書を第一次世界大戦前に脱稿し戦後に公刊したその序文「戦後の序文」(1918年11月)に、「コラ・ブルニヨンの孫たちが自らを英雄にも犠牲にも仕立てた血なまぐさい英雄的行為は、『やつぁ、まだ生きてる』ことを世に明らかにしたのだ。」と言っているのです。つまりなんですな、ブルゴーニュ魂というものが16世紀来、脈々と息づいている、そう、大作家ロマン・ロランの胸の内に。ひょっとしたらそれと同じものを感じて、セガンは、小品「筏師」を綴ったのかもしれませんね。そしてそれは、医学博士の先生様とブルジョア出身の奥方様とがセガンに培おうとした文化とは異質なものであったのかもしれません。
 『コラ・ブルニヨン』は、1560年頃に生まれた50歳の家具士コラおじさんを主人公とした、クラムシーの四季折々の、つまり歳時記にあわせた生活を綴った語り文学です。邦訳がいくつか出されていますが、みすず書房のロマン・ロラン文庫6、宮本正清訳版が、ぼくは名訳だと思っています。何せ、けっこう難しい、いや癖のあるブルゴーニュ方言をこなしておられます故。名訳をお借りして、さわりをご紹介しましょう。(旧漢字旧仮名遣いは現代のそれに直しています。)

 ・・・カニヤは、ヨンヌ川の向岸をぶらぶらしたりベイヤンの橋の上に立ちん坊をしている、筏師たちと大声に怒鳴って話している。二つの町に住む鳥は違ってもその習慣は同じことで、昼間は橋の縁に御輿をすえて近所の居酒屋で嘴をぬらすのだ。ブーヴロン河の息子とペツレエムの息子との会話は、例によって例の如く悪洒落だ。ユダヤの御連中はわしらを田舎者扱いをしてブールゴーニュの蝸牛だとか、糞虫だとか言う。そこでわしらは彼らの御愛敬に答え彼らを「蛙」とか「かますの口」とか呼ぶのだ…。
 わしは先ず筏乗りたちに、カニヤとロビネに手を貸してわしの車を筏に乗せそれからわしが選んだ木材といっしょにブーヴロン河を流してくれと頼んだ。彼等はさんざん怒鳴った。
 ブルニヨンの野郎! 厚かましい奴だ!
 彼等は散々怒鳴ったが、手伝ってくれた。結局心ではわしを好いているんだ。

 クラムシーという街はブヴロン川とヨンヌ川とが合流する地点に作られたところだとは先にご紹介しました。この合流地点に、サン=マルタン教会を中心として作られた城郭都市を旧クラムシー、それとはヨンヌ川を挟んで対岸にある地区をベトレーム(『コラ・ブルニヨン』では「ベツレエム」)街と呼んでいます。コラおじさんは旧クラムシーに居住し仕事場を郊外に持っています。ベトレーム街(「ベイヤン」)に住む人は定住させられた筏師家族で、ユダヤ人です。旧クラムシーとベトレームとは、今日もなお、宗教的な微妙な問題を抱えているそうですが、ロマン・ロランはコラおじさんを通してこのことを描いています。しかし、生活的な対立を見せながら、結局はそうした問題を捨てはせず、抱擁していく陽気さ、ブルゴーニュ気質を描いているのです。
 サン=マルタン教会を擁するクラムシー。コラおじさんは胸を高鳴らせて、「その日」を待つ。
 真先に、当然聖ニコラが進んだ。鎧虫の用に背中に金色の太陽の刺繍を流した法衣を着たカラーブルの王は両端が舟形に曲がった川の聖者の棒をま黒い節くれだった腕に持っていた。その棒には、桶の中に座った三人の子供を聖ニコラが笏杖で祝福している図を表していた。

 水の職能集団の守護神サン=ニコラがあらゆる職能集団の先頭に立つのです。それに続くのはサン=エロアを守護神とする鈴鍋・鉄鋼職能集団、サン=ヴァンサンは葡萄酒、樽、サン=オノレはパン、などなど。年に一度の重大な守護神を担いでのサン=マルタン教会の祭り。その中に筏師組合が位置づけられているのです。『コラ・ブリニヨン』では、このお祭りを9月末としています。今日もこのお祭りが開かれていますから、セガンもきっと目にしたはずですよね。
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セガン話 第6回

2014年09月21日 | 日記
承前 セガンの幼少年期 
 セガンが誕生した土地クラムシーが、セガンの人格形成にとってどれほどの意味があったのかは、十分に納得いくようにはお話しすることができません。せやけど、たしかにセガンは、自分の生育にとって何らかの意味があったことを思わせる記述をしているのです。前回のルソー流儀の自然の遊びは別でっせ。1875年の『教育に関する報告』の中で、「幼いころ、ニヴェルネ地方で、小麦やオート麦が7種類の枡で量られ、売られるのを見ていた」という経験の記述があります。はて、それはどこのことやろう?セガンが生まれたクラムシーはニヴェルネ地方に位置します。そして誕生時に届け出られた住所オ・バー・プティ=マルシェ通り(上小市通り)にT字に交わっている道がプティ=マルシェ通りで、まさしくその道に麦の市(小市)が立ち、かつ、セガン家にぶつかっているのです。
 この回想からすると、セガンは、まったくクラムシーと無縁で育ったわけではないと言えましょう。何歳頃の経験というより、幼年期全般で見聞する光景だったのでしょうね。
 あと一つ、非常に特徴的な文学的小品「筏師たち」を1841年に発表しています。これは16世紀半ばから20世紀初頭にかけてのクラムシーの最大産業であった薪材の生産とパリへの搬出で、俗に「筏(いかだ)流し」と呼ばれていますが、そのもっとも重要な役割を果たした職人をテーマとしたもので、「筏流し」に関する近年の掘り起こしと研究のための最重要資料として扱われています。セガンは、金銀財宝よりも大切で、これがなければパリそのものが寒さで凍え死んでしまう、という書き出しで「筏流し」を次のように綴っています。セガンのものを捉える目の精緻さを味わって下さい。全文集録は紙幅の関係で不可能ではあります。
「ペチカが薪材を焼き尽くし、川が涸れ流れを止めると、パリ、パリの隅々までが、指に息を吹き付けねばならない寒気に対して、他に代わるものがないのだ。」
「3月の雨の頃川が増水しはじめると、周辺の地域から、多数の人々、その妻、その子どもたちを引き連れ川岸に大勢集まってくる。すべての人がごった返す。たくましい若者が積み上げた薪材を揺さぶる。薪材は崩れる。それから娘たちが一輪車を近づけ、子どもたちがそれに薪を積み込む。年寄りはその薪を集め15ピエ(約325センチ)の長い棒で支える若者が枠(カードル)の中に薪を入れる。力強くハンマーで打ち込む。これをブラーンシュと呼ぶ。4つのブラーンシュが四角に結び合わされ一つのクーポンを形作る。18のクーポンが一つのトランとなる。これらの労働のすべてが川岸で遂げられ、どのブラーンシュも川に運び込まれた時、つまりすべてができあがって、ブラーンシュは、それぞれの間をルエ(直径1プス長さ15から20ピエ(1ピエ=約3センチ)の棒で、柳の枝のようにしなやかに曲がるように加工されている)で縛り付けられ、一番近くの運河水門が開けられた時にいつでも出発できるよう、トランを作る。
 どのトランにも2人が乗り込む。助手は子どもである。働きぶりから借りて、ブート・ダルジュ(見張り番)の名がある。彼はトランの最後尾を操縦する。お館の筏師は先頭を務める。彼は突発的な出来事の場合にしか、その場を離れない。奔放な腕前で、彼は、船首で、向かい風を上家、頭には何も被らず、髪を風にたなびかせ、腕を突き立てる。厚織りリンネルのズボン、青いサージのベルト、赤いシャツ、大きな短靴が筏師の風習となっている衣装である。それでこそ、腕を絶えず動かし、脚をしっかりと固定させて、必要に応じて右に左に突き進む準備ができているのだ。」
 接近法、遠近法と、描写を巧みに駆使し、読者が近接観を持ち、また遠望する立場で、筏の組み立て制作、川の運行を綴っているのです。運行、遠望描写はカットしましたけれど。セガンが、その場で観察していたのではないかと、思えるほどなのですが、果たしてどんなものですかね。
 この薪材で作る筏流しという運行方法は、きちんと法によって位置づけられ、守られているんですよ。法文を直訳しますと「パリに供給するための、四角く、がっしりと、車輛連結のように結びあわされた薪材の筏」となっています。ポ-ル・オリヴィアという人が俚謡から拾い集めた『仕事歌』(1910年)という本の中にも「筏師の歌」が収載されています。筏師たちが、パリの薪材を必要とする階級を「ああ、なんてすてきな暮らしなんだ/ 遊んでやってけるなんて」と揶揄しているのです。あと一編は、シャンソンとして歌われた「筏師哀歌」というものがあります。一番だけを紹介しますね。「クラムシーとパリを行ったり来たり/巨大な筏のご主人は/連結薪(train de bois)を操って/ブルジョアたちを暖める/川にクソ」
 クラムシーの筏師たちは、16世紀からの伝統の上に身を置いてこそ確かな仕事ができるという強い信念と誇りを持っていました。大革命の時の度量衡改革に対しては大暴動を起こして抵抗していますし、19世紀半ばに強大な力でもって進められた産業近代化施策に対しては、クラムシーの筏師たちは実力でもってそれを阻止しようと立ち上がります。アソシアシオンと呼ばれる結社方法でした。仲間に犠牲者が出たらその家族の生活を残った仲間たちが守り保障するという誓約をして、大闘争に立ち上がります。結果的にはナポレオン3世軍によって殲滅させられ、死刑、流刑を含む、大きな犠牲を出しました。
 セガンは幼少年期にそうした「筏師気質」を感じ取ったのでしょうか。そこまでは断定的に語ることはできませんね。
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セガン話 第5回

2014年09月20日 | 日記
セガンの幼少年期
 先生様と奥方様の間に第一子が生まれました。第1回でも言いましたが、1812年1月20日です。どうやらいわゆるハネムーン・ベビィのようです。いえ、アホな旅行の話ではなく、結婚して1ヶ月をハネムーン(蜜月)と呼んだことにちなんで言っただけです。セガンは時の子にふさわしく、生まれてすぐに母親から離されて育ったのでしょうねぇ。
 でも、セガン自身による幼少年期の思い出の語りを見ますと、どうやら母乳育児を提唱したジャン・ジャック・ルソー『エミール』の影響を受けた両親の許で育ったと思われるのですね。いや、もうちょっとていねいな言い方に改めます。「思われてきた」のです。その下りを次に紹介しますわ。ちょっと長いです。1875年に出版した『教育に関する報告』からの引用。
「楽しみにものを作るということは、ずっと昔から、家族で大きな位置を占めてきたはずである。ただ『エミール』がそれを流行にしたということだ。かの本の影響のもとで、母親たちは、いや特に父親たちは、もし私の幼少期の記憶が正しければ、日常の教育にエミール流のやり方を持ち込み、子どもたちが楽しみにものを作るにふさわしいようにと、熱心であった。私たち、小さなブルゴーニュ(プチ・ブルギニヨン)人たちは、パパの手の動作が壁に、オオカミ、ノウサギあるいは椅子に座っている大工を表象する影絵を作ってくれた時、それを真似しようとしたものである。私たちは、パパに倣って、揺れる塔をドミノ牌で作ったり、我が兵士たちのテントをカードで張ったりしたものである。紙を簡単に折りたたんで、ひよこ、(コッコ)、家、ノアの箱舟、実在しないような小型船舶の艦隊を作った。また、はさみを使って紙から、財布、はしご、壁掛け、ひだ飾り、王冠を作った。やがて、アンズやサクランボの種を加工し、ハート型、かご状のもの、数珠に形作るようになった。ドングリやマロニエで摩訶不思議な形のものを作ったものである。自然を知り尽くしているまさにその幼稚園の先生は、春には、私たちに、柳の木の幹から樹皮を剥がし、音を刻み、フルートのように奏でて、音を出す方法を示してくれた。あるいは夏には、帰り道に、高く緑に生い茂ったライ麦の茎を抜き取り、道端の頭上のサンザシを太さに応じて剥ぎ取り、まるで鳥のさえずりのようにさまざまな音曲を演奏してくれた。家に帰ると、再び、私たちに手先の使い方を示してくれようとした。それには、子どもが理解できるように、たいていは仕掛けがしてあり、樽のたがをさらに強く締めるようにたがを弛めてあったり、できるだけ元のいい形に綴じなおすために教科書は表紙が引きはがされていたりというもので、手先の熟練の発達のために欠くことのできないものであった 。」
 原文は英語なのですが、「母親たち」「父親たち」「私たち」という風に、登場人物が複数形になっているのがちょっぴり気になるのですが、それはひょっとしてフランスなまりの英語なのかもしれませんので、これ以上は追求しません。とにかく、「遊び」が「父親たち」のリードによって繰り広げられている描写ですね。子ども集団の中で育つというイメージはなく、大人に導かれた幼少年期というイメージをぼくは持ちます。まるで、保育園や幼稚園という「箱庭」みたい。これまでセガンを語る人は皆さん、「両親の自然主義の考えと方法とに導かれてセガンは幸せな幼少年期を過ごした。」と言ってこられました。でも、他に同年代の、同地域の子どもが登場しない育ちって、幸せなことなのでしょうかねぇ。まるで、時代から隔離された、「自然」と言ってはいるけれど本物の自然状態ではない、あえて作られた話のようにぼくは思ってしまうのです。これ、セガンの考える教育論を普及させる「小道具」なんじゃないかなぁ。
 じゃあ、どんな育ちをしたかって?セガン自身が1843年や1846年に著した著作の中で、彼が育った時代の一般論として厳しく批判的な目で綴っているのが、そうなのではないかと、ぼくは思いますんや。つまり両親の育ちの過程をなぞって成長してきたけれど、ある時からそれは違うのではないか、と思い始め、理論的にも整備し始めた、というんやと思います。1846年に著した著書『知的障害の精神療法、衛生学ならびに教育』に書かれている一般的な子育ての筋道は「乳母の子守歌、祖母の昔ばなし、家庭教師の授業」だというのですね。そしてその頁には、3歳、7歳、14歳と年齢を区切った発達段階が書かれています。3歳までが乳母、7歳までが祖母、14歳までが家庭教師。一般的な子育て過程を装いながらセガン自身の経験が綴られているのは「祖母」という言葉で明らかですよね、普通なら里親とすべきところですやん。念のために父方の祖父母、母方の祖父母の亡くなった歳を調べてみたんですが、父方の祖父は1799年、祖母は1800年、母方の祖父は1806年、祖母は1827年に亡くなっています。そしてセガンは「祖母の家に自室を持っていた」と回想していますから、間違いなく彼は、オセールの祖母を里親として育っているのですね。3歳過ぎてから7歳ほどまででしょうか。
 自室を父親に取り上げられたとも綴っていますが、これは何歳頃のことでしょうかねぇ。祖母が亡くなったのはセガンが15歳の年。おおよそ12年ほどの祖母家族との共同生活の中で、「自室を父親によって取り上げられた」のはいつ頃のことなのか、そしてなぜ取り上げられたのか、そこのところはまったく不明なのですが、父系と母系との生活文化観の違いが現れているように思われて、仕方がありません。たとえば、イギリスでは子ども部屋を用意する、フランスでは用意しない、という風に。つまりフランス風でいきますと、躾係(里親等)と寝食を文字どおり共にしなければならない風習がありますから。先生様からすれば、何のために里親に預けたのか、分からないと考えての「自室」取り上げ行為だったのでしょう。
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セガン話 第4回

2014年09月18日 | 日記
「奥方様」
 先生様が医師としてクラムシーに入植したのは1808年10月のある日のことでした。実際には、準備期間もあったでしょうからもう少し早い月日でしょうね。いかんせん、こちとら、残っている書類からしか判断できません。
それから3年半経った1811年4月29日夜8時、一組の男女がヨンヌ県オセールのオテル・ド・ヴィル(市役所)の戸籍係を訪れたのです。夜の8時ですって?!役場が開いてるんですか?と思わず声を挙げてしまいますね。男はジャック=オネジム・セガンと名乗り、女はマルグレット・ユザンヌと名乗りました。すでにこの一組の男女は結婚をするので公示をしてほしい、市役所の手で結婚式を執り行ってほしい旨を申し出ていたのです。この夜半の戸籍係への討ち入りは書類上の結婚式の執行のためだったんですわ。フランス革命以前は教会の手で行われていたことを、革命後は役人の手で式が執行されるようになっていました。ちょっと二人の結婚証明書を覗いてみましょうや。お役所文書ですから、ややこしいで、ホンマ。
「1811年4月29日夜8時、我々助役、戸籍係のところに、クーランジュ・シュール・ヨンヌで共和歴6年プレリアル23日に死去したフランソワ・セガン氏とクーランジュ・シュール・ヨンヌで同9年メシドール19日に死去したマリ・テレーズ・ギマールの息子ジャック=オネジム・セガン氏、30歳、クラムシーの医師と、故ジョセフ・ユザンヌと娘の結婚に同意したマリ・アニエス・ペロニエとの娘マルグリット・ユザンヌ嬢、17歳、オセール居住、とが出頭した。すでに我々は、(中略)両人の結婚式を執り行い市役所の正面玄関に結婚公示を為すよう要請されていた。(中略)この結婚の妨げになるものは何もない故、我々は、結婚にかかわる書類のすべてと民法典第6条を読会したのち、彼らの求めに直ちに応え、我々が式を執り行い公示を為す次第である。(後略)」
先生様は奥方様を娶るために、当時のフランス社会の慣習に従い、42000フランをユザンヌ家に支度金を支払ったという。今日の日本円に換算するとおよそ4000万円に上りましょうか。たった一人のクラムシーのセガン家がそれだけの支払い能力を持っていたわけですから、やはりたいしたお金持ちだったのですね。
こうして、マルグリット・ユザンヌ嬢はセガン家の女主、すなわち奥方様となったわけですが、1793年9月15日に、オセールのデュ・ポン通りを届出住所として、ユザンヌ家の4人きょうだいの末娘として生まれております。ユザンヌ家も、セガン家と同じように、入植者でした。とは言っても、マルグリットの祖父ジョゼフ・ムーリス・ユザンヌがオセールに入植した第一代です。祖父の上の代、つまりマルグリットの曾祖父家族が、サルデーニア王国領サヴォア地方からフランス王国に亡命による移民一族となり、その子どものジョセフ・ムーリス家族がオセールに入植した、というわけです。身分は「市民」を名乗っていますが、元はどのような身分だったのでしょうか、分かっていません。祖父の代で生糸商人として成功し、オセールではなかなかの商売人であったようです。大革命前は大商人が政治の表舞台に立っていましたが、ユザンヌ家は、そうした地位に就くほどにまで社会的な地位を獲得していたのでしょうかねぇ。そのあたりは十分に調べが行き届いておりませんけれども、ユザンヌ家同族で、マルグリットのいとこにあたる、1803年生まれのジュール・アントワーヌ・ユザンヌは、1839年にはオセール市議会議員を、1848年9月から49年8月の1年間、オセール市長を務めています。この人、ジュール・アントワーヌこそ、セガンの少年期後期の意味ある存在であったと思われるのです。そう、セガンの家庭教師役を務めたのではないかと、ぼくは考えています。このことについては、後の回でお話ししましょう。
 じつは、奥方様については、まったくといっていいほど、情報が残されていません。セガン家で行われた晩餐会でピアノを奏でていたと、例の記録魔によって書き残されているのが唯一の情報と言えば情報でしょうか。奥方様についても気になりますが、ユザンヌ家が脱出してきた地サヴォアというのが気になりますんや。ジャン・ジャック・ルソー『エミール』にある「サヴォアの助任司祭の信仰告白」なんかは、『エミール』弾圧の元になっているし、ずっと後年のことですけど、代議士となった『パリの秘密』の作者ウージェーヌ・シューがナポレオン3世の圧政から逃れて終の土地と定めたのもサヴォアだったし、文化史的には、サヴォアからはパリの煙突掃除夫として出稼ぎに来る、そういう職能集団の土地であるなど、なかなか興味惹かれるところがあるんですね。なぜ、煙突掃除夫か?ガラが小さいから、といわれてますな。
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セガン話 第3回

2014年09月17日 | 日記
続「先生様」 と筏師 
 クーランジュのセガン家の末っ子ジャック=オネジムさん、つまり後の「先生様」はベルトランさんによって、ラテン語、ギリシャ語をはじめとして、ハイソな家庭の出身にふさわしい教養の基礎をみっちりと仕込まれます。それだけでなく、医学の手ほどきも受けました。
そしてパリの医学校に進みます。まだナポレオン帝政による学制改革が為される前ですので、大学の医学部ではありません。そこで、近代精神医学の父と呼ばれるフィリップ・ピネル先生の指導の下、1805年に無事、医学博士となった次第です。学位論文は、彼が生まれ育った地域にはびこる風土病に関する問題が、主題に選ばれています。2年下には、「アヴェロンの野生児」の教育で世界をあっと言わせ、教育学や心理学、社会学などの学問の大きな進展(近代化といいます)に貢献することになった、ジャン=マルク=ガスパル・イタールさんがおりました。ピネル博士もイタールさんも、セガンが生涯の課題とした知的障害や知的障害者の教育に関して、理論的に実践的に、非常に意味ある存在となります。
 セガン親子共々深く関わり、親子それぞれが自らの道を切り開く糧としたのですから、すばらしいじゃないですか、ねえ。                  
 先生様がパリの医学校に進んだ動機が、彼の医学博士論文の緒言冒頭の一文に次のように示されております。
「マラリア熱はこれまでしばしば研究上扱われてきた。この病気は私が医学を研究するようになった地方で、そして私が医業を開く心づもりを持った地方の近くでの風土病であるが故にこそ、私は自分の問題として検討した・・・」
 ここに書かれている「地方」というのが、里子に出され、ベルトラン医師を里親として育ったドリュエス・ベル・フォンティーヌであることは言うまでもありませんね。この地方を含み、クーランジュもそして入植することを決めているクラムシーも、豊かな水源に恵まれた地域であり、特に各所から水の流れが注ぎ込むヨンヌ川は、ずーっと昔から、生活や産業用の水上交通の要路とされてきました。
「高い山もなければ海もない。しかし樫の木が豊かに生い茂るモルヴァンの森がこの地方の主産業である薪材の生産と、そのパリへの搬出のための豊かな河川を用意した」と、16世紀から18世紀のこの地方を案内する地誌学の書物があるほどです。都合がよいことに、ただ水が流れるだけでなく、一時貯蔵ができる溜め池が、何カ所も、自然にできていることです。
 とくに、樫の木を原材料とする生活・産業用の薪材の生産と搬出は、この地方の長く語りつがれた風物詩でもありました。セガンは1841年に「筏(いかだ)師たち」という小品を発表しています。その一節をご紹介しましょう。
「冬の間に山で裁断された木材が川の流れによって運ばれ、夏の間に水門あるいは筏流しが可能な小川に貯め込まれる。それからあらかじめ決められた日に、貯水された水あるいは小さな川の水源に準備された貯水池をせき止めた水門が開けられる。それから筏が始まる。非常にたくさんの男たち、女たちそして子どもたちが川辺を満たす。・・・」
 クラムシーの筏流しの準備過程の光景を綴った場面です。筏と一口に言いますが、どのくらいの大きさだと思われます?長さ30メートル、横5メートル、高さ5メートルなんですよ、概数ですけれどね。30メートルはいくつかの塊を連結した結果の長さで、だから、この筏はtrain(トラン)という名前がつけられています。くねくねと曲がりくねる河川を運行するのですから、連結車両風にするという合理的な考えなのですね。
 筏製造過程を含む筏流し産業に従事するのは、クラムシー近在の地域の老若男女、職人たち。クーランジュもそうですし、ドリュエスもそうです。そして、この筏を運航するのが筏師です。ヨンヌ川沿いに筏師が住む集落がいくつかあったようですが、19世紀の初め頃、クラムシーには400人もの筏師がいたといいます。筏一本に一人の筏師という計算ですから、この産業がどれほど賑わっていたか分かりますやんか。こうした人々をつねに襲ったのがマラリア熱であったのです。先生様は、お父さまの薪材商の仕事を通じて、マラリア熱の恐ろしさを知ったのでしょうね。もちろん、里親のベルトランさんからも教えられたことでしょう。
 先生様は博士論文の献辞に次のように書いています。
「我が縁戚、我が師、我が一番の友、ドリュエスの外科医E. D. ベルトラン氏へ。我が感謝の証として。あなたの生徒の学業の最初の果実に好意的な眼差しを向けられんことを。それはあなたの生徒に対して幸運と勇気の源となるであろう。」
この学位論文は、革命暦13年(1805年)フロレアル7日にパリ医学校に提出され報告されたのでした。主査はもちろんピネル先生、そして4人の陪査の一人が、セガンの知的障害教育の果実と思われる情景を名作『パリの秘密』で描いたウージェーヌ・シューさんのお父上でありました。縁は奇なもの、ですね。
 先生様がクラムシーで医業を開始したのは1808年10月29日でした。医師ジャック=オネジム・セガンとしての活躍の足跡は、クラムシーの監獄医、死体の検死医を務めたことを証す書類が保存されている程度であります。風土病との戦いはどうなさったのか、残念ならが、記録されたものは見いだされておらないのです。
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