ガタゴトぷすぷす~外道教育学研究日誌

川口幸宏の鶴猫荘日記第2版改題

セガンの洗礼名は?

2017年12月30日 | 研究余話
 キリスト教文化圏(カトリック)では、子どもが誕生すれば、所属教区教会の神父から洗礼を受け、洗礼名がつけられる。セガン家も、おそらくなのだが、カトリック家庭であることから、セガンには洗礼名が施されている。
 セガンが誕生したのは1812年。フランス革命によって、地域の納税や出生などの諸業務が教会から世俗行政に移管され、出生届は教会業務とは無関係となっていることから、出生届には洗礼名は記述されるはずはない。小教区教会であるクラムシーのサン=マルタン教会の信徒簿のようなものには洗礼名が記帳されているであろう。だとすれば、戸籍簿のほかに信徒簿を確認・検証せねばなるまい。これは大仕事で、ぼくには不可能だなあ。
 そんな思いを持って、改めでセガンの出生届を眺めていると、Onezime edouard Seguinとの名前で父親が届け出ており、Onezime edouardはファースト・ネーム(prénom)だと明記されている。これだけしか史料がないので、洗礼名問題は脇に置くしかないだろうと思っている。
 しかし、Guy ティエイエは「Onezime edouardと洗礼された(a été baptisé)」としている。フランス革命以降に戸籍関係が教会から役場に移されたことから来ているのだろうと、思われる。つまり、新しく誕生した赤児に名付けることを、「洗礼」とは関わりなく、baptiséという言語習慣があるのだろうか。
 この問題はこれでおしまいかな。フランス革命以降は、よほどの意味を持たない限り、「洗礼名」は脇に置いて論じてよろしかろう。市民それぞれの生活(家族史)には意味深いことなのだろうとは推測するが。
 

『新セガン研究』望年

2017年12月29日 | 研究余話
暮れも迫って、『新セガン研究』の望年のために。

 日本の教育学者たちによって、セガンは、知的障害児者に「人間としての権利を認め」、「人間として発達してやまない存在」者としてとらえ、だからこそ、「誰よりも早く知的障害児者に対して無償教育を実施した」と評されてきた。これらはゆるぎなきセガン像として定着している。
 セガンの果たした歴史的業績を決して否定するものではないが、上記に言う「セガン像」は、恣意的な解釈に基づき史実とは適合しない、というのが私がかねてから抱いていたこと。ただし、このことの詳細な立論はまだできていない。2018年はこれを中心的な課題として、『新セガン半生伝』を完成させたい。

 手がかりは、「無償教育」の原語(オリジナル・ターム)。従来の我が国のセガン研究者たちはあげて、セガンの英語著書から引用している。セガンは1850年以降のアメリカでの白痴教育にかかわって論じているのかといえば、そうではなく、渡米以前のフランス時代の実践をも含めて論じているのだから、セガンはフランス時代の白痴教育にも「無償教育」を、彼が、実践していた、と理解できる。
 果たしてそうか。
 セガンは教育を制度的にコントロールできる位置(立場)にいたのか。
 セガンは知的障害児者の教育にかかわる費用を個人的に出資していたのか。
 これらの問題を、セガンの言論に従って、もちろん史料を駆使して、論じていく。

 虚妄と運動論とで語られたセガンでなく、等身大のセガンに迫る。歴史研究の本質だと、私はとらえている。

『新セガン伝』第3場 

2017年12月23日 | 研究余話
『新セガン伝』第3場はパリに移ります。
 セガン18歳、特級コレージュ(特別に選ばれた男子青年のための寄宿学校)に進んで約1年後の1830年に、それまでの独裁王政を倒し、「立憲主義に囲まれた王政」の樹立のための革命がおこります。セガンもその戦いに加わっています。
 そのきっかけとなったのが、ここソルボンヌ広場などで展開された若者(とりわけサン・シモン主義者)を中心とした政治集会(演説会)。かのユゴーはここで取材し、やがて、1832年暴動を舞台とした学生による政治闘争を文学で描いています。そう、かの、レ・ミゼラブル。マリウス青年。どこかセガンと重なって見えるのです。

学術的活動に関わる下世話な思い出話。

2017年12月12日 | 研究余話

 ある人の書物(専門的教養書)の書評を依頼されて、誉めるばかりの我が国の書評傾向に対して疑問を感じている私は、叙述内容に関する基礎的な事項批判、テキスト・クリティークを紙幅の半分ほど、残りをその書物の意義についてに費やして書き上げた。送稿の準備をしているところへ著者から電話が入り、入稿の前に原稿を見たいとおっしゃった。お届けすると、再び電話が入り、「まるで私に教養がないみたいに思われるじゃないですかっ!私を貶めるつもりですかっ。」と一喝され、書き直しを命じられた。
 反権力の権化(と巷では評判の高い人)であり、自由と民主主義をこよなく愛する人(と巷では評判の高い人)であり、イデオロギー的敵対者を除いて人望の篤い研究者・教育者であるので、その言葉に驚いたのはいうまでもない。俳句を「一首」「二首」と数えていたり、季語が読み取れていなかったり…、間違いなくこの面において基礎教養に欠落し、溢れんばかりの情熱語がグダグダと並んでいたり、10数行が一主語で書かれている構文であったりと、批判されて当然のことであり、そのことで私がその方を「貶める」なんて冗談じゃない、ご本人が無教養をさらけ出して専門家ぶっていることの方が問題は大きいのだが、「後の祟りを怖れて」、全面褒め称える書評文に書き改めて送付した。これって、事前検閲ですね。そして権力的関係利用ですから、パワハラですね。
 それを承知で抵抗しなかったのですから、間違いなく、私は「晩節を汚した」わけです。この一文は、私はあらゆる形で、保存していない。
 一件を、グダグダ…。

ビッグニュース

2017年12月09日 | 研究余話
ビッグニュースです。
 セガンが寄稿したことのある『ラ・プレス』紙のバックナンバーを眺めていましたら(目下こんな作業をしています)、セガンの死後の1894年7月5日号に次のような短信が報ぜられていました。フランス語原文でお示しします。

L’Académie de médecine a élu, dans la même séance, à la presque unaminité des suffrages, membres corespondants étrangers : MM. Les docteurs Léon Révilliode, de Genève, et Edward Seguin, de New-York.
直訳します。
医学アカデミーは、同会議において、全員一致で、ジュネーブのレオン・レヴィリオド医学博士、ニューヨークのエドワード・セガン医学博士を、外国人通信会員に選出した。

「同会議」というのは1894年7月4日に開催された医学アカデミー総会のことです。通信会員というのは我が国でいうところの名誉会員のようなものだと思います。死後にこうした肩書きが送られるというのは、これまで知らなかったことです。

セガンはフランス時代、科学アカデミーからは賞讃されましたが、医学アカデミーはまったく無視を決めつけられました。実質は石を持て追われる如くであったと思います。それが、死後とはいえ、晴れて医学アカデミーの名誉会員に選ばれたということは、セガンがフランス医学界に、その業績を正式に認められた、ということになるわけです。これまでブルネヴィユによって復権された、と言われてきましたが、「復権」という事実が公的なものであったことが明らかになりました。

セガン再論

2017年12月02日 | 研究余話

 日本の初期のセガン研究では、「セガンは医学校で外科と内科を学んだ」〔津曲裕次氏〕、「非常に優秀な医学生であったので、〔当時の精神医学界の大御所〕エスキロールに請われて白痴の子どもの教育に携わった」〔同津曲氏〕、「セガンは白痴の子どものための学校を〔一大精神病院である〕ビセートルに創設した」(中野善達氏)、「サルペトリエール院の精神病棟の大改革を行った」(清水寛氏)というのが「実像」として綴られた。これらが、セガン論の大前提とされていた。おおよそ20世紀におけるセガン評価である。
 しかし、21世紀に入って、これらはセガンの「虚像」でしか無いことが実証的に明らかにされた。このことを明らかにするために、セガンの人生行路を当事史料で描きなおしたのが川口幸宏である。医学とはまったく縁の無い世界で青年期を生きていた。20歳頃から社会変革者の片鱗を見せていたけれど、学歴的に言えることは、法学部生、しかも修了していない・・・など。セガン自身は「芸術」分野で活路を見いだそうとしていた。・・・・云々。
 セガンの白痴教育に至る行程には、医学も心理学も精神病理もまったく学びの無い時空に彼が生きようとしていたことを、丹念に読み取らないと、当時の医学や心理学の学的臨床的到達ではとうてい、セガンの「子ども理解」には及ばないのだ。